エピクロス主義者は「願望」することよりも、楽しく生きることに真面目である

私は先日のブログ:エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記で、「エピクロス主義者」を、下記の通りの選好しか持たない人々として定義した。

(α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。

そして、彼らが死後の事象に対し間接的に「願望」を持ちえるものの、それは刹那的な快楽(楽しみあるいは有意義感)という特殊な形態をとっており、非エピクロス主義者の有する、己の生存に条件付けられず、逆に己が生存する理由となるような願望とは異質なものであることを述べた。

(上記のブログでは言及していなかったが、彼らは生きている(と彼らが自身が信じる)間に起こる事象に対しては、通常の願望を持ちうる。)

 

ここでは、エピクロス主義者がもつこの特殊な「願望」がいかなるものか、より詳しく説明したいと思う。

この刹那的な快楽としての「願望」は、(何かを)願望する(desire)のではなく、願望する現在を楽しむ(enjoy desiring)態度を指す名詞である。

では、そもそも願望はどのように、現在の快楽になりうるのだろうか。

a)まず、願望は、苦労の割に合う範囲でその実現可能性を高める方法がある場合(※)は、願望を実現しようとする努力を伴う。少ない困難で願望を実現できるのに、それに向けて何も努めて行わない場合、それはもはや願望とは言えない。願望は、それを実現しようとする努力と表裏一体である。

b)そして、願望の実現に向けて努めることはしばしば、(その困難がもたらす苦を上回る)充実感や困難を乗り越える自信といった快を伴ったり、努めて行う活動そのものが快いことがあるのである。

このように、(※)の条件が満たされる場合、願望はそれを実現しようとする努力を通じて間接的に、刹那的な快楽を生み出すのである。そして、一般的な願望が、エピクロス主義者の有する生存に条件づけられた「願望」であっても、a)やb)の正しさに変わりはないのである。

 

ただ、この「願望」は努力を通じてこそ快楽となるので、enjoy desiringよりも、enjoy working for one's desires という表現のほうが的確だろう。

ここで「願望」と、「願望」に向けての努力が主客転倒していることが見て取れるだろう。本来、努力は「願望」する事態の実現可能性を最大化する手段であった。だが、「願望」の快楽は「願望」そのものよりも、それに向けた努力という活動のうちにある。

もしエピクロス主義者が快楽を求めるのなら、彼らは願望を実現するために努力をするのではなく、むしろ快く努力(活動)できるために、努力の方向を決める目標として願望を必要とするのである。

 

以上に述べたことはあまりにも抽象的で、直感にそぐわないので、実例を二つあげよう。

・あるエピキュリアンXが、己の生ある限りYの幸福を願う、つまり現在および将来にわたってYにとっての善を行おう(A)と努めるとする。

ここで、Xは第一に他者Yが幸せになってほしいから、Yのためになることをしたいのではない。逆に、まず(「Yのような人」のためになることをするという)活動A、つまりある特定の人の愛し方をしたいがゆえに、それを可能ならしめるYという愛すべき人を選び、Yが幸福になるという願望を目標として抱くのである。(そんなの愛と呼べるのか、と常識人は反応するだろう。)

 

一般人には、上のエピキュリアンの感覚は理解できないかもしれない。そこで、一般人も抱くような「願望」の例を挙げよう。

ボードゲームのプレーヤーには、対戦相手に勝ちたいという願望がある。

彼は、勝利を目的にボードゲームで対戦するというより、対戦する過程で知性を思い存分発揮し、知的な駆け引きをするという勝利に向けての過程を楽しむために、勝利したいという願望ないし目標を持つことが多い。

もちろん、負けず嫌いで勝利の優越感を味わいたいだけの人、ゲームの腕をひたすら上げたい人、仕事で対局している人など、前者の人もいるだろう。しかし、彼らは勝つための手段と化してしまったゲームを純粋に楽しんでいるとはいえない。試合を楽しむことを第一義とするアマチュアの大半は、ほとんど後者の勝利「願望」を持っているのではないかと思われる。

 

最初の具体例を見ればなおさら、先のブログで述べたように、エピクロス主義者の願望は不真面目なものだと批判したくなる人は多いだろう。確かに、彼らにとって願望は、自分の活動、さらには生を楽しく在らしめるべく導くための手段である。

だが、彼らは不真面目に「願望」する代わりに、真面目に生を楽しんでいるのである。二つ目の具体例の勝利「願望」も、プロの勝利に対する(願望を超えた)執念に比べればいささか切実さに欠けるものではある、しかしその代わり、勝利を手段とするほどに、勝利「願望」を持つ人は真面目にゲームを楽しんでいるのである。

 

エピクロス主義、もしくはその含意する快楽主義は決して、今が楽しければそれでいいや、等といういい加減な妥協では無い。通常は生きることがその手段となるほどに尊い目的をも、徹底的に手段とするくらいに、自らが楽しく生きることに真剣な立場なのである。