幸福が何かを私はなぜ問うか

私は、私自身にとっての善や幸福は何かという問いに興味を持ち、さまざまな記事を書いてきた。この記事では、なぜそもそもこの問いに私が興味を持っているか説明をしたい。

まず、皆と同様に、私も善く幸福に生きたい。そして、皆は次に、どうすれば幸福に生きられるかを問題にする。例えば、進学や就職など人生の様々な選択肢について、幸福にもっとも資すると思われるものを選ぶのである。

 しかし、私はいつも、それは先走りすぎではないかと疑問と思うのである。そもそも、善や幸福が何であるかが不明確だったら、いかに善く幸福に生きられるかも決まらないのではないかと。例えば、A社に就職することがB社に就職するよりも大きい幸福につながるかを判断できるためは、それぞれの場合にどれだけ幸せになれるであろうかを見積もれなければいけないだろう。何が幸せかがわかっていないとこの見積もりそのものが出来るわけないだろうと。

だが、この私の疑問は以上に述べた理論的な見地からは正しいものの、幸福に生きたいという目的を達成しようとする実践的な立場からは正しくない。なぜなら、我々は幸福が何かを知らなくても、何が幸福を得るための手段であるかは知っているからである。例えば、待遇のいい会社に入れば、幸せになれる可能性が高いことをしっているのである。他にもお金、友情、愛、知識、趣味など幸福の手段を我々はあらかじめ知っており、この認識は、これら幸福の手段を幸福そのものと混同してしまうくらいに正確である。幸福に生きるには、そもそも幸福は何かを問うまでもなく、その手段と思われるものを追求するのが最も合理的なのである。

 

それでもなお、私が善や幸福は何かを問うのはなぜか、それは吟味された幸福を追求するのが私にあっているからである。吟味された幸福とは、その幸福が何であるか、私にとって本当に善いのか、なぜ善いのかが私自身に認識された幸福である。

ところで、私は自己として、つまりいろいろなことを欲求し行為しつつも、常にそのような自分自身の在り方を問い続ける実存として生きている。こういう自己として生きていること自体が、私のアイデンティティである。

このような私にとって、私がどういった善や幸福を追求しているかも、重要なアイデンティティであり、それ自体常に問い続けることは私のアイデンティティにとって相応しいのである。そして、それだけではなく、こうやって私にとっての善や幸福が何かを吟味する思考が、根本的で抽象的な問題について考えることが好きな私には快い。

したがって、私の幸福に関する快楽主義:

「私としての」幸福は、私にとって相応しいことに快楽を見出すことである

によれば、善や幸福が何かを吟味して得られる幸福は、「私として」はかなり幸福なことである。

私の幸福観について - 思考の断片

確かに、無為な思考に耽るより、社交なり、娯楽なり、他のことをしたほうが多くの快楽は得られるかもしれない。しかしそのような内省的でない快楽の価値は、上の快楽の価値には及ばないのである。

以上のように、私が、幸福を直接的に追求するよりも、幸福が何かを問うこと自体に幸福を見出すのは、私の実存主義的な幸福観によるものである。

死に寛容な幸福主義

1.常に幸福=善とは限らない

私の幸福観について - 思考の断片

上の記事では幸福が何であるかを定義してきたつもりである。この記事では、幸福がどういう場合に自分にとって善いものかを問題としたい。

こう言うと、幸福が善いのは当たり前のことだから、これは問いとして無意味でなのではないかと思う人もいるだろう。しかし、幸福であることと、自分にとって価値があることというのは、別の概念である。もし両者が一致するのなら、例えば次のような主張が語義矛盾になってしまうが、実際はそうではない:「私は確かに幸せだ、しかしこんな空虚な幸せは、私にとっては無価値だ」

したがって、どういう場合に幸福は善いのか、ということを問題にするのは無意味なことではない。私はそれをしようと思うのである。

 

2.幸福はどのような場合に善なのか

まず、道徳的に善い幸福や真正な幸福というのがあって、そういう幸福にしか価値は無いという立場がある。これによれば、例えば次のような幸福に価値はない。

1.悪人が、悪事を働くことに見出す幸福

2.映画マトリックスに出てくるような経験機械に与えられた幸福

1.に価値がないとするのは、道徳的価値と、本人にとっての価値を混同しているからだと考えられる。そのような幸福は不道徳だが、本人にとって善いものであることに変わりはない。むしろ、不道徳な幸福も本人に価値があるからこそ、ほんとうは価値が無いんだなどといって、不道徳な幸福の追求をやめさせることが道徳的に必要となるのである。

2.は、主観的な幸福感があるだけで、客観的な実態が伴わない例である。これに関しては、以下の記事で述べた理由から、自分自身にとっての価値は主観だけで決まり、従って2.の幸福にも価値があるとする立場をとる。要するに、私の主観から独立した客観的な世界の在り様などというものは確かめようがない、確かめようがないものに左右される幸福などというものを追求しても仕方がないではないか、という主張である。

生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

 

では、幸福は常に価値あるものなのだろうか。私はそうは思わない。次のような幸福に価値は無いと考えるからだ。

・私が明日死ぬとした場合、仮に明日以降生きていれば得られたであろう幸福

なぜなら、明日以降の幸福は、明日以降生きる私がいるから必要なのであって、いなければ不要であるからである。不要なものに価値は無い。

 

対して不幸はどうだろうか。

・私が明日死ぬとした場合、仮に明日以降生きていれば被ったであろう不幸

幸福と同様、明日以降の不幸は、明日以降生きる私がいるから避けるべきものなのであって、いなければ避ける必要もないといえるだろうか。

もし不幸の程度が低ければ、そういえるかもしれない。しかし、たとえば極めて大きい病苦のような重大な不幸の場合、かりに私が明日死ぬとした場合も、明日以降の不幸を避けられてよかった、とは言えないだろうか。

 

3.死に寛容な幸福主義

私の立場は次のとおり定式化される。

CE:実際は私が時点tまで生きることになるにも関わらず、私が時点t以降も生きる仮想的な人生の幸福や不幸の価値を考えるとしよう。そのとき、幸福や一定水準U以下の不幸は、時点tまでのものにしか価値はないのに対して、一定水準U以上の不幸は時点t以降のものにも負の価値がある。

あるいは次の通り言い換えられる。

CE':T>tとする。仮に私が時点Tまで生きた場合の人生の幸福(一定水準U以下の不幸)の価値は、もし私が実際には時点tまでしか生きないならば、時点0から(Tでなく)tまでの幸福度(不幸度)の総和である。対して、一定水準U以上の不幸の負の価値は、時点0からTまでの不幸度の総和である。

 

 

つまり、ある仮想的な人生の善さを計る場合、実際にいつの時点で死ぬことになるかによって、尺度が変わるのである。

しかしそうなると、例えば50歳で死ぬ人生と、80歳で死ぬ人生のどちらがいいか、直接は比較できなくなる。前者を基準にすれば、50歳までの幸福にしか価値がないのに対して、後者を基準にすれば80歳までの幸福に価値があり、計る尺度が違うからだ。結局どちらがいいのだろうか。

私は、50歳と80歳どちらを基準にしても、50歳の人生がより善い場合のみ、50歳で死ぬ人生は80歳で死ぬ人生より善い(逆も同様)と考える。だから、50歳と80歳までの人生のどちらも善くはないこともあると考える。

 

この帰結はどういうものだろうか。まず、もし時点tで私が死ぬことになる場合、それは時点t以後も生き続けて幸福を得ることに比べてほとんど(※)悪くはないと言える。なぜなら、私が死ぬ時点t以後に得られたであろう幸福に価値は無いから、生き続けたところで生涯全体の幸福の価値は増えないからである。

したがって、時点t以後も生き続けることは、時点tで死ぬよりほとんど良くはない。

※ほとんど、と言ったのは、時点tで死ぬ場合は、生き続ける場合に比べて、時点t直前に、死ぬことによる不幸を被るからである。しかし、生き続けて後に死ぬ場合も、いずれ同様の不幸は被り、この不幸はUを上回ると思うため、幸福とは異なりカウントされるものと考える。だから、やはりほとんど悪くない。

 

次に、時点tより前の時点sで死ぬ場合は(一定水準U以上の)不幸が減ると仮定しよう。その場合、もし時点tで私が死ぬことになる場合、不幸が減るため、時点tで死ぬよりも時点sに死んだほうが望ましいということになる。もし時点sで私が死ぬことになる場合も、一定水準U以上の不幸が減るため、時点tで死ぬよりも時点sに死んだほうが望ましい。

したがって、時点tよりも早いsで死んでしまったほうが善いのである。

 

 

以上より、時点tより長生きすべき理由はほんのわずかであるのに対し、正の確率で一定水準U以上の不幸が予測される場合は時点tより早く死んだほうがいいと言える。つまり早い死はほとんど無害であるだけでなく、時々有益なこともあるのである。これは、死に寛容かつ友好的な幸福主義だと言えるだろう。

 

 では、なぜ私が早く死んでしまわないかと問われるだろう。私がまだ自殺をしないわけは三つある。

1.ひとつは、一定水準U以上の不幸を経験する可能性が低いか、不幸を経験する前に自殺を選択できる可能性が高いと考えているためである。例えば、拷問や重大な事故により耐えがたい苦痛を被る可能性は、きわめて小さいだろう。病気の末期に苦痛を被ることは確率としては高いが、先に自殺をすることで避けることが可能である。

2.また、自殺をする場合も、断末魔の苦しみや、すぐ死んでしまうという恐怖がある。死ぬ苦しみはいつ自殺しようと同じかもしれないが、後者の恐怖は年齢とともにある程度克服できるのではないかと考えている。自殺を先延ばしにすることで、自殺そのものによる(一定水準Uを超える)不幸を軽減できるのではないかと思っている。

3.最後は、利「今」的な不合理性である。今すぐ死んだほうが、時間を通じた連続体である「私」のためにはなるかもしれないが、今すぐ死ぬことによる苦痛は、今の私の不利益になる。今の私も、「私」全体の利益を考慮はするものの、やはり今の私の利益を最優先してしまうものである。結果として、自殺が「私」のためであっても、今の私のために延命してしまっていると考えられる。

 

結果として、本来私は今すぐ死ぬのが合理的であるにもかかわらず、60歳くらいまでだらだら生き続けてしまうのではないかと考えている。したがって、60歳までの幸福を最大化することが、不合理性を踏まえたうえで、私にとって最善であると言える。

 

4.まとめ

私の幸福主義は、内容によらず幸福は善であるとしつつも、早死にによる幸福の機会損失に価値は無いが、一定水準以上の不幸の機会利益に価値はあるという立場である。これは早死には損にはならないが、得になることはあると主張する点で、死に親和的である。にもかかわらず私が早く死なないのは、結局は、今を優先する私の不合理性ゆえである。

私の幸福観について

この記事では、私自身がどのような幸福観を持ち、追求してるかを吟味していきたい。

 

1.幸福に関するアトミズム

まず、私は幸福についてアトミズムを取る。

  

(以下、命題の意味を太字で、数学的な定式化を斜体字で括弧書きするが、読むのは太字だけでよい。)

ATH:人生全体を通じた幸福は、各時点の瞬間的な幸福度の総和である。

 

「人生全体を通じた幸福Hは、人生の各時点tにおける幸福度Htの総和である。(H=∫Htdt)」

 

これに対して同意しない人もいるだろう。典型的な反論は次のとおりである。この反論は幸福の総和だけではなく、幸福の増減も重要ではないかという指摘である。

反論:生まれて死ぬまで徐々に幸福度があがる人生Uと、丁度線対称に、生まれて死ぬまで徐々に幸福度が下がる人生Dがあるとする。人生全体を通じた幸福は、前者Uのほうが後者Dよりも高いと考える人が多い。しかし幸福に関するアトミズムによれば、人生UとDの幸福は同じである。

 

これに対しては、次の通り反論したい。まず、次のいずれかが成り立つだろう。

①私が各時点tで、幸福が徐々に上がるまたは下がること自体に対して、さらに幸福や不幸を感じる場合

②全く感じない場合

①の場合、UとDは幸福度に関して対称ではなくなり、Uにおける幸福の総和は、Dの総和よりも大きくなるだろう。したがって幸福に関するアトミズムをとっても、人生全体を通じた幸福はUのほうがDよりも大きくなる。

次に②の場合、確かにUとDは幸福度に関して対称だろう。しかし、この場合人生全体を通じた幸福に関して、UのほうがDよりも上だと考える理由があるだろうか。徐々に幸せまたは不幸になること自体にどの時点においても幸福も不幸も感じないのであれば、幸福に関してどちらも同じではないだろうか。

ゆえに、①、②のいずれの場合でも、幸福に関するアトミズムは反駁されないのである。

 

2.態度快楽主義

では、幸福に関するアトム、つまり時点tにおける私の幸福度はどう決まるのだろうか。これに関して私は態度快楽主義を取る。

 

IAH:各時点の幸福度は、各時点の私が様々な事実に対して抱く快楽や苦痛の度合いを総和した値である。

 

「人生の時点tにおける幸福度Htは、時点tの私が持つ信念Wtによって、時点tの私が抱く快楽や苦痛の度合いPt(Wt)である。1.のATHと2.のIAHを合わせると、H=∫Pt(Wt)dtである。

・信念Wtとは、時点tで私が正しいと考える、過去から未来にわたる諸事実に対する確信である。私は、それぞれの事実が成立することに対して、そして事実が成立するという確信によって、快楽や苦痛を抱くのである。」

 

1.のATHと2.のIAHを合わせた幸福観を、 以後「幸福に関する快楽主義」と呼ぶことにする。

 

ここでいくつか注意したい。

・私が問題とする快楽や苦痛は態度的なもの、つまりある事実に対して抱く快楽または苦痛であり、感覚的な快楽や苦痛ではない。感覚はそれだけでは善悪ではなく、感覚を感じていることに対して快楽や苦痛を態度として抱いて初めて善悪なのである。この態度的な快楽や苦痛は非常に広範な概念である。私は、感覚だけではなく、自身の人生に対する全般的事実(例えば、1.のように、自分が次第に幸福や不幸になりつつあること)に対しても快楽や苦痛を抱くことが出来る。また、自己の在り様(アイデンティティ)に対する誇りや苦悩も、態度的快楽や苦痛の一種だと考えられるだろう。

 

・態度的な快楽や苦痛は、客観的な事実に対するものであるが、主観的な信念に依存するものである。例えば、周りに好かれることに対して私は快楽を見出すが、この快楽は周りから好かれると私に「確信」されることに対するものではなく、実際に周りに好かれることに対する快楽である。しかし、実際に好かれていようと好かれていまいと、私が好かれていると信じてさえいれば、この快楽に変わりはないのである。

 したがって、幸福に関する快楽主義は、主観的な心的状態で幸福が決まるとする、幸福に関するmental state theoryである。

(参考)生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

 

・対象のない快楽や苦痛にも善し悪しがあると反論されるかもしれない。しかしそれらを善きものたらしめているのは、やはりそれらの状態に対して抱く高次の態度的快楽や苦痛である。

 

・以上は私の独創ではなく、哲学者Fred Feldmanの立場を私なりに表現しなおしたものである。

 

3.幸福に関する快楽主義の問題点

幸福に関する快楽主義はシンプルでわかりやすい。しかし、次に述べる有力な反論がある。

・ある人が事故で脳に大きな障害を負い、精神状態が幼児まで退行してしまったとする。だが、その後生涯を通じて、周囲の人に世話をされることに対して、快楽(幸福感)を感じられたとする。幸福に関する快楽主義によれば、彼はかなり幸せな人生を送ったことになる。しかし、我々は彼を羨ましいとも思わないし、彼のようになりたいとも思わない。彼は果たして本当に幸福なのだろうか。

 

この反論は大変説得的である。しかし私は、彼はあくまでも幸福だが、その幸福は、事故に遭う前の私の追求するものではない、と答える。どういうことだろうか。

まず、なぜ私は彼のようになりたくないかを考えてみよう。私が彼と同様の事故にあったとする。事故にあったあとの私iは確かに「幼児同然の私iとしては」幸福ではある。このことに異議を挟む人はいないだろう。しかし、「事故に遭う前の私pとしては」、事故に遭った後の幼児的な幸福は、求めるに相応しい幸福ではないのである。つまり、事故に遭う前と後で幸福の基準が違うのである。事故に遭う前の我々pは前者の幸福を求めるが、事故に遭うことで得られる幸福は後者の幸福だから、後者のようにはなりたくないと思うのである。

では、事故に遭う前の私pとしての幸福と、事故に遭った後の幼児同然の私iとしての幸福はそれぞれどのように定義され、どう違うのだろうか。

 

4.相応性-補正型-態度快楽主義

 私が2.で定義した幸福に関する快楽主義では、快楽を抱く対象の事実が異なっても、等しい量の快楽は、等しい幸福につながる。しかし、これは本当だろうか。

先の例でいうと、私と別人格と化した幼児iとしてお世話をされることに対して1の快楽を抱くことは、私pの好きな趣味に対して1の快楽を抱くことと同じくらい幸せなのだろうか。そうは思えない。なぜなら、前者の快楽は別人格の幼児iに相応しいものであるのに対して、後者の快楽こそが私pに相応しいものだからである。ただ快楽があるだけではなく、それが私という人格にとって快楽として相応しいことも、幸福の要件ではないだろうか。

 

以上は次のように定式化される。

EDAIAH:各時点の「私」としての幸福度は、各時点の私が様々な事実に対して抱く快楽や苦痛の度合いに、それら事実に「私」が快楽や苦痛を抱くことがどれだけ相応しいかという度合いを乗じたものを、総和した値である。

 

「人生の時点tにおける「私pとしての」幸福度Hp,tは、時点tの私が、tにおける信念Wtによって抱く快楽や苦痛の度合いに、私の人格pにとって、「信念Wtの対象の事実」に対して快楽または苦痛を抱くのがどれだけふさわしいかという度合いDp(Wt,Pt(Wt))を乗じた値である。2.と同じ表記を用いると、Hp,t=Pt(Wt) × Dp(Wt,Pt(Wt))、Hp=∫Pt(Wt) × Dp(Wt,Pt(Wt))dtである。」

 

 

 この補正された快楽主義を取れば、なぜ脳に障害を受けて幼児i同然の幸福に浸ることが、障害を受ける前の私pとして幸せではないかの説明がつく。障害を受ける前の私としての幸福Hpにおいては、幼児同然の快楽の寄与が私pにとって相応しくないため低くカウントされるからである。対して、障害を受けた後の私としての幸福Hiにおいては、その同じ快楽が高くカウントされる。

そして、この私pとしての幸福Hpこそが、私pが追求する幸福である。私はあくまで私自身pとして幸せになりたいのであり、別人iとしては幸せになりたくないのである。

 

では、そもそも、私の人格pにとって、ある事実に快苦を抱くのが相応しいとはどういうことだろうか。それはある事実に快楽(苦痛)を抱くことが、私の抱くアイデンティティpに適っていることである。私個人の例で述べると、このように無為な思索に価値を置き、労働を否定するのが私のアイデンティティであると私自身は考えている。したがって、思索に見出す快楽は私に相応しいし、労働に見出す苦痛も私には相応しいだろう、したがってそれら快楽や苦痛には重い価値がある。対して、私は社交家ではなくどちらかといえば勉強家なので、社交による快楽は私にはさほど相応しくないし、勉強により苦痛を感じることも相応しくない。これらの快楽や苦痛には軽い価値しかないのである。つまり、快楽や苦痛の重みは、快苦を見出す事実の内容と私のアイデンティティの関係に依存するのである。

※なお、幼児iのように、自己意識がなく、アイデンティティが無い場合は、全ての快楽や苦痛が「無差別に相応しい」と定義しておく。実際、彼には、全ての快楽は無条件で幸福であり、苦痛は無条件で不幸だからだ。

 

ここで注意すべきは、私にとって、ある事実が快楽や苦痛を感じるに相応しいか否かは、どういう内容に対して快苦を感じるかということと、私自身をどういう人物と考えるかという主観によって完全に決まるということである。だから、これは同じ「相応しさ」でも、例えば道徳的な相応しさや、人間という種としての相応しさとは全く異なる概念である。

(誰かを拷問することに快楽を感じることは、私がどう考えるのかに関係なく客観的に、道徳的に相応しくない。また、豚のように泥にまみれて戯れることに快楽を感じることも、私の考えとは関係がなく、人間としては自然ではなく相応しくないのである。)

したがって、幸福に関する快楽主義を相応しさという概念を用いて変形したにもかかわらず、これが2.で述べた主観主義的な幸福観(mental state theory)であることに変わりはないのである。

 

 

5.一時点を基準とした幸福と、人生全体を通じた幸福の違い

4.では、私の人格pとしての幸福Hpを定義した。注意すべきは、人格pは生涯を通じて一定ではなく、あくまで今時点の私の人格に過ぎないことである。人格やアイデンティティは時間を通じて少しずつ変わるものだからだ。したがって、各時点tの私は、異なる時点の私を基準とした幸福Hp(t)を追求していることになる。

これら複数の幸福Hp(t)はそれぞれの時点tの私を基準とした別々の幸福なのだから、どれかが、時間を通じて自己同一な「私」にとっての幸福だとは言えないだろう。では、人生全体を通じた幸福はどう定義すればいいのだろうか。

 

私は、各時点tの私達を別々の人々と考え、功利主義的に全員の幸福を足し合わせて、全体の幸福を定義する以外にないと思う。各時点tの私が経験する幸福は、時点tの瞬間的な幸福のみである。よって、

 

UIAH:人生全体を通じた幸福は、各時点の「私としての」瞬間的な幸福度を総和した値である。

 

「人生全体を通じた幸福Hは、人生の各時点tにおける「私p(t)としての」幸福度Hp(t),tを時点tについて総和した値である。H=∫Hp(t),tdt =∫Pt(Wt) × Dp(t)(Wt,Pt(Wt))dt」

 

ここで定義した人生全体を通じた幸福Hは、どの時点の私が求める幸福Hp(t)でもないことに注意すべきである。どの時点でも追求されない幸福は、幸福と呼べるのかとも批判されよう。確かにこの幸福は実在しないかもしれないが、本来は一時点を基準としてしか存在しない幸福を、人生全体を通じてあえて定義した結果である。

私は、利己(今)主義者として、あくまで今の私が考える基準で、将来にわたる幸福Hp(t)を追求する。しかし、私が人生全体としてどれだけ幸せだったかを聞かれれば、Hと答えるしかないと思うのである。

 

※これは、社会全体の幸福を、どの個人が追求するわけでもなく、各個人はあくまで各々の幸福を追求することとまったくパラレルである。社会は幸福の主体ではなく、社会全体の幸福というのは社会の各構成員の幸福の形式的な総和にすぎない。時間を通じて自己同一な「私」というのも、厳密には幸福の主体ではなく、幸福の主体はあくまで各々の時間における私なのである。したがって、「私」の幸福も、各時点の私の幸福の形式的な総和としてしか定義できない。

 

では、3.で挙げた脳に損傷を受けた人の例において、人生全体を通じた幸福Hはどうなるだろうか。Hは各時点の幸福の総和なので、事故に遭う前まではHp、事故に遭った後はHiで計った値になる。したがって、事故に遭った後の幼児的な幸福は高く計られ、彼は事故に遭ってもあくまで幸福であるということになる。事故に遭った後の彼は、幼児iとして幸福であるだけではなく、人生全体として幸福なのである。

 

6.まとめ

幸福について私は快楽主義を取る。しかし、快楽の量だけが問題ではなく、快楽が私という人格にとって相応しいかも、幸福を決める重要な要素である。しかし、この私という人格自体が人生を通じて変わるものである以上、幸福そのものも基準が変わるものであり、同じ人生でも、どの時点の幸福観で見るかに応じて幸福度が変わってくる。そして、この中のどの時点で見た幸福が真の幸福かなどというのは意味をなさない。厳密には、人生全体を通じた幸福を定義しようとしても、それは形式的な総和としてしか定義できないのではないかと思う。

安楽死について

 自殺に対する世間の印象は悪い。自殺は迷惑だと考える人もいれば、自殺は本人のためにもよくないと考える人もいる。しかし、私は自殺が道徳的に容認される場合や、本人のためになる場合もあると考える。また、それでもなお自殺が非道徳的で、非合理的な場合も多いため、これら自殺の問題点を解決するため、世に言う積極的安楽死の制度を導入すべきだと考える。

 

1.自殺は本人にとって良い場合もある

 死ぬことは本人にとって悪いことだと考えられがちである。どんな死も葬式で悔やまれる。しかし、こういう世間の常識とは反して、どんな場合も生き続けたほうがいいとは限らない。臨床状態で苦に満ちた人生しか残されていない場合がそのいい例である。この例ほど極端ではないだろうが、自殺志願者について、生き続ける人生のほうが、今すぐ死ぬ人生よりも悪い可能性は原理的にありえるだけではなく、現実的にも多いのではないだろうか。

 確かに、生きることは無条件で常にいいことだ、という価値観も可能性としてはありうるだろう。そう考える人は、できる限り長く生きればいい。しかし、生きることがいいのは、人生の内容に正の価値がある場合だけである、という考え方もある。人生の内容は快楽や幸福などの良いものから、苦痛や不幸などの悪いものまで様々だが、後者が前者より多い可能性は理論的にだけではなく、現実的にも無視できない。こういう考え方をする人にとっては、幸福より多くの不幸を回避できるという理由で、死を選ぶことは本人にとっては良いことだといえるのではないだろうか。

 ただ、自殺志願者が、本当に自分が生き続けた場合、幸福と不幸のどちらが多いか、正確に比較できることはほとんどないだろう。正常な状態でもこれは困難であり、その大半は精神疾患を患っている自殺者の場合はなおさらである。自殺志願者は、過度に悲観的になって死を選ぶ傾向がある以上、死んだほうが自分にとっていいと考えていても、本当は死なないほうが良かった可能性があるからだ。だが、だからといって、本当に死んだほうが良かったという可能性が無くなるわけではない。

 

2.自殺の合理性 

 自殺が本人にとって本当は良くはないかもしれないという疑念が生じる理由の一つに、自殺の合理性に対する疑いがある。中でも良く指摘されるのが、死ぬことでどうなるかがわからないという点である。我々は普段、合理的に行為を選択する場合、どの行為が最善の結果をもたらすかに基づいて判断をしている。しかし生きるか自殺をするかを選択する場合、生きる結果はある程度予想がつくが、自殺した場合はどうなるかがわからない。したがって、自殺は日常的な意味で合理的だとは言えないのではないだろうか、という意見である。

 

①生き続けることの不合理性

 しかし、もし死がわからないとすれば、生き続けることも合理的とは言えなくなってしまう。生き続ける選択肢のことはわかっても、もう一つの選択肢である死が生と比較してどれくらい悪いことなのか、わからないからである。したがって、生きるという選択肢が最善かどうかも、死に劣らずわからないことなのである。自殺だけを、不合理であるという理由で批判することはできない。

 

②死後についての憶測に基づく合理性

 また、本当に死について何もわからないのだろうか。ノンレム睡眠を行うとき、我々の脳のほとんどが活動を休止する。このとき、我々に意識はないことを我々は知っている。死後にも我々の脳は休止どころか、分子レベルに分解されてしまう。したがって、死後には意識はないとある程度類推することはできないだろうか。

 こう信じる場合、死後の無意識と、生き続けた場合の人生を比較して、後者に負の価値がある時に自殺することは不合理ではないと思われる。もちろん上の類推が間違っている可能性は多分にある。しかし、日常的な判断も、仮に100%正しい情報に基づいて行われなくとも、合理的と言われる。

 例えば、天気予報で雨だと言われたからと言って、必ず雨が降る証拠にはならない。しかしその情報に基づいて傘を持っていくのは、確かに合理的なのである。自殺の場合も確度が違うだけで、合理的である点には違いがないのである。

※なお、以上の話は、仮に死後が無だと信じておらず、天国や地獄に行く、もしくは輪廻転生をする可能性があると信じている人の場合も同じである。彼は、それぞれのシナリオに対して主観確率を仮定し、シナリオの良し悪しとの積を合算した期待値が、生きる場合の期待値より高い場合に自殺をすればいいのである。

 

③たとえ不可知な死後があっても

 ②では、死後が無であることを前提に話を進めたが、私は、仮に死後があって、それが全く不可知だとしても自殺の合理性は揺るがないと思う。30歳で自殺するか、60歳の寿命まで生きるかに応じて、次の二つのパターンが考えられる。

・30歳で自殺する:30歳までの人生+死後1

・60歳の寿命まで生きる:30歳までの人生+30~60歳までの人生+死後2

 生きることによるメリット・デメリットを考えると、死後2の価値 - 死後1の価値 + 30~60歳までの人生の価値である。ここで、死後1と死後2のいずれについても、完全にわからないのだった。ならば、死後1の価値は死後2の価値の期待値と同じであると仮定していいだろう。(死後1が30年長いなどということも、知りようがない。死後は永遠かもしれないし、一律一定の期間かもしれないのである。)

 したがって、生きることのメリット・デメリットの期待値を取れば、30~60歳までの人生の価値の期待値が残る。ここで、もし、30~60歳の人生の価値の期待値が負ならば、つまり生きるに値しない可能性が高いならば、生きることによってデメリットを被る可能性が高いことになる。不可知な死後があるとしても、生前の利害にもとづき、自殺を合理的に選択することは可能なのである。

 

 もちろん、全ての自殺が、②や③に述べたような、死後に関する合理的な計算に基づいて行われているとは限らない。衝動的に自殺をする人や、精神疾患が原因で自殺をする人も多いだろう。ただ、すべての自殺が非合理的なわけではないことは示せたと思う。

 

3.自殺が道徳的に容認される場合もある

自殺はいくつかの理由で不道徳だと言われる。

 

①自殺はエゴだ

 まず、自殺は他者の悲しみや社会に与える損害を考えないエゴだと批判されることが多い。確かに自殺は利己的動機からなされることが多い行為である。しかし、エゴという点では、止めようとするほうも等しくエゴである。自殺が本人のためになる場合、道徳的な人であれば本人のために自殺を望むはずである。にもかかわらず、自分が悲しいから自殺を止めるというのも同じく、本人の死にたいという意向を軽視するエゴではないだろうか。しかし、自殺を止めることは批判されることはない。エゴだからというだけでは、批判する理由にはならないのである。

 

②命を粗末にするな

 次に、ある人の命には道徳的価値があり、自殺はそれを損なうから悪いことだという意見がある。

 ではそもそも、ある人の命そのものに道徳的価値があるのはなぜだろうか。私は、命が本人や家族にとって大切だからと言いたい。

これに対しては、次のように反論されるかもしれない。例えば、(ある人の有する)自由や人権といった抽象的な理念には、その人自身が大切に思おうと思うまいと、重んじられるべき価値がある。「いのち」という理念についても同様ではないだろうかと。

 しかし、命は人権や自由といった作り物の理念ではなく、リアルな具体物でもある。ある人の命は、「いのち」などという理念を措定するまでもなく、確かに実在しているからだ。そして自殺でなくなるものは抽象的な「いのち」ではなく、この具体的な命である。ある人が自殺するかということは、「いのち」の尊厳がどうのこうのという抽象的な話ではなく、その人の日々の営みが終わるか終わらないかという、大変リアルで深刻な問題なのである。

 以上より、命としては「いのち」という理念ではなく、具体的な命を問題にすべきである。さて、命に限らず、具体物に道徳的価値があるのは、かならず誰かにとって価値があるからである。誰にとっての価値もない具体物には、守るべき道徳的理由がないためである。

 ある人の命に道徳的価値があるのも、やはり本人や家族にとってそれが大切だからだろう。決して、命に道徳的価値があるから、命ある人が自らの命を大切にすべきなのではない。もしそうだとしたら、我々は命の価値の主人よりも奴隷になってしまうだろう。命ある人がその命を大切にするからこそ、命に道徳的な価値があるのである。

 もし、命ある人にとって自らの命が重荷であり、かつ家族にとって命を支えるのが重荷である場合、命は道徳的に価値があるどころか、ないほうがいいものである。

 

③命はあなただけのものじゃない

 以上の考え方に対して、本人以外に社会の観点も必要ではないかという意見もあるだろう。例えば、命や身体は自己だけではなく、同時に社会も所有していて、本人の意思では勝手に処分していいものではないという意見がある。

私は、仮に一般論として社会が個人の命を所有するという前提を認めるとしても、社会は自殺志願者に対しては例外的にその所有権を主張できないと思う。なぜだろうか。

 社会が個人の命や身体を所有する場合、個人が最低限度の尊厳を持った人生を歩めるよう、保護する責任を負うはずだ。それは、ちょうど飼い主がペットを所有するとき、同時にペットを保護する責任が生じるのと同様である。もし、ペットが最低限度の尊厳も保てないようであれば、飼い主は所有権をはく奪されてしかるべきだろう。同様に、生きていたいと思える程度の最低限の尊厳も、社会が個人に対して保障できないならば、社会はその個人に対して所有権を主張することはできないはずだ。

 もし社会が個人に対して所有権を主張できない場合、個人は自己の命に対して所有権を主張してもいいはずだ。その場合彼は、自己の命を守る権利だけではなく、放棄する権利も主張できるだろう。

 

④自殺は社会や家族に迷惑だ

 最後に、自殺が経済的な負担や心理的な苦痛を、他者(とくに家族)に与えるという意見もある。しかし、生き続けたほうが社会や家族ともに大量の医療費がかかり、家族には心労がかかるといった場合もある。その場合、自殺をしたほうが心理的にも経済的にも、周りにかかるコストが少ないだろう。それ以外の場合でも、生きる苦が、周囲の悲しみや社会の損失を上回る場合は、功利主義の立場をとれば、自殺は正当化可能であるように思われる。

 

4.現行の自殺の問題点

以上の主張にも関わらず、現行の個人的な自殺には問題点がある。

 まず、鬱や衝動により、まだまだ合理的に行われていない自殺も多く、本当は本人のためにならない自殺も多いと考えられる。彼らには、冷静に考える機会や相談相手が必要だろう。

 他方で、逆に自殺をしたほうがいいのに、自殺に踏み切れない人たちもおり、彼らにとっては自殺という手段が不十分である。彼らには最小限の苦痛や心理的な抵抗で自殺ができる手段が必要である。

 また、どんな手段を取っても、自殺は周囲に迷惑をかけることが多い。電車飛び込みや高所からの飛び降りはもちろん、首つり自殺であっても、処分費用や不動産価値の下落など、かなりの手間とコストを周囲に強いる。彼らには、できるだけ周囲への負担が少ない自殺の手段が必要である。

 

5.積極的安楽死について

3.の問題点等を解消するために、私は下記の積極的安楽死を導入すべきだと考える。

 流れとしては、まず本人がカウンセラーや家族に対して希死念慮を表明する。カウンセラーは別の選択肢を提示し、家族は希死念慮をなくすサポートを行う。また、家族と本人の間で互いの気持ちを理解するためのコミュニケーションを十分にとる。それでもなお、一定期間後なお継続的に死にたい意思がある場合、医師が薬物投与して安楽死させるというものである。ただし、次の条件をつける。

 まず、社会へ与えるコストや機会損失の対価として、数百万程度の料金や、臓器ドナーの義務を課す。あと、当然犯罪者や債務を抱えた人は利用不可とする。

 また、安楽死を幇助する医師は決して強制されず、自由意志で行うべきである。(志願者がいない場合は制度を凍結すべきである)

 

6.積極的安楽死のメリット

上記の積極的安楽死には確かなメリットがあると思われる。

 まず、カウンセラーや家族と相談し、自己の気持ちや考えを整理したり他者の考えを聞くことにより、非合理的な自殺を減らせる。

 さらに、自殺のハードルが下がり、以前は苦しみながらも死ねなかった人も、手軽に死ぬことができ、苦痛を回避できるようになる。それだけではない。これにより、死にたい理由の一つであった、苦しくてもすぐ死ねないことに対する苦痛が解消される。二重の意味で、希死念慮を抱く人の苦痛は減るのである。

 最後に、自殺場所の管理ができるうえ、死体の処置が楽になり、社会的なコストが最小限で済む。

 

7.積極的安楽死合法化に対する反論と再反論

以上に述べたメリットにも関わらず、積極的安楽死を導入すべきだとする意見にはいくつかの反論が考えられる。

 まず、いくら社会的なコストが減っても家族等の悲しみはなくならない(それゆえに道徳的に正当化されない)という点がある。確かにそのとおりである。しかし自殺したい本人の気持ちを家族がくみ取り、自殺したほうが本人のためになることがわかれば、少しでも悲しみは軽減されるのではないだろうか。それでもなお、自殺志願者が死ぬのが悲しいのならば、心理的なケアや金銭的な援助を行う等、なにがなんでも自殺させない手だてを家族等は取るはずである。

※以上にも関わらず、やはり家族の悲しみはなくならないだろう。しかし、死ぬ人にとって、積極的安楽死は自殺の代替なのだから、その是非を考える際は、死なない場合に比べて安楽死がどれだけ悪いかではなく、自殺する場合と比べて安楽死がどれだけマシか、を考えるべきである。少なくとも自殺に比べれば、家族の悲しみは軽減されることは間違いはないのである。

 次に自殺のハードルが下がることにより死ぬ人が増えるという懸念が考えられる。しかし、仮に死ぬ人が増えたとしても、それが必ずしも悪いこととは限らない。死んだほうがその人のためになるような人もたくさんいるのである。また、苦しくてもすぐ死ねないことに対する苦痛が解消されることで、希死念慮が弱まるという効果もあると考えられるため、自殺も加えた死亡者数は全体として減る可能性もある。

 最後に、本当は死にたくない人が、社会的な圧力等により事実上死を選択させられる可能性を懸念する人が多い。これに対しては、カウンセリングで、患者自身が家族や社会の負担になっていると感じているかについても調査を行い、該当する場合は本人の意思に関わらず安楽死を控える等の配慮が可能である。

 このような配慮を行っても、まだ不十分だといわれるかもしれない。私は、ここまで配慮して、かりに死にたくない人が死を選ばざるを得ないという弊害が万が一生じても、それは死にたいけれども死ねない人が多数存在する現在の弊害よりは、軽いものだと考える。

実際、安楽死の選択肢のない現状では、生きたくないけれども、自殺の周囲への迷惑を考えたり、自身で自殺をするほどの精神的・身体的余力がなく、生を選択せざるをえない人がいる。生きたいという意思のみを尊重するばかりに、安楽死制度に反対し、そのために生きたくないという意思が犠牲にされている現状を肯定するのは不当である。

 

8.まとめ

 自殺が本人にとって良く、道徳的にも容認される場合はある。しかしそれでも、現行の自殺は非合理的で不道徳な場合も多い点は否めない。ただ、上に述べたとおり、積極的安楽死という制度で自殺という手段を補完することで、その非合理性や不道徳性の大部分は軽減できると思う。もちろん、積極的安楽死は悪用される懸念がある以上、運用は慎重に行うべきだと思うが、この制度は、そのリスクを補ってあまりある利益を、希死念慮を抱く人および社会全体に与えるものだと思う。

 今の日本では、生きたいという意思や権利が神聖不可侵として扱われている。もちろんこれは重要である。生きている限り、生きたいという根源的な利害は尊重されてしかるべきである。しかし、死にたいという意思も、生そのものに関わる以上、生きたいという意思に劣らず根源的で尊重されてしかるべきではないだろうか。

思考の節約について

1.思考は私にとって快楽である

世の人には、思考が嫌いな人も多いようである。彼らは思考をもっぱら日常生活に成果を還元するための手段とみなすようである。対して、私は思考すること自体が好きであり、思考で得られる結果とは関係なくその過程が好きなのである。

 思考といってもいろいろある。一つのことについて多くの事柄を考える個別的な思考もあれば、多くのことについて普遍的なことを考える哲学的な思考もある。限られたことについて、いろいろなことが言えるのは当たり前である。対して、多くのことについて同じことが言えるのは非自明で驚くべきことである。したがって、私は後者の思考をすることに対してより大きな満足や達成感を抱くようである。

 

2.思考の希少性

 しかし、社会人である私が思考に使うことのできる時間は限られている。私の人生はせいぜい80年しかなく、その大部分が労働に占められている。余暇に恵まれている時ですら、思考が回る時間はわずかしかない。また、思考に使えるハードウェア、知能や素養や(ワーキング)メモリや記憶も、全てがきわめて限られていて、希少である。

 以上に述べた思考のリソースの制約にもかかわらず、私が思考すべき世界はあまりに多くの物事で溢れている。我々の世界は、ただですら取り留めがないほど莫大なのに、日を追うごとに新しい物事がどんどん追加されていく。日々押し寄せる新しい事実の荒波に、圧倒されんばかりである。

 それでもなお、世界全体について十分に考えるには、思考の節約が必要となるだろう。思考の節約とは、出来るだけ少ない思考のリソースで、出来るだけ多くの事実を考えることである。

 

3.思考の節約の例

 例えば、多様な事物を一つの概念で把握することが思考の節約術の一つである。我々一人ひとりを人間という概念でまとめて把握することがあるだろう。これにより、例えば私の足が二本あり、あなたの足が二本あり…という無数の命題を、人間の足は二本である、という一言でまとめて考えることが出来る。抽象化は、時間、能力やメモリーの観点から考えて、極めて有効な思考の節約である。

 また、多数の命題を一つの原理から演繹的に説明することや、多数の概念を一つの概念で定義することも思考の節約になる。例えば、ニュートン万有引力を発見する以前は、アリストテレスの伝統にしたがい、恒星の運動と地球の重力による自由落下は別の原理によるものとされていた。しかしニュートン万有引力という共通の原理で両者を説明した。これ自体が偉大な発見であるが、思考の節約という観点から見ても、従来は別々の原理を念頭に置かなければ理解できなかったものが、一つの統一的原理を知れば説明できるようになったのだから、メモリーや記憶の節約となり、大きな進歩であるといえる。多種多様な概念を一つの概念を用いて定義するというのも、念頭に置くべき要素を減らすことができ、より思考がシンプルになるという点で思考の(メモリーの)節約であるといえるだろう。

 

4.思考の節約のデメリット

 しかし、思考の節約は時に思考の正しさや細かさを犠牲にする。例えば、先の例で挙げた「人間の足は二本である」という言い方をしてしまっては、足を失った障碍者について誤りをおかすことになる。我々一人一人を人間という一般概念で代表させることは、思考の効率と引き換えに精度を犠牲にしているのである。

 思考の節約とは、一種の近似である。必ずしもすべてに当てはまるとは限らない概念を用い、原理を仮定することで、思考を簡便にする近似式のようなものなのである。数学で近似を用いるときは、いつも誤差がどれくらいの範囲に収まるか評価するものである。思考の節約においても、近似化の粗さには常に自覚的であり、粗が目立つようであれば近似式を見直す用意がなければならない。間違っても、近似式に現実を当てはめようとする誤謬は犯してはならないのである。

 思考の節約による近似で特に見過ごされがちなのは、細部に宿る違いである。美学ではこれが致命的になる、建築家の残した、神は細部に宿り給う、という格言のとおりである。思考の節約は、どのような分野でも有効であるとは限らない。

 

5.思考の節約の重要性

 ただ、我々のいかなる思考も言葉を使う以上、ある程度の一般化は免れない。どんな思考も100%正しいということはありえず、いくばくかの単純化・近似化を含む。思考の節約は何も特別なことではなく、程度問題なのである。扱う事物の性質によって、つまり細部が重要なのか、それとも細部は非本質的で大枠が重要なのかに応じて、近似の度合いを変えることが必要であるといえるだろう。

 また、思考の節約を行うからと言って、思考の正しさや精度を追求することをずっと怠るわけではない。簡便な方法で物事について一通り考えてから、余った思考のリソースを後から理論の改善に充てることも出来るのである。最初から正しく細かい思考を心掛けるよりも、最初は簡便で近似的な理論を措定してから、徐々に改善・洗練させていくほうが思考を網羅的に、そして効率的に行うことができるのである。

 以上より、思考の節約にはデメリットはあれ、余りある多大な効用があること、そして我々がすでに日常的に行っていることが示せたと思う。私は積極的に、しかし自覚的かつ注意深く思考の節約を活用していこうと思っている。

 

6.思考の節約の実践

 ではいかなる方法で思考の節約を行おうか。私は、例で挙げたような、演繹的な説明が出来る理論体系をこしらえることで思考の節約を行いたいと思う。演繹という一から多を説明する操作は、思考力は消費するものの、記憶力やメモリーの節約になる。しかも、この理論は極力登場する基本概念が少なく、明晰であるのが望ましい。これは、複雑な思考を避けるためである。先ほど述べたように、もちろん世界はそんな単純ではない。数少ない概念と仮定からすべてを説明するのは無理があるだろう。

 それでも、そういう世界の多様性や複雑性を、単一な原理や概念を用いて明晰に説明しようとしてこそ、(思考の節約になるのみならず)知的な価値があると私は考えている。もともと世界が多であるのは当たり前なのである。それをいかにまとめて説明するかという点でこそ、我々の知性は試されているのではなかろうか。

 また、多様性が単一な原理や概念で説明されるということは、美しくもあると思う。多様な自然界が、一つの波動方程式で説明されるということや、少数の公理から、数々の非自明な定理が導出されるのは、それ自体が美しい奇跡ではなかろうか。

 以上より、思考の節約という観点以外からも、私が目指すところは価値あるものであるように思われる。世の人は正しいことが真理だと考えているようだが、私に言わせれば理論性、シンプルさ、明晰さも、正しさや深遠さに劣らず真理の価値に寄与するものなのである。

 

独我論と他者実在論はいかに両立するか

独我論と他者実在論、利己主義と道徳性はしばしば対立するものだと考えられている。しかし私の中では、それぞれが異なるレベルで両立している。それがいかに可能かを以下で説明したい。

1.素朴独我論

全ての実在は経験である。例えば、知覚はもちろん、認識、想像、感情、思考などの精神的活動、およびこれらの対象(客観、イメージ、好き嫌い、命題、言葉)全てが経験である。経験は意識と言い換えてもいい、しかし意識する主体、つまり私は経験されず、ただ意識されるものだけがあるのである。

これだけならば、この(私の)意識がすべてであるという素朴独我論が成り立つ。しかしこの素朴独我論の世界には、他者どころか、それと対比される私という概念すら居場所がない。私は、確かに私は素朴独我論は正しいと思うが、世界がそれだけしかないのは不満である。そんな貧相な世界の中で完結して生きていたくはないのである。したがって、私は以下に述べる類推により世界を拡大したくなる。

 

2.身体と経験の対応関係

よく注意してみると、経験の中でも、特殊な経験がある。身体、それものちに「私の」身体と呼ぶ唯一のものに関する認識がそれである。それはどういう点で特殊なのだろうか。

たとえばそこらへんの石ころが真っ二つに割れたとする。それでも、石ころに関する知覚の経験が少し変わるだけで、ほかの経験に何の影響もないだろう。それに対して、この身体、例えば手が少しでも傷つくだけで、痛いという強い経験が引き起こされる。手の機能が停止するほど傷ついたら、手を通じて得られていた知覚経験そのものが無くなってしまうだろう。さらに類推すると、身体活動が停止してしまえば、この経験の全体もすっぽり消えてしまうと考えられる。

経験の一部をなすに過ぎないこの身体(特に脳)の活動が、経験の全体に対応している。こんな不思議なことがあるだろうか。しかもそれだけではない、外から見ればこの身体とほぼ同じ構造、機能をしている他の身体が無数にあるのだ。

 

3.他者の措定

もしこの経験がこの身体に対応しているのならば、他の身体に対応する別個の「経験」があると類推することができる。この経験を私の経験、別個の経験を他者の「経験」と呼ぶ。

経験について - 思考の断片

上の記事で説明したとおり、この他者の「経験」は確かに経験ではない。言うまでもなく、他人が感じたり、考えることをそのまま知ることはできないし、そのような精神活動の主体としての他人そのものも認識できないからだ。

私の独我論について - 思考の断片

しかし、この記事に述べたように、他者を尊重するような人間関係の中で生きたい私には、この他者の「経験」というのはどうしてもなくてはならない要請なのである。もし他者に「経験」が無ければ、他者は石ころ同然のモノ、単なる身体にすぎないだろう。そんなたかがモノとの関係では私は満足しないのである。

それゆえに、無いはずの他者の「経験」を私は経験として在るかのごとく措定する。それは命題として『他者の「経験」が存在する』ことが正しいと信じることではない、態度として他者の「経験」があるかのごとく、振る舞うことである。

他者の「経験」があるかのごとく振る舞うとはどういうことなのか、説明しよう。まず、他者不在の時の私はどのように振る舞うだろうか。他者がいないとなると我々は自分内部の経験だけを考えて行動するはずである、つまり自分の経験で自分にとって善いものを追求し、悪いものを忌避する。例えば喉が渇いていると、私の渇きが癒えるという善い事態を引き起こすため、水を飲みに行くという行為を取る。

しかし、もし他者の「経験」があると考えれば、私の経験以外に、他者の「経験」でも、私にとって善いものと悪いものがあるはずである。例えば、大切な人が苦しむという他者の「経験」は私にとっても悪いものだから、大切な人に協力してその事態を避けようとするだろう。逆に憎い人が苦しむという他者の「経験」は私にとって善いものだから、それを引き起こすように意地悪をするかもしれない。

つまり、他者の「経験」があるかの如く振る舞うとは、その「経験」を私にとっての善として追求したり、悪として忌避する態度のことを言う(※)のである。

 

※ある事態を善いものとして追求することが合理的であるためには、その事態がある(ありうる)と信じていなければならないだろう。例えば、幸せになりようもないと分かっているのに、意識のないロボットに、幸せになってもらうよう努力するのは全くの不合理なのである。他者の「経験」が「ある」かの如く…という場合の「ある」は、倫理的実践の前提となる信念なのである。

 

 

4.道徳の成立

私の経験が私にとっての善悪を持つならば、他者の「経験」が他者自身にとっての善悪も持つと考えるのが自然だろう。善悪も経験同様、私にとっての善悪と、他者にとっての「善悪」の二種類があり、後者は厳密には経験とは言えないものである。しかし、後者の「善悪」を全く無いものとして無視することは、私にはできない。それは完全に冷酷なエゴイスト、非人間にしかできない所業であろう。

他者にとっての「善悪」を、あたかも自分にとっての善悪であるかのように追求もしくは忌避する態度、これこそが道徳的態度である。この意味では、私を含め、我々は誰しもある程度は道徳的である。(※)

 

※しかし、私も皆も、「完全に」道徳的ではない。

道徳について - 思考の断片

この記事で定義したとおり、「完全に」道徳的とは、他者にとっての「善悪」を私にとっての善悪と「等価なものとして」追求もしくは忌避する態度のことである。誰だって、自分が一番かわいいのであり、自分にとっての善悪は、他者にとっての「善悪」に優先する。皆が実際には完全に道徳的ではないからこそ、当為としての道徳がある。私は当為としての道徳に従おうとするという意味では、道徳的とは言えない。

 

以上のとおり、(最初の意味であれ、当為としての意味であれ)道徳は他者を措定するからこそ成立するものであることがわかるだろう。もし他者がいないのだとしたら、他者のことを慮るというのは完全に無意味になる。他者不在でもなお成り立つ倫理といえば、己を意識するまでもない、利「己」主義くらいではないだろうか。独我論者の倫理は必然的に利己主義である

 

5.それでも独我論・利己主義

上記のとおり、私は、他者の「経験」と他者にとっての「善悪」を措定しており、それらに一定の実在性を認めている。しかも私はある程度道徳的である。しかしそれでもなお私自身は根っこでは理論的には(素朴)独我論者で、倫理的には利己主義者ではないかと思っている

前者の理由は、実践上は他者の存在を前提としていても、理論上は、存在するのは(私のものと後に呼ぶ)この経験だけであるという確信があるからである。他者も、私自身がよく生きるための要請から私が作ったものにすぎず、私の経験の一部に過ぎないのである。この意味では私は他者に実在性を認めていない。

後者の理由は、いくら私が道徳的であるとはいえ、結局は自分が生きたいように生きるために、道徳的態度をとっているに過ぎないからである。他者にとっての「善」を追求したいというのも、広い意味で言えば、私自身のためである。この広い意味で言えば、私は「ある程度道徳的な」利己主義をとっていると言える。

以上に説明した通り、私は、独我論・利己主義と他者実在論・道徳性は異なるレベルで両立すると思っている。ただ、前者のほうがより根本的であることは強調したいと思う。私の都合でこそ他者は措定されたのであり、私のためにこそ、他者のためを思うのである。

善く生きるとは何かを問うのはなぜか

私は長らく、よく生きることは何かという問いに興味を持っている。よく生きるとは、自分にとって幸せだといえるような生き方をすることだ。例えば、私が好きな食べ物を今日食べることは、わざわざ嫌いな食べ物を食べるよりもよく生きることだし、おそらく仕事をすることも無職でいるよりはよいことなのだろう。

 

このような例を挙げると、よく生きることは一見、やりたいことや欲しいものをひたすら追求する当たり前のことだと思われ、そもそもなぜ問いが生じるのか疑問に思うかもしれない。しかし、実際はそう単純ではなく、欲しいものをなんでも追求することは最善とは限らない。以下でいくつかの理由を述べる。

 

まず、そもそも欲求の充足が全て善いこととは限らないからである。

・偽の欲求

例えば子供のころ、今振り返ってみればいらなかったものが欲しかった経験をした人は多いと思う。また、大人になっても、欲しかったものを手に入れても心が満たされないことは往々にしてある。

・外的に刷り込まれた欲求

CMなどを見て欲しいと思ったものを入手したところで、それは善いと思わされたものにすぎず、自分にとって本当に善いものとは限らないのではないか。

・遠隔の欲求 

仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲したとして、その病人の病気が私が知らずして治ったところで、私にとって善いことだろうか。

 

また、善いものを正しく捉えた欲求でも、ひたすら追求してればいいというものではない。

・欲求は満たされると善いものだが、逆に満たされなければ悪いものである。実現可能な欲求は追求するに越したことはないが、実現が困難な欲求は、追求するよりもあきらめたほうが、欲が満たされない悪を避けられることが往々にしてある。

 

 

だからこそ、今私が求めているものが本当に善いのか、そして追求するべきかという実践的な問題や、そもそも善いこととは何なのか、という哲学的な問題が生じるのである。この問題こそ、私が生涯かけて考えていくべきものだと思っている。