観照的に散歩すること

私はツイッターでは「観照的散歩家」というハンドルネームを用いている。この記事では、この造語の意味するところを説明したいと思う。 1.「散歩」について 散歩とは、刹那的な趣きに基づく遊びのことである。つまり、目的による作為によるところなく、そ…

世界を憎んで人を憎まず

世の人はよく他人を責め、憎む。面と向かって他人に対して怒ることもあれば、陰で悪口を言うこともあり、その形態は様々だが、悪を他人に帰属させているという点では共通している。 対して私は、害悪をもたらす他人を避けることはあるが、その害悪の根源をそ…

私の独我論について

我々は、他者の存在を信じて疑わない。確かに身体という物体としては、他人の存在は疑いようもなく知覚される。ただ、我々は単に物体としてではなく、意識を持ち経験をする者としても他人の存在を信じる。 しかし、経験する他者や他者の経験は、経験の中に見…

善と有用性について

あらゆる活動は二種類に分類される。①それ自身のために行われる活動と、②他の目的のための手段として行われる活動に。 善い活動があるのだとしたら、それは本来①に属するべきものである。善は他の何を持ち出すまでもなくそれ自体のゆえに望ましいものだから…

必要について

我々の人生は必要なことで一杯である。基本的な衣食住を必要とするだけではなく、我々を実存的に支える友人、恋人や家族であるとか、時に人生の意味をも必要とする。 (金銭で計れるものに限っても)これらの必要がいかに巨大であるかは、一般的な生涯賃金が…

観照と実践について

よく生きること(その2) - 思考の断片 前回の記事では、善く生きることが観照的に生きることであることを述べたが、観照についての説明がごく限定的だったため、ここで数点を付け加える。 ・観照は普遍的なものに関する。 観照は主客の境界が除去された境…

よく生きること(その2)

よく生きること - 思考の断片 上の記事では、善く生きることは善く経験することであり、それは善く活動することに伴い実現されると述べた。善く活動することについては下の記事で述べたが、まず、これについてより詳しく述べたいと思う。 そもそも、善き生と…

よく生きること

世間の人が、(要領)よく生きるために「どのように」に関して思考するのに長けているが、その前提を問うことを怠ることでかえって人生を損なうことがある、ということについては既に述べた。 私はなぜ、そして何を「考える」か - Silentterroristの日記 彼…

荘子紹介(三分間スピーチ)

ちょうど一年前、会社の朝礼のスピーチで述べようとしたことをまとめなおしてみる。残念ながら、ちょうど発表しようとしたときにスピーチが廃止され、実際に発表することはなかったのだが。 最近、私は中国古代の思想家荘子に傾倒している。彼は中国の春秋戦…

否定について

我々は、よく否定という言葉を口にする。自己や現状の否定だとか、否定的(ネガティブ)だとかよく言われることがあるが、そもそも否定とはどういう意味なのだろうか。否定の原義は、ある命題が真でない、つまり偽であると主張することである。地球が平たい…

私はなぜ、そして何を「考える」か

私は一般的に無益と思われることをよく考える。一般的に皆が考えるのは、仕事や生活のどちらかを問わず、日常を要領よく生きるためには何をすればいいか、つまり「どのように」(how)の問題である。しかし、どのように行うかを問う前提となるのがなぜ行うの…

【論文要約】(人生の意味について)

以下は、Richard Taylor の論文 『The Meaning of Life』を私なりに要約したものである。 人生の意味について直接考えるのは困難である以上、無意味について考える方が容易いだろう。その典型がシジフォスの岩転がしという神話である。彼は神々を裏切り、次…

経験について

私が経験という言葉で言い表すのは、一般に心、もしくは精神と呼ばれる場で生じる全ての出来事である。 知覚はもちろん、認識、想像、感情、思考などの精神的活動、およびこれらの対象(客観、イメージ、好き嫌い、命題、言葉)全てが経験というカテゴリーに…

反出生主義の擁護

私の反出生主義について - Silentterroristの日記 前回は、私の主観の延長として反出生主義を提示したに過ぎない。したがって、この客観的な妥当性に関してはなんも説明がなされていない。一般に道徳は、常識や、実際の道徳的実践と一致するとは限らないが、…

私の反出生主義について

私は次の態度を取ることにおいて反出生主義者である。 ・子供が生まれることは、生まれないことに比べて(子供自身にとってではなく)道徳的に悪い しかも、この態度は、私が下の記事で定義した(私自身の)エピクロス主義の延長なのである。 エピクロス主義者…

道徳について

今回の記事は何の要旨も持たない。ただ、道徳について考えをまとめるために、言葉に記すことにする。書きたいことを赴くがままに欠いたので、まとまりの無さは容赦いただきたい。 まず、道徳を定義するために次の問題を考える。利己的な態度と道徳的な態度を…

「分かりやすい」文章の盲点

分かりやすい文章には、読者にとっての伝達効率や精度が良いという、特にビジネスに有用な長所がある一方で、没個性である、考える過程の楽しさを無視しているという書き手軽視の短所もある。 しかしこの短所は認識されず、巷ではビジネス以外の場面、例えば…

生の「意味」について

私は、先日のブログ: エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。 - Silentterroristの日記 で下記の態度を表明した。 ①将来どんないいことが約束されていても、死んでも生きてもどちらでもいい。 同時に、大多数の人…

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。

私はこれまでエピクロス主義を二通りに定義したが、どうも明晰さに欠くようである。そこで、再定義を行いたい。 まず、私がエピクロス主義の特徴づけとして用いた、「生存に条件付けられた願望」が一体どういうものなのか、詳細に説明したい。 そもそも、生…

人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。

悪は、質や程度によっては、無いほうがよいという相対的な忌避の対象であることを超えて、絶対に在ってはならないという否定の対象となる。そのような一線はなく、自分はどこまでも肯定的だと主張する者がいれば、是非、ありとあらゆる物理的、化学的、精神…

自由および善の消極性について

先日書いた記事: そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記 では、善を自由に生きることを可能にする手段として定義した。 しかし、この定義は消極的に過ぎるのではないか。そもそも…

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由

前回の記事では、善き生は生存してまで継続したいと願うものである、とする主張に対し反論を試みたものの、主張の一つの根拠を批判するのみであり、主張そのものを否定出来てはいない。エピクロス主義を擁護するならば、もっと直接的な反論が必要だろう。 そ…

善き生は、敢えて生存し続けてまで継続したいものか

私はこれまでエピクロス主義者について特徴づけを行い、彼らの生に対する姿勢や、持ちうる願望について考察してきた。そこでは、彼らの願望が刹那的な快楽の形態の独特なものに制限されていること、生き続けることを忌避することはあれ、積極的には求めない…

生存しているから快楽が必要に過ぎないのか、快楽を経験するために生存するのか。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか - Silentterroristの日記 昨日のブログで、「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」エピクロス主義者達は、もし生存すれば快い経験を楽し…

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正)

エピクロス主義者は、死が経験できる出来事ではないがゆえに、死に対して中立、つまり避けることも欲することもないのであった。 ただ、死は我々がいかなる選択をしようと遅かれ早かれ必ず訪れる。彼らはこの不可避な運命に対する恐怖心、もしくはそれを生み…

エピクロス主義者は「願望」することよりも、楽しく生きることに真面目である

私は先日のブログ:エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記で、「エピクロス主義者」を、下記の通りの選好しか持たない人々として定義した。 (α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。 そして、彼らが死後の事…

エピクロス主義について

※文章のまとまりのなさ、体裁の悪さはご容赦願います 最近私が興味を持っている思想家はエピクロスである。それは、一面において彼の倫理観と私の立場が一致しているからである。以下では、彼の倫理のこの一側面を紹介し、さらにはその内容がどれだけ同意で…