【論文要約】(人生の意味について)

以下は、Richard Taylor の論文 『The Meaning of Life』を私なりに要約したものである。

 

人生の意味について直接考えるのは困難である以上、無意味について考える方が容易いだろう。
その典型がシジフォスの岩転がしという神話である。
彼は神々を裏切り、次を永遠に繰り返すように罰せられた。
・岩を丘のてっぺんまで転がし、直後に岩が転げ落ちたのを、再び丘の上まで転がす

 

これを要素に分解すると次のとおりである。
不本意ながらも
②多大な労力を払い
岩を丘の頂上まで転がす。
③しかし、その後すぐ岩が落ちて元通りになり
④以上同じことを永遠に繰り返さないといけない。

 

シジフォスの岩転がしを無意味にしているのは、①~④のどれだろうか。

まず、②や④は異なる。もし②や④が成り立たなかったとして、
転がすのが岩の代わりに石でも、異なる岩を次々と転がそうとも、
岩転がしが無意味であることにかわりはないからである。

では、③はどうだろうか。
もし、岩を丘の頂上まで転がした後も元通りにならず、岩がてっぺんに持ち上げられたという成果が残るならば、岩を転がすのにも一見意味があるように見える。これを客観的な意味と呼ぼう。

しかし、一度岩を上まで転がし、目的が達成されれば残るのは永遠の退屈のみである。③の不成立によりもたらされる客観的意味も、永続的ではないのである。

最後に①はどうだろうか。もし①が不成立で、岩を転がすこと自体に喜びを感じる非合理な欲求をシジフォスが持っていれば、彼のこの欲求が満たされるだけではなく、岩を転がし続けることに肯定的な使命感や意味を見出すことができるだろう。しかし、彼の行為に客観的な意味がないことには変わりがない。したがって、①の不成立にもたらされる意義は主観的な意味と呼んで区別すべきだろう。

では、一般に、我々人間の人生に認められる意味は主観的、客観的意味のどちらだろうか。

ある面では、我々人類の活動には客観的な意味が認められるように思える。例えば様々な文明の偉業、偉大な科学的発見や建造などが挙げられるだろう。しかし、これらは新しいものにとって代わられ時代遅れとなったり、物理的に摩耗してしまう。これらの客観的意味も、シジフォス同様一時的なものに過ぎないのではないか。

また、仮にこれら功績の偉大さが残るとしても、ある目標を達成しては、それが何もなかったように新しい目標に目移りするのを延々と繰り返す点において、次々と偉業が達成されることによる進歩も単なる見せかけであり、本質的には単なる繰り返しに過ぎないと言えるのではないだろうか。

以上の点で、我々の営みもシジフォスと酷似していると言える。

しかし、我々の営みを、「何が結果として実現されたか」という客観的な観点ではなく、「我々が何を意志し、何をすることに興味を持つか」という主観的な観点からとらえれば、そこには少なくとも主観的な意味は見出せる。

例えば、仮に古代の建造物を建てた人々が、現代においてそれが朽ち果てているのを見たとしても、彼らが建造するに際して見出した意味は損なわれないだろう。この意味は、何が建てられたかという結果ではなく、建物を自らの意志に従い建築するという活動の過程にあるからである。

同様に、人生全体も意志された活動であり、その意味は生きる過程の内にある。では生きること、意志することとは何だろうか。それは、次々と新しい目標、成果を達成しようと努めることである。
人生の意味は、達成した目標や成果そのものではなく、意志に従い目標や成果を達成しようとする過程の中にあるのだ。

 

(要約終わり)

 

(感想)

著者が人生が有すると主張する「主観的な意味」はそもそも意味と言っていいものなのだろうか。「言葉の意味」からの類比から、意味というのは常に外部との関係である。人生の意味が人生であるというのは、リンゴという言葉の意味が、まさに同じその言葉であるというがごとき、同語反復ではないのだろうか。

したがって、それは意味というも、端的な善だろう。つまり人生の意味が人生の内にあるのではなく、人生がそれ自体として(外部の何を引き合いに出すまでもなく)善いということである。

外部とのつながり、という原義に立ち返ってみれば、「客観的な意味」のほうが意味と呼ぶのにふさわしい。例えば、ピラミッドを作る労働の過程は、その意味である完成物のピラミッドとは別物だからである。

したがって、著者は本来の意味で人生が有意味であることは言えていない、むしろシジフォスの例におけるのと同様、無意味であることを示しているように思われる。

 

「主観的な意味」を意味を呼んで良いかを除けば、私は筆者に同意する。人生の「客観的な意味」は空虚である。

例えばピラミッドを作る労働者にとって、労働の意味が出来上がるピラミッドだとしても、そのピラミッドには何の意味があるだろうか。それは所詮ファラオの自己満足にしかならず、たいした意味を持ちはしない。そうなると、無意味なピラミッドに費やされた労働者の労働の意味も空虚になるのではないか。

自らの労働だけを見るならば、それに意味があるように見えるかもしれないが、一たび俯瞰視して労働の成果物たるピラミッドの意味を考えるやいなや、意味は消失してしまうのである。意味はこのように、より俯瞰的な観点に立ち、意味を考える主語を広げるに従い消失してしまうものである。