経験について

私が経験という言葉で言い表すのは、一般に心、もしくは精神と呼ばれる場で生じる全ての出来事である。

知覚はもちろん、認識、想像、感情、思考などの精神的活動、およびこれらの対象(客観、イメージ、好き嫌い、命題、言葉)全てが経験というカテゴリーに入る。

しかし、本当に全てが経験なのかというと、そうではない。もしそうだとすれば、この言葉は無限定で無意味な概念になってしまうだろう。

 

それではなにが経験に該当しないか。
①たとえば、(概念ではなく、それが表象する対象としての)が挙げられる。我々は、神という言葉を使って意味のある言明が出来るし、神に対するおぼろげな観念も持っている。だから、概念、もしくは観念としての神は経験に含まれる。しかし、神という言葉、概念の指示対象には、われわれが知覚したり、認識するものの如何なる対象も該当しない。要するに、神は、(自然界に実在するモノとは異なり)概念や観念として経験されるに過ぎないのである。

②(自分とまったく同様に、心や意識を持った存在としての)他人や、その他人の経験する内容も、経験には含まれない。確かに我々は他人が身体として言動を起こす様は知覚できるし、他人の発する言葉を理解することもできる。しかし、他人が感じたり、考えることをそのまま知ることはできないし、そのような精神活動の主体としての他人そのものも認識できない
われわれが(意識を持った)他人が存在するという場合、それはあくまで、他人と同様に身体として言動を起こす自分自身が、意識を持っているという事実からの類推に他ならないし(この類推が合理性を欠くとはいえ)、他人が経験する内容を知っていると言う場合、それもあくまで、他人の発する言葉と自分の経験を照らし合わせることによる想像に過ぎない。
つまり、他人や他人の経験も、想像や思考の上の措定物としてしか経験されない

物自体=経験から独立した(経験されずとも在る)存在も、定義から知覚や認識できないものなので、経験不可能なものである。ただし、この場合も「物自体」という言葉や概念を用いて思考することは(認識内容を欠いた概念を用いる思考に如何ほどの有用性があるかどうかはともかく)可能である以上、「物自体」という概念は経験に含まれる。

 

以上のような、経験不可能な存在を、「超越物」と定義しよう。
注意すべきは、我々は超越物を直接経験することはできないが、(超越物を指すかのごとく用いられる)概念や、(超越物を表象するかのごとく想定される)観念を、一つの経験として構成することはできることだ。前者を構成することを措定、後者を構成することを想像と呼ぶことにし、前者の構成物を措定物、後者の構成物を想像と呼ぶことにする。

これら措定物や想像は、実在物(知覚できる対象など)の概念や観念と異なり、表象という機能を欠いている。なぜなら、それらが指す対象は、経験のどこを探してもないからだ。しかし、それらはあたかも何かの対象を意味するかのように扱われることで、特定の「機能」を持つ。「意識を持った他人」という措定は、他人を単なる身体として道具扱いせず、自分と同じ人格として道徳的に尊重する基礎となるし、「神」という措定も、戒律を守らせる規範的な機能を持つ。言うまでもないが、何かの対象を表象するだけが、概念や観念の機能ではないのである。

 

さて、ここで私の立場を明らかにしよう。まず、経験が存在する全てであり、経験以外のものは、存在するとも存在しないともいえない。それらは、存在概念と無縁の対象である。
また、経験に機能のバリエーションはあれど、「どれが本物でどれが虚構」というように差別をせず、あらゆる経験に等しく存在資格を認める、とする立場であり、私はそれを経験主義と呼ぶことにする。

得体の知れない超越物の措定や想像に、直接的な知覚対象や、存在証明のある対象と同等の実在性を認める経験主義は、寛容であると同時に、矛盾がない限り「何でもあり」の立場である。なぜなら、措定物は知覚や認識とは別につくられたものだから、その存在を実証や論証できないだけではなく、反証も論駁もできないからである。
例えば、超越物を措定するような哲学や神を措定する宗教でさえ、それら超越物があくまで措定であって知覚や認識の対象でないことに自覚的である限りは、経験主義と矛盾することはない。
経験主義はあくまでも多種多様な経験のカテゴライズを正しく行い、在りもしない経験やカテゴリーの錯誤を排除しようとする姿勢に過ぎず、特定の主張を支持、もしくは否定するものではないのである。