意志について

1.無条件欲求

 私は、死は私にとって悪くはない、もしくは不幸でないと主張した。しかし、それだけではない。私は、(死ぬまでの苦痛はともかく)死そのものにはほとんど無関心である。つまり、死で挫かれる欲求がほとんどない。

 果たしてそんなことがあり得るのだろうか。哲学者Steven Luperは、死で欲求を一切挫かれないような「エピキュリアン」がどういう欲求を持ちうるかについて、論文「Annihilation」で以下のようにまとめている。

・逃避欲求(もし時点tでXが事実でなければ、時点tで私が死んでいるほうがマシだ)

 死は逃避欲求を挫くどころか、必ず満たす。後件命題が真になるからである。

 

・独立欲求(時点tでXに事実であってほしい:Xが実現される確率は私の生存に依存しない)

 死は、独立欲求を挫きも、満たしもしない。

 

・生存条件付欲求(もし私が時点tで生きていれば、時点tでXに事実であってほしい)

 死は条件付き欲求を挫きはしない。

 

 あまりに図星だったため、私は衝撃を受けた。私は、もし将来極度の不幸が避けられなければ、その時に死んでいるほうがマシだと思う。これは、逃避欲求である。また、私は、家族を含む他人に出来るだけ幸せになってほしいと思うが、私自身に幸せにするだけの力があるとは思っていない。この欲求は独立欲求である。最後に、最も重要だが、私は、幸福になりたいというより、生きている限りは幸福になりたい。これは生存条件付欲求である。

 

 逃避欲求は誰しもがもっていると思う。誰しも、耐えがたい苦痛を味わうくらいなら、死んだほうがマシだろう。しかし、皆は生存条件付欲求に加えて、次の欲求も持つと思う。

 

・無条件欲求(私が時点tで生きるかに関わらず、時点tでXに事実であってほしい)

 例えば、皆は将来家族に幸せであってほしいと考える。仮に、自分が家族の前に死ぬとしてもである。しかも、皆は自分が家族を幸せにする力があると信じている。したがって、この無条件欲求は、生存条件付欲求でも、独立欲求でもなく、死で挫かれるのである。

 

 無条件欲求のうち、独立欲求でないものは「意志」と呼ぶことが出来る。それは、生きるから欲求するのではなく、そのために生きるような使命感や熱意を伴うものである。また、自分次第で欲求を実現できる、という自信や主体性も伴う。

 思うに、私以外の人々にとっても、意志は欲求の中のほんの一握りである。例えば、多くの人にとって、快楽を得たい、幸福になりたい…ほとんどの欲求は生存条件付欲求であり、意志ではない。

 仮にあなたが明日死ぬとしよう。それ自体は残念なことである。しかしその場合、あなたは、明日生きられないことと独立して、明日生きていれば得られていたはずの快楽や幸福が得られないことを嘆くだろうか。我々は、明日生きたいから死にたくないのであって、明日快楽や幸福を得たいから、死にたくないわけではないのである。

 ではどういうものが意志なのだろうか。例えば、将来生きたいというのは意志である。それは、それ自体目的でもあれば、他の意志を達成する手段でもあろう。他の意志とは例えば、他者に愛されるとか、他者を本当に幸せにするとか、世界の中で偉業を痕跡として残すなどの、単なる経験を超えた人生の意味である。

 

2.意志のない生

このような意志のない生はどういうものだろうか。

 まず、Steven Luperは、意志がなく、三種類の欲求に限定された「エピキュリアン」にとっては、死は、欲求を一切挫かないから、悪くないという。

 これに反論する方法はある。なぜなら、死で彼の欲求が全く挫かれずとも、将来生き続ければ得られた快楽や、欲求の充足が剥奪される、とは主張できるからである。確かに、生存条件付欲求しか持たない彼は、将来生き続けない限り快楽や欲求の充足を欲求しないから、欲求は一切挫かれず、それらの剥奪が悪くはないと主張しうるかもしれない。だが、それは直接的に悪くはないだけで、比較的、間接的に悪いことだとは主張しうる。ただ、死の後も生き続けたであろう人の利害を考慮することに、私は懐疑的であるため、この剥奪説はとらない。

 

 次に、最も重要だが、Steven Luperは、「エピキュリアン」の生は、死で損なわれない代わりに、極めて劣悪であると主張する。

1.彼は、死ぬことが悪くなければ、生きることは良くはないのではないか、と言う。

 これに対しては、先ほどと同様、「エピキュリアン」も生存条件付欲求の充足にともなう快楽を享受して、良き生を送ることが出来る、と言いたい。確かに、彼の生は、意志の成就、つまり達成という善に欠けているかもしれない、しかし快楽という別の方面で良いということはありうる。

 

2.彼は、生存条件付欲求は、本当の意味の欲求ではありえない、という。自分が生きている間は子供に幸せになってほしいというのは、子供に対する真の愛情ではないし、自分が生きている限り、仕事で偉業を成し遂げたいというのも、偉業に対する真の情熱ではない。

 確かに、自分が死ねばどうなってもいい、という留保がある場合、本当になにかを欲求することは出来ないだろう。ましてや、そのために本気で努力することも、心理的に不可能かもしれない。ただ、そのような生は情熱に欠けるものの、悪いものだとは言えないと思うのである。

 情熱に満ちた生は、魅力的かもしれない。しかし、それは大きな喜びや達成のほかに、大きな苦痛や絶望も伴う。

 他方で、エピクロスが説くような、欲求や苦痛から自由で、精神的に平穏な生も、別の次元の魅力があるように思える。そのような生は、すごく良いということも無いが、すごく悪いということもほとんどない。浮き沈みがなかったり、自分の欲求や周りに振り回されたりしないということは、それ自体一つの人生の良さを構成するものではないだろうか。

 

 以上のように、私は「エピキュリアン」にとって(少なくとも直接的には)死は悪くないが、だからといって必ずしも彼の人生は良くないわけではないと思う。しかし、私自身、やはりどこか物足りないように思う。仕事や恋愛などで、どこか「生きがい」を見出したいところである。

  

3.意志と、独立な無条件欲求

 以上では、意志と無条件欲求をほとんど区別せずに用いてきた。たが、無条件欲求は、意志と独立な無条件欲求に分けられ、両者は決定的に異なる。

 意志は、自分次第で何とかなる、何とかしようと思えるような欲求である。だから、それは生きる理由を与えるのであり、その反面死で挫かれもする。対して、独立な無条件欲求が成就するかは、もはや自分がいるか否かに関りがない。したがって、その欲求のために自分が生き続ける理由はない。出来ることと言えば、欲求がかないますように、と祈るくらいである。

 私は、独立な無条件欲求もほとんどは、もともとは何らかの意志だったものと思う。人は、自分ではどうにもなりそうにないことは、欲求する気にはならないからである。では、どういう場合に意志は、単なる独立な無条件欲求に変わるのだろうか。

①一つは、意志が既に成就された場合である。偉大な研究成果を残したいという意志を持った研究者が、実際に成果を残せたとする。その場合、その意思はすでにかなえられており、彼が仮に今すぐ死んでも、変わりはない。

②または、意志がまだ実現されてはいないものの、すでに自分が出来ることを全てやり終えることによっても、意志は独立な無条件欲求に変わる。例えば、起業をした人が、自分の会社に未来にわたって繁栄してほしいと意志したとする。そして、彼は自分の役割を完全に終え、後継者へ意志や引き継がれたとする。この場合もやはり、彼がいつ死んでも、彼の意志の実現には影響がない。

③また、意志は既に挫かれた場合も、独立になる。理由は①と同様である。

④最後に、意志を実現する能力が自分に無くなってしまった場合である。例えば、意志が成就しそうもないと絶望する場合、自分は実際に無力になってしまう。もしくは、老衰で能力が衰えてしまった場合もそうである。

 

Steven Luperは「ネオ・エピキュリアン」という生き方として、以下を提案している。

・人生の早い段階では、極力自分のライフスパンに収まるような、計画的な意志を抱き、熱意をもって生きる。

・人生を送るにしたがって、意志を①や②の方法によって、独立な無条件欲求に変える。

・人生の最後には、挫かれる意志がなく、心残りなく安心して死を迎えられる。

 

 意志を持って生きたいのならば、彼の提案は魅力的である。医療に恵まれた現代では、我々は死のタイミングをある程度選べるため、未実現の意志が残ったまま死ぬリスクもほとんどないだろう。

 ただ、彼の提案は言われるまでもない、と多くの人は感じるのではないだろうか。我々は、自分の生きているうちに何とかなる意志は、①極力実現しようとするし、何とかならない意志も、②出来る限りのことをするだろう。

 もし仮にそれが出来ない場合は、③意志が挫かれるか、④自分が老衰で無力になるのである。(ただ、これらは死と同じく意志の挫折である。)

だから、大半の意志(※)は独立欲求に自動的に変わるのである。

※一つ例外がある。生きたいという意志は無条件だし、自分が生き続けるかに完全に依存するから、決して独立にはならない。十分に生きた老人にとっても死が悪いと考えられているのは、純粋に生き続けられないためなのだろう。

 結局、彼の提案で重要なのは、欲求をライプスパンに収まるようなもの、つまり③や④で挫折したり絶望することなく、①や②で独立欲求に変えられるものに制限するということである。それには、例えば、自分に何が出来るかを常に考え、出来ないことは理性的に諦めることが必要なのだろう。

 

4.意志に対する道徳的配慮

 道徳は、他者の欲求を尊重するものであるというのが私の立場である。私は特に、過去に存在した他者の欲求も、過去に遡れば遡るほど程度は弱くなるが、尊重すべきだと考える。例えば我々は、死人の遺言や、認知症患者の認知症になる前の意向を尊重する。それは、現在は存在しないが過去に存在した人の欲求を尊重するからである。

 過去に存在した人の欲求にも、(生存)条件付欲求と無条件欲求がある。うち条件付欲求に対しては、現在や未来において、過去の人や、過去の人の欲求は存在しない以上、配慮する必要がない。配慮すべきは、過去の人の意志に対してである。

 過去の人の意志に対する尊重は、誰も幸せにせず、一見不合理に思える。なぜわざわざ現在の人の幸福を犠牲にしてまで、過去の人の意志を尊重すべきなのだろうか。一つ利己的な理由を挙げるとすれば、過去の人の意志を現在の我々が尊重すれば、現在の我々の意志を未来の人々に尊重してもらえる見込みも高くなり、我々自身が、自分たちの意志がないがしろにされるのではないかと不安に思わなくて済むからである。

 また、過去の人の意志に対する尊重は、確かにその人を幸福にはしないが、広義の意味でその人の利益になるとは言えないだろうか。例えば、ある親が子供の幸せをひどく願い、子供を残して死んだとする。そのあとで、子供が幸せになることは、親の人生を全く変えないから、親にとって直接的な利益になるとは言えないにしろ、親の願望が成就したのだから、親が報われた、もしくは親の人生が有意味になったとは言いたくはなる。

 

5.最後に

 意志がなく、条件付欲求だけでも幸福に生きることはできる。しかし、意志は、人生に本質的な生きがい、生きる理由、生きる意味である。道徳が、本人の死後も意志を尊重するのは、その証拠である。

 意志を持つことが、私自身にとって良いことか、わからない。意志をもつことで、意志の実現という善を得る可能性もあれば、意志の挫折という悪を被る可能性もある。また、意志を持つ限りは、早期の死を恐れなければいけない。

 ただ、意志の実現に関して、もし出来る限りのことをしたならば、もはやそれは独立な無条件欲求に変わり、死そのものでは挫かれない。重要なのは、挫かれたり、絶望したりする無謀な意志を持たないことである。私は、この範囲内であれば、自分の意志を大切にしたいと思う。

幸福と道徳における人生観の違い

1.幸福と道徳の根本的な違い

 幸福と道徳は、我々が追求する別のものである。確かに、これらはほとんどの場合は一致している。大抵は、打算であっても道徳的に行為することは、自分の幸福にとっても一番良い。それに、本心から道徳的に行為すると、道徳的な満足という幸福感が得られる。また、自身の幸福も道徳が尊重する利害の一部である。このように、幸福と道徳は、互いを入れ子構造のように含みあっている。

 しかし、私は、両者には次に述べる決定的な違いがあると思う。それは、幸福と道徳が前提とする人間観が全く違うからである。

 幸福という概念は、徹頭徹尾、主観的、独我論的、自己完結的である。幸福は、私だけのものであり、私だけが評価できるものであり、私から見たものである。そこに他者の視点は存在しない、他者から見てどうだろうが、本人から見て幸福ならば幸福なのである。幸福の主体は、「人間」というより、孤立した「人」である。

 対して、道徳という概念は、客観的、社会的、人間的である。道徳においては、人は行為を通じて他者とかかわりあう「人間」として尊重される。したがって、その善は他者から見ても、客観的に良いものでなければならない。

このような人間観の違いに応じて、内容も以下のように変わる。

 幸福といった場合、自分の視点から見て幸福かが重要である。たとえ無知に基づく偽りの幸福や、洗脳により刷り込まれた幸福であっても、幸福であることには違いがない。すなわち、幸福とは、主観的に良い経験をすることである

 対して、道徳は、他者の視点からみても本人にとって良いことをせよ、と命じる。道徳は本人にとって客観的に良い世界を実現してあげることなのだ

 これらの違いを踏まえ、私は幸福についての快楽主義、道徳については欲求充足説を取る

 ここでいう快楽主義とは、単に狭義の感覚的快楽のみではなく、欲求の充足や人生に対する満足感まで幅広く含む、良い経験(広義の快楽)こそが幸福を構成するという立場である。この立場によれば、例えば、他人に裏切られていても、本人が気づいていなければ幸福に変わりがない。

 対して、欲求充足説は、我々の望むことが(そう信じられるかとは無関係に)本当に世界において実現されることが善で、実現されないことが悪とする立場である。他人に裏切られたくないという欲求を持っていれば、本人が気づくかとは関係なく、他人に裏切られることは悪なのでる。

 

2.幸福と道徳の具体的な違い

快楽主義と欲求充足説の違いゆえに、私は幸福と道徳的尊重には具体的には次の違いがあると思う。

 

2-1.経験機械

 もしも、映画マトリックスのように、我々の人生が、すべて水槽の中で脳に送られた電気信号だったらどうだろうか。一部の人々は、このような事態に嫌悪感を示す。

 しかし、彼に我々の人生がこのような経験機械に繋がれた人生であろうと、我々の経験に違いはない以上、我々の幸福には変わりはない

 では、他人を経験機械につないで、偽りの幸福を夢みさせることは道徳的に悪いことだろうか。それはやはり不正に思える。彼は現実の世界で実際に何かを成し遂げたいのであり、単に経験機械のなかで何かを成し遂げた気分に浸りたいわけではない、前者の欲求を挫くから、彼を経験機械につなぐことは不正である

 

 

2-2.幸福な事故

次に挙げたいのは、前の記事でも挙げた、トマスネーゲルの思考実験である。

 ある人が哲学や芸術などの知的な活動を楽しんでいたとする。しかし、彼は突然交通事故で脳障害を負い、知能が幼児の水準まで退行してしまった。にもかかわらず、幼児として可愛がられ、事故にあうまで以上の幸福感が得られたとする。

 この場合、明らかに、彼は事故に遭うことで不幸になるどころか、幸福になっている。知的、芸術的な観照以上に、可愛がられることが良い経験なのであれば、幸福は経験の良さで決まったのだから、彼の幸福は増加するのである。

だからといって、運転手が彼をこのような目に合わせることは、決して道徳的に善いことではない。むしろ、彼を幸福にしてもなお、運転手は事故の責任を厳しく問われるだろう。

これについては、以下のように説明がつく。

 事故に遭う前の私は、事故に遭うであろう時点のあとも、哲学や芸術を楽しみたいと考えていたであろう。それも、その時に哲学や芸術をしたいと欲求する場合に限り、したいと考えていたのではなく、その時に自分がどう思うおうと、哲学や芸術をしたいと考えていたであろう。しかしながら、事故は、事故に遭う前の私のこの欲求を挫く、おそらくは、事故にあった後の私の、可愛がられたいという欲求を満たす以上に。それゆえに、事故に遭わせることは過去から未来にわたる彼の欲求を全体的に挫くゆえに、道徳的に悪いことなのである。

 

 

2-3.死の不幸と殺しの悪について

私は下の記事で死は不幸ではない(死ぬ本人にとって悪くない)と主張した。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか - 思考の断片

 まず、死は生の剥奪だと言われるが、主体が死ぬ以上、死以降の私は存在しない。存在しない主体の利害に価値はない。よって、死以降の剥奪された生に価値はない。したがって、死は(良き)生の剥奪として悪くない。

※対して、死んだ後の生の苦痛にも価値はあると考える。したがって、死は(悪しき)生の回避として良いことはある。

 また、死は生の消滅だと言われる。確かに我々は生き続けられないことで挫かれるような利害、欲求を持つ。しかし、我々は生の消滅で欲求が挫かれる苦しみを経験することはないから、死は生の消滅としても悪くない。

 

対して、私は人や動物を殺すことは、たいていの場合道徳的な悪であると考える。

 確かに、殺された以降の私が抱く欲求の充足に価値はないかもしれない。だから、殺しは生の剥奪としては道徳的に悪くはない。つまり、殺しは生きられたであろう私に対する道徳的悪ではないのである。

 

 しかし、殺しは、殺される前の私の、将来も生きたい、(将来生き続けることによって)何かを得たい/したい、という欲求をも挫く。(赤ん坊ですら、快楽を得たい、母親に愛されたいという、死で挫かれる欲求を持つ。)つまり、死は、これまで生きてきた私の、将来生きたい、生きることでなにかをしたいという意志を挫くがゆえに、道徳的に悪いのである。

 

私の立場は、殺人の悪に対する次の直観をよく説明すると思う。

 三人がほぼ同じ幸福な人生を生きた/生きるであろう場合、1.生まれて間もない赤ん坊を殺すことと、2.20代の青年を殺すことと、3.70代の老人を殺すこと、どれが一番道徳的に悪いだろうか。私は、2>1>3の順であると思う。多くの人も同意するであろう。

しかし、もし殺しが剥奪として悪いならば、1>2>3の順に悪い。

 対して、私の立場を取れば、赤ん坊は生きたい(それにより何かをしたい)という意志が青年より希薄である、それゆえに2>1の順で道徳的に悪いのである。

 では、2>3の順で悪いのはなぜだろうか。それは、老人はすでに将来生きたいという意志をたいして持ってはおらず、若かりし頃の生きたいという意志も、ほとんどが実現済のものだからである。

 

3.伝記的生と、映像的生

 以上の三つの例で、幸福と道徳が目指すところ、つまり快楽(いい経験をすること)と欲求の充足の以下の二点の違いが明らかになったと思う。

 まずは、最初に述べたように、欲求の充足とは、たんなる主観的な自己満足にはとどまらない、意志の真の成就である。道徳は、我々を意志する主体として尊重するのである。対して、幸福は、我々を意志の主体というよりは、どちらかというと経験を享受する存在としてみなす。

 また、欲求は時間を超える。我々は、現在だけではなく、将来の我々が生きるか、何をなしとげるか、何を欲求するかについて強い関心を持つ、時間的に絡み合った自己である。我々は、現在を通じて過去も未来も生きる、歴史的な存在として尊重されるのである。

 対して、快楽は常に現在の私の快楽である。確かに過去の記憶や未来の期待による快楽も存在するが、快楽を引き起こすのはあくまで現在の記憶や期待であって、過去や未来が実際にどうあろうと、現在の快楽に変わりはないのである。幸福が評価するのは、時間的にも自己完結した、刹那的な生である。

 要するに、道徳が尊重する生は、様々なことを意志し、努力してきた歴史としての生、つまり我々の伝記的生である。これに対して、幸福が評価する生は、あくまで、どこか受け身で、多数の今に切り離せる、映画のコマのような、映像的生なのである。

 多くの人々にとって、どちらが魅力的な人生観かは、一目瞭然だと思う。私も、一つの伝記を紡ぐつもりで生きたほうが良いと思うし、他者をそういう存在として尊重したい。しかし、いくらそのように生きているつもりでも、結局私が獲得でき、最終的にものをいうのは、映像的生以上のなにものでもないということに、自覚的でありたい。

刹那主義について

1.二種類の私概念について

私という概念には二種類ある。

 

一つは、生まれてから死ぬまで同一の「私」である。普通我々は、例えば昨日晩御飯を食べたのも、明日仕事で働くのも、すべて同じ「私」だと考える。そして、昨日晩御飯を食べた楽しみや、明日の仕事のつらさは、すべてその同じ「私」にとっての利益や害悪であると考える。この「私」は自己同一性を保ちつつ、時間の中を生きる「私」である。

 

対して、次のような考え方もできる。<私>が昨日晩御飯を食べた時は、今日の<私>や明日仕事をする<私>はいなかった。今日の<私>がこう考えているときは、昨日や明日の<私>はいない。明日仕事をするときも、昨日や今日の<私>はいないだろう。それぞれの<私>がいるとき、他の<私>がいないということは、昨日、今日、明日の<私>は別々の存在ではないだろうか。

 

また、昨日の晩御飯の楽しみはあくまで昨日の<私>のものであって、明日の仕事のつらさもあくまで明日の<私>のものに過ぎず、今日の<私>は両者とは無縁なのであると考えることもできる。昨日、今日、明日の<私>は別々の利害の主体なのである。

 

2.刹那主義

以上のように私を、時を通じて同一な利害の主体「私」として見ることもできれば、時によって別々な利害の主体である<私>達の集団として見ることもできる。どちらの見方がより実体的で、どちらがより観念的だろうか。

 

常識によれば、「私」がいるからこそ、各時点を生きる<私>がいると考えられている。しかし、仮に「私」を想定しなくても、各時点を生きる各々の<私>達が存在することは矛盾なく想定できる。逆に、各時点を生きる<私>達を想定しなければ、「私」を想定することはできないのである。つまり、「私」がいて、その時間的限定として初めて<私>達がいるというよりは、<私>達がいて、その時間的統合として初めて「私」はいるのである。したがって、「私」は<私>達という想定の上に行われたさらなる想定であり、より観念的なのである。

 

また、「私」が仮にいたとしても、その者が一つの利害の主体かどうかは疑わしい。実際、例えば今日高い食事をする場合、それは今日の<私>にとっては(美味しいから)利益であっても、明日以降の<私>にとっては(金が減るから)損失である。この場合、今日高い食事をすることは、「私」にとって利益か損失のどちらだろうか。

 

これに対しては、今日の利益と明日以降の損失を足し合わせれば、全体としての「私」の損益になる、と皆は言うだろう。しかし、この損益の総和というのは、また観念的な代物である。なぜなら、総和された損益を、今日高い食事をするという出来事に対して、直接見出す主体はどこにもいないからである。あくまで、今日の<私>、明日以降の<私>達が、それぞれ利益や損失を見出しているだけである。

 

 以上より、利害の主体としては、<私>達がより実在的で、「私」は単なる観念的な仮構に過ぎないと言えるだろう。このように、時間を通じた同一者「私」よりも、瞬間的な存在である<私>達を実体的と捉える立場を、刹那主義と名付けよう。

 

3.「私」と<私>達の関係

上では、「私」は<私>達の時間的統合であると述べた。このような見方をすれば、「私」が全体で、<私>達が部分なのである。そして、「私」の利益は、<私>達の利益の総和なのである。

 

しかし、「私」は同時に今の<私>が抱く観念でもある。したがって、今の<私>が全体で、「私」が部分であるという独我論的な見方もできる。そこでは、「私」の観念的な利益が達成されると信じられることが、今の<私>の利益の一部をなすに過ぎない。

 

「私」において統合される、過去や未来の<私>達の全てが、今の<私>が抱く観念であるからには、「私」が今の(そして各時点の)<私>の観念であると考えるほうがより正しいのだろう。

 

さてその場合、「私」という観念でも、どの時点の<私>が抱くかによって内容が変わりゆく。例えば学者を夢見ていた小さい頃の<私>が抱いた「私」は、真理の探究に身を捧げる人生を生きる者だっただろう。対して、今サラリーマンをしている今の<私>の抱く「私」の人生は、抽象的な真理とは無縁の職業実践に身を捧げる人生である。

 

このように、「私」は、時々の<私>達を起点におこなれる観念的な仮構であり、「私」の内容も<私>達の変化に引きずられていくのである。

 

 

以上のような刹那主義をとることの帰結はどういうものだろうか。

 

4.無痛・無自覚な突然死は害悪か

常識によれば、死は無痛で無自覚であっても死ぬ本人にとって害悪だと言われる。これは本当だろうか。

 

まず、「私」にとって、ほとんどの場合死は害悪である。「私」にとっての利害は、<私>が各時点で経験する利害を総和したものであった。もし、死ななければ「私」が概して幸福な人生を送れるとした場合、死ぬことでその幸福を得られないのは、確かに剥奪として悪いことである。

 

他方で、どの時点にとっての<私>にとっても、死は害悪ではない。生きている間の<私>達は、死を経験するどころか、その痛みや自覚もないで過ごせている。対して、死んでしまってからは、死を経験する<私>達そのものがいないのである。

※「私」にとって死は悪いことであっても、「私」にとって悪い死が到来すると信じられない限り、今の<私>にとって悪いことではない。したがって、無痛・無自覚な死は、今の<私>にとっては無害なのである。

 

死は「私」にとって害ではあっても、どの<私>達にとっても無害であることが主張できた。死は「私」に対して観念的に有害なだけであり、<私>達には無害なのである。

 

ここで、次のように反論されるかもしれない。死を免れることができれば、死なずに生きられたたくさんのハッピーな<私>達がいたかもしれない。それに比べ、死んで彼らが存在できないのは直接的ではなくとも、比較的には悪いことではないかと。

 

しかし、仮に死ぬ場合、生きて幸せになるはずだった<私>達が、おのれの非存在を嘆くわけではない点に注意である。彼らは機会損失を被って嘆くまでもなく、存在しないのである。だから、死んだ場合は生き続ける場合より悪いとする理由が無い。

これはちょうど、幸せな子供が生まれないことが、生まれることに比べて悪くはないのと同じことである。

 

※確かに生き続けた場合は、たくさんのハッピーな<私>達が存在できる。もし彼らが存在した場合を基準にすれば、死んで彼らがもとから存在しなかった場合は悪いと言えるかもしれない。しかし、死ぬのが生き続けるよりも悪いと言えるためには、あくまで死んだ場合を基準として、死ぬほうが生き続けるより悪いと言えなければならない。

 

したがって、以上のように刹那主義を前提とすれば、死は、あくまで無自覚・無痛である場合ではあるが、無害なのである。

※以上のような死無害説を初めて提唱したのは、古代ギリシャの哲学者エピクロスである。彼は原子論者であったが、原子論を徹底するあまり、私と同様、(個人ではなく)各時点の個人こそが利害の最小単位だと考えていたのではないかと私は考えている。

 

 

私が実際に自殺をせず、死を避けるのは、死が自覚的で、苦痛に満ちているからである。もし自殺をしてみようものなら、自殺の直接的な苦痛の他、「私」に死が害を与えられると信じられることに対して、<私>は耐えられないだろう。

 

5.脳障害を負ってまで幸せになることは幸せか

最後に次のような例を考えよう。

・私が、自覚や痛みを感じる間もなく、事故にあったとする。私は一命を取り留めたが、重度な脳障害を負い、精神状態が幼児まで退行してしまった。事故に遭うまでは私は学問や芸術に打ち込んでいたが、遭ってからは赤ん坊のように可愛がられて幸せに生きたという。

この場合、事故にあっても私は幸せだろうか。

常識的なほとんどの人は、とても幸せそうではなく、可愛そうだというだろう。では、だれが不幸なのだろうか。事故に遭ってからの幼児としての私が幸福であることに異議はないだろう。不幸なのは、事故に遭う前の私である。

確かに、事故に遭う前の私が抱いていた観念的人格「私」にとって、事故は不幸なものであるに違いない。「私」は学問や芸術に打ち込んでこそ幸せな人物である、赤ん坊扱いされて幸せになっても、その「私」として幸せなことではないだろう。

対して、事故で不幸を被った<私>達は誰一人としているだろうか。事故に遭う前の<私>達は、もちろんなんも害を受けていない。事故に遭った後の赤ん坊同然の<私>達も、皆可愛がられて幸せである。

したがって、事故は「私」にとっては観念的に不幸な出来事であっても、<私>達にとっては幸福に変わりがない出来事なのである。

 

私はもし余裕があれば、このような事故を避けようとするだろう。知る限りで「私」にとっての不幸を避けたいというのは、今の<私>の利害の一部だからである。しかしもしこの事故が無害・無自覚に突然やってきたのなら、確かに幸福なことだと思う。

 

 6.まとめ

皆は、時間を通じて自己同一な「私」という観念をいだき、「私」にとっての死や自己喪失の害悪など、観念的な善悪を重んじている。確かに我々は観念の中に生きる存在かもしれない。そもそも時間自体、観念の一種だからだ。

しかし、「私」にとっての、例えば死の観念的な害悪は、死の観念を今の<私>が抱いてこそ実際に悪いのである。したがって、本当に悪いのは、死ぬことそのものではなく、死ぬことを知り観念を抱くことなのである。

死に限らず「私」という観念にとっての善悪を、刹那主義的に、より実在的な<私>にとっての善悪に還元してみれば、他の多くの恐怖や悩みも解消されるのではないかと思う。

 

普遍性追求の重要性

我々は、しばしば「普遍」と「一般」を混同する。たしかに、どちらもすべてについて成り立つという意味では共通している。しかし、両者には大きな違いがある。日本では前者の普遍性が軽視され、一般性が追求されることが多いが、それは個人にとっても社会にとっても不利益である。私は普遍性を追求して生きたいと思う。

 

1.普遍性とは何か

1-1.物事には現象と本質がある。現象は共通の本質が、物事の個別性に応じて別様に表れたものである。

(現象に対する本質というとイデアや物自体のようなものを思い浮かべるかもしれないが、本質は現象から外在はせず、本質は、当の現象をかくあらしめるものとして現象に内在している。)

 

1-2.個々の現象を現象それ自体として見たものが特殊であり、個々の現象の違いを捨象して共通の現象を抽象するのが一般である。これらは一つの現象を問題とするか、捨象をして多くの現象を問題とするかにおいて違ってはいても、本質ではなく現象それ自体を問題とする点において同じである。

 

1-3.個々の現象を、共通の本質の固有な現れとしてみて抽出されるものが個であり、共通の本質それ自体が普遍である。これらは、本質の現れ方の多様性を問題とするか、本質の単一性を問題とするかで違ってはいても、現象ではなく本質を問題とする点において同じである。

 

1-4.現象を捉える一般性と、本質を捉える普遍性は似て非なるものである。たとえば、一般性は多数の現象の違いを捨象した最大公約数なのだから、一般的であればあるほど内容は薄い。対して、普遍性は、普遍的であればあるほど本質に近く、内容が豊かで深いものとなる。また、一般的なものは個々の現象の違いを無視するため、個別具体的ではないのに対して、普遍的なものは個々の現象の違いを説明してこそ普遍的なのである。

 

1-5.とはいえ、個ー普遍と特殊ー一般の違いは程度問題である。厳密に言えば、全てに対して当てはまる(普遍的)本質はないし、我々は現象を通じてしか本質を理解することはできない。また、抽象を行う道具である言葉を用いて主張する以上は、どんな普遍的な主張も、ある程度個別的なディテールを捨象した一般的な主張であることを免れない。普遍的な本質とは厳密には言葉では語り切れず、直観するしかないものである。

 

1-6.我々の行う活動は、現象を追求する実践と、本質を追求する観照に分けられる。

生活、仕事における実践的な活動は、ある特殊な好ましい現象を引き起こすことを目的としている。一般的な概念や法則には、あくまで特殊な現象を引き起こすのに有用である限りで、価値がある。ましてや、本質がなんであるかはどうでもいいのである。

対して後者は、現象ではなく本質を追求する。それは良し悪しや幸不幸を超越している。良し悪しや幸不幸とは、現象に内在するものに過ぎないからだ。善や幸福をふくむ、いかなる他の目的のためでもなく、それ自体のために行う活動が観照である。もちろん、1-4.で述べたように、我々は完全に普遍的たりえない。しかし、限りなく普遍性に近いものを目指すのが、芸術、純粋科学や哲学の営みだと私は思う。

 

 

2.普遍性を追求する重要性

2-1.日本人には、普遍的な本質を追求する観照的な姿勢がかけていると思う。まず、彼らは普遍的な正義や道徳的な善を追求しない。そして彼らは純粋科学も軽視する。例えば基礎研究には、応用につながるという手段的な効用しか認めない。最後に、彼ら独自の哲学はあるにせよ、普遍的に拡がることなく、成果に乏しい。

 

2-2.普遍性を軽視しても、芸術や哲学などの高尚な営みが衰えるだけで、我々の実生活や仕事には何の影響もないように思われるかもしれない。しかし、普遍性や本質性の軽視には確かな不利益がある。

まず、真の意味での倫理が生まれないことが挙げられる。倫理とは、普遍的な善ないしは正義がなんであるかを追求する営みである。それは、すべての個人にとって善いことの追求であり、個の尊重でもある。

もしこの意味での倫理が欠如していたらなにが起こるだろうか。皆はもはや、個人は尊重せずに、「私」の利益を追求するのに都合がよいように、「倫理」規範を変えようとするだろう。「倫理」はたくさんの「私」が、自らのわがままを言い合った結果の落としどころに過ぎなくなる。

皆がわがままを言い合った結果醸成される「倫理」もどきは、極めて一般的、画一的になる。大多数が醜く、嫌いだと言うことは悪になり、好きだということは善になる。そこでは個性が尊重されず、大多数の好みにより少数派が疎外、抑圧される。

日本における「マナー」がその最たるものである。他人に危害を加えないのはもちろん重要である、しかしそれが行きすぎて、多数が少しでも不快に思うことはなんでも禁止してしまってはどうだろうか。服装や言動が形式にしたがっていなかったり、そういう少しでも普通から外れることに対する不快感を、マナー違反の理由にしてしまっては、極めて窮屈ではないだろうか。マナーは、不快感から形成されたものだから、合理的な理由を持たない。ビジネスマナーが非合理的だと嘆く人が多いが、それも当然である。

このようにマナーや一般性が強要されると、普通から外れた個性的な人がつらい思いをするだけではなく、社会全体が個性を活かせずに大きな損失を被ることは言うまでもないだろう。

 

2-3.以上に述べたように、普遍性を追求する観照的な姿勢にも、日々を生活を実践する上で実利的なメリットはある。ただ、私は観照にはこのような手段的な価値があるのみならず、それ自体が尊い営みであると思う。以下の記事で述べたように、実践的な活動こそが、観照的活動を可能にする前提(衣食住など)を整えるための手段に過ぎないと思う。

よく生きること(その2) - 思考の断片

 いずれにせよ、重要なのは中庸である。以上に述べたように、観照とは無縁の生活は空虚で不毛だが、観照に耽りすぎて、日常的な生活や仕事を疎かにしても、観照に耽っている暇もなくなる。私は観照を目的としつつも、適度に地に足の着いた人生を歩もうと思う。

 

快楽主義について

私は、快楽や苦痛で人生の良さの全てが決まると思う。

というのも、経験の価値は快楽や苦痛できまり、人生の(生きた本人にとっての)価値(well-being)は、経験で決まると考えるからだ。したがって、人生の価値は快楽や苦痛で決まるのである。

こういう立場は快楽主義と呼ばれ、私もこれまでの記事でたびたびこの立場を表明してきた。この記事では従来の立場を修正し、さらに精緻化したい。

 

1.快楽とは何か

1-1快楽に関する内在主義と外在主義

快楽と一口に言ってもいろいろある。おいしいラーメンを食べることも快楽だし、世界が平和であることに満足するのも一種の快楽である。

前者では、ラーメンの味覚の経験の中に快楽が見出だれているように思える。対して、後者では、世界が平和であるという事態に対して態度を抱くことが快楽であるように思える。

前者の考え方を取るのが快楽の内在主義である。内在主義は快楽は経験に内在するものと主張する。これは、素朴な実感にも会うのではないだろうか。快楽とは経験の中に直接感じるものだというのは、我々の常識でもある。

対して、後者の考え方を取るのが快楽の外在主義である。外在主義は経験に対して外的な好ましい態度を抱くことが快楽だと主張する。例えば、哲学者Chris Heathwoodはある経験に起こってほしいという欲求が満たされてこそ、その経験は快楽なのだと主張する。

この二つの立場のどちらが正しいのだろうか、それともどちらも部分的に正しいのだろうか。私は前者が正しいと思う。

 

1-2外在主義の問題点

まず、私が外在主義がおかしいと考える理由を述べる。その理由はたった一つしかないが、決定的だと思う。

我々の快楽の中でもとりわけ純粋なのは、何か好きなことに熱中しているときの快楽である。思索にふけっているとき、好きな音楽に聴き入っているときなどがそれである。そういう時は、好きな活動の経験が意識のすべてを占め、ほかの雑念が入り込む余地は全く無い。時間が経過しているという感覚すら忘れてしまうほどである。ましてや、好きな活動をしていることが快いなどという、余計な態度を抱く余地は全くないのである。

そうすると、外在主義によれば、この経験は快楽ではなくなってしまう。最も純粋な快楽だと思われるものが、実は快楽ではないと主張するのは、間違っているのではないだろうか?

しかし、外在主義者にも再反論の余地がある。彼らは、この経験に対して抱く好ましい態度は無意識の態度なのだと言い張ることができる。例えばFred Feldmanは快楽は信念のようなものだと主張している。例えば、我々は普段、地球が丸いという信念を意識しない。しかし、後から地球は丸いと信じていたかと問われれば、そのとおりだと答えるだろう。快楽についても同様だと、Feldmanは言う。熱中した活動を後から、振り返ってみれば、確かにその活動をしていることに快楽を見出していたと思うだろう、と。

しかし、仮にこのように無意識な態度としての快楽や苦痛があったとしても、それらは無価値ではないだろうか。

次の場合が論理的な可能性として考えることが可能である。
・AとBの意識は全く同じである。しかし、Aは意識された経験に対して無意識の快楽を感じているのに対して、Bは全く感じていない。

無意識の快楽にも価値があると仮定したら、AとBは全く同じ意識的経験をしているのに、AはBよりも良い経験をしていることになる。意識が同じなのにAの経験がBよりも良いというのは間違ってはいないだろうか。

以上の理由から、無意識の態度的快楽や苦痛は無価値であり、それらは快楽や苦痛と呼ぶに値するかすら私は疑問に思う。

 

1-3内在主義の問題点と回答

外在主義に問題があることはわかったものの、内在主義にも問題がある。最も大きな問題は、快い経験の異質性である。快い経験は、ラーメンを食べた時の経験から、本を読んで考える経験、クラシック音楽を鑑賞する経験、寒い日に暖房の風を受ける経験まで、多様である。そしてこれらは多様であるだけではなく、快楽という共通項があるとは思えないほど異質ではないだろうか。すると、快い経験の共通する本質、快楽自体が存在しないように思われる。

これに対しては、私は哲学者Roger Crispと同様、快い経験の内容は違っていても、快楽は変数として共通に含まれると主張したい。彼は俊逸にも、快楽を色で例えている。赤いリンゴ、緑のピーマン、青い海、これらの経験は見かけは全く異質である。しかし、どれも色を持つという点で共通している。しかし、「色」そのものは決まった経験の内容(determinate)ではなく、変数(determinable)のようなものなのである。

快楽についても同様の提案ができる。快い味覚、快い読書の経験、快い美的観照の経験はすべて異質な経験の内容であり、それらの「快さ」はそれぞれ異なる。だが、すべて「快い」という点においては共通している。つまり、快楽というのは変数であり、それぞれ独自の快さが変数の実現値なのである。こうして、快い経験の共通項、快楽は定義できるのである。 

 

1-4快楽の種類 

以上のとおり、私は外在主義を否定して内在主義をとるが、外在主義の考える、態度で規定される快楽も、やはり快楽の一種だと考える。

我々は快楽を感じるとき、ふつう二つの経験が生じる。一つは快楽を感じる当のその経験だ。もう一つは、快楽を感じる当の経験に対して、快く思ったり満足したりする態度としての経験である。外在主義は、後者だけが快楽と主張するか、後者があるから前者が快楽になると主張する。対して、私のような内在主義者は前者は独立して快楽を含むと主張するわけである。ただ、私は、後者の快く思ったり満足する態度そのものも、快楽を含むと思うのである。私は、前者の快楽を直接的快楽、後者の態度が含む快楽を態度的快楽と呼びたい。

態度的快楽は、我々が経験する快楽の多くを占めるといってもいいと思う。上で述べたように直接的快楽に態度的快楽は必ず伴う。また、ストア派のように直接的快楽に動かされない心の平穏に態度的快楽を抱くことも可能なのである。そして、皆が追求する欲求の充足も、態度的快楽を含む。

また、実存的快楽と私が呼ぶものも、態度的快楽の一種である。実存的とは、自己の在り方に関心をもつということである。例えば、自分が快楽主義者であることに対して抱く満足感は、実存的快楽の一つである。絶えず自己の在り方を反省しながら生きる、実存的存在として生きる我々にとって、態度的快楽(アイデンティティ)や態度的苦痛(苦悩や絶望)は極めて重要なのである。

しかし、態度的快楽以外の直接的快楽の中にも、重要な快楽は存在する。痒い部位を掻く時の快楽や、おいしい料理を食べる快楽など、感覚的快楽は些細なものに思われるかもしれない。しかし、1-2で挙げたような、熱中して取り組む活動経験に伴う直接的な快楽は重要で、これを活動的快楽と名付けたい。

全ての活動に快楽が伴うわけではない。活動的快楽は、あくまで主体的な活動の経験に伴って生じる。感覚的な快楽を感じるのも確かに生命活動の一部ではあるが、それらはどちらかというと主体的より受け身である。例えば自分の好きなこと、得意なことを、自分が主となって行ってこそ活動的快楽は生じるのである。

熱中している活動の経験は意識のすべてを占める。主体と対象や目的と手段の分離といった、一切の抽象化や反省がなく、すべてが渾然一体となった純粋経験があるのみである。それは、一切の相対化・間接化が紛れ込む前の、絶対確実な具体的経験なのである。この経験に見出される快楽も、同じく絶対確実だといえるだろう。

※強い感覚的経験も、純粋経験であるという点においては同じであるが、主体性をかくだけあって、経験が「活き活き」していない。生のエネルギーの躍動がない分、快楽も味気ないものであることが否めない。

以上では、快楽を直接的快楽と態度的快楽、そして直接的快楽をさらに感覚的快楽、活動的快楽に分類した。快楽と一口に言っても、通常イメージされる肉体的な享楽から、心の平穏や世界平和に対する快楽、実存的なアイデンティティに伴う喜び、忘我の境地で取り組む活動に伴う快楽に至るまで、極めて幅広い範囲をカバーしていることを理解してもらえたと思う。

では、これらの多様で異質な快楽の優劣を決める共通の尺度はなんだろうか。私はそれが、「快楽の度合い」だと思う。以下でその説明をしたい。

 

1-5快楽の度合い

「快いということ」が快楽を特徴づけるのであった。快さには度合いがある。多くの人は、快楽の度合いとして実数値を想定するのではないだろうか。たとえばラーメンを食べる快楽の度合いが1、好きな本を読む快楽の度合いが倍の2であるという場合、後者のほうが前者より、二倍快かったということになる。

※「二倍」とはどういうことだろうかと、鋭い人は突っ込むはずである。この点については、私はうまく準備ができていない。あえて定義するならば次のとおりである。
・本を読む快楽の度合いが、ラーメンを食べる快楽の度合いの二倍と言う場合、次を意味する。
(仮に身体を二つ脳につなぐなどして)ラーメンを食べる経験を同時に二つ別個に経験したときの快楽の度合いと、本を読む快楽の度合いが同じである。
現実にそんなことは無理だというのは、重々承知している。あくまで仮想的な想像の話である。

上の例では、ラーメンを食べる経験の快さの度合いを2つ分足せば、本を読む経験の快さの度合いを上回る。しかし私の場合、ラーメンを食べる経験の快楽の度合いをいくら足しても、それが思考に耽る快さの度合いを越えることができないように思える。前者の快さの度合いは、後者の快さの度合いよりも「次元」が高いのである。

これを数学的に表現するならば、快楽の度合いは辞書式順序の入ったベクトル値(x,y)をとる。そして、(x,y)が(z,w)より大きいのは、x>zか、x=zかつy>wの時だけである。先の例では、思索に耽る快楽は(1,0)、ラーメンを食べる快楽は(0,1)の度合いを持つ。ラーメンの食べる快楽の度合いを仮に何倍しても(0,n)になるだけで、(1,0)より大きくならないのである。

 

以上で、快楽の本質についての説明は十分だと思う。

 

 

2.経験の価値=快楽の度合いである

快楽は経験に内在する。私はこの快楽の度合いこそが、経験の価値であると思う。当然、ある人にとっての経験の価値を左右する要素はたくさんある。しかし、それら要素はあくまで快楽の度合いを左右するから間接的に経験の価値を左右するのであって、直接的には左右しない。

 

2-1快楽以外による価値は経験に含まれるか

ある経験の価値を左右する要素を列挙すると、枚挙に暇がない。快楽以外に、欲求の充足、道徳的な善さ、友情、愛、達成感、美的価値、自尊心、知識、個性の発揮、このようにいくらでもあげられる。問題なのは、これらが快楽とは独立して、経験の価値に寄与するのか、快楽の価値を高めるからこそ、経験の価値に寄与するかである。私は後者が正しいと主張したい。つまり、先ほどあげた要素の価値は、欲求が充足したと信じられることに対する快楽の価値、自分が道徳的に善く振舞っていると信じられることに対する快楽の価値…等々に還元されると言いたいのである。全てについて主張していてはきりがないので、最初の二つに絞って主張しよう。

まず、欲求充足の価値の中には、快楽の価値に還元できない要素があるように思われる。例えば、他の人に好かれたいという欲求が充足するためには、単に他の人に好かれていると信じられるような経験をするのではなく、実際にほかの人に好かれなければならない。ここで、後者の価値は快楽の価値に還元できない。なぜなら実際にほかの人に好かれていようといまいと、そう信じてさえいれば快楽に変わりはないからである。

ただ、ここで問題としているのは、あくまで「経験の」価値である。したがって、快楽の価値に還元すべきなのは、欲求が充足されたと信じられるような経験の価値である。欲求が充足したと信じられるのが良い理由は、それに対して満足できるからである。そしてこの満足の価値は、満足により得られる快楽の価値で尽くされるのではないだろうか。

次に、道徳的に善いことをする価値は、快楽の価値に還元できるだろうか。確かに道徳的に善いことをすると気分が良い。これは快楽の一種である。しかし、道徳的なことをする経験には、自己満足にとどまらない、道徳的価値があるのは言うまでもないだろう。ただ、ここで問題としているのは経験の「本人自身にとっての」価値である。道徳的行為の利己的な価値は、道徳的な行為をした満足感ですべて尽くされるのではないか。

議論が不十分ではあるが、経験の価値を左右する、快楽以外の主要な二要素について、結局快楽の価値に還元されると主張した。

もし、他の候補も快楽の価値に還元されるなら、経験の価値は快楽の価値でしかないと言える。しかし、快楽の価値が快楽の度合いだけで決まるかはまだ定かではない。

 

2-2快楽の価値は、経験の内容に依存するか

まず、快楽の度合いが同じでも、「高尚な」快楽と「低級な」快楽には、経験する本人にとっての価値の差があるといわれるかもしれない。快楽の度合いだけではなく、どういう内容の経験に快楽を見出すかが重要というわけである。例えば、仮に、クラシック音楽を鑑賞する快楽と、泥にまみれて遊ぶ快楽が同じくらいの度合いの快楽でも、前者の快楽の価値のほうが高いではないかと主張されるかもしれない。

私の場合に限って言えば(そしてほとんどの人に場合もそうだろうが)クラシック音楽を鑑賞する快楽の次元は、泥にまみれて遊ぶ快楽の次元より高い。だから、泥にまみれて遊ぶのがいくら楽しいと仮定しても、仮にも両者の快楽の度合いが一致することはなく、上記の反論はそもそも成立しない。上記の仮定はほとんど成り立たないことに注意すべきだ。

それでも、私以外の人で、両者の快楽の次元と度合いが同じ場合もあるだろう。そういう人の場合は、快楽の価値は同じだと主張したい。問題としているのは、経験する本人にとっての主観的な価値であることに注意すべきである。クラシック鑑賞が泥にまみれるよりも良いという先入観のある我々が外からみる場合、泥にまみれることによる快楽は惨めなものに思えるかもしれないが、クラシック鑑賞と泥にまみれることを同列に置くような人自身にとって、泥にまみれる経験は確かにクラシック鑑賞と同等に有意義なものである。それを傍から見てくだらないと断じるのは、上から目線のエリート主義だし、想像力が足りないと思う。

 

2-3快楽の価値は本人にとって相応しいかに依存するか

2-2の反論にも関わらず、まだ納得いかない人がいるかもしれない。問題にしているのは本人にとっての価値だと承知の上で、いや、だからこそクラシック鑑賞の快楽のほうに価値があるのではないだろうか。泥にまみれる快楽の価値が低いのは、経験の内容もさることながら、前者に比べて後者が豚みたいで、人間にはふさわしくないからではないだろうか、と。

しかし、私は泥にまみれる快楽の価値が低いとは思わず、低いと錯覚されているだけだと思う。ここで、自分が不相応にも泥にまみれる経験をしていることに不満足を覚える場合と、覚えない場合に分けて考えよう。

前者の場合、本人が泥にまみれる経験それ自体に快楽を感じるだけではなく、人間である自分が豚のように泥にまみれているという、事実そのものに苦痛を感じている。泥にまみれる快楽が本人にとって、クラシック鑑賞の快楽より価値が低いように一見思えるのは、この反省的な苦痛で快楽が減殺され、全体としてはあまり快くないからとして説明ができる。(しかし、泥にまみれる快楽それ自体はクラシック鑑賞と同等に価値があるのである。)

後者の場合、つまり自分が不相応にも泥にまみれていることに対して本人が全く何も思わない場合(それくらい真剣に泥遊びをしているとき)、同程度の快楽があるクラシック鑑賞の快楽と価値が違わないように思える。

つまり、快楽が本人に相応しくない(相応しい)だけで、本人がその事実に苦痛(快楽)を見出さない限りは、経験の相応しさは価値に影響しないのである。

 

2-2と2-3により、快楽を見出す経験の内容や、経験に快楽を見出すことが主体にふさわしいか否かのいずれも、快楽の度合いに影響することを通じて間接的にしか快楽の価値に影響せず、快楽の価値があくまで快楽の度合として決まることが結論づけられる。2-1より経験の価値は快楽の価値なのだから、経験の価値も快楽の度合いである。

 

 

3.人生の価値は経験だけで決まる

2.では、経験の価値が快楽の度合いで決まると主張した。私はさらに、人生の本人にとっての価値が経験だけで決まると主張したい。

 

3-1経験機械の思考実験

人生の価値が経験だけで決まるという主張に対しては、有名な経験機械の反論がある。

 

・人物Aは科学者で、重病の治療薬を開発する研究に一生を捧げた。彼は新薬を見事開発して一生を終えたとする。

・人物Bは、生まれたときから、仮想現実を経験できる機械にプラグインされ、生まれてから死ぬまでAと全く同じ経験をしたとする。

①AとBの経験は全く同じである。

②しかし、Aの人生のA自身にとっての価値は、Bの人生のB自身にとっての価値より高い。

③したがって、人生の価値は経験だけでは決まらない。

 

①が正しいことおよび、①+②より③が導出できることに疑いはない。私は②に反論したい。

そもそも、②にみんなが同意する理由はなんだろうか。それは新薬を開発するという「達成」が、AだけにありBには欠けているからである。確かにBはAと同様、新薬を開発したという達成感は得ている。しかし我々は、達成感がほしいのではなく、達成を果たしたいのである。達成には、単なる達成感、そして経験から独立した価値があるように思われる。

 

3-2自身の人生の価値に関する無知

私は、「本人にとっての価値」という概念について以下の要請を行う。

・自らの人生の「本人にとっての価値」は、本人自身がある程度は知ることができなければいけない

確かに、完全に知ることはできないかもしれない。例えば、ある人が親友だと思っていた人が、実はその人を利用していただけかもしれない。その場合、その人の人生の価値は本人が考えていたより少しは劣るかもしれない。しかし、その人自身が相当良い人生だと思っていたものが、実は無意味だったというようなことは無いと思うのである。その人の人生の価値の判定者は本人自身である、その本人が分からないというようなことはあってはならないのである。

ところが、上にあげた達成という価値は上の要請を満たさない。なぜかというに、もしある人が経験機械につながれているとしたら、この達成という価値は損なわれ、そもそも経験機械につながれているか否かを本人は知りようがないからである。

例えば、上のAは、自身の人生がBのような経験機械による夢である可能性が、無視できるほど小さいとする根拠を持たない。もし新薬を開発したという達成そのものに価値があるとすると、この可能性次第では、Aの人生は大変価値あるものか、それとも無意味なものか、変わってしまう。しかしそうは思えない。Aの人生の実際の価値は、 A自身が考えていた価値と大差はないはずである。

したがって、上の要請を行い、そしてどんな人も、自分自身が実は経験機械につながれているという可能性がある程度高いことを否定できないとすると、(経験から独立した)達成は、ある人の人生の、本人自身にとっての価値には含まれないと主張できる。

 しかし、人生の価値は不可知なのだと上の要請を否定したり、経験機械に実はつながれている可能性など無視できるほど小さいと言い張る人がいるかもしれない。その場合、私はまた別の理由を考える必要があるだろう。

 

3-3想像力の欠如による説明

我々がBにとってのBの人生の価値を考えるとき、仮に我々がBだったときに、Bの人生がどういうものなのかを想像するだろう。しかし、我々がBの人生を想像するとき、本当にBになり切れているのだろうか。

Bは自分が実は新薬を開発していないんだということは一切知らず、達成感にひたっている。対して、我々はBの人生を想像するとき、「それでも本当は新薬を開発していない」という思念を持ち込んではいないだろうか。その場合、想像した人生はBではなく、薄々自分の人生が夢であると気付いている別人B’の人生である。わずかでも、すべては夢であり、実際は新薬を開発していないのではないかという思念を抱いている以上、B’の新薬を開発したという達成感はBに比べて低いだろう。

こうして、Bの人生のBにとっての価値が低いと我々に思えるのは、我々のBの人生に対する想像が不完全で、誤ってB’の人生を評価しているからだと説明することができる。それはBの人生の価値が実際に低いからではなく、想像力の欠如によりBの人生を、額面通りに評価できていないからなのである。 

 こう主張してもなお、B’とBの人生の価値の差は、我々がAとBの人生に対して見出す価値の違いを説明しないと思う人はいるだろう。彼らを説得するには別の理由が必要だ。

 

3-4当為的な価値と、実現的な価値の違い

「本人にとっての価値 」という概念には、実は二つの意味がある。一つは、(本人の厚生のために)目的として追求すべきものとしての価値であり、もう一つは、本人にとって良い当のものとしての価値である。前者を当為的な価値、後者を実現的な価値とよぼう。

我々は、例えば友情は良いものだという場合、友情を目的として追求すべきということを意味するのと同時に、友情があれば自分にとって良いことを意味する。ここでは、当為的な価値と実現的な価値は一致しているのである。

しかし、両者が異なる場合もある。幸福感がその一例である。幸福感は、我々にとって良いことは間違いない。しかし、幸福感を目的として追求すべきとは限らない。幸福な感情そのものを目的として追求することは、かえってむなしく、不幸ではないだろうか。実際に幸福感に恵まれていると思われる人を見てみればいい。彼らは幸福感を強く意識することもなければ、直接幸福感を追求しているわけでもない。彼らは幸福感そのものを追求するのではなく、したいことや、やるべきことをやっているのである。したがって、幸福は実現的な価値ではあるが、そこまで当為的な価値ではないのである。

同じことが(良い)経験についても言えないだろうか。私は、良い経験が、そして良い経験だけが本人にとって良いもの、つまり実現的な価値の全てだと考える。しかし、それは必ずしも、良い経験だけを目的として追求すべきだということを意味しない。むしろ、何かを本当に達成することを目的として追求したほうが、充実感や達成感のような良い経験が豊富に得られるものだと思う。つまり、当為的な価値は良い経験よりも、達成なのである。

さて、経験機械の反論の②が正しいと思われるのは、当為的な価値として、達成を含むAの人生の価値を求めるべきだと考えているからだと説明できる。これは正しいと認めよう。

しかし、私は実現的な価値のほうを問題にしたい。実現的な価値において、Aの人生の価値はBの人生の価値と同じであると主張することは、なんの矛盾もないのである。  

 

4.なぜ快楽主義をとるか

この記事では、快楽の本質を明らかにし、人生の本人にとっての価値(well-being)に関する快楽主義を全力で擁護した。とくに私が重点をおいたのは、3.で主張した、人生の価値が経験で決まる点である。これは(well-beingについての)経験主義と呼ぶことができる。

私は、快楽主義は経験主義の一形態に過ぎず、もしかしたら2.で述べた快楽主義は誤りで、経験の価値が快楽以外で決まるかもしれないと思う。しかし経験主義について譲るつもりはない。人生とは徹頭徹尾経験であり、経験に違いがなければ人生に違いはなく、従って人生の価値に違いもない。

なぜここまでかたくなに経験主義に肩入れしているかというと、私が存在論的な経験主義、つまり(私の)経験こそが存在するすべてだと信じているからである。経験から独立して存在する外的世界や他者というのも、私に想像される限りでしか存在しない。だから、「実際の」達成や友情というのも結局は経験に還元されてしまうのである。

この立場は独我論的だと批判されるかもしれない。よろしい、他者の経験も認めよう。それでも、私は他者の経験と私の経験は独立した世界をなしていて、互いに関わることがないと思っている。したがって、私の人生のすべてが私の経験の系列でつくされることには変わらない。

このように、私の経験主義は、独我論的、孤立的な人生観の帰結ということができるだろう。どうやら私はこの人生観をとることにアイデンティティを見出しているため、経験主義を何としてでも守りたいようである。

道徳について(その2)

以下では、道徳に対する私の考えや姿勢を述べる。

1.利害の主体

道徳は、善や悪を規定するものである。ここで、善や悪というのは突き詰めれば必ず「何者かにとって」の善や悪であり、主体を離れて存在しない。では、善悪を見出す利害の主体はいったい何者だろうか

まず、もっとも大きい単位としては集団が考えられる。例えば、ある政策が国民全体の利益になる、という場合がある。しかし、誰もが賛同すると思うが、この場合、国民全体という集団が利害の主体として存在するわけではなく、国民全体の利益というのは、一人一人の国民の利益を形式的に総和した概念にすぎない。「国民全体」という集団は抽象的に仮構された主体にすぎない

では、集団ではなく個人が究極的な利害の主体なのであろうか。私はそれすら間違っていると思う。では、私個人にとっての善悪を二通りに定義しようと試み、どちらの場合も私は利害の主体として存在しないことを示そう。

一つには、ある時点の私にとって善いと捉えられることだとする考え方がある。しかし、すぐわかるように、ある時点の私にとっては善いと感じられたものも、別の時点の私にとっては悪いと感じられることがある。例えば、今日お金を使うことは、今日の私にとっては善いことかもしれないが、明日以降の私にとっては使えるお金が減ることになるから悪いことである。

この場合、今日お金を使うことが善という今日の判断と、悪であるという明日以降の判断のどちらが正しいのだろうか。おそらく正解は無く、どちらも、私個人にとっての善悪と一致しないだろう。一つ目の考え方はうまくいかないようである。

もう一つには、各時点の私にとっての善悪を総和した値こそが、私個人にとっての善さ(悪さ)であるとする立場がある。先ほどの例で説明すると、今日お金を使うことによる今日の利益と、明日以降使えるお金が減る明日以降の不利益を足し合わせて、全体がプラスになれば、私という個人にとって、今日お金を使うことは利益となる。

しかし、この「総和した善悪」は本当に私個人にとっての価値なのだろうか。というのも私個人という主体が、「総和した善悪」という価値を、直接ある対象に見出したわけではないからだ。対象に直接価値を見出す主体は、あくまで各時点の私であって、私個人にとっての「総和した善悪」というのは、各時点の私が直接見出す価値を足した間接的・形式的な価値にすぎない。

以上からわかることは、厳密には「私個人」というのも利害の主体としては存在せず、利害の主体は各時点の私であるということである

 

2.利今主義

価値判断の主体はあくまで各時点の私やあなた(彼ら自身にとっては「今の私」)である。そして、価値判断に基づいて最善な行動や判断をするのも同じ彼ら自身(「今の私」)である。したがって、どの時点のどんな人も、その時のその人(「今の私」)の利益を最大化するように行為するのである。この行動原理を、「利今主義」とよぼう

こういうと必ず、「いやいやそんなはずはない、私は今だけではなく将来の私自身のことを考えるし、他の人のことも考える」と反論されるだろう。そのとおりである。しかし、「将来の私の利益」や「他人の利益」を考慮するというのは、結局、それらを、「今の私の利益」として追求することではないだろうか。

「将来の私の利益」を「今の私の利益」として追求することを合理的、「他人の利益」を「私の利益」として追求することを道徳的と呼ぼう。

我々は(利今主義的であるのに加え)程度の差こそはあれ、だれしも合理的または道徳的である。あまり合理的でなく、今を将来に優先させる人は、俗に刹那主義者と呼ばれ、あまり道徳的ではなく、自分を他人に優先させる人が利己主義者と呼ばれるのである。

 

 3.合理性・道徳性の内在と外在

以上に述べたように、我々は利今主義でありながら、まさしくその利今性の一部として、(合理的・道徳的だからという理由で)合理的かつ道徳的に振舞う。これを、道徳性が利己性に(合理性が利今性に)内在している、と呼ぶことにしよう。

この対義語は外在である。道徳性に限っては、利己性に対して外在の関係にもある。これはどういうことだろうか。例えば、内的な動機は別としても、表面的には道徳的に振舞ったほうが、自分自身の利益にもなることが多い。道徳性が利己性に対してこういう打算的な外的関係にあるとき、道徳が外在すると呼ぼう

道徳に結果的に従う人には二種類いる。道徳的だから、という内在的な理由で従う人と、道徳に従うことが自己利益になるから、という外在的な理由で従う人である。我々は前者を道徳的に賞賛し、後者を打算的だと非難する。

このように、道徳には常に、それ自身を内在化(内面化)させようとする強力な力がある。そして、道徳を尊重すべし、道徳を目的とすべし、しまいには道徳的によく生きることが個人的にも最善なのだ、という間違った説教をする始末である。

 

 4.道徳が外在している人の行動指針

この圧力を前に、道徳を完全に内面化できていない人(道徳が外在している人)はどうすればいいのだろうか。 

まず、道徳性を内面化する(心から道徳的でありたいと思う)ことがもし出来るならば、利己的にもそうしたほうがいい場合が多い。道徳的であればあるほど、他人と利害が一致し、協力によるメリットを得られる見込みが増えるからである。

過度に道徳的な人は馬鹿を見る、とする意見もあるだろう。そのとおりである、自分だけが他人のことを考えて、他人が自分のことをそれほど考えてくれないとすれば、自分が一方的に損をすることもある。しかし、忘れてはいけないが、その自分にとっては、多少は損をしても道徳的に振舞うことそれ自体が「得」なのである。我々が考える以上に、道徳的な人というのは「得」をしているといえるだろう。

とはいえ、完全に道徳的になることは最善とは限らない。何事においても中庸が重要であり、ある程度は道徳とは距離を置くのが利己的には最適なのである。

道徳を完全に内面化しない場合、「守りたくない」道徳の領域が発生する。この領域についてはどうするのが自己利益につながるだろうか。

まず、道徳を守ったほうがいいのだろうか。ここで、道徳を本当は守りたくないのに「守るべきだから」守るというのは、すでに道徳が内面化されている人のすることである。リスクが高い場合は、「道徳的な制裁を受けるのが危険だから」守ればいいのだし、リスクが低い場合はこっそり破ってしまえばいい。道徳を内面化した道徳主義者は、常に道徳にしたがえというが、そんな説教に耳を貸す必要はないのである。

では次に、道徳を守るべきだと主張したほうがいいだろうか。場合によると思うが、私は多くの場合はしたほうがいいと思う。他者が道徳的に振舞うことは、結果的に私の利益になることが多いからだ。そして、道徳的な主張をすること自体が自分に対する道徳的賞賛につながることも多い。ただ、これは当然道徳を結果的に守るか、道徳を守っていないことが知られていない場合だけだ。道徳を守っていないことがばれていたら、言行不一致の非難を受けるだろう。

 

 

5.私自身の道徳性、合理性に対する態度

私は4.に述べたように道徳性をなるべく内面化しようと試みつつも、あくまで道徳性と利己性、合理性と利今性は別物だという自覚をもち、(前者を含むものとして)後者を目的に生きていきたいと思っている。

なぜなら、そもそも他者の利益を考慮する道徳的善や、将来の自分の利益も考慮する合理的善は、いずれも他人を含む集団や、各時点の私達の利益を総和した、抽象的かつ間接的な善にすぎないからである。それらの善は、あくまで今の私にとっての直接的な善と内在的または外在的に一致する限り、追求したい。

だから、私自身が不道徳であっても、そして非合理的であっても、仕方がないこととしている。(おそらく多くの人も敢えて言わないだけで、同じではないだろうか。)

例えば、私は反出生主義者で、人間の子供のみならず、動物も生むべきではないと考えているが、動物を殺すために誕生させる畜産の恩恵に、不道徳にもあずかっている。これは、ちょっとした味覚の楽しみや、動物を犠牲にすることを意識的に避けることが面倒という利己的な利益が、道徳的なコストを上回っているからである。

また、私は今すぐ死ぬのが私自身にとって最も合理的だと考えているが、今すぐ死ぬ恐怖と苦痛を味わうのが嫌だからという理由で、死を先延ばしにしている。

言行が一致していないため、他の人には、私の立場や価値観は道徳的な説得力や魅力に乏しく見えるだろう。しかし、そもそも道徳性や合理性について、言行が一致する必然性はないし、完全に道徳的・合理的になれない以上は、その矛盾を生きるしかないと思うのである。

幸福が何かを私はなぜ問うか

私は、私自身にとっての善や幸福は何かという問いに興味を持ち、さまざまな記事を書いてきた。この記事では、なぜそもそもこの問いに私が興味を持っているか説明をしたい。

まず、皆と同様に、私も善く幸福に生きたい。そして、皆は次に、どうすれば幸福に生きられるかを問題にする。例えば、進学や就職など人生の様々な選択肢について、幸福にもっとも資すると思われるものを選ぶのである。

 しかし、私はいつも、それは先走りすぎではないかと疑問と思うのである。そもそも、善や幸福が何であるかが不明確だったら、いかに善く幸福に生きられるかも決まらないのではないかと。例えば、A社に就職することがB社に就職するよりも大きい幸福につながるかを判断できるためは、それぞれの場合にどれだけ幸せになれるであろうかを見積もれなければいけないだろう。何が幸せかがわかっていないとこの見積もりそのものが出来るわけないだろうと。

だが、この私の疑問は以上に述べた理論的な見地からは正しいものの、幸福に生きたいという目的を達成しようとする実践的な立場からは正しくない。なぜなら、我々は幸福が何かを知らなくても、何が幸福を得るための手段であるかは知っているからである。例えば、待遇のいい会社に入れば、幸せになれる可能性が高いことをしっているのである。他にもお金、友情、愛、知識、趣味など幸福の手段を我々はあらかじめ知っており、この認識は、これら幸福の手段を幸福そのものと混同してしまうくらいに正確である。幸福に生きるには、そもそも幸福は何かを問うまでもなく、その手段と思われるものを追求するのが最も合理的なのである。

 

それでもなお、私が善や幸福は何かを問うのはなぜか、それは吟味された幸福を追求するのが私にあっているからである。吟味された幸福とは、その幸福が何であるか、私にとって本当に善いのか、なぜ善いのかが私自身に認識された幸福である。

ところで、私は自己として、つまりいろいろなことを欲求し行為しつつも、常にそのような自分自身の在り方を問い続ける実存として生きている。こういう自己として生きていること自体が、私のアイデンティティである。

このような私にとって、私がどういった善や幸福を追求しているかも、重要なアイデンティティであり、それ自体常に問い続けることは私のアイデンティティにとって相応しいのである。そして、それだけではなく、こうやって私にとっての善や幸福が何かを吟味する思考が、根本的で抽象的な問題について考えることが好きな私には快い。

したがって、私の幸福に関する快楽主義:

「私としての」幸福は、私にとって相応しいことに快楽を見出すことである

によれば、善や幸福が何かを吟味して得られる幸福は、「私として」はかなり幸福なことである。

私の幸福観について - 思考の断片

確かに、無為な思考に耽るより、社交なり、娯楽なり、他のことをしたほうが多くの快楽は得られるかもしれない。しかしそのような内省的でない快楽の価値は、上の快楽の価値には及ばないのである。

以上のように、私が、幸福を直接的に追求するよりも、幸福が何かを問うこと自体に幸福を見出すのは、私の実存主義的な幸福観によるものである。