善と有用性について

あらゆる活動は二種類に分類される。①それ自身のために行われる活動と、②他の目的のための手段として行われる活動に。


善い活動があるのだとしたら、それは本来①に属するべきものである。善は他の何を持ち出すまでもなくそれ自体のゆえに望ましいものだから、①しか該当するものがないからである。これには例えば、前に挙げた観照や、遊び、成果を目的としない創作活動があげられるだろう。これらは自らが主体となる能動的な活動だが、娯楽や飲食などの消費活動も、他に目的を持たないという点で、これにあてはまる。

対して②の意味で善い活動は、その目的が善いがゆえにそうであるに過ぎない。その善さは目的の善から派生したものに過ぎず、財の利用価値ゆえに生まれる貨幣の交換価値のように、第二義的なものである。それらは善いというよりは、何らかの目的に対して有用であるとか、役に立つと呼ぶべき類の活動だろう。有用な活動は、我々が生活や仕事で行う大半のことを占める。労働にしろ、家事にしろ、ある望ましい結果の手段として行われる活動は全て、有用である。

 

次に両者の相違点を述べる。

・①善い活動は、ほかの目的を引き合いに出すまでもなくそれ自体が善い、つまり善は絶対的である。対して、「無用の用」の故事成語にあるように、何を目的とするかの違いによって、有用なものが無用となり、無用なものも有用に変わりうる。つまり②有用性は他の目的ありきの相対的な概念なのである。

・②有用な活動は、アウトプットありき、つまり客観的な成果物を目的とすることがほとんどである。したがって重点は、過程よりも結果、アウトプットにある

対して、①善い活動はアウトプットを伴うことがあっても、アウトプットを生み出すために活動するのではなく、むしろより善く活動するためにアウトプットを行うのであり、重点は結果よりも、活動そのものの過程にある。

例えば、考える過程そのものを楽しみたいという場合でも、明晰に思考できるためには、思考内容を文章にアウトプットすることが必要となるだろう。しかしこのアウトプットは考える目的ではなく、あくまでよく考えるための補助手段である、つまり書くために考えるのではなく、考えるために書くのである。

 

以上に述べたことから、①善の、②有用性に対する優位は明らかである。にもかかわらず、現代では何かにつけ、①善が軽視され、②有用性、つまり役に立つアウトプットが求められがちである

・まず、遊びや哲学・芸術活動のように本来は①それ自身善いから行われることに対しても有用性を問い、「役に立たない」ことを揶揄する声が絶えない。①の類の善き活動は、むしろ他の目的に役に立たないからこそ、それ自身を目的とする善であるというのに。

・また、「プロ信仰」も有用性偏重の一形態である。②金が稼げる有用性のゆえに活動を行うプロを、①非営利でも楽しいから活動を行うアマチュアよりも上に見る風潮は、有用性を善に対して優位とする見方の表れである。

 

確かに、役に立たぬと切り捨てる人々にとっては、他人の遊びはくだらなく、哲学や芸術もなんも面白くはないのかもしれない。他人にとっては善い活動でも、自分にとって善くなければ、残りの価値である有用性を問うのも不思議ではないことだ。

しかし、なかには、自分のなすことの全てを、一々コスパや効率など有用性の尺度で計ろうとする人々がいる。一体彼らは、それ自体楽しいからするような活動に没頭したことはないのだろうか。もしそういった経験があれば、そのような活動の善さは、有用性の尺度では計れないことを知っているはずである。

 

もし彼らが楽しみとするような活動がないのだとしたら、彼らは一体何のための有用性を追求しているのだろうか。我々は生きることを楽しむためにこそ、有用な仕事や生活をこなしているのではなかったのか。
だが確かに、有用性は善の追求のためだけにあるわけではない。悪を、つまり面倒や苦しみを避ける助けとなることもまた有用である。もし彼らが善とすることがないのならば、彼らが有用な活動にばかり勤しむのは、悪を避けるためであると説明がつくだろう。


このように、ただ悪を避けるための有用性にとらわれることは病理以外のなにものでもない。もし悪を避けることが目的ならば、生きることをやめることが最も有用な手段であり、悪を避けるべく生きるというのは、根本から破たんした生き方だからだ。確かに、病気に苦しんでいる状態ではしたいこともろくにできないように、悪がないことは善の前提条件かもしれないが、それは本来目的ではなくて手段に過ぎないはずだ。にもかかわらず、それが目的と化してしまったのは、本来の目的である善を見失ってしまったからではないだろうか。

 

この有用性至上主義ともいうべき病理が蔓延する現代社会の背景には、必要や規範で雁字搦めになり、自由に善を追求できない社会環境があるように思う。今日、我々の日常は「~しなければならない」で一杯である。我々は多くの財やサービスを必要とし、それらを入手するためにたくさん労働しなければならない。そのためには定刻通りに出勤しなければならないし、与えられた仕事をこなさなければならない。またちょっとした社会規範からの逸脱も許されず、インターネット等で激しい非難の対象となる。そして、このような仕事や規範をそもそも形作る、経済や法律は、我々をそのような必要や義務から自由にするどころか、より多くのニーズの虜とし、より多くの法規を強制する方向に発展している。

このような否定性にあふれた社会においては、皆が悪を避けること、つまりしなければならないことを行い、してはならないことを避けることに専念する不自由のあまり、したいことを自由に追求をする余裕がなくなっているのではないか。本来は人間をより自由にするために存在する社会や経済が、結果として人間をますます必要と義務に束縛された不自由な存在に貶めている現状は、制度設計の誤りであるとしか言いようがない。

必要について

我々の人生は必要なことで一杯である。基本的な衣食住を必要とするだけではなく、我々を実存的に支える友人、恋人や家族であるとか、時に人生の意味をも必要とする。

(金銭で計れるものに限っても)これらの必要がいかに巨大であるかは、一般的な生涯賃金が少なくとも2億円を超えることを見ればわかるだろう。稼ぎのすべてが必要を賄うために生活費として用いられるわけではないにしろ、我々の日常的な必要は、巨額な負債となってのしかかってくるのである。我々は必死に働いてこの負債をローンで返済する債務者に等しい。

 

1.まず、このような必要が害悪であり、無いに越したことはないと主張しよう。 

 ・必要とすることは、必要とする本人にとって悪である

何かを必要とすることは、それが無い事態に対する絶対的な否定である。つまり、それが無いことが、端的に悪いということである。だが逆に、その何かが存在することは端的に善いというわけではない。その何かがあっても、単に無い場合に比べて相対的に良いに過ぎない。例えばある人が食べ物が「必要である」という場合、その人が食べ物の無いことを避けたいことを意味するにすぎず、食べ物があることが素晴らしいと言っているわけではない。

ゆえに、何かを必要としても、それを得られない苦しみの可能性が生じるだけである。それが得られた場合も、消極的なメリット(苦しみが回避される)があるだけで、何も得るものがないからだ。したがって、何かを必要とすることは本人にとって端的に悪いことである。

 

また、何かを必要とするとは、それなしで済ませられないことだから、すなわちそれを得るために行動せざるをえないことである。しかも、それが欲しいという自発的な意志のためではなく、それが無ければ酷い目に遭うという理由で、行動を強いられるのである。したがって、必要に迫られることは、明らかな不自由である。

 

他者を必要とすることは、その人を手段として見なすことである

誰かを必要とすることは、その人を目的として求めることではなく、その人がいないと困るから、彼を用いて埋め合わせることに他ならない。

例えば仕事で誰かを必要とする時、その人を人として求めているわけではない。あくまで、助けが無くて自分の仕事がうまくいかないという事態を、その誰かを利用して回避しようとしているに過ぎない。

したがって、誰かを必要とすることはその人を手段としてみなすことであり、それは人間の尊厳に対する一種の冒涜である。なぜなら、人間を目的として尊重することが、全て倫理の基礎だからである。

 

2.何事も必要としないに越したことは無いとする態度は、無欲で消極的な態度であるように思えるが、両者は全く異なる態度である。以下では、必要とすることと欲することが、全く別の態度であることを示す

 

何かを必要とすることは、その何かが無い事態を避けようとすることだったが、何かを欲するということは、それを目的として直接追求することである。

したがって、欲することのほうが、必要とすることに比べて肯定的な態度である。なぜなら、満たされなかった場合の苦しか伴わない否定とは異なり、欲は満たされた場合の喜びを主に伴うからである。欲するものが得られなかったとき、確かに少々否定的で残念な気分になるとはいえ、必要が満たされない場合のような甚だしい苦痛はない。

加えて、必要とすることに比べ、欲することは主体的な態度である。何かを必要することは、それが無い事態を仕方なく避けようとする態度であるのに対して、何かを欲することはその何かを自ら意志することだからである。何かを必要とすることにおいて重要なのは、それが無いことを避けるという結果である。対して、何かを欲することの本質はその態度にあり、欲するものを手に入れられるかという結果は付随的に過ぎないのである。

したがって、不自由な必要とは異なり、欲することはどちらかといえば自由な態度である。まず、外的な事物を欲するのは我々の生物としての本性である。欲するよりも、無欲でいるほうが自身の自然に逆らった不自由だろう。

また、欲することは自由を前提とする。何にも不自由していない時にこそ、欲が生まれるからである。例えば、病弱時の無気力のように、精神的・肉体的に不自由している時にまして、我々の欲が衰えることはない。自由に欲するよりも先に、まず不自由から解放されることが必要とされるのである。

 

3.したがって、何事も必要としないに越したことはなくとも、善い事物は欲するに越したことはなく、これらの態度は矛盾しない。それどころか、必要から自由になってこそ、真に何かを欲することができるのである。

例えば、ある人が病気の時鎮痛剤を欲しがるからと言って、彼が真に(自由に)鎮痛剤を欲しているわけではない。むしろ彼は、鎮痛剤を欲しがるように病気に強いられているのであり、それは欲ではなく単なる必要に過ぎないのである。このような不自由とは関係なく求めることこそが、欲すると呼ぶにふさわしいのである。

観照と実践について

よく生きること(その2) - 思考の断片

前回の記事では、善く生きることが観照的に生きることであることを述べたが、観照についての説明がごく限定的だったため、ここで数点を付け加える。

 

・観照は普遍的なものに関する。

観照は主客の境界が除去された境地のことであったが、それは主体と客体の在り様が調和してこそ初めて達成されるものである。例えば、数学的対象について観照するときは、我々自身がその思考そのものも同然となっているし、音楽を演奏するときも、我々自身が音楽として自らを奏でているも同然である。ここで、主観の側も客観の側も、より全に通ずる普遍的な在り方をしていればいるほど、相通じることができ、主客合一の境地は容易に達せられるだろう。

例えば、知的観照は卑近な生活や仕事の上で問題となる特定の個物にとらわれず、その具体的な個のうちに、全てに通ずる普遍を見出してこそ達成される。主観の側の関心も、生活や仕事上の個別的で些細な課題にとらわれず、万物に関する普遍的な問いに基づくものでなければならない。

芸術的観照が可能なのも、芸術が普遍的なものを秘めているからである。確かに芸術作品はそれ自体としては単なる特定の個物に過ぎないが、芸術的才能や審美眼に優れた人は、作品のうちに宇宙の全てを表現するイデアの如きものを見出し、イデアそのものとして光り輝くのである。実際、芸術鑑賞しているとき我々は特殊な限定性とは無縁の境地にいる。そこではいかなる個物に意識を限定されることはなく、経験は美という全体に包まれている。

 

・観照は得意とする活動による

上と同じ、主と客が調和していなければならないという理由により、観照的活動は、その人の得意とするものである。なぜなら、思考そのものになるためには、思考することに適していなければならないし、芸術的な美そのものになるためにも、美に通ずる芸術的才能や審美眼を具えていないといけないからである。

このように客体と合一するには、主体のほうが努めて客体と調和しなければならない。そのためにも、観照の境地に至ることを目的とした非観照的な努力が必要である。事物なり活動なり、何かに精通するためには、創意工夫を行って我々自身が熟練しなければならないからである。

 

・より普遍的なものを対象とし、より卓越した活動によるほど、観照は喜ばしいものとなる。

観照は私が対象と一体化して活動することであり、踊り遊ぶことである。実際、知的観照に耽っている人は、概念を身体のように自由気ままに操っているし、音楽の演奏者にとっても、楽器や曲はその人の身体そのものになったが同然である。したがって、我すなわち対象がより普遍的であればあるほど、そして観照的活動に卓越しているほど、踊りは壮大かつ巧みなものとなり、活動の喜びも増すことだろう。

同じ知的観照と言っても、限定的な真理について思索するよりも、すべてに通ずる哲理に思考をゆだね、宇宙の全てに通ずるほうが遥かに善く観照している。音楽の演奏に関しても、巧みな演奏をするほうが、拙い演奏に甘んじるよりもはるかに善い体験をもたらすだろう。

 

・観照は自由、すなわち自律の最たるものである

観照は一者が踊り遊ぶだけで、他には邪魔するものが何も無い経験である、なぜならそれはいかなる分裂や区別も含まないからだ。したがって観照は、他のいかなる目的のために強制されたものでもなければ、他のいかなる障害によって阻害されるものではなく、いかなる他律にも甘んじない。この観照者ただ独りの遊び、これ以上に自由なものはあるだろうか。

 

 

上記の観照に対立するのが、実践である。実践的活動を特徴づける最たるものは理想と現実、目的と手段の分離であり、それは両者のギャップに伴う苦と敵対を前提としている。以下では実践的活動の特徴を述べる。

 

・実践は普遍ではなく個物に関わるにすぎず、知的活動も限定的にしか行われない。

実践的な活動においては、主観側ではもっぱら特定の事態を目的とし、客観の側でも、もっぱら自分の身の回りの、特殊なものが問題となる。実際生活や仕事は、「これ」を「こう」したいという具合にもっぱら特殊で限定的なものにのみ関わる。

なぜなら、実践者が快適な生存を首尾よく実現するためには、ただ自分の身の回りのものが、自分に都合よくあってくれさえすればよく、彼にとって普遍的な概念の関係のごときはどうでもいいからである。確かに彼が、実践に応用するために普遍的な学問的知見に興味を持つこともあるだろうが、その目的はあくまで限定的な特殊の域を出ないのである。

そこでは、知性の働きも極めて限られており、対象はあくまで目的を実現するのに有用である限りにおいて、認識されるに過ぎない。例えば、文章を書くためにこのパソコンを利用するときに、パソコンという物の構成から原理までの全てを知る必要はない。目的を達成するには、ただどう操作すればどういう結果が返ってくるかという、非本質的・皮相的な理解をするだけでいいのである。

したがって、それは知的観照におけるような物自体、本質への没入には程遠く、対象との関わりはきわめて表面的である。それゆえに主客は一体とは程遠く、あくまで目的と手段の区別で両者は隔てられている。

 

・実践的活動はその卓越性ではなく必要性ゆえに行われる

実践は目的ありきである。あくまで目的が達成されることが必要であるから、手段として活動が行われるのであって、そこでは卓越性は眼中にない。実際、生活や仕事で得意なことができるのは稀有であり、大半は得意でもないことを仕方がなく行うに過ぎないのである。

 

・実践的である限り、活動は決して完全に自由たりえない

実践的活動は二つの意味で不自由である。一つは目的に従属する活動であるがゆえに、それ自体が常に手段の域を出ないからである。それは自分自身が究極的にしたいことではなく、他の目的を達成するのに必要だから行っているにすぎない。必要によりやむを得ず行われることは自由ではない。

二つ目の理由は、実践は現実が理想に近づけることでもあるが、その過程には障害がつきものだからである。自らの実践を阻害するものがある限りでそれは他律的なのであり、完全な自由には至らない。

 

上で述べたように、観照的活動と実践的活動は正反対で、観照が実践よりも貴いというのが私の立場だが、だからといって実践の全てを否定するわけではない。それは、前回述べたように、実践が観照を可能にする手段的な善でありえるからだけではなく、実践も場合によっては自由に近いものとなりえるからである。

同じ実践でも、理想と現実間の対立の力関係に、幾つもの段階がある。例えば、理想が現実的な実現不可能性に押しやられているときは、激しい苦痛や絶望を伴うものだろう。逆に、現実にめげず理想を実現しようとする意志が強ければ強いほど、両者の乖離のもたらず苦しみに増して、経験は活き活きとしたものとなるだろう。

実践は、主体的であればあるほど、それは結果よりもそれ自身の意義のために行われる度合いが強くなり、自由で喜ばしいものとなる。実際、自らの意志から行われた実践は、仮に目的が達成されなくとも、その過程に意義を伴うものである。対して嫌々行うような実践は、結果的に目的が達成された場合も、その過程は苦や虚無感で一杯であるため、結果のためにのみ行われる。

このように、同じ実践であっても、主客の力関係が前者に傾けば傾くほど、観照に近い性質を持ったものとなる。ただ、このような場合にあっても観照と実践はあくまで似て非ざるものである。後者は現実と理想の対立あってこそ可能なのであり、経験の全てが一となって初めて達成される前者と、本質的に性質が異なるものである。

よく生きること(その2)

よく生きること - 思考の断片

上の記事では、善く生きることは善く経験することであり、それは善く活動することに伴い実現されると述べた。善く活動することについては下の記事で述べたが、まず、これについてより詳しく述べたいと思う。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - 思考の断片

善く活動するとは自由に、自らの本性や能力に従い活動することである。動物的なレベルで言えば、それは身体の各々の器官がそれぞれの役割に従い動き、健康でいること、つまり動物的自由を阻害する原因がないことである。

それに伴う経験は、痛みのないこととしてしか説明できない。なぜなら健康であるときに、健康はことさら意識されるものではないからである。つまり善き経験は無ということになる。ただ、これは動物的に善く生きることの説明に限られているし、善いと呼ぶには消極的である。

 

もっと一般的な特徴づけを考えよう。善い活動とは逆に、善くは無い活動、つまりごく普通の活動や悪しき活動はどういったものだろうか。

 

生活か仕事を問わず、我々はほとんどの時間は課題に取り組んでいる、つまり理想と現実のギャップがあり、後者を前者に近づけようとしている。仕事がこの類の活動であることは言うまでもないし、生活も、快適や欲の充足という理想に、現実を近づけようとする不断の営みである。

これらの営みが行われる過程では、理想は常に未実現である。理想が現実となるのは活動の目的が達せられた一瞬に過ぎず、理想が実現するやいなや、それは再び未実現の理想でとって代わられてしまう。善き理想が常に実現途中でしかないという点で、これらは善くは無い活動とは言えないだろうか

つまり「善くはない活動」とは、理想と現実のギャップのゆえ、後者を前者に近づけようとなされる活動である。

では、善くはないどころか悪しき活動はどういうものだろうか。それは、「善くはない活動」のうちでも、現実がなかなか理想に近づけられず、理想と現実のギャップに苦しめられ続けるような活動だろう。仕事や生活がうまくいっていない時などがそれである。

このような活動に対応するのは、主観(目的や理想)と客観(手段や現実)に引き裂かれ、両者が対立しあう経験である。課題に取り組むとき、我々は一方では理想や目的を主観において抱き、他方で、理想に従わせるべき現実を、目的を達成するための手段を対象(客観)として意識する。前者の熱意や切実さにも拘わらず、後者は現実のありのまま、なかなか変わらない、ここに対立が生じるのである。そして課題の解決は、現実(客観)を自分の理想に従わせるか、自らの理想を現実に合わせて妥協することにより、主と客の対立が解消されることによってのみ実現される。

 

しかし、我々の経験は、もとから主客の分離および対立に特徴づけられる殺伐としたものであったわけではない。なんの障害や心配もなくぼうっとしているとき、もしくは気ままに遊んでいるとき、このような経験においては、主客の区別がない。安楽や遊びを邪魔する出来事が起こって初めて、その出来事と、それを邪魔に思う経験が分離するのである。

つまり、本来経験は分裂や区別の無い一であり、不自由や不満足の故多に区別される必要が生じる。例えば、痛むからこそ、痛みをもたらす何かを意識して除去する必要がある。足りないからこそ、足りてないその何かを把握して手に入れる必要がある。外的・内的障害があるからこそ、対処されるべき原因として対象が、対処する者として自我およびその目的が措定・意識されるのである。

 

以上の「善くはない経験」の反対は主客(現実と理想)の分離および対立のない、全てが一となって調和している経験である。そこでは、いかなるものも対象として意識されることがない。すべてがあたかも自分の身体の一部であるかのように、自分と調和をなしている。それはまるで、すべてを身体として遊び、踊っているようなものである。

これに対応する活動こそが、なんの障害もなく、自らの本性に従う自由な活動であると言える。そのような活動においては、理想と現実の乖離がない。自分の従うべき本性とは異なるように活動する不自由を強いられてはじめて、自由な活動が当為(理想)として、そして当為と現実のギャップが違和感として同時に意識されるのである。

 

では、どういう活動や経験が以上に述べたものに該当するのだろうか。

一つには、すでに挙げた、何事にも気を乱されない安楽の境地がある。しかし安楽の場合、そこに主客の区別がないどころか、経験そのものの内容が非常に希薄だろう。意識がもうろうとしていたり、寝ているときの経験もこれに類するものである。これらの経験は確かに悪いものではないが、最初に述べた健康の経験のように、善、または活動と呼ぶにはやはり消極的に過ぎる。

積極的に善いと呼べるのは、観照的な活動だろう。観照とは何かを主観を交えないで観ずることである。しかし、それは決して「客観的に観る」ことではない。そもそも、観ずる何かと観る自「分」、客観と主観とを引き裂くような形で認識を行わず、主客未分のままその何かになりきることで直観することに他ならない

例えば我を忘れて知的探求に没頭するような営みがそれである。そこでは認識主観と客観の別すらなく、「何かについて思考する」という経験があるのみである。例えば、赴くがままに数学的対象について思考する場合、そこには自我はなく、対象についての思考そのものがあるのみである。意識の全てがその数学的対象に占められていて、対象とその思考、そして思考する自分の区別がないのである。

観照は知のみならず美にも及ぶ。例えば、音楽に聴き入ったり、演奏する営みも、芸術的な観照である。ここでも、音楽と、音楽に聴き入ったり演奏する私の区別は消失しており、自分が音楽の美そのものとなって、輝く過程だけが存在している。

観照の語義を外れるが、運動や趣味的な工芸など、その過程を楽しむために行われる活動も、上記の観照に類するものである。運動をするときや、趣味に興じるとき、我々の経験を占めるのは、純粋に運動すること、(何かを)創ること、描くことであり、創ったり描く何かは、もはや私と分離された客体ではない。主客分離なき原初的な経験を伴うという点において、これら活動は観照と共通している。

 

主客の区別がないからといって、観照の経験は決して静的な無でも、非主体的な受動でもない。言うまでもなく、数学的思考や音楽鑑賞も極めて活発で動的な経験なのであり、時間が過ぎるに従い目まぐるしく変遷する。また、数学的思考は決して静的な思考内容(数学の命題)ではないし、音楽に没入する経験も単なる音のデータではない。それらは、思考すること、音楽そのものとして躍動することであり、観照は「対象と一体化した私」のれっきとした活動なのである。

 

このように、観照とは、自我と対象からその区別が消失し、(元はそうであったように)一の経験をすることである。しかも観照は、実に活動的な経験であり、一つ目の例としてあげた安楽や休息のような経験とは対照的である。積極的な活動である観照こそが、善とよぶにふさわしいだろう。善く生きる、つまり善く経験するとは、極力観照的に生きることに他ならない

 

この観照的な経験の特徴は、自己目的であり、意味を必要としないことである。観照の経験は主客分離、目的と手段の分離を伴わないのだから、観照的活動はいかなる目的の手段たりえないのである。実際、我々は何か他の目的のために音楽を聴いたり、知的探求に没頭することはなく、それらの活動は他の目的を引き合いに出すまでもなくそれ自体で善いものなのである。

確かに何らかの学問的成果を出すために知的探求が行われることもあるだろう。しかし、成果を出す手段として行われる時点で、それはもはや観照ではないのである。そこには(名声やアカデミックなキャリアのために)何かを言わんとする目的意識と、なかなか言いたいことが成り立ってくれない対象の対立がある。例えば、何らかの命題を証明したくとも、論理や事実により反証される場合にその対立が顕在化する。観照に類するものとして述べた運動や趣味的な制作も、体を鍛えるためだとか、制作物を売ったり評価してもらうだとか、他の目的のために行われるようになった時点で、観照とはかけ離れたものになるだろう。

このように、観照的もしくはそれに類する活動は、純粋に活動を楽しむために行われ、アウトプットを目的としない。知的探求や趣味的制作などアウトプットの伴う活動においては、逆に活動を楽しむためにこそ、善きアウトプットが必要となるのである。より高度な思索が出来た方が知的探求は楽しいものだし、より巧くできたほうが音楽の演奏も楽しいからである。しかし、アウトプットはあくまで活動を行うための媒体に過ぎず、手段に過ぎない。

 

ただ、観照は他に目的を持たずとも、目標を必要とすることはある。数学的思考を行うにも、何らかの命題を証明することを目標とする必要があるし、楽しく制作活動に興じるためにも、目標とする完成形が必要である。このように時には計画や目標設定を行い、それに従う必要があるという点で、観照的な活動も不完全である、つまり目的(活動)と手段(目標)の分離があることは否めない。

観照的な活動は散歩で例えられる。散歩も、景色を楽しみながら歩く過程それ自体を楽しむ経験であり、目的地を持たない。しかし、絶景スポットもあれば殺風景な場所もあり、どこを歩いても散歩を楽しめるわけではない。そのため、時には散歩を楽しむがために計画的に目標地点を決め、散歩をする際も完全に赴くままに歩くのではなく、その目標を念頭に置いて歩く必要がある。散歩といえども、完全に気の向くままに歩くことはできないのである。

 

このように、いくら究極的な善であるとはいえ、現実には観照的な活動だけを行うわけにはいかず、観照的な活動を可能にするためにも、同時に目的意識を伴った非観照的な努力が必要なのである。したがって、このような努力も、観照を可能にする限りにおいて、第二義的な善だと言わねばならない。

また、観照はあまりに非日常的で、人間生活の現実をかけ離れているという指摘があるだろう。確かに、我々人間は生きるためだけでも、あまりにも多くの物事を必要としすぎており、日常の大半は、必要なモノや条件を得るための努力、つまり家事や仕事に忙殺されている。対して、上に述べた観照は、生存の条件がクリアされて初めて可能となるほんの一時の贅沢に過ぎない。まさにアリストテレスが述べたように、観照は自己充足した神の善である。

しかし、時々とはいえ、神が人間に宿ることもあるのであり、その限りで我々は観照の善に限定的にありつくことが出来るのである。そして人間が自身を神のごとき自由と完全性に高める努力こそが、人間的な善だと言わねばならないだろう。

 

では、こうした努力はどういうものだろうか。上で述べたような観照を可能にする目標の設定や追求のみならず、究極的には我々が仕事や生活で自己の生存のために行う全ての努力、またその努力を最小化しようとする努力である。例えば思索や音楽、趣味を楽しむためにも閑暇が必要だからである。閑暇を確保するには、快適に生存することはもちろん、それが最小限の時間と労力でなされなければならない。したがって、必要最小限の労働(賃労働のみならず家事も含む)は行い、その必要をさらに最小化しようと個人的・社会的に創意工夫をすることが必要となる。例えば労働の効率化・機械化や、労働をしたい人がするだけで済むように変えるBI等の社会設計の模索が挙げられるだろう。

このように、生存するためにしなければならないことを極力減らし、生存しているからこそしたいことをする余地を増やすこと、これが人間的な善の最たるものである。しかも、この善は個人的に追求するには限りがあり、社会全体の政治的な協力あって初めて十分に追求できるものである。これを人「間」的な善と呼ぶのは、人間の不完全性ゆえに必要であるからだけではなく、このゆえでもある。

 

さて、以上に述べたように、善く生きることには、二つの側面、つまり神的な観照をして生きることと、それを可能にすべく協力しあって人間的に生きることがある。両者は目的と手段の関係にあるとはいえ、いずれも欠かせないものである。両者をバランスよく追求し、不完全な人間ながら極力神のように生きようとすることこそ、善く生きることだといえる。

よく生きること

世間の人が、(要領)よく生きるために「どのように」に関して思考するのに長けているが、その前提を問うことを怠ることでかえって人生を損なうことがある、ということについては既に述べた。

私はなぜ、そして何を「考える」か - Silentterroristの日記

彼らは善く生きることに対しても、「どのように」という手段をもっぱら問う。就職、結婚、子育て等、幸福(=善く生きること)のモデルケースに自分がどうやってはまるかを考えるばかりで、それらがなぜ善く生きることにつながるか、そしてそもそも善く生きるとは何かについては考えない。

確かに、原理や理由を知らずして、方法を知るだけでうまくできることはある。例えばこのパソコンの操作がそれである。しかしパソコンの操作法とはことなり、人生の生き方はあまりにも多様だし、善い生き方が人それぞれであるため、方法を与えればうまく出来る類のことではないことは明らかだろう。

したがって、なぜ善く生きるのか、善く生きるとはどういうことなのかについて考える必要がある。

うち、前者は後者に答えることで答えられるように見える。というのも、生きることは、生きようとすることを含意するように思われるからだ。一般に我々は何かをしたいからするのであり、何かをするからしたいと思うに至るわけではない。しかし生きることは一つの例外である。生存欲求よろしく、我々は生きている限り、生き続けようとする傾向にある。また、その場合は、単に生存するだけではなく、出来るだけ幸福に生きようとするだろう。ただ、傾向に例外はつきものであるし、上記はなぜ我々が善く生きたいと欲するかの説明にはなっても、なぜ善く生きるべきかの説明にはなっていない。したがって、前者も後者とは別に答えが与えられるべき問題ではある。

ただ、まずは、善く生きることは何かを問題としよう。生きるとは何だろうか。生命活動という言葉からわかるように、それは活動である。活動とは、字義通り活発に動くことである。我々の身体は絶えざる生体反応により動いている。しかも、外的な力だけではなく、それ自身をも原因として動いている。栄養摂取等、外的な作用を受けることですらも、自らが進んで行為した結果なのである。外的な要因を主として動かされるのは、点滴を受けている植物状態の人間のように、生きるよりも生かされていると表現したほうがいいだろう。確かに外的な作用あってこそ我々は生きることが出来るとはいえ、受動性よりも能動性が生きることを特徴付ける。

これだけならば動物として生きることの定義に過ぎない。我々人間はさらに、互いのため、互いに協力して様々なことを成し遂げる。つまり、他者との関わりの中で行われる社会的活動を通じて我々は人間として生きるのである。そしてさらに、我々は固有の個性に基づき活動する。言うまでもなく、同じ人間と言えども、その活動の内容は動物的よりも人間的なものであればあるほど、異なったものとなる。人間的な活動にも芸術、学問等の様々なものがあるが、これら多種多様な活動が、個人の性格や才能に応じて、個人の上に別様に現れるのである。このように、生きると一口に言っても、様々な種類やレベルの活動から成る。

しかし、上記は生きるという活動を、生理的現象ないし社会的な言動として外面的に記述したものに過ぎない。意識を持たない哲学的ゾンビですら、生命活動はもちろん、外面では人間らしく社会的に振る舞うことはできるため、上の規定はみたすだろう。しかしそのような機械的なモノは到底生きていると言える代物ではない。したがって、上で行った生の外面的な規定はごく限定的なものに過ぎないと言える。

生命活動は客観的に見れば物理的ないし社会的な現象だが、それと同時に主観的な経験でもある。例えば我々の脳で絶えず生理的反応が生じるのに伴い意識が継続的に生起しているし、社会的な言動をとる際もそれに伴い意識の上でその体験をしているのである。したがって、生きるとは、自然界における動作という現象のみならず、意識の上でその「動作すること」を経験することが表裏一体となった営みである。

生きることのこの二つの側面、外的な活動と、内的な経験の関係がいかなるものだろうか。観念論者の私は前者は後者に内包されると主張したい。いかなる物理的現象や社会現象も、誰かに経験されてこそある。例えば私自身の生命反応は、五感や諸々の観測(医療)装置を通じた私や他人の経験としてこそ生じているのであり、観測者なき物理現象は完全なナンセンスである。この点については、つまり意識から独立した外的(物理的)世界が存在するか否かについては意見が分かれるところだろうが、ここで論じるつもりはない。

上に述べた立場を取るとすれば、生きるとは第一義に経験することである。経験については、別記事ですでに述べた。

経験について - Silentterroristの日記

善く生きるとは善く経験することであり、それは善く活動することに伴い達成されるのである。善く生きることについてはこの記事以外にすでに下の記事で説明しているが、この記事は後者の善く(自由に)活動することについて、限定的ではあるが述べたものであった。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記

それでは善く活動することにより達成される、善き経験とは何かが説明されなければならないが、それはまた別の機会に行うとしよう。

荘子紹介(三分間スピーチ)

ちょうど一年前、会社の朝礼のスピーチで述べようとしたことをまとめなおしてみる。残念ながら、ちょうど発表しようとしたときにスピーチが廃止され、実際に発表することはなかったのだが。

 

最近、私は中国古代の思想家荘子に傾倒している。彼は中国の春秋戦国時代に生まれた思想家:諸子百家の一人で、道家にカテゴライズされる。

彼の問題意識は、悲惨な戦国時代にあっても人間はどのように自由に生きられるかという点にあった。私も仕事で不自由を感じないときはないので、不自由の質や程度に相違はあれ、参考にできるところがあるかもしれないと思い、読むに至った。

 

では、彼の思想について紹介する。

まず彼は真の実在として道:万物がそれによって存在し、変化する道理を措定する。これは全事象に遍在する原理である。対して、我々が日常的にとらわれる諸々の知覚・認識・善悪や感情などは、道の現象に過ぎず、各々の主観によって異なって映る。

彼は、前者の「道」について自覚を持ち、それと一体化した自己を持つことを説いた。そうすることで、後者に属する諸々の負の感情、争いを生み出す善悪の対立などの表面的な現象から自由になり、後者にとらわれない主体性が発揮できると考えたためである。

しかし、彼はけっして超越的な道の世界に逃避しようとしたわけではなく、道に根差した強く柔軟な自己をもって、現実世界で精一杯生きることを欲した

彼の自由は、思い通りにできるといった意味の自由ではなく、精神の在り方に関する自由である。彼は、道理という必然を受け入れ、それに従う自己を持つことで、自らに由るという意味で自由になれたと言える。

 

彼の独特の世界観には理解や同意をしがたい部分がある。しかし、自分の抱える仕事上の悩みや苦痛を相対化し、深刻にとらえすぎないことで、かえって主体的に困難を克服できるのではないかというヒントは得ることができた。

否定について

我々は、よく否定という言葉を口にする。自己や現状の否定だとか、否定的(ネガティブ)だとかよく言われることがあるが、そもそも否定とはどういう意味なのだろうか。
否定の原義は、ある命題が真でない、つまり偽であると主張することである。地球が平たいという命題を否定するとは、地球が平たくないと主張することに等しいし、うわさを否定するとは噂の内容が事実と異なると主張することである。
しかし、否定的に評価するだとか、ネガティブな性格等という場合、否定の意味は少し違ってくる。ある事態を否定的に評価するとは、それが事実ではないと主張することではない。むしろその事態が事実であることを認めつつ、そうあってはならないと主張することが、否定的な評価の意味である。
ある人がネガティブな性格であるというのも、全ての命題に対して偽ではあるまいかと疑いにかかる懐疑主義のことではなく、あらゆることに対して、そのありのままを認識しつつも否定的な評価を下す態度の事である。

ここでいう否定は、「~ではない」という論理的な否定とは異なる意味のもので、どちらかというと「~であってはならない」とする倫理的な意味合いの強い態度であるといえる。その倫理的な性格から、否定は悪しとする価値判断を帯びる。「~であってはならない」と考える人は、その事態を悪いものだと評価し、その事態が無くなることを望む。
逆に、肯定にも、ある命題を真だと認める論理的な意味もあれば、倫理的な意味もある。否定が「~であってはならない」とする態度ならば、肯定は「~であってもよい」、もしくは「~であってよかった」とする是認の態度だろう。何らかの事態を肯定することは、それが善い、もしくは悪くはないとする価値判断を含意するのである。


ただ、善悪といっても、絶対的に善い/悪いのか、何か他の事態に比べて相対的に善い/悪いのか、二つの意味があるだろう。絶望や苦悩に喘ぐ事態は、マシな事態を引き合いに出すまでもなく端的に悪いのに対して、平凡な食事をしているという事態は、ご馳走にありつける事態と比較して悪いに過ぎない。このような悪の意味の違いに応じて、否定にも絶対否定と、相対的に過ぎない否定がある。

うち、後者の相対的な否定は、場合によっては肯定的ですらある。今の食事が贅沢なご馳走に比べて悪いということは、現状を改善できる可能性が残されているということである。もし、今の質素な食事を否定するだけではなく、料理の手間をかけるなど、否定から逃れる(改善の)ための努力を伴うならば、それは現状改善のきっかけでありむしろ望ましいものである。
対して、前者の否定はどこまでも憂鬱である。後者のように改善の可能性が意識されなければ、現状の劣悪さ、煩わしさは希望を削ぐばかりであり、終いには「こんなにひどい現実は改善するに値しない」という更なる否定にもつながってしまうだろう。

肯定も同様である。相対的な現状肯定は、現状を他の事態に対して望ましいとする現状満足に他ならない。この態度が行き過ぎると改善がなされなくなるだろう。対して絶対的な肯定は、「このように素晴らしい現実に生きていてよかった」とする現実に対する感謝や愛とでもいうべきもので、幸福の源泉ですらある。

 

ここで注意すべき点がある。
①否定することは、それ自体不快で残念なことである。例えば、もっと美味しい料理があるのに…と思いながら食事をしようならば食事の美味しさが失われるだろうし、より幸福に見える他人と自分を比較するのは、それ自体が不幸の原因である。
逆に、人の不幸で慰めを得る人のように、自分の現状が他と比較してマシであるとする肯定は、それ自体が幸せの足しになる。

②絶対的な肯定と相対的な否定とは両立する。それはつまり、現状は素晴らしくとも、なお改善の余地があると考えることであり、現実が愛せるほど素晴らしいから、さらに良くしようとする好循環である。この、肯定をベースとした部分的な否定の態度が、幸せに生きるのに最も適した実践的態度といえる。逆に、現状が他に比べれば最もマシだと考えながら、それでも不満を抱く人は、救われようのない不幸の人だろう。

③相対的な否定や肯定は、事態の良し悪しの問題であるのに対して、絶対的な否定や肯定は、どちらかというとその人の態度の問題である。例えば、誰でも、最低限度の衣食住が賄える暮らしよりも、贅沢な暮らしが出来るほうが良いゆえ、前者を相対的に悪いものだと否定するだろう。対して、否定的な人は最低限の暮らしでは満足せず不幸に感じるのに対して、肯定的な人であれば前者のような暮らしでも感謝して遅れることだろう。まさに、コップに水が半分しか入っていないのか、半分も入っていると捉えるかのごとき違いである。

 

②で言ったように、原則として肯定的な態度を保てる人が最も幸福である。にもかかわらず、ネガティブな人が数多くいるのはなぜだろうか。


まず、彼らがそもそも幸福を追求していないという理由が考えられる。「不幸であるにも関わらず」強く生きることに意義を見出す人、生を呪詛する人生に生きがいを感じている人等様々な人がいるだろう。彼らの生き方は確かに面白いが、大変であるばかりか自己憐憫の気も感じられ、少なくとも私には魅力的ではない。

その他の、幸せになりたいのにネガティブな人は、③で述べた通り性格や気質に負うところが大きいだろう。だが、そればかりではなく、以下に述べる「無用な比較」により現状を否定している人が多いのではないかと思う。


相対的な否定は改善につながればむしろポジティブなものであることは述べたが、もし改善のしようがなければ①で述べた通り、それ自体がネガティブな感情の原因になる。「無用な比較」とは、改善につながらない、不可能な空想と現状の比較である。
例えば、遺伝的に身長が低いなど、変えようの無い身体的なコンプレックスがそれである。彼は、自身の身長が低いという現状を、背が高い他人と比較して否定する。しかし、彼自身にとって、比較対象の事態、つまり彼が他人並みの身長になることは不可能であり、彼は現状を無理な理想と比較しているのである。解消が不可能もしくは困難なコンプレックスの大半は、こういった不可能な理想との無用な比較という形態を取る。

この類の否定的な感情は、無の否定と呼んで差し支えないと思う。背が低かったり、髪が薄かったり、恋人がいなかったり…これらは、それ自体としてはなんら苦痛を生み出さ「ないこと」である。にも関わらず、背が高く、髪がふさふさで恋人がいる…というような「有ること」と比較されることで否定され、苦悩が生み出されるのである。

食料や水が無い結果としての飢えや渇きは、確かに有る感覚であり、これらを否定することは理に適っている。しかし、そもそも何の苦しみも伴わないことを、否定する理由はどこにあるだろうか。無の否定とは一種の迷いであり、この迷いゆえネガティブな劣等感を自ら作り出してしまっているのである。

我々はいかにこの迷いから自由になれるだろうか。それは、何かが無い現状を、有る理想と比較するのをやめなければ達成できない。ではそもそも、なぜ我々は現状を実現できもしない理想と比較するのだろうか。それは、実現不可能性の認識が確固としていないからである。
我々はしばしば、世の大多数が手にしているものを自分が持ちえないことに対して劣等感を感じる。しかし例えば、我々は大富豪の贅沢と己を比較して、富に恵まれぬ己自身に劣等感を抱きはしない、彼らが我々とあまりにかけ離れ、比較の範囲を超えていると感じるからである。前者の場合に劣等感を感じるのは、普通の人が手にしているものを、自分が手にしてもおかしくないとする錯覚から、自分と普通の人とを(無意味にも関わらず)比較してしまうからだろう。

したがって、自分に無いものが、絶対に手に入れられないのだとする諦めを徹底することが、この迷いから抜け出る唯一の方法だろう。諦めというと一見否定的に聞こえるが、否定を克服するという肯定的な意義も備えているのである。

 

無の否定とは異なるが、過去に対する後悔のあまり、現実の過去や現在を否定するのも無用な比較の一種である。この場合も、現実とは異なる選択を過去に行った場合に実現されたであろう現在は、今の私が生きる現実と断絶されているという認識が甘いからこそ、盆に返った覆水を夢見て覆水を嘆くのである。

 

上記は少ない例に過ぎないが、否定的態度は迷妄や誤謬をしばしば原因とする。したがって、現実の必然性と可能性をありのままに正しく認識することが、その克服につながり、幸福に生きることに大いに資するのである。