エピクロス主義について

エピクロスの倫理観について

エピクロスは、古代ギリシャ(ヘレニズム期)の思想家である。 彼は哲学の中でも倫理学、そして倫理の中でも幸福を最重要のものとして探究した。 彼によれば、幸福は主観的な快楽、とくに心の平穏による静的快楽(アタラクシア)であるという。これは、客観…

意志について

1.無条件欲求 私は、死は私にとって悪くはない、もしくは不幸でないと主張した。しかし、それだけではない。私は、(死ぬまでの苦痛はともかく)死そのものにはほとんど無関心である。つまり、死で挫かれる欲求がほとんどない。 果たしてそんなことがあり…

死に寛容な幸福主義

1.常に幸福=善とは限らない 私の幸福観について - 思考の断片 上の記事では幸福が何であるかを定義してきたつもりである。この記事では、幸福がどういう場合に自分にとって善いものかを問題としたい。 こう言うと、幸福が善いのは当たり前のことだから、…

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか

1.死が恐いのは、死が悪いからではない 私は死が怖く、それゆえに先延ばしにしている。私にはどうもその私の行動が合理的なものには思えない。つまり、死が私にとって悪いから避けているのではなく、ただ怖くて避けているだけではないかと思われるのである…

主観的欲求充足説とエピクロス主義について

この記事では、欲求充足説を客観的欲求充足説と主観的欲求充足説に分類して紹介し、後者がエピクロス主義の主張(死は悪ではない)を含意することを示そうと思う。そのうえで、主観的欲求充足説を取るエピクロス主義と、以前私が定義したエピクロス主義を比…

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。

私はこれまでエピクロス主義を二通りに定義したが、どうも明晰さに欠くようである。そこで、再定義を行いたい。 まず、私がエピクロス主義の特徴づけとして用いた、「生存に条件付けられた願望」が一体どういうものなのか、詳細に説明したい。 そもそも、生…

善き生は、敢えて生存し続けてまで継続したいものか

私はこれまでエピクロス主義者について特徴づけを行い、彼らの生に対する姿勢や、持ちうる願望について考察してきた。そこでは、彼らの願望が刹那的な快楽の形態の独特なものに制限されていること、生き続けることを忌避することはあれ、積極的には求めない…

生存しているから快楽が必要に過ぎないのか、快楽を経験するために生存するのか。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか - Silentterroristの日記 昨日のブログで、「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」エピクロス主義者達は、もし生存すれば快い経験を楽し…

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正)

エピクロス主義者は、死が経験できる出来事ではないがゆえに、死に対して中立、つまり避けることも欲することもないのであった。 ただ、死は我々がいかなる選択をしようと遅かれ早かれ必ず訪れる。彼らはこの不可避な運命に対する恐怖心、もしくはそれを生み…

エピクロス主義者は「願望」することよりも、楽しく生きることに真面目である

私は先日のブログ:エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記で、「エピクロス主義者」を、下記の通りの選好しか持たない人々として定義した。 (α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。 そして、彼らが死後の事…

エピクロス主義について

※文章のまとまりのなさ、体裁の悪さはご容赦願います 最近私が興味を持っている思想家はエピクロスである。それは、一面において彼の倫理観と私の立場が一致しているからである。以下では、彼の倫理のこの一側面を紹介し、さらにはその内容がどれだけ同意で…