観照的に散歩すること

私はツイッターでは「観照的散歩家」というハンドルネームを用いている。この記事では、この造語の意味するところを説明したいと思う。

 

1.「散歩」について

散歩とは、刹那的な趣きに基づく遊びのことである。つまり、目的による作為によるところなく、それが自然だからこそ行われるような活動を指す。私は、人は誰しも、他のものに阻害されなければ従うような本性あるいは自然(nature)を、各々が有していると考える。この自然に従い為される活動を名付けて、散歩と呼ぶのである。

 

2.「散歩」と目的を持った活動との二項対立

散歩に対立する概念は、目的を持った活動である。この典型が、目的地への最短距離、最短時間による移動である。このような目的地に到達するための手段となっては、結果ばかりが問題とされ、過程はないがしろにされがちである。例えば、本来ならば、周りの景色を眺めながら回り道をゆったり歩きたいところ、殺風景な一直線を走ることになりかねない。

目的を持った活動全般についても同じことが言える。本来は自分がしたいような仕方でしていたであろう活動に対し、合理的だが必ずしも意にそぐわない方法で取り組むことを、目的は強いるのである。

ここで、散歩は自由、つまり己の自然に由る活動であるのに対して、目的を有する活動は、活動の外部の目的に強いられたもの、つまり他律的で不自由なものだということができる。

また、散歩はそれ自身が目的として行われるが、他の目的のためになされる活動は単なる手段に過ぎない。したがって、散歩はそれ自体善い活動であるのに対して、手段的な活動の価値は、外的な目的の価値から派生した借り物に過ぎない。それはどこまでも外在的、非本質的な善に過ぎないのである。 

他の目的に従属した活動は不自由であり、その善さもどこまでも第二義的である。対して私が「散歩」と呼ぶ活動こそが、自由と善を兼ね備える。

 

3.善は唯一「散歩」のような活動の内にある

善は、経験されずして善くあることは不可能である。どんなに素晴らしい芸術作品があったとしても、誰もそれに触れることがなければ、その芸術の素晴らしさはないも同然だ。
従って、善は、(金銀財宝などのような)モノ自体の中に存在せず、(財貨の恩恵を享受するような)経験をすることの内にある。この経験も、受動的な知覚と能動的な活動にわかれるが、前者の場合、善が経験の内にあってもその原因はあくまで外部にある。その原因とともに善が内在するのは、活動以外にはない。

従って、先に述べたことから、とくに、散歩のような活動にこそ善は唯一内在する

 

4.観照は、「散歩」の一種である。

よく生きること(その2) - 思考の断片

観照という活動については上の記事で述べた。そこでは様々な特徴づけをしたが、観照とは、自分と対象の境目がなくなるほど美や知に没頭する経験のことを指す。そこには自分と対象を分かつなんの利害関心や目的意識もなく、自分が物自体や美そのものと一体となり遊び踊っているのである。これも、「散歩」の一種と言えるだろう。

 

5.私は、善く生きたいと常々思っているが、そのためには3.より「散歩」のごとく人生を歩むのがいいと考える。この散歩の形態にもいろいろあるだろうが、私の場合は実利を忘れて観照的活動に興じることが一番楽しく面白く、本性に合っているようである。

 

6.以上に述べた考え方は、アリストテレスの影響によるものだと思っている。「人間にとって善とは、生涯を通じての魂の最高の最も優れた活動である」という名言の通り、彼も善や幸福を活動のうちに、そしてもっぱら観照的な活動のうちに認めている。「観照的」に散歩するのだ、とする私のスタンスも、彼に大きく影響されたものだと思う。

世界を憎んで人を憎まず

世の人はよく他人を責め、憎む。面と向かって他人に対して怒ることもあれば、陰で悪口を言うこともあり、その形態は様々だが、悪を他人に帰属させているという点では共通している。

対して私は、害悪をもたらす他人を避けることはあるが、その害悪の根源をその人自身には認めない。むしろ、彼を害悪をなすように強いた環境、ひいてはこの世界全体こそが悪の元凶だと考える。

例えば他人の配慮を欠いた行為で不快感を被ることがあった場合、その行為の直接的な原因は行為者であるその人ではあるが、彼がそのような行為に至るのにもさらなる原因があるはずだ。

このように根本原因を求めていくと、他人に配慮している余裕がないほど劣悪な環境で育ったり、生まれつき発達障害を患っていたり等、かならずその人には帰属しない原因に辿り着く。そして最終的には、本人が望まないにも関わらず、悪しき障害を持って生まれ、悪しき環境で育つことを強いられるようなこの世界こそが、全て悪の原因ではないだろうか、といつも思うのである。

 

こうした環境や世界にある人の悪の原因を求める考え方には、きまって彼は「自由意志」でなんとかしようがあったではないか、という反論がなされる。確かに、もし同じ劣悪な環境に育っても、人によって育ち方は様々である。努力して生まれの悪さを克服する人もいれば、怠けて環境に流される人もいる。

しかし、この努力ができるか否かを含め、全てが人の意思に由らないところで決まっているとする決定論を私は取り、この決定論と相いれないような「自由意志」を否定する

量子力学における波動関数の収縮という非決定性を持ち出して決定論を反駁するのは自由だが、私は波動関数の収縮で取りうる固有値も、不可知にしろ、全て決まっているとする立場である。また、仮に決定論が誤っているとしても、微粒子の確率的な挙動は、自由意志の存在を保証するどころか、脅かすものである。なぜなら、確率的な挙動は、意志した通りに従わないもので、思った通りになること、つまり意志の自由を阻害するからだ。決定論が正しいか否かに関わらず、何にも決定されないという意味で自由な意志など、存在しないとするのが私の立場だ。

さて、私のこの考え方によれば、全ての悪行は(善行も)、ある人が自らを原因として行ったものというより、環境や世界により、行うよう仕向けられたものになる。実際、世界がこれほど酷くなければ、どれだけの悪事や悲劇が避けられたことだろうか?

例えば、もし熱力学の第二法則が成り立たず、自由エネルギーが限りなく生み出されたとすれば、限られた資源を奪いあう争いや競争は起きなかっただろうし、心身を削る労働を強制されることも、それに関するトラブルもなかっただろう。逆に言えば、争い、盗み、妬みなど、資源の有限性に起因する諸悪は、全て世界が従うこの法則により決定づけられているといえる。

いかなる悪も、大本を問えばこの世界がかくも理不尽に、過酷にできているからこそ生じたものであり、悪行をなした人というのは加害者であるというよりも、害を加えるべく強いられた被害者なのである。我々は皆等しく、この悪しき世界の犠牲者なのである

 

しかし、このように「全ては世界が悪い」と、全ての悪の原因を大本の世界に帰してしまうと、悪をなした人に行為の責任を問うことが出来ないと懸念する人がいるだろう。私もこの「責任」が必要な概念であることに異存はない。なぜなら、なした悪行の責任が問われ、制裁が課されることがなければ、抑止が出来ないからである。

だが、責任を基礎づけるために、決定論と相いれない自由意志をわざわざ持ち出す必要はない。例え我々が全ての行為が決定されていようと、悪いことをしないように決定するために、責任と紐づいた制裁をちらつかせることは十分に意味はある。責任とは、悪いこともできる行動の自由と引き換えに課せられる、悪事に対する制裁の可能性であり、悪行や過失に対する抑止力である

この責任から逃れられるのは、悪いことをするか否かを選択する能力の無い人や、制裁として課せられた義務を履行できない人である。彼らに対しては責任による抑止は無用である、したがってそもそも悪いことをする行動の自由を、例えば物理的な手段で制限するのである。(犯罪に走ってしまいかねない知的障碍者を「入院」させるのはその一例である。)

以上で述べたように、自由意志という偽造貨幣が無くても、「行動の自由」と「責任」のセット販売は自由にできるのである。

ただ、(全ては「世界のせい」なのだから)上で述べた責任の概念は、悪行の抑止のための方便としての意義しか持ちえないだろう。善や悪が誰かのせいやおかげであることにするのは、悪を抑止し、善を奨励するためのインセンティブに過ぎない。

 

以上に述べた私の倫理観には確かな道徳的な効用がある。悪いことを人のせいにして責めることがないから、他人の悪に対して寛容になれるだろう。だからといって悪を看過するわけではなく、怒りや憎しみといった負の感情を排し、責任の概念を利用することで冷徹に悪の抑止に努めることができるのである。

厭世的な私の立場に比べ、世界が祝福されていると考える楽天主義や、社会が公正にできているとする信念の類は一見ポジティブに見えるだろう。しかし、世界を告発せずに、悪を自己責任に帰して責めがちなこれらの態度は、不寛容で厳しい一面も持つ。なるほど優しさだけではこの世界で生きられないだろう、だが、それゆえに私はこの世界を究極の悪者扱いしているのである。

私の独我論について

我々は、他者の存在を信じて疑わない。確かに身体という物体としては、他人の存在は疑いようもなく知覚される。ただ、我々は単に物体としてではなく、意識を持ち経験をする者としても他人の存在を信じる。

しかし、経験する他者や他者の経験は、経験の中に見出されない。我々が他者の経験という場合、それは単なる自分の想像に過ぎず、他人ではなく自分の経験だからだ。しかし、自分と同じく、しかし別個に意識を持った「他者」の存在を我々は信じて疑わない。疑いえるにもかかわらず。

 

1.なぜそのような非経験の存在を信じて敢えて疑わないのか、そこには敢えて疑わないような理由があってしかるべきだろう。以下で自分なりの説明を与えようと思う。 

 

まず、我々は社会的動物として、人間関係の中に生きようとする存在である。人間関係とは、人と人との対等な関係であるから、自分と同じく意識を持ち、経験する主体としての「他者」との関係である。もし相手が身体という単なる対象に過ぎないのなら、相手は一方的に利用されるだけのモノも同然だろう。互いに、相手に自分と同等の存在資格(主体性)を認め、自分自身と同様に尊重するような関係こそが人間を規定する。

このように、「他者」と尊重しあって関わりたいという社会的欲求には他に何の目的もなく、それ自体が目的である。その理由をあえて言うならば、我々が人間としてそう欲するようにできているからとしか言いようがない。食べ物や水を欲するのと同じくらい、この意欲は基本的なものである。

 

ところで、この人間関係を持つには、上に述べたような「他者」が存在しなければならない。言うまでもなく、関係するためには相手が必要だからである。そして、人間として関係したいという意欲は根本的であるから、「他者」に存在して欲しいという強い要請が生じる。しかし、「他者」なるものは経験の中に見出されない、従って「他者」を措定して一から作り出す必要があり、実際に我々は互いを措定しつつ社会生活を行っているのである。

※措定とは、実際には存在しないものの概念を形成し、それがあると信じる(あるかのような実践的態度をとる)ことである。例えば神を信仰し措定する者は、存在しない神がいるかのように律法を守って生きる。

 

この「他者」という存在は、確かに指示対象が経験の中にない概念に過ぎない。目の前にあるリンゴとは異なり、その存在は空虚である。しかし、我々が人間として生きたい以上、「他者」に存在してもらわないと困るのであり、敢えて疑うことをしようとは思えないのである。このように、「他者」は決して目の前のリンゴのような、客観的な確実性を備えているわけではないが、人間として生きたい我々にとって、主観的には確実この上なく、それゆえに強い実在性を備えているのである。

 

2.以上に述べたのは、私の独我論に関する立場そのものである。

①一方で、私は自分以外の他者の経験が存在することを認めない。あるのは、(本来は他がないのだから「自分の」と限定されるまでもない、)この唯一の経験である。我々が考える他人の経験も結局自分の想像に過ぎず、私の経験とは別の次元に展開される他者の経験というものは、無いのである。

②他方で、私は自分以外に、経験する他者の存在を信じて社会生活を送っている。それは以上に述べたような理由で他者を措定せずにはいられないからである。

 

ここで、①と②の両者が矛盾してはいまいかという疑念が生じるかもしれない

しかし、not①:他者が実際に存在すると考えることと、②他者の存在を信じることとは別である。前者は他者の存在を真だ(経験できる)とする命題的態度だが、後者は他者のことを慮って行動をするような実践的態度を意味するからである。他者が経験されないという立場を取る以上、他者が存在するという偽の命題を肯定するのは矛盾するが、その存在しない他者を尊重してふるまうことは無意味ではない。それは、他者の存在を否定するよりも有意義な生き方だから、我々が好んでとるものである。①と②は両立するのである。

これは、子供の行う人形遊びに似ている。彼は、①'人形に人格が無いと承知しながらも、②'人格があるかのように人形を扱う。なぜか、それは人格があると思った方が楽しいからである。

ただ、傍から見ればこの子供の遊びは滑稽に思えるだろう。彼が必死に人形の気持ちになりきっているにも関わらず、その人形の気持ちは実際には存在しないのだから。つまり、事実に反することがあたかも成り立つかのような前提で行われる実践は、滑稽あるいは不合理なのである。

存在しない他者との関係の中に生きることも同じく滑稽である。しかし人形遊びに熱中する子供のように、その滑稽さにも増して「人間関係ごっこ」にはやりがいがあるのだから、それをやめる理由は無いのである。

 

私は、①の立場を取る点で、無いものを在ると思い込む不誠実を犯していない。そして、②のとおり他者を信仰することで、①の(理論的)独我論が自らの社会性を損なうのを防いでいる。これにより、知的な誠実性と、自身の意欲に対する誠実性を矛盾なく両立出来ていると考えるが、皆はどう思うだろうか。

善と有用性について

あらゆる活動は二種類に分類される。①それ自身のために行われる活動と、②他の目的のための手段として行われる活動に。


善い活動があるのだとしたら、それは本来①に属するべきものである。善は他の何を持ち出すまでもなくそれ自体のゆえに望ましいものだから、①しか該当するものがないからである。これには例えば、前に挙げた観照や、遊び、成果を目的としない創作活動があげられるだろう。これらは自らが主体となる能動的な活動だが、娯楽や飲食などの消費活動も、他に目的を持たないという点で、これにあてはまる。

対して②の意味で善い活動は、その目的が善いがゆえにそうであるに過ぎない。その善さは目的の善から派生したものに過ぎず、財の利用価値ゆえに生まれる貨幣の交換価値のように、第二義的なものである。それらは善いというよりは、何らかの目的に対して有用であるとか、役に立つと呼ぶべき類の活動だろう。有用な活動は、我々が生活や仕事で行う大半のことを占める。労働にしろ、家事にしろ、ある望ましい結果の手段として行われる活動は全て、有用である。

 

次に両者の相違点を述べる。

・①善い活動は、ほかの目的を引き合いに出すまでもなくそれ自体が善い、つまり善は絶対的である。対して、「無用の用」の故事成語にあるように、何を目的とするかの違いによって、有用なものが無用となり、無用なものも有用に変わりうる。つまり②有用性は他の目的ありきの相対的な概念なのである。

・②有用な活動は、アウトプットありき、つまり客観的な成果物を目的とすることがほとんどである。したがって重点は、過程よりも結果、アウトプットにある

対して、①善い活動はアウトプットを伴うことがあっても、アウトプットを生み出すために活動するのではなく、むしろより善く活動するためにアウトプットを行うのであり、重点は結果よりも、活動そのものの過程にある。

例えば、考える過程そのものを楽しみたいという場合でも、明晰に思考できるためには、思考内容を文章にアウトプットすることが必要となるだろう。しかしこのアウトプットは考える目的ではなく、あくまでよく考えるための補助手段である、つまり書くために考えるのではなく、考えるために書くのである。

 

以上に述べたことから、①善の、②有用性に対する優位は明らかである。にもかかわらず、現代では何かにつけ、①善が軽視され、②有用性、つまり役に立つアウトプットが求められがちである

・まず、遊びや哲学・芸術活動のように本来は①それ自身善いから行われることに対しても有用性を問い、「役に立たない」ことを揶揄する声が絶えない。①の類の善き活動は、むしろ他の目的に役に立たないからこそ、それ自身を目的とする善であるというのに。

・また、「プロ信仰」も有用性偏重の一形態である。②金が稼げる有用性のゆえに活動を行うプロを、①非営利でも楽しいから活動を行うアマチュアよりも上に見る風潮は、有用性を善に対して優位とする見方の表れである。

 

確かに、役に立たぬと切り捨てる人々にとっては、他人の遊びはくだらなく、哲学や芸術もなんも面白くはないのかもしれない。他人にとっては善い活動でも、自分にとって善くなければ、残りの価値である有用性を問うのも不思議ではないことだ。

しかし、なかには、自分のなすことの全てを、一々コスパや効率など有用性の尺度で計ろうとする人々がいる。一体彼らは、それ自体楽しいからするような活動に没頭したことはないのだろうか。もしそういった経験があれば、そのような活動の善さは、有用性の尺度では計れないことを知っているはずである。

 

もし彼らが楽しみとするような活動がないのだとしたら、彼らは一体何のための有用性を追求しているのだろうか。我々は生きることを楽しむためにこそ、有用な仕事や生活をこなしているのではなかったのか。
だが確かに、有用性は善の追求のためだけにあるわけではない。悪を、つまり面倒や苦しみを避ける助けとなることもまた有用である。もし彼らが善とすることがないのならば、彼らが有用な活動にばかり勤しむのは、悪を避けるためであると説明がつくだろう。


このように、ただ悪を避けるための有用性にとらわれることは病理以外のなにものでもない。もし悪を避けることが目的ならば、生きることをやめることが最も有用な手段であり、悪を避けるべく生きるというのは、根本から破たんした生き方だからだ。確かに、病気に苦しんでいる状態ではしたいこともろくにできないように、悪がないことは善の前提条件かもしれないが、それは本来目的ではなくて手段に過ぎないはずだ。にもかかわらず、それが目的と化してしまったのは、本来の目的である善を見失ってしまったからではないだろうか。

 

この有用性至上主義ともいうべき病理が蔓延する現代社会の背景には、必要や規範で雁字搦めになり、自由に善を追求できない社会環境があるように思う。今日、我々の日常は「~しなければならない」で一杯である。我々は多くの財やサービスを必要とし、それらを入手するためにたくさん労働しなければならない。そのためには定刻通りに出勤しなければならないし、与えられた仕事をこなさなければならない。またちょっとした社会規範からの逸脱も許されず、インターネット等で激しい非難の対象となる。そして、このような仕事や規範をそもそも形作る、経済や法律は、我々をそのような必要や義務から自由にするどころか、より多くのニーズの虜とし、より多くの法規を強制する方向に発展している。

このような否定性にあふれた社会においては、皆が悪を避けること、つまりしなければならないことを行い、してはならないことを避けることに専念する不自由のあまり、したいことを自由に追求をする余裕がなくなっているのではないか。本来は人間をより自由にするために存在する社会や経済が、結果として人間をますます必要と義務に束縛された不自由な存在に貶めている現状は、制度設計の誤りであるとしか言いようがない。

必要について

我々の人生は必要なことで一杯である。基本的な衣食住を必要とするだけではなく、我々を実存的に支える友人、恋人や家族であるとか、時に人生の意味をも必要とする。

(金銭で計れるものに限っても)これらの必要がいかに巨大であるかは、一般的な生涯賃金が少なくとも2億円を超えることを見ればわかるだろう。稼ぎのすべてが必要を賄うために生活費として用いられるわけではないにしろ、我々の日常的な必要は、巨額な負債となってのしかかってくるのである。我々は必死に働いてこの負債をローンで返済する債務者に等しい。

 

1.まず、このような必要が害悪であり、無いに越したことはないと主張しよう。 

 ・必要とすることは、必要とする本人にとって悪である

何かを必要とすることは、それが無い事態に対する絶対的な否定である。つまり、それが無いことが、端的に悪いということである。だが逆に、その何かが存在することは端的に善いというわけではない。その何かがあっても、単に無い場合に比べて相対的に良いに過ぎない。例えばある人が食べ物が「必要である」という場合、その人が食べ物の無いことを避けたいことを意味するにすぎず、食べ物があることが素晴らしいと言っているわけではない。

ゆえに、何かを必要としても、それを得られない苦しみの可能性が生じるだけである。それが得られた場合も、消極的なメリット(苦しみが回避される)があるだけで、何も得るものがないからだ。したがって、何かを必要とすることは本人にとって端的に悪いことである。

 

また、何かを必要とするとは、それなしで済ませられないことだから、すなわちそれを得るために行動せざるをえないことである。しかも、それが欲しいという自発的な意志のためではなく、それが無ければ酷い目に遭うという理由で、行動を強いられるのである。したがって、必要に迫られることは、明らかな不自由である。

 

他者を必要とすることは、その人を手段として見なすことである

誰かを必要とすることは、その人を目的として求めることではなく、その人がいないと困るから、彼を用いて埋め合わせることに他ならない。

例えば仕事で誰かを必要とする時、その人を人として求めているわけではない。あくまで、助けが無くて自分の仕事がうまくいかないという事態を、その誰かを利用して回避しようとしているに過ぎない。

したがって、誰かを必要とすることはその人を手段としてみなすことであり、それは人間の尊厳に対する一種の冒涜である。なぜなら、人間を目的として尊重することが、全て倫理の基礎だからである。

 

2.何事も必要としないに越したことは無いとする態度は、無欲で消極的な態度であるように思えるが、両者は全く異なる態度である。以下では、必要とすることと欲することが、全く別の態度であることを示す

 

何かを必要とすることは、その何かが無い事態を避けようとすることだったが、何かを欲するということは、それを目的として直接追求することである。

したがって、欲することのほうが、必要とすることに比べて肯定的な態度である。なぜなら、満たされなかった場合の苦しか伴わない否定とは異なり、欲は満たされた場合の喜びを主に伴うからである。欲するものが得られなかったとき、確かに少々否定的で残念な気分になるとはいえ、必要が満たされない場合のような甚だしい苦痛はない。

加えて、必要とすることに比べ、欲することは主体的な態度である。何かを必要することは、それが無い事態を仕方なく避けようとする態度であるのに対して、何かを欲することはその何かを自ら意志することだからである。何かを必要とすることにおいて重要なのは、それが無いことを避けるという結果である。対して、何かを欲することの本質はその態度にあり、欲するものを手に入れられるかという結果は付随的に過ぎないのである。

したがって、不自由な必要とは異なり、欲することはどちらかといえば自由な態度である。まず、外的な事物を欲するのは我々の生物としての本性である。欲するよりも、無欲でいるほうが自身の自然に逆らった不自由だろう。

また、欲することは自由を前提とする。何にも不自由していない時にこそ、欲が生まれるからである。例えば、病弱時の無気力のように、精神的・肉体的に不自由している時にまして、我々の欲が衰えることはない。自由に欲するよりも先に、まず不自由から解放されることが必要とされるのである。

 

3.したがって、何事も必要としないに越したことはなくとも、善い事物は欲するに越したことはなく、これらの態度は矛盾しない。それどころか、必要から自由になってこそ、真に何かを欲することができるのである。

例えば、ある人が病気の時鎮痛剤を欲しがるからと言って、彼が真に(自由に)鎮痛剤を欲しているわけではない。むしろ彼は、鎮痛剤を欲しがるように病気に強いられているのであり、それは欲ではなく単なる必要に過ぎないのである。このような不自由とは関係なく求めることこそが、欲すると呼ぶにふさわしいのである。

観照と実践について

よく生きること(その2) - 思考の断片

前回の記事では、善く生きることが観照的に生きることであることを述べたが、観照についての説明がごく限定的だったため、ここで数点を付け加える。

 

・観照は普遍的なものに関する。

観照は主客の境界が除去された境地のことであったが、それは主体と客体の在り様が調和してこそ初めて達成されるものである。例えば、数学的対象について観照するときは、我々自身がその思考そのものも同然となっているし、音楽を演奏するときも、我々自身が音楽として自らを奏でているも同然である。ここで、主観の側も客観の側も、より全に通ずる普遍的な在り方をしていればいるほど、相通じることができ、主客合一の境地は容易に達せられるだろう。

例えば、知的観照は卑近な生活や仕事の上で問題となる特定の個物にとらわれず、その具体的な個のうちに、全てに通ずる普遍を見出してこそ達成される。主観の側の関心も、生活や仕事上の個別的で些細な課題にとらわれず、万物に関する普遍的な問いに基づくものでなければならない。

芸術的観照が可能なのも、芸術が普遍的なものを秘めているからである。確かに芸術作品はそれ自体としては単なる特定の個物に過ぎないが、芸術的才能や審美眼に優れた人は、作品のうちに宇宙の全てを表現するイデアの如きものを見出し、イデアそのものとして光り輝くのである。実際、芸術鑑賞しているとき我々は特殊な限定性とは無縁の境地にいる。そこではいかなる個物に意識を限定されることはなく、経験は美という全体に包まれている。

 

・観照は得意とする活動による

上と同じ、主と客が調和していなければならないという理由により、観照的活動は、その人の得意とするものである。なぜなら、思考そのものになるためには、思考することに適していなければならないし、芸術的な美そのものになるためにも、美に通ずる芸術的才能や審美眼を具えていないといけないからである。

このように客体と合一するには、主体のほうが努めて客体と調和しなければならない。そのためにも、観照の境地に至ることを目的とした非観照的な努力が必要である。事物なり活動なり、何かに精通するためには、創意工夫を行って我々自身が熟練しなければならないからである。

 

・より普遍的なものを対象とし、より卓越した活動によるほど、観照は喜ばしいものとなる。

観照は私が対象と一体化して活動することであり、踊り遊ぶことである。実際、知的観照に耽っている人は、概念を身体のように自由気ままに操っているし、音楽の演奏者にとっても、楽器や曲はその人の身体そのものになったが同然である。したがって、我すなわち対象がより普遍的であればあるほど、そして観照的活動に卓越しているほど、踊りは壮大かつ巧みなものとなり、活動の喜びも増すことだろう。

同じ知的観照と言っても、限定的な真理について思索するよりも、すべてに通ずる哲理に思考をゆだね、宇宙の全てに通ずるほうが遥かに善く観照している。音楽の演奏に関しても、巧みな演奏をするほうが、拙い演奏に甘んじるよりもはるかに善い体験をもたらすだろう。

 

・観照は自由、すなわち自律の最たるものである

観照は一者が踊り遊ぶだけで、他には邪魔するものが何も無い経験である、なぜならそれはいかなる分裂や区別も含まないからだ。したがって観照は、他のいかなる目的のために強制されたものでもなければ、他のいかなる障害によって阻害されるものではなく、いかなる他律にも甘んじない。この観照者ただ独りの遊び、これ以上に自由なものはあるだろうか。

 

 

上記の観照に対立するのが、実践である。実践的活動を特徴づける最たるものは理想と現実、目的と手段の分離であり、それは両者のギャップに伴う苦と敵対を前提としている。以下では実践的活動の特徴を述べる。

 

・実践は普遍ではなく個物に関わるにすぎず、知的活動も限定的にしか行われない。

実践的な活動においては、主観側ではもっぱら特定の事態を目的とし、客観の側でも、もっぱら自分の身の回りの、特殊なものが問題となる。実際生活や仕事は、「これ」を「こう」したいという具合にもっぱら特殊で限定的なものにのみ関わる。

なぜなら、実践者が快適な生存を首尾よく実現するためには、ただ自分の身の回りのものが、自分に都合よくあってくれさえすればよく、彼にとって普遍的な概念の関係のごときはどうでもいいからである。確かに彼が、実践に応用するために普遍的な学問的知見に興味を持つこともあるだろうが、その目的はあくまで限定的な特殊の域を出ないのである。

そこでは、知性の働きも極めて限られており、対象はあくまで目的を実現するのに有用である限りにおいて、認識されるに過ぎない。例えば、文章を書くためにこのパソコンを利用するときに、パソコンという物の構成から原理までの全てを知る必要はない。目的を達成するには、ただどう操作すればどういう結果が返ってくるかという、非本質的・皮相的な理解をするだけでいいのである。

したがって、それは知的観照におけるような物自体、本質への没入には程遠く、対象との関わりはきわめて表面的である。それゆえに主客は一体とは程遠く、あくまで目的と手段の区別で両者は隔てられている。

 

・実践的活動はその卓越性ではなく必要性ゆえに行われる

実践は目的ありきである。あくまで目的が達成されることが必要であるから、手段として活動が行われるのであって、そこでは卓越性は眼中にない。実際、生活や仕事で得意なことができるのは稀有であり、大半は得意でもないことを仕方がなく行うに過ぎないのである。

 

・実践的である限り、活動は決して完全に自由たりえない

実践的活動は二つの意味で不自由である。一つは目的に従属する活動であるがゆえに、それ自体が常に手段の域を出ないからである。それは自分自身が究極的にしたいことではなく、他の目的を達成するのに必要だから行っているにすぎない。必要によりやむを得ず行われることは自由ではない。

二つ目の理由は、実践は現実が理想に近づけることでもあるが、その過程には障害がつきものだからである。自らの実践を阻害するものがある限りでそれは他律的なのであり、完全な自由には至らない。

 

上で述べたように、観照的活動と実践的活動は正反対で、観照が実践よりも貴いというのが私の立場だが、だからといって実践の全てを否定するわけではない。それは、前回述べたように、実践が観照を可能にする手段的な善でありえるからだけではなく、実践も場合によっては自由に近いものとなりえるからである。

同じ実践でも、理想と現実間の対立の力関係に、幾つもの段階がある。例えば、理想が現実的な実現不可能性に押しやられているときは、激しい苦痛や絶望を伴うものだろう。逆に、現実にめげず理想を実現しようとする意志が強ければ強いほど、両者の乖離のもたらず苦しみに増して、経験は活き活きとしたものとなるだろう。

実践は、主体的であればあるほど、それは結果よりもそれ自身の意義のために行われる度合いが強くなり、自由で喜ばしいものとなる。実際、自らの意志から行われた実践は、仮に目的が達成されなくとも、その過程に意義を伴うものである。対して嫌々行うような実践は、結果的に目的が達成された場合も、その過程は苦や虚無感で一杯であるため、結果のためにのみ行われる。

このように、同じ実践であっても、主客の力関係が前者に傾けば傾くほど、観照に近い性質を持ったものとなる。ただ、このような場合にあっても観照と実践はあくまで似て非ざるものである。後者は現実と理想の対立あってこそ可能なのであり、経験の全てが一となって初めて達成される前者と、本質的に性質が異なるものである。

よく生きること(その2)

よく生きること - 思考の断片

上の記事では、善く生きることは善く経験することであり、それは善く活動することに伴い実現されると述べた。善く活動することについては下の記事で述べたが、まず、これについてより詳しく述べたいと思う。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - 思考の断片

善く活動するとは自由に、自らの本性や能力に従い活動することである。動物的なレベルで言えば、それは身体の各々の器官がそれぞれの役割に従い動き、健康でいること、つまり動物的自由を阻害する原因がないことである。

それに伴う経験は、痛みのないこととしてしか説明できない。なぜなら健康であるときに、健康はことさら意識されるものではないからである。つまり善き経験は無ということになる。ただ、これは動物的に善く生きることの説明に限られているし、善いと呼ぶには消極的である。

 

もっと一般的な特徴づけを考えよう。善い活動とは逆に、善くは無い活動、つまりごく普通の活動や悪しき活動はどういったものだろうか。

 

生活か仕事を問わず、我々はほとんどの時間は課題に取り組んでいる、つまり理想と現実のギャップがあり、後者を前者に近づけようとしている。仕事がこの類の活動であることは言うまでもないし、生活も、快適や欲の充足という理想に、現実を近づけようとする不断の営みである。

これらの営みが行われる過程では、理想は常に未実現である。理想が現実となるのは活動の目的が達せられた一瞬に過ぎず、理想が実現するやいなや、それは再び未実現の理想でとって代わられてしまう。善き理想が常に実現途中でしかないという点で、これらは善くは無い活動とは言えないだろうか

つまり「善くはない活動」とは、理想と現実のギャップのゆえ、後者を前者に近づけようとなされる活動である。

では、善くはないどころか悪しき活動はどういうものだろうか。それは、「善くはない活動」のうちでも、現実がなかなか理想に近づけられず、理想と現実のギャップに苦しめられ続けるような活動だろう。仕事や生活がうまくいっていない時などがそれである。

このような活動に対応するのは、主観(目的や理想)と客観(手段や現実)に引き裂かれ、両者が対立しあう経験である。課題に取り組むとき、我々は一方では理想や目的を主観において抱き、他方で、理想に従わせるべき現実を、目的を達成するための手段を対象(客観)として意識する。前者の熱意や切実さにも拘わらず、後者は現実のありのまま、なかなか変わらない、ここに対立が生じるのである。そして課題の解決は、現実(客観)を自分の理想に従わせるか、自らの理想を現実に合わせて妥協することにより、主と客の対立が解消されることによってのみ実現される。

 

しかし、我々の経験は、もとから主客の分離および対立に特徴づけられる殺伐としたものであったわけではない。なんの障害や心配もなくぼうっとしているとき、もしくは気ままに遊んでいるとき、このような経験においては、主客の区別がない。安楽や遊びを邪魔する出来事が起こって初めて、その出来事と、それを邪魔に思う経験が分離するのである。

つまり、本来経験は分裂や区別の無い一であり、不自由や不満足の故多に区別される必要が生じる。例えば、痛むからこそ、痛みをもたらす何かを意識して除去する必要がある。足りないからこそ、足りてないその何かを把握して手に入れる必要がある。外的・内的障害があるからこそ、対処されるべき原因として対象が、対処する者として自我およびその目的が措定・意識されるのである。

 

以上の「善くはない経験」の反対は主客(現実と理想)の分離および対立のない、全てが一となって調和している経験である。そこでは、いかなるものも対象として意識されることがない。すべてがあたかも自分の身体の一部であるかのように、自分と調和をなしている。それはまるで、すべてを身体として遊び、踊っているようなものである。

これに対応する活動こそが、なんの障害もなく、自らの本性に従う自由な活動であると言える。そのような活動においては、理想と現実の乖離がない。自分の従うべき本性とは異なるように活動する不自由を強いられてはじめて、自由な活動が当為(理想)として、そして当為と現実のギャップが違和感として同時に意識されるのである。

 

では、どういう活動や経験が以上に述べたものに該当するのだろうか。

一つには、すでに挙げた、何事にも気を乱されない安楽の境地がある。しかし安楽の場合、そこに主客の区別がないどころか、経験そのものの内容が非常に希薄だろう。意識がもうろうとしていたり、寝ているときの経験もこれに類するものである。これらの経験は確かに悪いものではないが、最初に述べた健康の経験のように、善、または活動と呼ぶにはやはり消極的に過ぎる。

積極的に善いと呼べるのは、観照的な活動だろう。観照とは何かを主観を交えないで観ずることである。しかし、それは決して「客観的に観る」ことではない。そもそも、観ずる何かと観る自「分」、客観と主観とを引き裂くような形で認識を行わず、主客未分のままその何かになりきることで直観することに他ならない

例えば我を忘れて知的探求に没頭するような営みがそれである。そこでは認識主観と客観の別すらなく、「何かについて思考する」という経験があるのみである。例えば、赴くがままに数学的対象について思考する場合、そこには自我はなく、対象についての思考そのものがあるのみである。意識の全てがその数学的対象に占められていて、対象とその思考、そして思考する自分の区別がないのである。

観照は知のみならず美にも及ぶ。例えば、音楽に聴き入ったり、演奏する営みも、芸術的な観照である。ここでも、音楽と、音楽に聴き入ったり演奏する私の区別は消失しており、自分が音楽の美そのものとなって、輝く過程だけが存在している。

観照の語義を外れるが、運動や趣味的な工芸など、その過程を楽しむために行われる活動も、上記の観照に類するものである。運動をするときや、趣味に興じるとき、我々の経験を占めるのは、純粋に運動すること、(何かを)創ること、描くことであり、創ったり描く何かは、もはや私と分離された客体ではない。主客分離なき原初的な経験を伴うという点において、これら活動は観照と共通している。

 

主客の区別がないからといって、観照の経験は決して静的な無でも、非主体的な受動でもない。言うまでもなく、数学的思考や音楽鑑賞も極めて活発で動的な経験なのであり、時間が過ぎるに従い目まぐるしく変遷する。また、数学的思考は決して静的な思考内容(数学の命題)ではないし、音楽に没入する経験も単なる音のデータではない。それらは、思考すること、音楽そのものとして躍動することであり、観照は「対象と一体化した私」のれっきとした活動なのである。

 

このように、観照とは、自我と対象からその区別が消失し、(元はそうであったように)一の経験をすることである。しかも観照は、実に活動的な経験であり、一つ目の例としてあげた安楽や休息のような経験とは対照的である。積極的な活動である観照こそが、善とよぶにふさわしいだろう。善く生きる、つまり善く経験するとは、極力観照的に生きることに他ならない

 

この観照的な経験の特徴は、自己目的であり、意味を必要としないことである。観照の経験は主客分離、目的と手段の分離を伴わないのだから、観照的活動はいかなる目的の手段たりえないのである。実際、我々は何か他の目的のために音楽を聴いたり、知的探求に没頭することはなく、それらの活動は他の目的を引き合いに出すまでもなくそれ自体で善いものなのである。

確かに何らかの学問的成果を出すために知的探求が行われることもあるだろう。しかし、成果を出す手段として行われる時点で、それはもはや観照ではないのである。そこには(名声やアカデミックなキャリアのために)何かを言わんとする目的意識と、なかなか言いたいことが成り立ってくれない対象の対立がある。例えば、何らかの命題を証明したくとも、論理や事実により反証される場合にその対立が顕在化する。観照に類するものとして述べた運動や趣味的な制作も、体を鍛えるためだとか、制作物を売ったり評価してもらうだとか、他の目的のために行われるようになった時点で、観照とはかけ離れたものになるだろう。

このように、観照的もしくはそれに類する活動は、純粋に活動を楽しむために行われ、アウトプットを目的としない。知的探求や趣味的制作などアウトプットの伴う活動においては、逆に活動を楽しむためにこそ、善きアウトプットが必要となるのである。より高度な思索が出来た方が知的探求は楽しいものだし、より巧くできたほうが音楽の演奏も楽しいからである。しかし、アウトプットはあくまで活動を行うための媒体に過ぎず、手段に過ぎない。

 

ただ、観照は他に目的を持たずとも、目標を必要とすることはある。数学的思考を行うにも、何らかの命題を証明することを目標とする必要があるし、楽しく制作活動に興じるためにも、目標とする完成形が必要である。このように時には計画や目標設定を行い、それに従う必要があるという点で、観照的な活動も不完全である、つまり目的(活動)と手段(目標)の分離があることは否めない。

観照的な活動は散歩で例えられる。散歩も、景色を楽しみながら歩く過程それ自体を楽しむ経験であり、目的地を持たない。しかし、絶景スポットもあれば殺風景な場所もあり、どこを歩いても散歩を楽しめるわけではない。そのため、時には散歩を楽しむがために計画的に目標地点を決め、散歩をする際も完全に赴くままに歩くのではなく、その目標を念頭に置いて歩く必要がある。散歩といえども、完全に気の向くままに歩くことはできないのである。

 

このように、いくら究極的な善であるとはいえ、現実には観照的な活動だけを行うわけにはいかず、観照的な活動を可能にするためにも、同時に目的意識を伴った非観照的な努力が必要なのである。したがって、このような努力も、観照を可能にする限りにおいて、第二義的な善だと言わねばならない。

また、観照はあまりに非日常的で、人間生活の現実をかけ離れているという指摘があるだろう。確かに、我々人間は生きるためだけでも、あまりにも多くの物事を必要としすぎており、日常の大半は、必要なモノや条件を得るための努力、つまり家事や仕事に忙殺されている。対して、上に述べた観照は、生存の条件がクリアされて初めて可能となるほんの一時の贅沢に過ぎない。まさにアリストテレスが述べたように、観照は自己充足した神の善である。

しかし、時々とはいえ、神が人間に宿ることもあるのであり、その限りで我々は観照の善に限定的にありつくことが出来るのである。そして人間が自身を神のごとき自由と完全性に高める努力こそが、人間的な善だと言わねばならないだろう。

 

では、こうした努力はどういうものだろうか。上で述べたような観照を可能にする目標の設定や追求のみならず、究極的には我々が仕事や生活で自己の生存のために行う全ての努力、またその努力を最小化しようとする努力である。例えば思索や音楽、趣味を楽しむためにも閑暇が必要だからである。閑暇を確保するには、快適に生存することはもちろん、それが最小限の時間と労力でなされなければならない。したがって、必要最小限の労働(賃労働のみならず家事も含む)は行い、その必要をさらに最小化しようと個人的・社会的に創意工夫をすることが必要となる。例えば労働の効率化・機械化や、労働をしたい人がするだけで済むように変えるBI等の社会設計の模索が挙げられるだろう。

このように、生存するためにしなければならないことを極力減らし、生存しているからこそしたいことをする余地を増やすこと、これが人間的な善の最たるものである。しかも、この善は個人的に追求するには限りがあり、社会全体の政治的な協力あって初めて十分に追求できるものである。これを人「間」的な善と呼ぶのは、人間の不完全性ゆえに必要であるからだけではなく、このゆえでもある。

 

さて、以上に述べたように、善く生きることには、二つの側面、つまり神的な観照をして生きることと、それを可能にすべく協力しあって人間的に生きることがある。両者は目的と手段の関係にあるとはいえ、いずれも欠かせないものである。両者をバランスよく追求し、不完全な人間ながら極力神のように生きようとすることこそ、善く生きることだといえる。