知的反省

『思考の整理学』

https://www.amazon.co.jp/dp/4480020470/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_DmVdzb1QF7XAN 

上の名著を読んでみたところ、大いに示唆を受けるとともに、これまでの自分の知的態度に対する反省を促された。以下ではその詳細について述べたいと思う。
まず、この本の概要を説明したいと思う。最初に中心概念、受動的に知識を得てそのままアウトプットするだけの「グライダー能力」と、自ら新たに知識を発見する「飛行機能力」なるものが定義されている。そして前者の能力はコンピュータで代替されてしまうにも拘わらず、従来型の学校教育では前者しか身につかないことに警鐘を鳴らし、本の大半を割いて、後者をいかに身につければいいかについてヒントを提示している。

まず驚いたのが、この本は既に刊行から既に30年経っているが、時代遅れになるどころか、未だタイムリーな問題提起で在り続けていることだ。近年はAIの登場で、ますます創造性を育む教育の必要性が叫ばれているのは言うまでもない。

そして、自分自身にも、この「飛行機能力」が不足しているものと認識された。私はこのブログで20本ほど記事を書いては来たものの、いずれも振り返ってみれば既存の思想を部分的に借用するだけのもので、思考の独自性はなかったからである。恐らく私もグライダー型の人間で、学んだことの延長線上でしか考えることができないのだろう。確かに、この「グライダー能力」も、「飛行機能力」獲得のためにも必要であることは間違いないし、新たな創造も既存の発想のちょっとしたアレンジで生まれる。しかし既存のものに付け加えるほんの少しのオリジナリティーすら自分には欠けていたのではないかと反省する次第である。

では「飛行機能力」といっても具体的に何が欠けていたのだろうか。それはまさしく帰納思考に他ならないと考える。筆者は作中でこの帰納(もしくは演繹)に全く言及していない。しかし、形を変えつつも既存の知識をそのままアウトプットすることは演繹であり、新しい発見は帰納によってしかなされないといえるので、私は「グライダー能力」=演繹思考、「飛行機能力」=帰納思考のことを指していると考えている。
筆者は、生活や仕事の営みの中で直接経験される現実を「第一次現実」、第一次現実が概念化・抽象化された観念の世界を「第二次現実」と定義している。以降は私の解釈が混じるが、この第二次現実の世界は、書物や教科書の教える世界で、数少ない原則からの演繹で全てが定義される整然とした世界である。つまり、教えられたことを正しく身に着けていれば全てが解明される世界である。対する第一次現実は雑多な事物の世界である。そこには所与の原理原則などなく、不完全な一般法則を、帰納によって、際限なく自ら発見していかなければならない。
私はおそらく、学校教育の過程で第二次現実の世界、とくに数学の体系の世界に慣れ親しみ過ぎたのだと思う。つまり、この第二次世界を豊かにする勉強に好んで励んだ一方で、日常生活の場である第一次現実をなおざりにしてしまった。それゆえに思考が演繹に偏りすぎて、帰納思考がほとんどできなくなってしまったのではないかと考えている。

この偏りは、第一次現実、つまり生活や仕事の場面で私を無能にするばかりではなく、世界を体系的に説明する思想を形成するという私の目的にとっても、大きな障害になるだろうと思う。なぜなら、私が経験する世界は、数々の思想家たちが記述しようと試みた世界とは別個のものであり、彼らの思想や理論をいくら借用したところで説明がうまくいかないため、私自身が(本という書物の代わりに)世界という書物を直接、帰納により読み解いていく他はないからである。

よって、実践・思想の両側面において、帰納的・発見的な思考法を身に着けることが私の課題であることを改めて痛感した。そのために、この本を参考にするだけではなく、仕事の場を、帰納的に思考する訓練として活用しようと思う。

私の快楽主義について

1.1 快楽主義について

最近私は快楽主義に興味を持っている。快楽主義とはひとことで言えば快楽こそが幸福であるとする立場である。世の人に、快楽を求めない人はいない。しかし、彼らは快楽以外にもいろいろなものを重要視し、決して快楽が幸福の唯一の基準だとは考えない。例えば友情、愛、真理や自由など、快楽以外にもいろんな価値があると主張するだろう。
快楽主義はあまりにも限定的すぎるのである。

本当にそうなのだろうか。私は快楽ほど普遍的な幸福はないと思っている。きっと私と世の考える快楽には定義に大きな隔たりがあるのだろう。まず、私が考える快楽とは何か定義を試みるべきだろう。

一番素朴な快楽主義は、感覚的快楽説と呼ばれるものである。この立場は、五感で感じられる快感を快楽と見なす。言うまでもなく、この快楽の定義は狭すぎるだろう。これ以外にも例えば知的・精神的な快楽があるし、エピクロスが追求した快楽のように、平静の境地としての快も存在する。快楽主義が限定的すぎるという最初の批判はこの素朴な説に対するものだ。

 

1.2 活動的快楽について

対して、私が考える快楽は私が活動的快楽(以後快活と略称する)と呼ぶものである。快活とは何か、それは字義通り快く活動する経験ができること、つまり活動が妨げられずに経験できることである。とはいえ、活動と言ってもいろいろある。私が快活の基準とする活動は、自らの本性や個性に従った自由な活動である。
例えば私は数学が得意だが、その能力を活かして首尾よく思考できている状態、これこそが私にとっての快活である。また、私は他人と一緒に遊ぶよりも一人で物思いにふける方が好きだが、この個性に従って物思いにふけることも快活である。しかし、そんな私であっても人間である限りは社会的である、友達と会話で盛り上がるのは快活である。また、知的好奇心も人間の本性だから、真理を追究することも快活である。もしくは無目的で衝動的な生命活動に基づく、動物的(基本的な)なレベルの快活もある。例えば身体や脳が活発に働き、元気だったり頭の回転が速いことも快活である。

では快活の反対はなんだろうか。例えば苦手なことをさせられるときや、好きじゃないことを強制される時がそれである。しかし、したくないことを強制されるだけではなく、なにも出来ないことによっても、自由な活動は阻害される。前者は苦行、後者は陰鬱もしくは退屈と呼ぶべきものだろう。これらを合わせて苦とよぼう。

以上にみたように、本性や能力というのも多面的な概念で、基本的で動物的なものから人間的で高度なものまで様々な階梯がある。それに応じて快活の概念も内容豊かなものとなるのであり、感覚的快楽には含まれるとは限らなかった様々な幸福をも包摂する概念なのである。

 

1.3 中庸について

では、数あるうちの、どの(本性にしたがった)活動をしているときが最も快活か、という比較の問題が出てくるように思われる。しかし、それに対して私は、何か最善な活動があるわけではなく、様々な活動の間に成り立つバランスが重要だと考える。

例えば、私は数学が好きとは言え、ずっと数学をしていたいわけではなく、哲学もゲームもしたいのである。両者の間には程よいバランスというものがあるだろう。個性や本性に応じて、このバランスは如何なる活動の間にもあり、最適なバランスが達成された活動(の配分)を中庸と呼ぶことにしよう。この中庸な(様々なものから成る)活動の状態こそがもっとも快活なのである。これは日ごろの経験ともよく合致する。何をするにも程よい限度というものがあるし、躁のように気分がハイになりすぎるとかえって苦痛である。快は強ければ強いほどいいというわけではなく、調和を保った程度に保たれてこそ最善なのである。

 

※:最初の定義で、活動する「経験」ができることとした点に注意してほしい。活動はあくまで活動経験のことなので、それが首尾よく出来る快活とは、主観的な意識の域を出ない。

例えば、ある人Aがボランティア精神旺盛で、ボランティアを通じてBのためになろうとしたとする。このとき、Aの活動が裏目に出てBが迷惑しつつも、Aの善意に感謝するためBが有り難いふりをしてAがそれを知らないとする。この場合、ボランティアを通じてBのためになるという、Aの活動は「事実上は」成り立ってはいないのだが、Aの「意識上は」成立している。つまりAは快活である。Aが快活かは、彼のやっていることが現実にBのためになるかではなく、そのようにAが意識しているか次第で決まるのである。だから、快活は意識状態に過ぎないのである。

 

2.快楽と他の幸福の比較

次に、以上に定義した快が普遍的な幸福であることを示すために、快楽と、快楽以外に皆が追求する善を比較しようと思う。そのうえで、快楽以外の善も快楽に含まれるか、追求するに値しないものであることを主張したい。

 

2.1 欲求の充足

世の人が快楽の追求よりも盛んに行うのが、欲の追求である。そのため、より多くの欲が充足されることが幸福であるという考え方(欲求充足説)の方が快楽主義よりも一般的であろう。
この考え方と私の立場とは同じではないものの、両者は包含関係にある。
欲求を追求することは自然であり、我々の本性の一つである。実際、欲を抱き欲を満たし、また新たな欲を抱くというサイクルは我々の生きる時間の大半を占めている。
程よい数の欲求を抱き、それらが速やかに充足されるとき、すなわちこのサイクルが首尾よく回るとき、それは欲望追求の活動が妨げなく盛んにおこなわれているということであり、それは即ち快活である。
以上より、欲の充足は快を生み出すことが示されるが、逆は必ずしも成り立たない。
例えば、ただ単に身体の調子が良かったり、気分がいいときや頭の働きが活発なときも、私の立場では(動物的な)快活に違いはないのだが、この時はなんの欲求も充足されていないのである。欲求は快の限定に過ぎず、快こそがより広い概念なのである
快は欲求よりも根本的でもある。実際、次のような例を考えてみればいい。持てるありとあらゆる欲求が成就すれども憂鬱で気分が晴れない人と、満たされない欲求があったり、欲求がそもそも無くても快活な人のどちらが幸せだろうか。欲求充足即ち善とする立場では前者がより幸せだろうが、この場合は明らかに後者の方が幸せであると同意いただけると思う。幸福に本質的なのは、欲求が充足されるか否かではなく、快活か否かなのである

 

2.2 意味

欲求の充足の次に世間の人が求めがちなのは、即ち「意味」である。彼らは自分の様々な活動のみならず、人生にすら意味を求めたがる。
では意味とはなんだろうか。それは下の記事で説明した通り、外部とのつながりのことである。

生の「意味」について - 思考の断片
例えばもし仕事で行う作業(事務作業)の外に、目的(顧客満足や将来の稼ぎ)がある場合、その仕事には意味があるのである。もし私の人生が、(私が死した後もなお、)他人の人生や外部の世界とつながり(影響)を持つ場合、私の人生には意味があるのである。
対して、快活というものは私自身の刹那的で自己完結した幸福である。他人や世界や私の未来に好影響をもたらさずとも独立した善さを持っているのである。

さて、このように意味と快は関係的/自体的、世界的/心理的顕著な二項対立関係にある。とはいえ、両者に接点がないことはない。
意味、社会や他人とのつながりを求めるのも我々の人間の本性と言ってよい。「人間」はその言葉のとおり、他者との関係に生きようとする生き物だからだ。従って意味ある活動も、その意味が実感される限りで快活であると言わなければならない。
ただ、両者には大きな隔たりもある。意味は客観的な他人や世界の状態に左右される。例えば※の例ではAのボランティア活動は、「実際に」Bのためになっていないという理由で、「Bのためになる」という意味を獲得し損なっている。対して快活は主観的な意識状態であり、意味があるように期待されることが快活の要件なのであり、A自身はBの役にたてたと「信じて」活動できている限りはAは快活なのである。

このように、幸福が世界の客観的な状態に左右されるか、それとも自分の主観的な意識経験の状態だけで決まるかという点で「意味」と「快」を重んじる立場は決定的に異なる。もし前者に該当して後者に該当しないような幸福があるのだとすれば、私の考える快はそのような幸福を捉え損ねていることになるだろう。

しかし、私は世界の状態がどうあろうと、それが私自身に経験されなければ幸福にとって取るに足らないことだと思う。例えば、仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲求したとして、その病人の病気が私の知らないところで治ったところで私の幸福に少しでも資するだろうか、否である。その病人が治ったと私が知ったときに初めて私は幸福になるのである。このように、欲求は事実の上で満たされた時ではなく、主観的に満たされたと信じられてこそ快や満足感を生むのであるから、後者こそが幸福と呼ばれてしかるべきだろう。

 

※意味を善とする立場に対する私の違和感は、このように私が経験できないことに価値を認めてしまっていることにある。人の役に立ちたいという意味を追求する気持ちはわかる。しかし、役に立っていると思えればそれで十分であり、その信念に反して実際には役に立っていなかったとして、何の問題があるだろうか。
上の記事でも述べたように、経験の彼岸に善を求めるような態度は卑しいものだと思う。善は経験されてこそ善なのであり、それで満足出来る人は、経験されないけど実はあるというような善を措定する必要がない。それをわざわざ措定するのは、善いとはとても言えない自分の惨めな活動ないし人生に対する単なる慰めに過ぎないのではないだろうか。そのような欺瞞に陥るくらいなら、惨めな自分の人生を直視して不幸になったほうがマシである。

 

2.3 道徳的善
私の立場に対して考えられる批判として、単なる利己的快楽主義に堕しているというものが考えられる。我々は時に道徳的に振る舞うことに満足感を覚えはするし、限定的とはいえ道徳的に振る舞うことは我々の自然な本性であるともいえる。しかしそれもあくまで部分的に過ぎず、道徳と利己心はしばしば衝突する。また、時々行う道徳的行動でさえも、道徳に対する尊重からではなく、利己心の延長として行われるものに過ぎないことになる。私の快楽主義は道徳と一致しないばかりか、道徳を尊重していないではないかと批判されるかもしれない。
しかし、私はこのような道徳主義的な批判に対しては、下の記事で行ったように道徳そのものを批判したいところである。

道徳について - 思考の断片
道徳は各々の利己的な幸福追求が衝突しないための調整手段に過ぎず、それ自体が目的もしくは善ではないのである。道徳的に振る舞った方が他の要素を考慮して結果的に幸福になるに過ぎず、道徳を目的と取り違えることはかえって善く生きることの阻害ないし抑圧になると思う。

 

3.まとめ

以上に述べた私の快楽主義以外の幸福観に対する反論は、いずれも個人的の域を出ないが、私の立場を明らかにするには十分であったと思う。


まず、欲の充足を快活の一種と認めながらも、高度な欲求よりも、動物的な快活をより根源的なものと見なし、人間的であると同時に社会的な「意味」を限定的にしか幸福として認めなかったことは、私の動物的な幸福感の現われだろう。私は快活とは要するに、自然本性から生じた衝動が阻害されないことだと思っている。衝動の高度化したものが人間的な欲求であると考えているので、欲求の充足は快活の延長上にある。だからといって、より高度な欲求の充足に重きを置くわけではなく、かえってより基本的な衝動の実現、つまり快活に重きを置き、欲求の充足は快活の手段に過ぎないと考えるのである。

また、私の幸福感は主観主義的である。道徳の手段化は言うまでもなく、世界の在り方よりも自分の心理状態を幸福の基準にする点においてこの傾向は顕著である。私がよく生きるとは、他でもない私自身にとって、私が善く生きることに他ならないのであり、客観的な観点はどうでもいいのである。

現代人の求める幸福は、人生の意味なり目的(欲)の実現なり、あまりに人間的、意図的に過ぎる。もっとのびのびと、無為自然に動物的に生きてもいいのではないだろうかとしばしば思う。

観照的に散歩すること

私はツイッターでは「観照的散歩家」というハンドルネームを用いている。この記事では、この造語の意味するところを説明したいと思う。

 

1.「散歩」について

散歩とは、刹那的な趣きに基づく遊びのことである。つまり、目的による作為によるところなく、それが自然だからこそ行われるような活動を指す。私は、人は誰しも、他のものに阻害されなければ従うような本性あるいは自然(nature)を、各々が有していると考える。この自然に従い為される活動を名付けて、散歩と呼ぶのである。

 

2.「散歩」と目的を持った活動との二項対立

散歩に対立する概念は、目的を持った活動である。この典型が、目的地への最短距離、最短時間による移動である。このような目的地に到達するための手段となっては、結果ばかりが問題とされ、過程はないがしろにされがちである。例えば、本来ならば、周りの景色を眺めながら回り道をゆったり歩きたいところ、殺風景な一直線を走ることになりかねない。

目的を持った活動全般についても同じことが言える。本来は自分がしたいような仕方でしていたであろう活動に対し、合理的だが必ずしも意にそぐわない方法で取り組むことを、目的は強いるのである。

ここで、散歩は自由、つまり己の自然に由る活動であるのに対して、目的を有する活動は、活動の外部の目的に強いられたもの、つまり他律的で不自由なものだということができる。

また、散歩はそれ自身が目的として行われるが、他の目的のためになされる活動は単なる手段に過ぎない。したがって、散歩はそれ自体善い活動であるのに対して、手段的な活動の価値は、外的な目的の価値から派生した借り物に過ぎない。それはどこまでも外在的、非本質的な善に過ぎないのである。 

他の目的に従属した活動は不自由であり、その善さもどこまでも第二義的である。対して私が「散歩」と呼ぶ活動こそが、自由と善を兼ね備える。

 

3.善は唯一「散歩」のような活動の内にある

善は、経験されずして善くあることは不可能である。どんなに素晴らしい芸術作品があったとしても、誰もそれに触れることがなければ、その芸術の素晴らしさはないも同然だ。
従って、善は、(金銀財宝などのような)モノ自体の中に存在せず、(財貨の恩恵を享受するような)経験をすることの内にある。この経験も、受動的な知覚と能動的な活動にわかれるが、前者の場合、善が経験の内にあってもその原因はあくまで外部にある。その原因とともに善が内在するのは、活動以外にはない。

従って、先に述べたことから、とくに、散歩のような活動にこそ善は唯一内在する

 

4.観照は、「散歩」の一種である。

よく生きること(その2) - 思考の断片

観照という活動については上の記事で述べた。そこでは様々な特徴づけをしたが、観照とは、自分と対象の境目がなくなるほど美や知に没頭する経験のことを指す。そこには自分と対象を分かつなんの利害関心や目的意識もなく、自分が物自体や美そのものと一体となり遊び踊っているのである。これも、「散歩」の一種と言えるだろう。

 

5.私は、善く生きたいと常々思っているが、そのためには3.より「散歩」のごとく人生を歩むのがいいと考える。この散歩の形態にもいろいろあるだろうが、私の場合は実利を忘れて観照的活動に興じることが一番楽しく面白く、本性に合っているようである。

 

6.以上に述べた考え方は、アリストテレスの影響によるものだと思っている。「人間にとって善とは、生涯を通じての魂の最高の最も優れた活動である」という名言の通り、彼も善や幸福を活動のうちに、そしてもっぱら観照的な活動のうちに認めている。「観照的」に散歩するのだ、とする私のスタンスも、彼に大きく影響されたものだと思う。

世界を憎んで人を憎まず

世の人はよく他人を責め、憎む。面と向かって他人に対して怒ることもあれば、陰で悪口を言うこともあり、その形態は様々だが、悪を他人に帰属させているという点では共通している。

対して私は、害悪をもたらす他人を避けることはあるが、その害悪の根源をその人自身には認めない。むしろ、彼を害悪をなすように強いた環境、ひいてはこの世界全体こそが悪の元凶だと考える。

例えば他人の配慮を欠いた行為で不快感を被ることがあった場合、その行為の直接的な原因は行為者であるその人ではあるが、彼がそのような行為に至るのにもさらなる原因があるはずだ。

このように根本原因を求めていくと、他人に配慮している余裕がないほど劣悪な環境で育ったり、生まれつき発達障害を患っていたり等、かならずその人には帰属しない原因に辿り着く。そして最終的には、本人が望まないにも関わらず、悪しき障害を持って生まれ、悪しき環境で育つことを強いられるようなこの世界こそが、全て悪の原因ではないだろうか、といつも思うのである。

 

こうした環境や世界にある人の悪の原因を求める考え方には、きまって彼は「自由意志」でなんとかしようがあったではないか、という反論がなされる。確かに、もし同じ劣悪な環境に育っても、人によって育ち方は様々である。努力して生まれの悪さを克服する人もいれば、怠けて環境に流される人もいる。

しかし、この努力ができるか否かを含め、全てが人の意思に由らないところで決まっているとする決定論を私は取り、この決定論と相いれないような「自由意志」を否定する

量子力学における波動関数の収縮という非決定性を持ち出して決定論を反駁するのは自由だが、私は波動関数の収縮で取りうる固有値も、不可知にしろ、全て決まっているとする立場である。また、仮に決定論が誤っているとしても、微粒子の確率的な挙動は、自由意志の存在を保証するどころか、脅かすものである。なぜなら、確率的な挙動は、意志した通りに従わないもので、思った通りになること、つまり意志の自由を阻害するからだ。決定論が正しいか否かに関わらず、何にも決定されないという意味で自由な意志など、存在しないとするのが私の立場だ。

さて、私のこの考え方によれば、全ての悪行は(善行も)、ある人が自らを原因として行ったものというより、環境や世界により、行うよう仕向けられたものになる。実際、世界がこれほど酷くなければ、どれだけの悪事や悲劇が避けられたことだろうか?

例えば、もし熱力学の第二法則が成り立たず、自由エネルギーが限りなく生み出されたとすれば、限られた資源を奪いあう争いや競争は起きなかっただろうし、心身を削る労働を強制されることも、それに関するトラブルもなかっただろう。逆に言えば、争い、盗み、妬みなど、資源の有限性に起因する諸悪は、全て世界が従うこの法則により決定づけられているといえる。

いかなる悪も、大本を問えばこの世界がかくも理不尽に、過酷にできているからこそ生じたものであり、悪行をなした人というのは加害者であるというよりも、害を加えるべく強いられた被害者なのである。我々は皆等しく、この悪しき世界の犠牲者なのである

 

しかし、このように「全ては世界が悪い」と、全ての悪の原因を大本の世界に帰してしまうと、悪をなした人に行為の責任を問うことが出来ないと懸念する人がいるだろう。私もこの「責任」が必要な概念であることに異存はない。なぜなら、なした悪行の責任が問われ、制裁が課されることがなければ、抑止が出来ないからである。

だが、責任を基礎づけるために、決定論と相いれない自由意志をわざわざ持ち出す必要はない。例え我々が全ての行為が決定されていようと、悪いことをしないように決定するために、責任と紐づいた制裁をちらつかせることは十分に意味はある。責任とは、悪いこともできる行動の自由と引き換えに課せられる、悪事に対する制裁の可能性であり、悪行や過失に対する抑止力である

この責任から逃れられるのは、悪いことをするか否かを選択する能力の無い人や、制裁として課せられた義務を履行できない人である。彼らに対しては責任による抑止は無用である、したがってそもそも悪いことをする行動の自由を、例えば物理的な手段で制限するのである。(犯罪に走ってしまいかねない知的障碍者を「入院」させるのはその一例である。)

以上で述べたように、自由意志という偽造貨幣が無くても、「行動の自由」と「責任」のセット販売は自由にできるのである。

ただ、(全ては「世界のせい」なのだから)上で述べた責任の概念は、悪行の抑止のための方便としての意義しか持ちえないだろう。善や悪が誰かのせいやおかげであることにするのは、悪を抑止し、善を奨励するためのインセンティブに過ぎない。

 

以上に述べた私の倫理観には確かな道徳的な効用がある。悪いことを人のせいにして責めることがないから、他人の悪に対して寛容になれるだろう。だからといって悪を看過するわけではなく、怒りや憎しみといった負の感情を排し、責任の概念を利用することで冷徹に悪の抑止に努めることができるのである。

厭世的な私の立場に比べ、世界が祝福されていると考える楽天主義や、社会が公正にできているとする信念の類は一見ポジティブに見えるだろう。しかし、世界を告発せずに、悪を自己責任に帰して責めがちなこれらの態度は、不寛容で厳しい一面も持つ。なるほど優しさだけではこの世界で生きられないだろう、だが、それゆえに私はこの世界を究極の悪者扱いしているのである。

私の独我論について

我々は、他者の存在を信じて疑わない。確かに身体という物体としては、他人の存在は疑いようもなく知覚される。ただ、我々は単に物体としてではなく、意識を持ち経験をする者としても他人の存在を信じる。

しかし、経験する他者や他者の経験は、経験の中に見出されない。我々が他者の経験という場合、それは単なる自分の想像に過ぎず、他人ではなく自分の経験だからだ。しかし、自分と同じく、しかし別個に意識を持った「他者」の存在を我々は信じて疑わない。疑いえるにもかかわらず。

 

1.なぜそのような非経験の存在を信じて敢えて疑わないのか、そこには敢えて疑わないような理由があってしかるべきだろう。以下で自分なりの説明を与えようと思う。 

 

まず、我々は社会的動物として、人間関係の中に生きようとする存在である。人間関係とは、人と人との対等な関係であるから、自分と同じく意識を持ち、経験する主体としての「他者」との関係である。もし相手が身体という単なる対象に過ぎないのなら、相手は一方的に利用されるだけのモノも同然だろう。互いに、相手に自分と同等の存在資格(主体性)を認め、自分自身と同様に尊重するような関係こそが人間を規定する。

このように、「他者」と尊重しあって関わりたいという社会的欲求には他に何の目的もなく、それ自体が目的である。その理由をあえて言うならば、我々が人間としてそう欲するようにできているからとしか言いようがない。食べ物や水を欲するのと同じくらい、この意欲は基本的なものである。

 

ところで、この人間関係を持つには、上に述べたような「他者」が存在しなければならない。言うまでもなく、関係するためには相手が必要だからである。そして、人間として関係したいという意欲は根本的であるから、「他者」に存在して欲しいという強い要請が生じる。しかし、「他者」なるものは経験の中に見出されない、従って「他者」を措定して一から作り出す必要があり、実際に我々は互いを措定しつつ社会生活を行っているのである。

※措定とは、実際には存在しないものの概念を形成し、それがあると信じる(あるかのような実践的態度をとる)ことである。例えば神を信仰し措定する者は、存在しない神がいるかのように律法を守って生きる。

 

この「他者」という存在は、確かに指示対象が経験の中にない概念に過ぎない。目の前にあるリンゴとは異なり、その存在は空虚である。しかし、我々が人間として生きたい以上、「他者」に存在してもらわないと困るのであり、敢えて疑うことをしようとは思えないのである。このように、「他者」は決して目の前のリンゴのような、客観的な確実性を備えているわけではないが、人間として生きたい我々にとって、主観的には確実この上なく、それゆえに強い実在性を備えているのである。

 

2.以上に述べたのは、私の独我論に関する立場そのものである。

①一方で、私は自分以外の他者の経験が存在することを認めない。あるのは、(本来は他がないのだから「自分の」と限定されるまでもない、)この唯一の経験である。我々が考える他人の経験も結局自分の想像に過ぎず、私の経験とは別の次元に展開される他者の経験というものは、無いのである。

②他方で、私は自分以外に、経験する他者の存在を信じて社会生活を送っている。それは以上に述べたような理由で他者を措定せずにはいられないからである。

 

ここで、①と②の両者が矛盾してはいまいかという疑念が生じるかもしれない

しかし、not①:他者が実際に存在すると考えることと、②他者の存在を信じることとは別である。前者は他者の存在を真だ(経験できる)とする命題的態度だが、後者は他者のことを慮って行動をするような実践的態度を意味するからである。他者が経験されないという立場を取る以上、他者が存在するという偽の命題を肯定するのは矛盾するが、その存在しない他者を尊重してふるまうことは無意味ではない。それは、他者の存在を否定するよりも有意義な生き方だから、我々が好んでとるものである。①と②は両立するのである。

これは、子供の行う人形遊びに似ている。彼は、①'人形に人格が無いと承知しながらも、②'人格があるかのように人形を扱う。なぜか、それは人格があると思った方が楽しいからである。

ただ、傍から見ればこの子供の遊びは滑稽に思えるだろう。彼が必死に人形の気持ちになりきっているにも関わらず、その人形の気持ちは実際には存在しないのだから。つまり、事実に反することがあたかも成り立つかのような前提で行われる実践は、滑稽あるいは不合理なのである。

存在しない他者との関係の中に生きることも同じく滑稽である。しかし人形遊びに熱中する子供のように、その滑稽さにも増して「人間関係ごっこ」にはやりがいがあるのだから、それをやめる理由は無いのである。

 

私は、①の立場を取る点で、無いものを在ると思い込む不誠実を犯していない。そして、②のとおり他者を信仰することで、①の(理論的)独我論が自らの社会性を損なうのを防いでいる。これにより、知的な誠実性と、自身の意欲に対する誠実性を矛盾なく両立出来ていると考えるが、皆はどう思うだろうか。

善と有用性について

あらゆる活動は二種類に分類される。①それ自身のために行われる活動と、②他の目的のための手段として行われる活動に。


善い活動があるのだとしたら、それは本来①に属するべきものである。善は他の何を持ち出すまでもなくそれ自体のゆえに望ましいものだから、①しか該当するものがないからである。これには例えば、前に挙げた観照や、遊び、成果を目的としない創作活動があげられるだろう。これらは自らが主体となる能動的な活動だが、娯楽や飲食などの消費活動も、他に目的を持たないという点で、これにあてはまる。

対して②の意味で善い活動は、その目的が善いがゆえにそうであるに過ぎない。その善さは目的の善から派生したものに過ぎず、財の利用価値ゆえに生まれる貨幣の交換価値のように、第二義的なものである。それらは善いというよりは、何らかの目的に対して有用であるとか、役に立つと呼ぶべき類の活動だろう。有用な活動は、我々が生活や仕事で行う大半のことを占める。労働にしろ、家事にしろ、ある望ましい結果の手段として行われる活動は全て、有用である。

 

次に両者の相違点を述べる。

・①善い活動は、ほかの目的を引き合いに出すまでもなくそれ自体が善い、つまり善は絶対的である。対して、「無用の用」の故事成語にあるように、何を目的とするかの違いによって、有用なものが無用となり、無用なものも有用に変わりうる。つまり②有用性は他の目的ありきの相対的な概念なのである。

・②有用な活動は、アウトプットありき、つまり客観的な成果物を目的とすることがほとんどである。したがって重点は、過程よりも結果、アウトプットにある

対して、①善い活動はアウトプットを伴うことがあっても、アウトプットを生み出すために活動するのではなく、むしろより善く活動するためにアウトプットを行うのであり、重点は結果よりも、活動そのものの過程にある。

例えば、考える過程そのものを楽しみたいという場合でも、明晰に思考できるためには、思考内容を文章にアウトプットすることが必要となるだろう。しかしこのアウトプットは考える目的ではなく、あくまでよく考えるための補助手段である、つまり書くために考えるのではなく、考えるために書くのである。

 

以上に述べたことから、①善の、②有用性に対する優位は明らかである。にもかかわらず、現代では何かにつけ、①善が軽視され、②有用性、つまり役に立つアウトプットが求められがちである

・まず、遊びや哲学・芸術活動のように本来は①それ自身善いから行われることに対しても有用性を問い、「役に立たない」ことを揶揄する声が絶えない。①の類の善き活動は、むしろ他の目的に役に立たないからこそ、それ自身を目的とする善であるというのに。

・また、「プロ信仰」も有用性偏重の一形態である。②金が稼げる有用性のゆえに活動を行うプロを、①非営利でも楽しいから活動を行うアマチュアよりも上に見る風潮は、有用性を善に対して優位とする見方の表れである。

 

確かに、役に立たぬと切り捨てる人々にとっては、他人の遊びはくだらなく、哲学や芸術もなんも面白くはないのかもしれない。他人にとっては善い活動でも、自分にとって善くなければ、残りの価値である有用性を問うのも不思議ではないことだ。

しかし、なかには、自分のなすことの全てを、一々コスパや効率など有用性の尺度で計ろうとする人々がいる。一体彼らは、それ自体楽しいからするような活動に没頭したことはないのだろうか。もしそういった経験があれば、そのような活動の善さは、有用性の尺度では計れないことを知っているはずである。

 

もし彼らが楽しみとするような活動がないのだとしたら、彼らは一体何のための有用性を追求しているのだろうか。我々は生きることを楽しむためにこそ、有用な仕事や生活をこなしているのではなかったのか。
だが確かに、有用性は善の追求のためだけにあるわけではない。悪を、つまり面倒や苦しみを避ける助けとなることもまた有用である。もし彼らが善とすることがないのならば、彼らが有用な活動にばかり勤しむのは、悪を避けるためであると説明がつくだろう。


このように、ただ悪を避けるための有用性にとらわれることは病理以外のなにものでもない。もし悪を避けることが目的ならば、生きることをやめることが最も有用な手段であり、悪を避けるべく生きるというのは、根本から破たんした生き方だからだ。確かに、病気に苦しんでいる状態ではしたいこともろくにできないように、悪がないことは善の前提条件かもしれないが、それは本来目的ではなくて手段に過ぎないはずだ。にもかかわらず、それが目的と化してしまったのは、本来の目的である善を見失ってしまったからではないだろうか。

 

この有用性至上主義ともいうべき病理が蔓延する現代社会の背景には、必要や規範で雁字搦めになり、自由に善を追求できない社会環境があるように思う。今日、我々の日常は「~しなければならない」で一杯である。我々は多くの財やサービスを必要とし、それらを入手するためにたくさん労働しなければならない。そのためには定刻通りに出勤しなければならないし、与えられた仕事をこなさなければならない。またちょっとした社会規範からの逸脱も許されず、インターネット等で激しい非難の対象となる。そして、このような仕事や規範をそもそも形作る、経済や法律は、我々をそのような必要や義務から自由にするどころか、より多くのニーズの虜とし、より多くの法規を強制する方向に発展している。

このような否定性にあふれた社会においては、皆が悪を避けること、つまりしなければならないことを行い、してはならないことを避けることに専念する不自由のあまり、したいことを自由に追求をする余裕がなくなっているのではないか。本来は人間をより自由にするために存在する社会や経済が、結果として人間をますます必要と義務に束縛された不自由な存在に貶めている現状は、制度設計の誤りであるとしか言いようがない。

必要について

我々の人生は必要なことで一杯である。基本的な衣食住を必要とするだけではなく、我々を実存的に支える友人、恋人や家族であるとか、時に人生の意味をも必要とする。

(金銭で計れるものに限っても)これらの必要がいかに巨大であるかは、一般的な生涯賃金が少なくとも2億円を超えることを見ればわかるだろう。稼ぎのすべてが必要を賄うために生活費として用いられるわけではないにしろ、我々の日常的な必要は、巨額な負債となってのしかかってくるのである。我々は必死に働いてこの負債をローンで返済する債務者に等しい。

 

1.まず、このような必要が害悪であり、無いに越したことはないと主張しよう。 

 ・必要とすることは、必要とする本人にとって悪である

何かを必要とすることは、それが無い事態に対する絶対的な否定である。つまり、それが無いことが、端的に悪いということである。だが逆に、その何かが存在することは端的に善いというわけではない。その何かがあっても、単に無い場合に比べて相対的に良いに過ぎない。例えばある人が食べ物が「必要である」という場合、その人が食べ物の無いことを避けたいことを意味するにすぎず、食べ物があることが素晴らしいと言っているわけではない。

ゆえに、何かを必要としても、それを得られない苦しみの可能性が生じるだけである。それが得られた場合も、消極的なメリット(苦しみが回避される)があるだけで、何も得るものがないからだ。したがって、何かを必要とすることは本人にとって端的に悪いことである。

 

また、何かを必要とするとは、それなしで済ませられないことだから、すなわちそれを得るために行動せざるをえないことである。しかも、それが欲しいという自発的な意志のためではなく、それが無ければ酷い目に遭うという理由で、行動を強いられるのである。したがって、必要に迫られることは、明らかな不自由である。

 

他者を必要とすることは、その人を手段として見なすことである

誰かを必要とすることは、その人を目的として求めることではなく、その人がいないと困るから、彼を用いて埋め合わせることに他ならない。

例えば仕事で誰かを必要とする時、その人を人として求めているわけではない。あくまで、助けが無くて自分の仕事がうまくいかないという事態を、その誰かを利用して回避しようとしているに過ぎない。

したがって、誰かを必要とすることはその人を手段としてみなすことであり、それは人間の尊厳に対する一種の冒涜である。なぜなら、人間を目的として尊重することが、全て倫理の基礎だからである。

 

2.何事も必要としないに越したことは無いとする態度は、無欲で消極的な態度であるように思えるが、両者は全く異なる態度である。以下では、必要とすることと欲することが、全く別の態度であることを示す

 

何かを必要とすることは、その何かが無い事態を避けようとすることだったが、何かを欲するということは、それを目的として直接追求することである。

したがって、欲することのほうが、必要とすることに比べて肯定的な態度である。なぜなら、満たされなかった場合の苦しか伴わない否定とは異なり、欲は満たされた場合の喜びを主に伴うからである。欲するものが得られなかったとき、確かに少々否定的で残念な気分になるとはいえ、必要が満たされない場合のような甚だしい苦痛はない。

加えて、必要とすることに比べ、欲することは主体的な態度である。何かを必要することは、それが無い事態を仕方なく避けようとする態度であるのに対して、何かを欲することはその何かを自ら意志することだからである。何かを必要とすることにおいて重要なのは、それが無いことを避けるという結果である。対して、何かを欲することの本質はその態度にあり、欲するものを手に入れられるかという結果は付随的に過ぎないのである。

したがって、不自由な必要とは異なり、欲することはどちらかといえば自由な態度である。まず、外的な事物を欲するのは我々の生物としての本性である。欲するよりも、無欲でいるほうが自身の自然に逆らった不自由だろう。

また、欲することは自由を前提とする。何にも不自由していない時にこそ、欲が生まれるからである。例えば、病弱時の無気力のように、精神的・肉体的に不自由している時にまして、我々の欲が衰えることはない。自由に欲するよりも先に、まず不自由から解放されることが必要とされるのである。

 

3.したがって、何事も必要としないに越したことはなくとも、善い事物は欲するに越したことはなく、これらの態度は矛盾しない。それどころか、必要から自由になってこそ、真に何かを欲することができるのである。

例えば、ある人が病気の時鎮痛剤を欲しがるからと言って、彼が真に(自由に)鎮痛剤を欲しているわけではない。むしろ彼は、鎮痛剤を欲しがるように病気に強いられているのであり、それは欲ではなく単なる必要に過ぎないのである。このような不自由とは関係なく求めることこそが、欲すると呼ぶにふさわしいのである。