反出生主義についての若干の補足

私の反出生主義について - Silentterroristの日記

前回は、私の主観の延長として反出生主義を提示したに過ぎない。したがって、この客観的な妥当性に関してはなんも説明がなされていない。一般に道徳は、常識や、実際の道徳的実践と一致するとは限らないが、もし常識や実際の道徳的実践に反する場合はその説明が必要だろう。この記事では、私の反出生主義の主張の一部が、常識や実際の道徳的実践とも整合していることを示す

私の立場は以下の通りである。うち、Ⅲ.は明らかに皆の認めるところだろう。対してⅣ.は一般的には同意を得るのが容易ではない。そこで、Ⅰ,Ⅱの常識や実際の道徳的実践との整合を示す。

 

Ⅰ.Ⅱを除き、子供が実際に生まれることは、道徳的に望ましくも、悪くもない。

Ⅱ.ただ、子供が生まれるならばある水準以上に不幸になる場合、彼がそもそも生まれないことが道徳的に望ましいような、一定水準が存在する。

Ⅲ.もし子供が生まれる場合は、彼が極力幸福になることが道徳的に望ましい

Ⅳ.Ⅱ.の「一定水準の不幸」とは、「自分が生まれた(生存した)ことは悪いことだった」とする出生(生存)に対する否定である。


Ⅱ.はそのままでも支持を得られるだろうが、次のより容易に受け入れられる主張からⅡ.を示すことができる。

2.生き続けてもある水準以上に不幸になる場合、そもそも生き続けないことが本人にとって(したがって道徳的にも)望ましいような、一定水準が存在する。

この主張は、臨床医療の現場でしばしば認められるところである。ある種の極端な不幸、例えば生き続けても苦しむだけで何もできないような状況に対しては、そもそも人生を継続しないほうが本人にとって良いとされることがしばしばある。

子供が生まれることは、子供が一定期間生き続けることを含意するし、そもそも生まれる過程自体が段階的に高度化する生存過程である。もし子供が重度の障がい等により、生まれつき2.のような不幸を経験することが決まっているとしたら、少しでも生き続けてはならないだろう。しかし子供が生まれてしまう以上は、これが不可能であるから、彼がそもそも生まれてしまうことが、道徳的にあってはならないことなのである。

 

Ⅰ.については、直接的な正当化は不可能ではあるが、一般的な道徳的実践に反していないことをもって擁護したい。

Ⅰ.に対する反対意見は次のとおりである。
1.幸福な子供が生まれることは、生まれない場合に比べて道徳的に望ましい

両者による道徳的判断の相違が生じるケース、生まれれば幸せになるであろう子供を生むと決めたカップルの動機や理由づけを、1とⅠのどちらかが妥当に説明するだろうか。

彼らは二つの態度「子供を生みたいと考える」、「生まれる子供が幸福になるであろうことが望ましいと考える」を取るであろうが、経験が示すように前者が後者の理由である。逆に、生まれる子供が幸福になるであろうことを理由に子供を生むカップルはいない

しかし、1はまさに生まれる子供が幸福になるであろうことが、子供を生むことが望ましい道徳的理由になると主張しており、全く実態を説明していない。つまり、「出生道徳」と言うべき1が仮に正しいのだとしても、それは全く機能していないと言える。

対して、ⅠはⅢとともに上の動機および理由づけを説明する。つまり、幸せな子供が生まれるであろうことは、生まれないことに比べて道徳的に望ましくも悪くもないゆえに、実際に子供を生むための道徳的理由にはならない。しかし、逆に、子供を一たび生むことが決まってこそ、Ⅲより彼が幸せになることが(生まれないことではなく、生まれて不幸になるよりも)望ましくなるのである。

したがって、上記の例は、1よりもⅠが一般的な道徳的実践に合致していることを示している