善き生は、敢えて生存し続けてまで継続したいものか

私はこれまでエピクロス主義者について特徴づけを行い、彼らの生に対する姿勢や、持ちうる願望について考察してきた。そこでは、彼らの願望が刹那的な快楽の形態の独特なものに制限されていること、生き続けることを忌避することはあれ、積極的には求めないという生存への消極性を明らかにした。

なぜわざわざ4つも記事を書いてまで彼らの態度について考察したかというと、私が彼らに賛同する点が多く、思想により精神の安静を確立する彼らの立場が魅力的に思えたからである。

 

私の次なる関心は、エピクロス主義者のように極めて関心が制限されていて、生存に消極的であっても、(むしろそうだからこそ)善き生が送れることを示し、見習うべきところを見習って生きることにある。ちょうど、スピノザが人格神に対する信仰無しでも幸福に生きれることを示し、そのように生きるように努めたように。

しかし、エピクロス主義的な幸福、アタラクシアには、人格神なき幸福よりも、はるかに多くの懐疑が付きまとう。まずはこれらからエピクロス主義を擁護するところから始めないといけないだろう。

 

一つ目は分析哲学者Steven Luperが主張したもので、善いと呼べるような生は、生存してまで生きたいものではないか、(そしてエピクロス主義者の生は違う)というものである。彼は、生存する理由にならない、エピクロス主義者の願望を詳細に分類・分析している。その中でも自身の生存に条件付けられた願望(conditional desires)の例を挙げ、それらが真の願望とはなりえないこと、そして生を善きものにしないことを主張している。

 

例えば彼は、「自身が生きている間に限って」子供に幸せになってほしいと願い、将来世代には無関心な、エピキュリアンの冷淡な願望を挙げる。

エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記

彼は、私が上の記事で挙げた、「自身が生きている間に限って」子供の将来の幸福や、将来世代の厚生のために努めたいとする願望の可能性は考慮するが、自身が死んだ後の子供や将来世代への無関心と両立することは、心理学的に不可能だと主張する。

私は、無関心どころか、死後の存在を信じずとも上記の願望、というより快楽はありうる(むしろその快のために死後の世界やそこに生きる他者が措定される)と考えるが、心理学的な検証無しには反論が出来ない。

しかし、仮にこのような願望がありえても、(私も同意するように)それは将来の子供や将来世代のために「努力すること」を欲しているだけであり、将来の子供や将来世代の幸せは間接的にしか願っていないと、彼は主張する。

そして、エピクロス主義者の願望は自身の生の境界を超えないものに終始している、と彼は総括する。

 

確かに全くその通りであるが、自身の生の境界を超えないような願望、例えば生きている間に起こる事象に対する願望でも、生を有意義にするものは確かに存在する。自分の能力を存分に発揮したり、自由に行う活動(に対する願望)がそれである。そして、意義は(全てとは言わずとも)善の一種である。

生の境界を超えずして獲得されないのは、生の善さではなく、意味である。なぜなら、意味とは生(経験)の外部との関係に他ならないのだから。

意味以外の形態を取る善はいくらでもあるし、意味も必ずしも善きものとは限らない。世界に対する呪詛に意味を見出す犬儒主義者もいるのである。

 

したがって、彼の主張は、生の境界で自己完結した願望しか持たないエピクロス主義者の生が善くなりえない理由にはならない。