実践の世界と理論の世界

1.実践の世界と理論の世界

これから、以下の記事で紹介した概念(第一次、二次現実)を再定義してみようと思う。

知的反省 - 思考の断片

 

我々の経験する世界は単層的なものではなく、抽象度の階梯のある多層的なものだとお思う。例えば、食べ物を食べたり他人と喋ったりする具体的経験は、数学におけるような抽象的な思考とは異質である。まず、前者と後者を、実践の世界と理論の世界と定義して、多少の説明を加えたい。

 

実践の世界は、その名の通り、生活や仕事などの日常において経験される具体的現実である。その内容は、いつ何を食べただとか、いつまで何をしなければならないだとか、他愛もないことである。世の大半の人はほとんどの時間はこの世界に生きている。彼らは具体的な生活や仕事の現場で何が起きるかに興味があるのであり、抽象的な真理がどうであろうとどうでもいいのである。

しかし、実践の世界でよく生きるためには、そこだけに留まっているわけにはいかない。なぜなら、実践をうまくこなすためには、毎度その場限りで考えなしに行動するよりも、過去の経験から学びそれを活かしたほうがよく、そのためには現実をモデル化(概念に抽象化)し、帰納により様々な規則性を発見する必要があるからである。このような実践的要請から生まれたのが、抽象的な概念や一般法則から成る理論の世界である。

※理論の世界と言っても、ことわざのような日常のちょっとした知恵から、厳密な科学理論にいたるまで、幅広い抽象度の事物を意味するものとして定義する。

 

世の人は、この理論の世界の一般法則を実践における個別的な事例に適用(演繹)することで、理論の世界で得た成果を実践の世界に還元するのである。このように、彼らは実践の世界に住みながらも、時々理論の世界に出稼ぎしては帰って行っているのである。

 

2.実践の世界と理論の世界の相違点

以上に定義した実践の世界と理論の世界は、抽象度以外においても様々な相違点を持っている。

 

まず、実践の世界は何もかもが未知である。例えば、生活や仕事で出くわすどんな課題も新しく、予期不能な側面を備えている。対して理論の世界の登場人物は、全て既知の抽象概念である。

 

実践の世界の未知なるものの最たるものが、即ち他者である。我々にとって他者は想像の域を出ないブラックボックスであり、このように他者を完全に知り尽くしていないためにこそ、他者とのコミュニケーションは成り立つ。

対して、我々の思考の中にある理論の世界の中には、この他者というのが登場しない。なんとなればすべてが「私が考える」概念に過ぎないからである。理論の世界はこのように他者不在の世界である。

 

実践の世界は絶えず未知で新しいものが出てくるがゆえに、常に例外であふれており、一括りにはできない難しさがある。いくら過去の傾向を帰納法により一般化できても、その一般化は過去に対して成り立つにすぎず、将来にわたっても同じ傾向が成り立つというのは信念の域を出ない。対する理論の世界では、ナマの現実ではなく、抽象され理想化されたモデルを扱うがゆえに、普遍的な原理で全てが説明できる。理論家が理論を美的に好むのは、この普遍性や煩いの無さがゆえだろう。

 

最後に、実践の世界に関する思考は(多くの個別的なケースから一般法則を推測する)帰納思考であるのに対して、理論の世界に関する思考は(一つの原理から多くの帰結を導く)演繹思考である。前者は絶えず新しいことを発見する思考である、対して後者は原理で言いつくされたことを言い換えるに過ぎない思考である。

 

 

3.両方の世界に対する私の態度 

はっきりいって、私は実践の世界を軽蔑している。つまり、私がいつ何を食べるかだとか、誰と喋るかとか言ったことは、知的価値のない個別的な些事に過ぎず、顧慮に値しないと考えているのである。理論の世界に存在する普遍的な真善美にこそ価値はあると考えており、だからこそ真善美に触れ、時には一体化する観照という活動を好んでいるのである。

 

また、私は実践の世界を不快な場所だと思っている。そこは確かに新しい刺激に溢れているところではあるが、未知に対する不安で一杯でもある。また、何を考えるにも例外に溢れていて、思考が心地よくない。雑多な事実や例外と格闘する泥臭い帰納よりも、数学の証明のようにエレガントな演繹思考を私は好むのである。

 

上記の理由により、理論の世界を棲家にしてしまったようである。世の人とは正反対に、理論の世界で観照的な思考に耽るのが目的となり、そのために必要な時間や資源を獲得するために、仕方がなく実践の世界に赴き、生活や仕事を嫌々こなしている次第である。

 

 

4.3.の帰結、その問題点

さて、理論の世界を棲家としてしまったことの帰結は次のとおりである。

 

まず何よりも、他者不在の世界を棲家としてしまったため、独我論が私の思考基盤になってしまったことが影響として挙げられる。他者の存在はあくまで実践の世界で生きるために仕方がなく要請された信仰の域を超えないものとなってしまった。世の人がそうであろうように他者の存在は当たり前の出発点ではなく、別世界で生きる際の約束事に成り下がってしまったのである。

※この独我論を背景に、私は生の善さに関する主観主義(mental state theory)や、(客観的な存在を否定する)諸々の反実在論の立場を取っているものと思われる。

 

次に、私は退屈にさいなまれるようになってしまった。なぜだろうか。それは、理論の世界には既知のものしかなく、そこでの思考(演繹)も何ら目新しいものを生み出さないからである(数学は例外だが)。変化がなければ新たな思考が刺激されることもなく、既知の物事と、決まった真理だけの世界は静的であり、退屈である。

 

私は、二点目の退屈は問題視しているが、一点目の独我論そのものは問題視していない、しかし「私だけがいる→私が正しいと思えば正しい」というような思考停止に陥ることは、退屈にもつながるのではないかと懸念している。

したがって、理論の世界を棲家にしてしまったことは仕方がないとしても、もっと実践の現場に前向きに赴き、日常や他者との会話等から新たなコンテンツを持ち帰ることで、(私の)理論の世界を豊かにしようと思うのである。

主観的欲求充足説とエピクロス主義について

この記事では、欲求充足説を客観的欲求充足説と主観的欲求充足説に分類して紹介し、後者がエピクロス主義の主張(死は悪ではない)を含意することを示そうと思う。そのうえで、主観的欲求充足説を取るエピクロス主義と、以前私が定義したエピクロス主義を比較したい。

 

1.1 欲求充足説について

以前は快楽主義について述べたので、今回は生の善さに関するもう一つの代表的な理論、欲求充足説について述べたいと思う。

欲求充足説の主張は次のとおりである。X:「いかなる欲についても、その欲が充足されることは善であり、欲が挫かれることは悪である。」

欲の充足/挫かれることに関する定義は次のとおりである。YO:「事態pに真であってほしいという欲が充足される/挫かれるのは、事態pが実際に真/偽である時である。」

 

1.2 欲求充足説は生の善さに関するworld theoryである

さて、私はこの欲求充足説には同意しない。なぜならこの理論は、経験とは独立した世界の在り様によって生の善さが左右されると主張するworld theoryであり、私は経験すること、つまり心理状態で生の善さが決まると主張するmental state theoryの立場を取るからである。

※この理由については次の記事で示している。

生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

どういうことだろうか。例えばpとして、私が皆に好かれているという事態を望むとする。ここで、二通りの場合を考える。A:私自身は皆に好かれていると信じているが、実際は皆に嫌われている B:私自身は皆に好かれていると信じており、実際に皆に好かれている。

A,Bいずれの場合も、皆に好かれていると信じているという私の心理状態(経験)は変わらない。事実(世界の在り様)としてのみAとBは異なっているのである。そして、欲求充足説は、Bは私にとって善いのに対して、Aは私にとって悪いと主張する、つまり私にとっての善悪が私の経験では決まらず、世界の在り様に左右されると主張するのである。これはまさに先に述べた生の善さに関するworld theoryに他ならない。

 

1.3 私が同意する主観的欲求充足説

では、心理状態で生の善さが決まると考えるmental state theoristの私は、欲求と善についてどういう関係があると考えるのかというと、次のとおりである。

 

X:「いかなる欲についても、その欲が充足されることは善であり、欲が挫かれることは悪である。」

欲の充足/挫かれることに関する定義は次のとおりである。YS:「事態pに真であってほしいという欲が充足される/挫かれるのは、事態pが真/偽であることが私に信じられた(経験された)時である。」

 

この欲の充足に関する定義YSを主観的欲求充足と呼ぶことにして、最初の定義YOを客観的欲求充足と呼ぶことにしよう。XとYSから成る主観的欲求充足説がmental state theoryであることは言うまでもない。

 

2.1 死は悪ではないとするエピクロス主義の主張の擁護

この主観的欲求充足説が導く態度の一つに、死が悪ではないというエピクロス主義の主張がある。なぜだろうか。我々は、明日も生きたい、明日から~したいというような様々な欲求を持つ。もし今日死ぬことになれば、(明日生きるという事態、明日生きて~するという事態が偽になるわけだから)これら欲求は客観的に充足されない(挫かれる)ことになるだろう。したがって、客観的欲求充足説によれば、このような欲求を持つ人にとって死は悪である

対して、これら欲求が主観的に挫かれることはない。なぜなら今日死んだとしても、明日生きていないことや、明日~ができないことを経験する私はいないからである。つまり、死んでしまっては、生きていないことを不満に思ったり後悔する私そのものがいなくなってしまうから、欲求が主観的に挫かれることはないのである。

したがって、生きたいという欲求や、生きなければ満たせない欲求を持ってはいても、死ぬことは悪ではないのである。

 

※1 確かに、生き続けていれば欲求が主観的に満たされたかもしれないのに対して、死ねば欲求が主観的に満たされることはない(挫かれることも無いとはいえ)という点で、死ぬことは生きることに比べて相対的に悪いと主張することは可能である。しかし、善の不在としての相対的な悪は、欲の挫折という積極的な悪とは異なる、消極的な性格のものだろう。しかも、「生きていれば満たされたはずの欲求が、満たされずに終わった」という相対的な悪を経験する人は既にどこにもいないのである。これら二つの理由から、死ぬことによる相対的な悪は取るにたらないと主張できるだろう。

 

※2 もし死ぬまでに、欲求を満たすことができないと意識する余裕があるならば、 欲求が主観的に挫かれたことになり、死ぬことは悪になるのではないか、と言えるように思われるかもしれない。しかしここで悪いのは死(死んでしまったこと)ではなく、死ぬまでの過程である。エピクロス主義とて、死ぬまでの過程が悪いものであることは否定していないというのが私の理解である。

 

2.2 主観的欲求充足説を取るエピクロス主義と、以前私が定義したエピクロス主義の相違点

このように、主観的欲求充足説の立場を取り、生きたいという欲求を持ちながらもなお、死は悪ではないと主張する人々のことをエピクロス主義γと呼ぶことにする。

エピクロス主義について(6/28微修正) - 思考の断片

対して、私が上の記事で、死によって阻害されない欲求、つまり生存に条件づけられた欲求(もし生きていれば~を経験したい)しかもたず、生存するか否かには無関心な立場として定義したエピクロス主義(エピクロス主義αとよぶ)は、エピクロス主義γとは異なる態度である。

エピクロス主義αの人々は、経験されることしか欲求しないのだから、彼らにとって欲求の充足とは、主観的欲求充足だろう。だから、エピクロス主義者αは主観的欲求充足説の立場を取る点で、エピクロス主義者γと一致している

しかし、エピクロス主義αを取る人々は、エピクロス主義γに比べてはるかに狭い範囲の欲求しか持たない点で異なる。彼らは生き続けることを欲しないばかりか、例えば「私の死後も」愛する人に幸せでいてほしい、国や社会に発展してほしい、もしくは自身が今手掛けているプロジェクトに実現してほしいと言った願望を持たない。彼らは死で阻害される欲求をもとから一切持っていないのである。

私はエピクロス主義αのような人々でも善き生を送れることを後の記事で主張し、擁護してきたが、それでもこのような人々は極めて特殊であることは否めない。自分が生きることや経験できないことに関しても無関心ではいられないのが大抵の人間の性だろう。

 

私自身、エピクロス主義αを取るほど、いろいろな物事を諦めきれないのではないかと思えてきた次第である。今後はエピクロス主義γの立場で、しっくりする倫理観を探っていきたいところである。

経験機械の思考実験について

1.「幸福」に関するmental state theoryとstate of the world theory

ある人が生きた人生が、当の本人にとってどれだけよかったか、これを「幸福」と呼ぶことにする。「幸福」と言っても、単なる幸福感のことではなく、私自身にとっての価値のことである。私は最近、「幸福」についての次の問題に興味を持っているので、考えたことを記しておく。

・X:ある人の「幸福」はその人の経験で全て決まるのか、それともY:その人が経験しない世界の状態にも依存するのか。

Xは経験すること、つまり心理状態で「幸福」が決まると主張するので、mental state theoryと呼ばれる。Yは経験とは独立した世界の在り様によって「幸福」が左右されると主張するので、state of the world theoryと呼ばれる。

 

2.両者の違いがわかる例

両者の違いが分かる例を挙げよう。大半の親がそうであるように、ある親が自分の子供に、自分の死後も幸せになってほしいと考えているとする。次の二つの場合で親の「幸福」は違うのか、それとも違わないだろうか。

α:親が死ぬまでも、死んだ後も子供は幸せである

β:親が死ぬまでは、親はαを全く同じ経験をする(子供は幸せである)が、親の死後に子供に不幸が降りかかってしまう

もしXが正しいとしたら、αとβで親の経験は全く同じなので、親の「幸福」は同一になるだろう。もしXでなくYが正しければ、そうとは限らない(αの方が親の生は善い)わけである。

 

3.私の立場

私の快楽主義について - 思考の断片

上の記事で述べたように私はX、つまりmental state theoryが正しいと考える。私が善と等しいとした快活とは、活動の経験を快くできるということに他ならなかったからである。

 

4.mental state theoryに対する反論

mental state theoryに対する反論でしばしば挙げられるのが、ノージックの思考実験:経験機械である。元々の例から少し変形したものを紹介する。

 

・Aは実際に様々な人と友達になり、いろんな偉業を達成するような充実した人生を送ったとする。

・Bは、VRを経験できるような機械にプラグインされ、送られてくる感覚情報によりAとまったく同じ経験をしたとする。

ここで、AとBの「幸福」は同じだろうか、それとも違うだろうか。

 

ここで、多くの人は、実際の友情や達成(という経験外のもの)に恵まれたという理由で、AのほうがBよりも善き生を送っているという主張に同意するだろう。

以上より、この思考実験はXに対する反論になると考えられている。

 

5.経験機械の反論に対する私の意見(反論ではない)

5.1 主観的な「幸福」と客観的な「幸福」の区別

私はまず、ある人Cの「幸福」を述べる上で、ある人Dから主観的に観た「幸福」(Dが知りうる情報に基づく、Cの人生の評価)と、客観的な「幸福」(Cの実際の状況に基づく、Cの人生の評価)を区別するべきだと思う。

「幸福」(well-being)と言った場合、(特に欧米圏の人々は)客観的な「幸福」を問題にしているように思われる。皆が気にするのもこちらだろう。しかし、この客観的な「幸福」は、かなりの度合いで不可知なものだと思う。

マトリックスの映画のように、我々人類全員が経験機械に(別々に)つながれているかもしれない(しかも他の高等生物の肥やしになるために!)、この可能性を我々は少しも否定することが出来ない。もし我々が、我々自身が思うように実際に生きている場合の我々の「幸福」と、我々が高等生物の家畜だった場合の「幸福」には、天と地の差があるだろう。

我々が考えるべき「幸福」とは、決してこんな、人類の知の彼方にある客観的な「幸福」ではなく、むしろ実際に体験でき、わかる主観的な「幸福」ではないだろうか。そもそも、経験が示すように、「幸福」とは見る人の立場や見え方によって変わってくるものである。実体的なのは主観的な「幸福」である。

それでは、ある人Cの主観的な「幸福」を問題とする場合、多数いる中の「誰から見た」生の善さを問題とすべきだろうか。私はC本人から見た「幸福」が重要だと考える。なるほどCは他の人の目も気になるかもしれない、しかし彼がいかに客観的になろうとあがいても、結局彼は自分の観点から自らの生の善し悪しをかみしめることしかできないのである。このように自分を中心に経験することこそが生きるということではないだろうか。

 

5.2 経験機械の例に戻る

もし主観的な「幸福」のみを問題にするとすれば、先の経験機械の例で言えるのは、「われわれ」から見たAの生が、「われわれ」からみたBの生よりも善いということだけである。「実際に」友情に恵まれ、達成したというのも、あくまで(A,Bを離れて)「われわれ」がそう思っているという相対的な話に過ぎない。

対して、A自身からみたAの生は、B自身からみたBの生からなんの違いもなく、両者の善さも違わない。5.1で述べたように、重要なのは、A,B自身から見たそれぞれの「幸福」であった。したがって、経験機械の例においても、AとBの「幸福」は変わらない、とするのが私の意見である。

経験機械の例で、全てを知っている「われわれ」を基準に、Bの生のほうがAの生よりも劣ると考えるのは、「幸福」を評価すべき観点を取り違えることによる誤謬である。じっさい、「われわれ」から機械に夢を見させられているBの生が滑稽だったり惨めに見えてからと言って、それを微塵も知ることができない、B自身の生にどういう影響があるだろうか。

 

6.1 私の立場に対する反論

本人から主観的に見た「幸福」を問題とする私の立場には、「客観的な「幸福」こそ、我々の欲するものだ」という反論が考えられる。確かにその通りである、我々は実際に善く生きたいのであり、善く生きる経験をしたいわけではない。また、仮に客観的な「幸福」を問題にしないとしても、(自分だけではなく)他人から見て(主観的に)善く生きることを、我々は欲するだろう。

つまり、自分自身から主観的に見て善く生きる以上のことを我々は欲しているのである。

6.2 再反論

しかし、何かを欲するからといって、その何かが我々にとって善いとは限らない。

先の記事で例として挙げたように、「仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲したとして、その病人の病気が私が知らずして治ったところで私の「幸福」に少しでも資するだろうか、否である。」

では、この例で、どういう場合に、病人の病気が治ることが私の「幸福」に資するだろうか。それは病人の病気が治ったと私が知った、もしくは(真偽を問わず)信じたときである。

より一般的に言うならば、欲する何かが、我々にとって善となるためには、その何かを手に入れ、欲が充足されることが経験されなければならないのである。

客観的な「幸福」は私の経験の範囲外にあり、明らかにこの条件を満たさない。したがって、いくら得ようと欲するとはいえ、得たかどうかすらわからないような客観的な「幸福」など、取るに足らない善なのである。

知的反省

『思考の整理学』

https://www.amazon.co.jp/dp/4480020470/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_DmVdzb1QF7XAN 

上の名著を読んでみたところ、大いに示唆を受けるとともに、これまでの自分の知的態度に対する反省を促された。以下ではその詳細について述べたいと思う。
まず、この本の概要を説明したいと思う。最初に中心概念、受動的に知識を得てそのままアウトプットするだけの「グライダー能力」と、自ら新たに知識を発見する「飛行機能力」なるものが定義されている。そして前者の能力はコンピュータで代替されてしまうにも拘わらず、従来型の学校教育では前者しか身につかないことに警鐘を鳴らし、本の大半を割いて、後者をいかに身につければいいかについてヒントを提示している。

まず驚いたのが、この本は既に刊行から既に30年経っているが、時代遅れになるどころか、未だタイムリーな問題提起で在り続けていることだ。近年はAIの登場で、ますます創造性を育む教育の必要性が叫ばれているのは言うまでもない。

そして、自分自身にも、この「飛行機能力」が不足しているものと認識された。私はこのブログで20本ほど記事を書いては来たものの、いずれも振り返ってみれば既存の思想を部分的に借用するだけのもので、思考の独自性はなかったからである。恐らく私もグライダー型の人間で、学んだことの延長線上でしか考えることができないのだろう。確かに、この「グライダー能力」も、「飛行機能力」獲得のためにも必要であることは間違いないし、新たな創造も既存の発想のちょっとしたアレンジで生まれる。しかし既存のものに付け加えるほんの少しのオリジナリティーすら自分には欠けていたのではないかと反省する次第である。

では「飛行機能力」といっても具体的に何が欠けていたのだろうか。それはまさしく帰納思考に他ならないと考える。筆者は作中でこの帰納(もしくは演繹)に全く言及していない。しかし、形を変えつつも既存の知識をそのままアウトプットすることは演繹であり、新しい発見は帰納によってしかなされないといえるので、私は「グライダー能力」=演繹思考、「飛行機能力」=帰納思考のことを指していると考えている。
筆者は、生活や仕事の営みの中で直接経験される現実を「第一次現実」、第一次現実が概念化・抽象化された観念の世界を「第二次現実」と定義している。以降は私の解釈が混じるが、この第二次現実の世界は、書物や教科書の教える世界で、数少ない原則からの演繹で全てが定義される整然とした世界である。つまり、教えられたことを正しく身に着けていれば全てが解明される世界である。対する第一次現実は雑多な事物の世界である。そこには所与の原理原則などなく、不完全な一般法則を、帰納によって、際限なく自ら発見していかなければならない。
私はおそらく、学校教育の過程で第二次現実の世界、とくに数学の体系の世界に慣れ親しみ過ぎたのだと思う。つまり、この第二次世界を豊かにする勉強に好んで励んだ一方で、日常生活の場である第一次現実をなおざりにしてしまった。それゆえに思考が演繹に偏りすぎて、帰納思考がほとんどできなくなってしまったのではないかと考えている。

この偏りは、第一次現実、つまり生活や仕事の場面で私を無能にするばかりではなく、世界を体系的に説明する思想を形成するという私の目的にとっても、大きな障害になるだろうと思う。なぜなら、私が経験する世界は、数々の思想家たちが記述しようと試みた世界とは別個のものであり、彼らの思想や理論をいくら借用したところで説明がうまくいかないため、私自身が(本という書物の代わりに)世界という書物を直接、帰納により読み解いていく他はないからである。

よって、実践・思想の両側面において、帰納的・発見的な思考法を身に着けることが私の課題であることを改めて痛感した。そのために、この本を参考にするだけではなく、仕事の場を、帰納的に思考する訓練として活用しようと思う。

私の快楽主義について

1.1 快楽主義について

最近私は快楽主義に興味を持っている。快楽主義とはひとことで言えば快楽こそが幸福であるとする立場である。世の人に、快楽を求めない人はいない。しかし、彼らは快楽以外にもいろいろなものを重要視し、決して快楽が幸福の唯一の基準だとは考えない。例えば友情、愛、真理や自由など、快楽以外にもいろんな価値があると主張するだろう。
快楽主義はあまりにも限定的すぎるのである。

本当にそうなのだろうか。私は快楽ほど普遍的な幸福はないと思っている。きっと私と世の考える快楽には定義に大きな隔たりがあるのだろう。まず、私が考える快楽とは何か定義を試みるべきだろう。

一番素朴な快楽主義は、感覚的快楽説と呼ばれるものである。この立場は、五感で感じられる快感を快楽と見なす。言うまでもなく、この快楽の定義は狭すぎるだろう。これ以外にも例えば知的・精神的な快楽があるし、エピクロスが追求した快楽のように、平静の境地としての快も存在する。快楽主義が限定的すぎるという最初の批判はこの素朴な説に対するものだ。

 

1.2 活動的快楽について

対して、私が考える快楽は私が活動的快楽(以後快活と略称する)と呼ぶものである。快活とは何か、それは字義通り快く活動する経験ができること、つまり活動が妨げられずに経験できることである。とはいえ、活動と言ってもいろいろある。私が快活の基準とする活動は、自らの本性や個性に従った自由な活動である。
例えば私は数学が得意だが、その能力を活かして首尾よく思考できている状態、これこそが私にとっての快活である。また、私は他人と一緒に遊ぶよりも一人で物思いにふける方が好きだが、この個性に従って物思いにふけることも快活である。しかし、そんな私であっても人間である限りは社会的である、友達と会話で盛り上がるのは快活である。また、知的好奇心も人間の本性だから、真理を追究することも快活である。もしくは無目的で衝動的な生命活動に基づく、動物的(基本的な)なレベルの快活もある。例えば身体や脳が活発に働き、元気だったり頭の回転が速いことも快活である。

では快活の反対はなんだろうか。例えば苦手なことをさせられるときや、好きじゃないことを強制される時がそれである。しかし、したくないことを強制されるだけではなく、なにも出来ないことによっても、自由な活動は阻害される。前者は苦行、後者は陰鬱もしくは退屈と呼ぶべきものだろう。これらを合わせて苦とよぼう。

以上にみたように、本性や能力というのも多面的な概念で、基本的で動物的なものから人間的で高度なものまで様々な階梯がある。それに応じて快活の概念も内容豊かなものとなるのであり、感覚的快楽には含まれるとは限らなかった様々な幸福をも包摂する概念なのである。

 

1.3 中庸について

では、数あるうちの、どの(本性にしたがった)活動をしているときが最も快活か、という比較の問題が出てくるように思われる。しかし、それに対して私は、何か最善な活動があるわけではなく、様々な活動の間に成り立つバランスが重要だと考える。

例えば、私は数学が好きとは言え、ずっと数学をしていたいわけではなく、哲学もゲームもしたいのである。両者の間には程よいバランスというものがあるだろう。個性や本性に応じて、このバランスは如何なる活動の間にもあり、最適なバランスが達成された活動(の配分)を中庸と呼ぶことにしよう。この中庸な(様々なものから成る)活動の状態こそがもっとも快活なのである。これは日ごろの経験ともよく合致する。何をするにも程よい限度というものがあるし、躁のように気分がハイになりすぎるとかえって苦痛である。快は強ければ強いほどいいというわけではなく、調和を保った程度に保たれてこそ最善なのである。

 

※:最初の定義で、活動する「経験」ができることとした点に注意してほしい。活動はあくまで活動経験のことなので、それが首尾よく出来る快活とは、主観的な意識の域を出ない。

例えば、ある人Aがボランティア精神旺盛で、ボランティアを通じてBのためになろうとしたとする。このとき、Aの活動が裏目に出てBが迷惑しつつも、Aの善意に感謝するためBが有り難いふりをしてAがそれを知らないとする。この場合、ボランティアを通じてBのためになるという、Aの活動は「事実上は」成り立ってはいないのだが、Aの「意識上は」成立している。つまりAは快活である。Aが快活かは、彼のやっていることが現実にBのためになるかではなく、そのようにAが意識しているか次第で決まるのである。だから、快活は意識状態に過ぎないのである。

 

2.快楽と他の幸福の比較

次に、以上に定義した快が普遍的な幸福であることを示すために、快楽と、快楽以外に皆が追求する善を比較しようと思う。そのうえで、快楽以外の善も快楽に含まれるか、追求するに値しないものであることを主張したい。

 

2.1 欲求の充足

世の人が快楽の追求よりも盛んに行うのが、欲の追求である。そのため、より多くの欲が充足されることが幸福であるという考え方(欲求充足説)の方が快楽主義よりも一般的であろう。
この考え方と私の立場とは同じではないものの、両者は包含関係にある。
欲求を追求することは自然であり、我々の本性の一つである。実際、欲を抱き欲を満たし、また新たな欲を抱くというサイクルは我々の生きる時間の大半を占めている。
程よい数の欲求を抱き、それらが速やかに充足されるとき、すなわちこのサイクルが首尾よく回るとき、それは欲望追求の活動が妨げなく盛んにおこなわれているということであり、それは即ち快活である。
以上より、欲の充足は快を生み出すことが示されるが、逆は必ずしも成り立たない。
例えば、ただ単に身体の調子が良かったり、気分がいいときや頭の働きが活発なときも、私の立場では(動物的な)快活に違いはないのだが、この時はなんの欲求も充足されていないのである。欲求は快の限定に過ぎず、快こそがより広い概念なのである
快は欲求よりも根本的でもある。実際、次のような例を考えてみればいい。持てるありとあらゆる欲求が成就すれども憂鬱で気分が晴れない人と、満たされない欲求があったり、欲求がそもそも無くても快活な人のどちらが幸せだろうか。欲求充足即ち善とする立場では前者がより幸せだろうが、この場合は明らかに後者の方が幸せであると同意いただけると思う。幸福に本質的なのは、欲求が充足されるか否かではなく、快活か否かなのである

 

2.2 意味

欲求の充足の次に世間の人が求めがちなのは、即ち「意味」である。彼らは自分の様々な活動のみならず、人生にすら意味を求めたがる。
では意味とはなんだろうか。それは下の記事で説明した通り、外部とのつながりのことである。

生の「意味」について - 思考の断片
例えばもし仕事で行う作業(事務作業)の外に、目的(顧客満足や将来の稼ぎ)がある場合、その仕事には意味があるのである。もし私の人生が、(私が死した後もなお、)他人の人生や外部の世界とつながり(影響)を持つ場合、私の人生には意味があるのである。
対して、快活というものは私自身の刹那的で自己完結した幸福である。他人や世界や私の未来に好影響をもたらさずとも独立した善さを持っているのである。

さて、このように意味と快は関係的/自体的、世界的/心理的顕著な二項対立関係にある。とはいえ、両者に接点がないことはない。
意味、社会や他人とのつながりを求めるのも我々の人間の本性と言ってよい。「人間」はその言葉のとおり、他者との関係に生きようとする生き物だからだ。従って意味ある活動も、その意味が実感される限りで快活であると言わなければならない。
ただ、両者には大きな隔たりもある。意味は客観的な他人や世界の状態に左右される。例えば※の例ではAのボランティア活動は、「実際に」Bのためになっていないという理由で、「Bのためになる」という意味を獲得し損なっている。対して快活は主観的な意識状態であり、意味があるように期待されることが快活の要件なのであり、A自身はBの役にたてたと「信じて」活動できている限りはAは快活なのである。

このように、幸福が世界の客観的な状態に左右されるか、それとも自分の主観的な意識経験の状態だけで決まるかという点で「意味」と「快」を重んじる立場は決定的に異なる。もし前者に該当して後者に該当しないような幸福があるのだとすれば、私の考える快はそのような幸福を捉え損ねていることになるだろう。

しかし、私は世界の状態がどうあろうと、それが私自身に経験されなければ幸福にとって取るに足らないことだと思う。例えば、仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲求したとして、その病人の病気が私の知らないところで治ったところで私の幸福に少しでも資するだろうか、否である。その病人が治ったと私が知ったときに初めて私は幸福になるのである。このように、欲求は事実の上で満たされた時ではなく、主観的に満たされたと信じられてこそ快や満足感を生むのであるから、後者こそが幸福と呼ばれてしかるべきだろう。

 

※意味を善とする立場に対する私の違和感は、このように私が経験できないことに価値を認めてしまっていることにある。人の役に立ちたいという意味を追求する気持ちはわかる。しかし、役に立っていると思えればそれで十分であり、その信念に反して実際には役に立っていなかったとして、何の問題があるだろうか。
上の記事でも述べたように、経験の彼岸に善を求めるような態度は卑しいものだと思う。善は経験されてこそ善なのであり、それで満足出来る人は、経験されないけど実はあるというような善を措定する必要がない。それをわざわざ措定するのは、善いとはとても言えない自分の惨めな活動ないし人生に対する単なる慰めに過ぎないのではないだろうか。そのような欺瞞に陥るくらいなら、惨めな自分の人生を直視して不幸になったほうがマシである。

 

2.3 道徳的善
私の立場に対して考えられる批判として、単なる利己的快楽主義に堕しているというものが考えられる。我々は時に道徳的に振る舞うことに満足感を覚えはするし、限定的とはいえ道徳的に振る舞うことは我々の自然な本性であるともいえる。しかしそれもあくまで部分的に過ぎず、道徳と利己心はしばしば衝突する。また、時々行う道徳的行動でさえも、道徳に対する尊重からではなく、利己心の延長として行われるものに過ぎないことになる。私の快楽主義は道徳と一致しないばかりか、道徳を尊重していないではないかと批判されるかもしれない。
しかし、私はこのような道徳主義的な批判に対しては、下の記事で行ったように道徳そのものを批判したいところである。

道徳について - 思考の断片
道徳は各々の利己的な幸福追求が衝突しないための調整手段に過ぎず、それ自体が目的もしくは善ではないのである。道徳的に振る舞った方が他の要素を考慮して結果的に幸福になるに過ぎず、道徳を目的と取り違えることはかえって善く生きることの阻害ないし抑圧になると思う。

 

3.まとめ

以上に述べた私の快楽主義以外の幸福観に対する反論は、いずれも個人的の域を出ないが、私の立場を明らかにするには十分であったと思う。


まず、欲の充足を快活の一種と認めながらも、高度な欲求よりも、動物的な快活をより根源的なものと見なし、人間的であると同時に社会的な「意味」を限定的にしか幸福として認めなかったことは、私の動物的な幸福感の現われだろう。私は快活とは要するに、自然本性から生じた衝動が阻害されないことだと思っている。衝動の高度化したものが人間的な欲求であると考えているので、欲求の充足は快活の延長上にある。だからといって、より高度な欲求の充足に重きを置くわけではなく、かえってより基本的な衝動の実現、つまり快活に重きを置き、欲求の充足は快活の手段に過ぎないと考えるのである。

また、私の幸福感は主観主義的である。道徳の手段化は言うまでもなく、世界の在り方よりも自分の心理状態を幸福の基準にする点においてこの傾向は顕著である。私がよく生きるとは、他でもない私自身にとって、私が善く生きることに他ならないのであり、客観的な観点はどうでもいいのである。

現代人の求める幸福は、人生の意味なり目的(欲)の実現なり、あまりに人間的、意図的に過ぎる。もっとのびのびと、無為自然に動物的に生きてもいいのではないだろうかとしばしば思う。

観照的に散歩すること

私はツイッターでは「観照的散歩家」というハンドルネームを用いている。この記事では、この造語の意味するところを説明したいと思う。

 

1.「散歩」について

散歩とは、刹那的な趣きに基づく遊びのことである。つまり、目的による作為によるところなく、それが自然だからこそ行われるような活動を指す。私は、人は誰しも、他のものに阻害されなければ従うような本性あるいは自然(nature)を、各々が有していると考える。この自然に従い為される活動を名付けて、散歩と呼ぶのである。

 

2.「散歩」と目的を持った活動との二項対立

散歩に対立する概念は、目的を持った活動である。この典型が、目的地への最短距離、最短時間による移動である。このような目的地に到達するための手段となっては、結果ばかりが問題とされ、過程はないがしろにされがちである。例えば、本来ならば、周りの景色を眺めながら回り道をゆったり歩きたいところ、殺風景な一直線を走ることになりかねない。

目的を持った活動全般についても同じことが言える。本来は自分がしたいような仕方でしていたであろう活動に対し、合理的だが必ずしも意にそぐわない方法で取り組むことを、目的は強いるのである。

ここで、散歩は自由、つまり己の自然に由る活動であるのに対して、目的を有する活動は、活動の外部の目的に強いられたもの、つまり他律的で不自由なものだということができる。

また、散歩はそれ自身が目的として行われるが、他の目的のためになされる活動は単なる手段に過ぎない。したがって、散歩はそれ自体善い活動であるのに対して、手段的な活動の価値は、外的な目的の価値から派生した借り物に過ぎない。それはどこまでも外在的、非本質的な善に過ぎないのである。 

他の目的に従属した活動は不自由であり、その善さもどこまでも第二義的である。対して私が「散歩」と呼ぶ活動こそが、自由と善を兼ね備える。

 

3.善は唯一「散歩」のような活動の内にある

善は、経験されずして善くあることは不可能である。どんなに素晴らしい芸術作品があったとしても、誰もそれに触れることがなければ、その芸術の素晴らしさはないも同然だ。
従って、善は、(金銀財宝などのような)モノ自体の中に存在せず、(財貨の恩恵を享受するような)経験をすることの内にある。この経験も、受動的な知覚と能動的な活動にわかれるが、前者の場合、善が経験の内にあってもその原因はあくまで外部にある。その原因とともに善が内在するのは、活動以外にはない。

従って、先に述べたことから、とくに、散歩のような活動にこそ善は唯一内在する

 

4.観照は、「散歩」の一種である。

よく生きること(その2) - 思考の断片

観照という活動については上の記事で述べた。そこでは様々な特徴づけをしたが、観照とは、自分と対象の境目がなくなるほど美や知に没頭する経験のことを指す。そこには自分と対象を分かつなんの利害関心や目的意識もなく、自分が物自体や美そのものと一体となり遊び踊っているのである。これも、「散歩」の一種と言えるだろう。

 

5.私は、善く生きたいと常々思っているが、そのためには3.より「散歩」のごとく人生を歩むのがいいと考える。この散歩の形態にもいろいろあるだろうが、私の場合は実利を忘れて観照的活動に興じることが一番楽しく面白く、本性に合っているようである。

 

6.以上に述べた考え方は、アリストテレスの影響によるものだと思っている。「人間にとって善とは、生涯を通じての魂の最高の最も優れた活動である」という名言の通り、彼も善や幸福を活動のうちに、そしてもっぱら観照的な活動のうちに認めている。「観照的」に散歩するのだ、とする私のスタンスも、彼に大きく影響されたものだと思う。

世界を憎んで人を憎まず

世の人はよく他人を責め、憎む。面と向かって他人に対して怒ることもあれば、陰で悪口を言うこともあり、その形態は様々だが、悪を他人に帰属させているという点では共通している。

対して私は、害悪をもたらす他人を避けることはあるが、その害悪の根源をその人自身には認めない。むしろ、彼を害悪をなすように強いた環境、ひいてはこの世界全体こそが悪の元凶だと考える。

例えば他人の配慮を欠いた行為で不快感を被ることがあった場合、その行為の直接的な原因は行為者であるその人ではあるが、彼がそのような行為に至るのにもさらなる原因があるはずだ。

このように根本原因を求めていくと、他人に配慮している余裕がないほど劣悪な環境で育ったり、生まれつき発達障害を患っていたり等、かならずその人には帰属しない原因に辿り着く。そして最終的には、本人が望まないにも関わらず、悪しき障害を持って生まれ、悪しき環境で育つことを強いられるようなこの世界こそが、全て悪の原因ではないだろうか、といつも思うのである。

 

こうした環境や世界にある人の悪の原因を求める考え方には、きまって彼は「自由意志」でなんとかしようがあったではないか、という反論がなされる。確かに、もし同じ劣悪な環境に育っても、人によって育ち方は様々である。努力して生まれの悪さを克服する人もいれば、怠けて環境に流される人もいる。

しかし、この努力ができるか否かを含め、全てが人の意思に由らないところで決まっているとする決定論を私は取り、この決定論と相いれないような「自由意志」を否定する

量子力学における波動関数の収縮という非決定性を持ち出して決定論を反駁するのは自由だが、私は波動関数の収縮で取りうる固有値も、不可知にしろ、全て決まっているとする立場である。また、仮に決定論が誤っているとしても、微粒子の確率的な挙動は、自由意志の存在を保証するどころか、脅かすものである。なぜなら、確率的な挙動は、意志した通りに従わないもので、思った通りになること、つまり意志の自由を阻害するからだ。決定論が正しいか否かに関わらず、何にも決定されないという意味で自由な意志など、存在しないとするのが私の立場だ。

さて、私のこの考え方によれば、全ての悪行は(善行も)、ある人が自らを原因として行ったものというより、環境や世界により、行うよう仕向けられたものになる。実際、世界がこれほど酷くなければ、どれだけの悪事や悲劇が避けられたことだろうか?

例えば、もし熱力学の第二法則が成り立たず、自由エネルギーが限りなく生み出されたとすれば、限られた資源を奪いあう争いや競争は起きなかっただろうし、心身を削る労働を強制されることも、それに関するトラブルもなかっただろう。逆に言えば、争い、盗み、妬みなど、資源の有限性に起因する諸悪は、全て世界が従うこの法則により決定づけられているといえる。

いかなる悪も、大本を問えばこの世界がかくも理不尽に、過酷にできているからこそ生じたものであり、悪行をなした人というのは加害者であるというよりも、害を加えるべく強いられた被害者なのである。我々は皆等しく、この悪しき世界の犠牲者なのである

 

しかし、このように「全ては世界が悪い」と、全ての悪の原因を大本の世界に帰してしまうと、悪をなした人に行為の責任を問うことが出来ないと懸念する人がいるだろう。私もこの「責任」が必要な概念であることに異存はない。なぜなら、なした悪行の責任が問われ、制裁が課されることがなければ、抑止が出来ないからである。

だが、責任を基礎づけるために、決定論と相いれない自由意志をわざわざ持ち出す必要はない。例え我々が全ての行為が決定されていようと、悪いことをしないように決定するために、責任と紐づいた制裁をちらつかせることは十分に意味はある。責任とは、悪いこともできる行動の自由と引き換えに課せられる、悪事に対する制裁の可能性であり、悪行や過失に対する抑止力である

この責任から逃れられるのは、悪いことをするか否かを選択する能力の無い人や、制裁として課せられた義務を履行できない人である。彼らに対しては責任による抑止は無用である、したがってそもそも悪いことをする行動の自由を、例えば物理的な手段で制限するのである。(犯罪に走ってしまいかねない知的障碍者を「入院」させるのはその一例である。)

以上で述べたように、自由意志という偽造貨幣が無くても、「行動の自由」と「責任」のセット販売は自由にできるのである。

ただ、(全ては「世界のせい」なのだから)上で述べた責任の概念は、悪行の抑止のための方便としての意義しか持ちえないだろう。善や悪が誰かのせいやおかげであることにするのは、悪を抑止し、善を奨励するためのインセンティブに過ぎない。

 

以上に述べた私の倫理観には確かな道徳的な効用がある。悪いことを人のせいにして責めることがないから、他人の悪に対して寛容になれるだろう。だからといって悪を看過するわけではなく、怒りや憎しみといった負の感情を排し、責任の概念を利用することで冷徹に悪の抑止に努めることができるのである。

厭世的な私の立場に比べ、世界が祝福されていると考える楽天主義や、社会が公正にできているとする信念の類は一見ポジティブに見えるだろう。しかし、世界を告発せずに、悪を自己責任に帰して責めがちなこれらの態度は、不寛容で厳しい一面も持つ。なるほど優しさだけではこの世界で生きられないだろう、だが、それゆえに私はこの世界を究極の悪者扱いしているのである。