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よく生きること

世間の人が、(要領)よく生きるために「どのように」に関して思考するのに長けているが、その前提を問うことを怠ることでかえって人生を損なうことがある、ということについては既に述べた。

私はなぜ、そして何を「考える」か - Silentterroristの日記

彼らは善く生きることに対しても、「どのように」という手段をもっぱら問う。就職、結婚、子育て等、幸福(=善く生きること)のモデルケースに自分がどうやってはまるかを考えるばかりで、それらがなぜ善く生きることにつながるか、そしてそもそも善く生きるとは何かについては考えない。

確かに、原理や理由を知らずして、方法を知るだけでうまくできることはある。例えばこのパソコンの操作がそれである。しかしパソコンの操作法とはことなり、人生の生き方はあまりにも多様だし、善い生き方が人それぞれであるため、方法を与えればうまく出来る類のことではないことは明らかだろう。

したがって、なぜ善く生きるのか、善く生きるとはどういうことなのかについて考える必要がある。

うち、前者は後者に答えることで答えられるように見える。というのも、生きることは、生きようとすることを含意するように思われるからだ。一般に我々は何かをしたいからするのであり、何かをするからしたいと思うに至るわけではない。しかし生きることは一つの例外である。生存欲求よろしく、我々は生きている限り、生き続けようとする傾向にある。また、その場合は、単に生存するだけではなく、出来るだけ幸福に生きようとするだろう。ただ、傾向に例外はつきものであるし、上記はなぜ我々が善く生きたいと欲するかの説明にはなっても、なぜ善く生きるべきかの説明にはなっていない。したがって、前者も後者とは別に答えが与えられるべき問題ではある。

ただ、まずは、善く生きることは何かを問題としよう。生きるとは何だろうか。生命活動という言葉からわかるように、それは活動である。活動とは、字義通り活発に動くことである。我々の身体は絶えざる生体反応により動いている。しかも、外的な力だけではなく、それ自身をも原因として動いている。栄養摂取等、外的な作用を受けることですらも、自らが進んで行為した結果なのである。外的な要因を主として動かされるのは、点滴を受けている植物状態の人間のように、生きるよりも生かされていると表現したほうがいいだろう。確かに外的な作用あってこそ我々は生きることが出来るとはいえ、受動性よりも能動性が生きることを特徴付ける。

これだけならば動物として生きることの定義に過ぎない。我々人間はさらに、互いのため、互いに協力して様々なことを成し遂げる。つまり、他者との関わりの中で行われる社会的活動を通じて我々は人間として生きるのである。そしてさらに、我々は固有の個性に基づき活動する。言うまでもなく、同じ人間と言えども、その活動の内容は動物的よりも人間的なものであればあるほど、異なったものとなる。人間的な活動にも芸術、学問等の様々なものがあるが、これら多種多様な活動が、個人の性格や才能に応じて、個人の上に別様に現れるのである。このように、生きると一口に言っても、様々な種類やレベルの活動から成る。

しかし、上記は生きるという活動を、生理的現象ないし社会的な言動として外面的に記述したものに過ぎない。意識を持たない哲学的ゾンビですら、生命活動はもちろん、外面では人間らしく社会的に振る舞うことはできるため、上の規定はみたすだろう。しかしそのような機械的なモノは到底生きていると言える代物ではない。したがって、上で行った生の外面的な規定はごく限定的なものに過ぎないと言える。

生命活動は客観的に見れば物理的ないし社会的な現象だが、それと同時に主観的な経験でもある。例えば我々の脳で絶えず生理的反応が生じるのに伴い意識が継続的に生起しているし、社会的な言動をとる際もそれに伴い意識の上でその体験をしているのである。したがって、生きるとは、自然界における動作という現象のみならず、意識の上でその「動作すること」を経験することが表裏一体となった営みである。

生きることのこの二つの側面、外的な活動と、内的な経験の関係がいかなるものだろうか。観念論者の私は前者は後者に内包されると主張したい。いかなる物理的現象や社会現象も、誰かに経験されてこそある。例えば私自身の生命反応は、五感や諸々の観測(医療)装置を通じた私や他人の経験としてこそ生じているのであり、観測者なき物理現象は完全なナンセンスである。この点については、つまり意識から独立した外的(物理的)世界が存在するか否かについては意見が分かれるところだろうが、ここで論じるつもりはない。

上に述べた立場を取るとすれば、生きるとは第一義に経験することである。経験については、別記事ですでに述べた。

経験について - Silentterroristの日記

善く生きるとは善く経験することであり、それは善く活動することに伴い達成されるのである。善く生きることについてはこの記事以外にすでに下の記事で説明しているが、この記事は後者の善く(自由に)活動することについて、限定的ではあるが述べたものであった。

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記

それでは善く活動することにより達成される、善き経験とは何かが説明されなければならないが、それはまた別の機会に行うとしよう。

荘子紹介(三分間スピーチ)

ちょうど一年前、会社の朝礼のスピーチで述べようとしたことをまとめなおしてみる。残念ながら、ちょうど発表しようとしたときにスピーチが廃止され、実際に発表することはなかったのだが。

 

最近、私は中国古代の思想家荘子に傾倒している。彼は中国の春秋戦国時代に生まれた思想家:諸子百家の一人で、道家にカテゴライズされる。

彼の問題意識は、悲惨な戦国時代にあっても人間はどのように自由に生きられるかという点にあった。私も仕事で不自由を感じないときはないので、不自由の質や程度に相違はあれ、参考にできるところがあるかもしれないと思い、読むに至った。

 

では、彼の思想について紹介する。

まず彼は真の実在として道:万物がそれによって存在し、変化する道理を措定する。これは全事象に遍在する原理である。対して、我々が日常的にとらわれる諸々の知覚・認識・善悪や感情などは、道の現象に過ぎず、各々の主観によって異なって映る。

彼は、前者の「道」について自覚を持ち、それと一体化した自己を持つことを説いた。そうすることで、後者に属する諸々の負の感情、争いを生み出す善悪の対立などの表面的な現象から自由になり、後者にとらわれない主体性が発揮できると考えたためである。

しかし、彼はけっして超越的な道の世界に逃避しようとしたわけではなく、道に根差した強く柔軟な自己をもって、現実世界で精一杯生きることを欲した

彼の自由は、思い通りにできるといった意味の自由ではなく、精神の在り方に関する自由である。彼は、道理という必然を受け入れ、それに従う自己を持つことで、自らに由るという意味で自由になれたと言える。

 

彼の独特の世界観には理解や同意をしがたい部分がある。しかし、自分の抱える仕事上の悩みや苦痛を相対化し、深刻にとらえすぎないことで、かえって主体的に困難を克服できるのではないかというヒントは得ることができた。

否定について

我々は、よく否定という言葉を口にする。自己や現状の否定だとか、否定的(ネガティブ)だとかよく言われることがあるが、そもそも否定とはどういう意味なのだろうか。
否定の原義は、ある命題が真でない、つまり偽であると主張することである。地球が平たいという命題を否定するとは、地球が平たくないと主張することに等しいし、うわさを否定するとは噂の内容が事実と異なると主張することである。
しかし、否定的に評価するだとか、ネガティブな性格等という場合、否定の意味は少し違ってくる。ある事態を否定的に評価するとは、それが事実ではないと主張することではない。むしろその事態が事実であることを認めつつ、そうあってはならないと主張することが、否定的な評価の意味である。
ある人がネガティブな性格であるというのも、全ての命題に対して偽ではあるまいかと疑いにかかる懐疑主義のことではなく、あらゆることに対して、そのありのままを認識しつつも否定的な評価を下す態度の事である。

ここでいう否定は、「~ではない」という論理的な否定とは異なる意味のもので、どちらかというと「~であってはならない」とする倫理的な意味合いの強い態度であるといえる。その倫理的な性格から、否定は悪しとする価値判断を帯びる。「~であってはならない」と考える人は、その事態を悪いものだと評価し、その事態が無くなることを望む。
逆に、肯定にも、ある命題を真だと認める論理的な意味もあれば、倫理的な意味もある。否定が「~であってはならない」とする態度ならば、肯定は「~であってもよい」、もしくは「~であってよかった」とする是認の態度だろう。何らかの事態を肯定することは、それが善い、もしくは悪くはないとする価値判断を含意するのである。


ただ、善悪といっても、絶対的に善い/悪いのか、何か他の事態に比べて相対的に善い/悪いのか、二つの意味があるだろう。絶望や苦悩に喘ぐ事態は、マシな事態を引き合いに出すまでもなく端的に悪いのに対して、平凡な食事をしているという事態は、ご馳走にありつける事態と比較して悪いに過ぎない。このような悪の意味の違いに応じて、否定にも絶対否定と、相対的に過ぎない否定がある。

うち、後者の相対的な否定は、場合によっては肯定的ですらある。今の食事が贅沢なご馳走に比べて悪いということは、現状を改善できる可能性が残されているということである。もし、今の質素な食事を否定するだけではなく、料理の手間をかけるなど、否定から逃れる(改善の)ための努力を伴うならば、それは現状改善のきっかけでありむしろ望ましいものである。
対して、前者の否定はどこまでも憂鬱である。後者のように改善の可能性が意識されなければ、現状の劣悪さ、煩わしさは希望を削ぐばかりであり、終いには「こんなにひどい現実は改善するに値しない」という更なる否定にもつながってしまうだろう。

肯定も同様である。相対的な現状肯定は、現状を他の事態に対して望ましいとする現状満足に他ならない。この態度が行き過ぎると改善がなされなくなるだろう。対して絶対的な肯定は、「このように素晴らしい現実に生きていてよかった」とする現実に対する感謝や愛とでもいうべきもので、幸福の源泉ですらある。

 

ここで注意すべき点がある。
①否定することは、それ自体不快で残念なことである。例えば、もっと美味しい料理があるのに…と思いながら食事をしようならば食事の美味しさが失われるだろうし、より幸福に見える他人と自分を比較するのは、それ自体が不幸の原因である。
逆に、人の不幸で慰めを得る人のように、自分の現状が他と比較してマシであるとする肯定は、それ自体が幸せの足しになる。

②絶対的な肯定と相対的な否定とは両立する。それはつまり、現状は素晴らしくとも、なお改善の余地があると考えることであり、現実が愛せるほど素晴らしいから、さらに良くしようとする好循環である。この、肯定をベースとした部分的な否定の態度が、幸せに生きるのに最も適した実践的態度といえる。逆に、現状が他に比べれば最もマシだと考えながら、それでも不満を抱く人は、救われようのない不幸の人だろう。

③相対的な否定や肯定は、事態の良し悪しの問題であるのに対して、絶対的な否定や肯定は、どちらかというとその人の態度の問題である。例えば、誰でも、最低限度の衣食住が賄える暮らしよりも、贅沢な暮らしが出来るほうが良いゆえ、前者を相対的に悪いものだと否定するだろう。対して、否定的な人は最低限の暮らしでは満足せず不幸に感じるのに対して、肯定的な人であれば前者のような暮らしでも感謝して遅れることだろう。まさに、コップに水が半分しか入っていないのか、半分も入っていると捉えるかのごとき違いである。

 

②で言ったように、原則として肯定的な態度を保てる人が最も幸福である。にもかかわらず、ネガティブな人が数多くいるのはなぜだろうか。


まず、彼らがそもそも幸福を追求していないという理由が考えられる。「不幸であるにも関わらず」強く生きることに意義を見出す人、生を呪詛する人生に生きがいを感じている人等様々な人がいるだろう。彼らの生き方は確かに面白いが、大変であるばかりか自己憐憫の気も感じられ、少なくとも私には魅力的ではない。

その他の、幸せになりたいのにネガティブな人は、③で述べた通り性格や気質に負うところが大きいだろう。だが、そればかりではなく、以下に述べる「無用な比較」により現状を否定している人が多いのではないかと思う。


相対的な否定は改善につながればむしろポジティブなものであることは述べたが、もし改善のしようがなければ①で述べた通り、それ自体がネガティブな感情の原因になる。「無用な比較」とは、改善につながらない、不可能な空想と現状の比較である。
例えば、遺伝的に身長が低いなど、変えようの無い身体的なコンプレックスがそれである。彼は、自身の身長が低いという現状を、背が高い他人と比較して否定する。しかし、彼自身にとって、比較対象の事態、つまり彼が他人並みの身長になることは不可能であり、彼は現状を無理な理想と比較しているのである。解消が不可能もしくは困難なコンプレックスの大半は、こういった不可能な理想との無用な比較という形態を取る。

この類の否定的な感情は、無の否定と呼んで差し支えないと思う。背が低かったり、髪が薄かったり、恋人がいなかったり…これらは、それ自体としてはなんら苦痛を生み出さ「ないこと」である。にも関わらず、背が高く、髪がふさふさで恋人がいる…というような「有ること」と比較されることで否定され、苦悩が生み出されるのである。

食料や水が無い結果としての飢えや渇きは、確かに有る感覚であり、これらを否定することは理に適っている。しかし、そもそも何の苦しみも伴わないことを、否定する理由はどこにあるだろうか。無の否定とは一種の迷いであり、この迷いゆえネガティブな劣等感を自ら作り出してしまっているのである。

我々はいかにこの迷いから自由になれるだろうか。それは、何かが無い現状を、有る理想と比較するのをやめなければ達成できない。ではそもそも、なぜ我々は現状を実現できもしない理想と比較するのだろうか。それは、実現不可能性の認識が確固としていないからである。
我々はしばしば、世の大多数が手にしているものを自分が持ちえないことに対して劣等感を感じる。しかし例えば、我々は大富豪の贅沢と己を比較して、富に恵まれぬ己自身に劣等感を抱きはしない、彼らが我々とあまりにかけ離れ、比較の範囲を超えていると感じるからである。前者の場合に劣等感を感じるのは、普通の人が手にしているものを、自分が手にしてもおかしくないとする錯覚から、自分と普通の人とを(無意味にも関わらず)比較してしまうからだろう。

したがって、自分に無いものが、絶対に手に入れられないのだとする諦めを徹底することが、この迷いから抜け出る唯一の方法だろう。諦めというと一見否定的に聞こえるが、否定を克服するという肯定的な意義も備えているのである。

 

無の否定とは異なるが、過去に対する後悔のあまり、現実の過去や現在を否定するのも無用な比較の一種である。この場合も、現実とは異なる選択を過去に行った場合に実現されたであろう現在は、今の私が生きる現実と断絶されているという認識が甘いからこそ、盆に返った覆水を夢見て覆水を嘆くのである。

 

上記は少ない例に過ぎないが、否定的態度は迷妄や誤謬をしばしば原因とする。したがって、現実の必然性と可能性をありのままに正しく認識することが、その克服につながり、幸福に生きることに大いに資するのである。

私はなぜ、そして何を「考える」か

私は一般的に無益と思われることをよく考える。一般的に皆が考えるのは、仕事や生活のどちらかを問わず、日常を要領よく生きるためには何をすればいいか、つまり「どのように」(how)の問題である。しかし、どのように行うかを問う前提となるのがなぜ行うのか(why)の問題であり、さらにはそもそもなんであるか(what)の問題がすべての前提となる。私は世間の人々はhowの問題にとらわれるあまり、残り二つのwhyやwhatの問題がおざなりになっているのではないかと常日ごろ考えるところである。
 例えば、仕事をするにしても皆は、どうすれば仕事がうまく行くかに関心があるようだが、この問いは仕事を行うことを前提としている。「現状では」個人的に仕事をせざるをえないとしても、とりわけ現代的な形態で人間が仕事を行うのは自明ではない。それゆえに、そもそも、なぜ仕事をしなければならないのかに興味を持つのである。それにこたえるためには、さらに、仕事、とくに近代的な賃労働がいかなるものかが問われねばならない。
 ではなぜ、「なぜ」を問うべきのだろうか。それは、「どのように」が前提とすること、仕事の例で言えば、「仕事をする」という前提が必ずしも正しくないからである。例えば、ブラック労働や過労死の例を挙げるまでもなく、仕事をすることが常に善い事とは限らない。また、AIやロボット技術の発展によって、供給を賄うための労働の必要性も薄れているのである。もし、仕事をすることが悪いことだったら、不必要なことであれば、「どうすれば仕事がうまくいくか」のみを考え仕事を続けることは、要領が良いどころか、全く良いことではないだろう。
このように、日常で問われる「どのように行うか」という問いは、「行うこと」をすでに前提しているのであるから、この前提を吟味しないでは、せっかく要領よく生きるために問うた「どのように」に対する解が、かえって人生を損ねてしまう恐れがあるのである。
私が行う「考えること」とは、以上のように通念に潜む前提を吟味することである。それが結果的に「なぜ」や「なんであるか」という問いの形態をとるのである。

【論文要約】(人生の意味について)

以下は、Richard Taylor の論文 『The Meaning of Life』を私なりに要約したものである。

 

人生の意味について直接考えるのは困難である以上、無意味について考える方が容易いだろう。
その典型がシジフォスの岩転がしという神話である。
彼は神々を裏切り、次を永遠に繰り返すように罰せられた。
・岩を丘のてっぺんまで転がし、直後に岩が転げ落ちたのを、再び丘の上まで転がす

 

これを要素に分解すると次のとおりである。
①不本意ながらも
②多大な労力を払い
岩を丘の頂上まで転がす。
③しかし、その後すぐ岩が落ちて元通りになり
④以上同じことを永遠に繰り返さないといけない。

 

シジフォスの岩転がしを無意味にしているのは、①~④のどれだろうか。

まず、②や④は異なる。もし②や④が成り立たなかったとして、
転がすのが岩の代わりに石でも、異なる岩を次々と転がそうとも、
岩転がしが無意味であることにかわりはないからである。

では、③はどうだろうか。
もし、岩を丘の頂上まで転がした後も元通りにならず、岩がてっぺんに持ち上げられたという成果が残るならば、岩を転がすのにも一見意味があるように見える。これを客観的な意味と呼ぼう。

しかし、一度岩を上まで転がし、目的が達成されれば残るのは永遠の退屈のみである。③の不成立によりもたらされる客観的意味も、永続的ではないのである。

最後に①はどうだろうか。もし①が不成立で、岩を転がすこと自体に喜びを感じる非合理な欲求をシジフォスが持っていれば、彼のこの欲求が満たされるだけではなく、岩を転がし続けることに肯定的な使命感や意味を見出すことができるだろう。しかし、彼の行為に客観的な意味がないことには変わりがない。したがって、①の不成立にもたらされる意義は主観的な意味と呼んで区別すべきだろう。

では、一般に、我々人間の人生に認められる意味は主観的、客観的意味のどちらだろうか。

ある面では、我々人類の活動には客観的な意味が認められるように思える。例えば様々な文明の偉業、偉大な科学的発見や建造などが挙げられるだろう。しかし、これらは新しいものにとって代わられ時代遅れとなったり、物理的に摩耗してしまう。これらの客観的意味も、シジフォス同様一時的なものに過ぎないのではないか。

また、仮にこれら功績の偉大さが残るとしても、ある目標を達成しては、それが何もなかったように新しい目標に目移りするのを延々と繰り返す点において、次々と偉業が達成されることによる進歩も単なる見せかけであり、本質的には単なる繰り返しに過ぎないと言えるのではないだろうか。

以上の点で、我々の営みもシジフォスと酷似していると言える。

しかし、我々の営みを、「何が結果として実現されたか」という客観的な観点ではなく、「我々が何を意志し、何をすることに興味を持つか」という主観的な観点からとらえれば、そこには少なくとも主観的な意味は見出せる。

例えば、仮に古代の建造物を建てた人々が、現代においてそれが朽ち果てているのを見たとしても、彼らが建造するに際して見出した意味は損なわれないだろう。この意味は、何が建てられたかという結果ではなく、建物を自らの意志に従い建築するという活動の過程にあるからである。

同様に、人生全体も意志された活動であり、その意味は生きる過程の内にある。では生きること、意志することとは何だろうか。それは、次々と新しい目標、成果を達成しようと努めることである。
人生の意味は、達成した目標や成果そのものではなく、意志に従い目標や成果を達成しようとする過程の中にあるのだ。

 

(要約終わり)

 

(感想)

著者が人生が有すると主張する「主観的な意味」はそもそも意味と言っていいものなのだろうか。「言葉の意味」からの類比から、意味というのは常に外部との関係である。人生の意味が人生であるというのは、リンゴという言葉の意味が、まさに同じその言葉であるというがごとき、同語反復ではないのだろうか。

したがって、それは意味というも、端的な善だろう。つまり人生の意味が人生の内にあるのではなく、人生がそれ自体として(外部の何を引き合いに出すまでもなく)善いということである。

外部とのつながり、という原義に立ち返ってみれば、「客観的な意味」のほうが意味と呼ぶのにふさわしい。例えば、ピラミッドを作る労働の過程は、その意味である完成物のピラミッドとは別物だからである。

したがって、著者は本来の意味で人生が有意味であることは言えていない、むしろシジフォスの例におけるのと同様、無意味であることを示しているように思われる。

 

「主観的な意味」を意味を呼んで良いかを除けば、私は筆者に同意する。人生の「客観的な意味」は空虚である。

例えばピラミッドを作る労働者にとって、労働の意味が出来上がるピラミッドだとしても、そのピラミッドには何の意味があるだろうか。それは所詮ファラオの自己満足にしかならず、たいした意味を持ちはしない。そうなると、無意味なピラミッドに費やされた労働者の労働の意味も空虚になるのではないか。

自らの労働だけを見るならば、それに意味があるように見えるかもしれないが、一たび俯瞰視して労働の成果物たるピラミッドの意味を考えるやいなや、意味は消失してしまうのである。意味はこのように、より俯瞰的な観点に立ち、意味を考える主語を広げるに従い消失してしまうものである。

 

経験について

私が経験という言葉で言い表すのは、一般に心、もしくは精神と呼ばれる場で生じる全ての出来事である。

知覚はもちろん、認識、想像、感情、思考などの精神的活動、およびこれらの対象(客観、イメージ、好き嫌い、命題、言葉)全てが経験というカテゴリーに入る。

しかし、本当に全てが経験なのかというと、そうではない。もしそうだとすれば、この言葉は無限定で無意味な概念になってしまうだろう。

 

それではなにが経験に該当しないか。
①たとえば、(概念ではなく、それが表象する対象としての)が挙げられる。我々は、神という言葉を使って意味のある言明が出来るし、神に対するおぼろげな観念も持っている。だから、概念、もしくは観念としての神は経験に含まれる。しかし、神という言葉、概念の指示対象には、われわれが知覚したり、認識するものの如何なる対象も該当しない。要するに、神は、(自然界に実在するモノとは異なり)概念や観念として経験されるに過ぎないのである。

②(自分とまったく同様に、心や意識を持った存在としての)他人や、その他人の経験する内容も、経験には含まれない。確かに我々は他人が身体として言動を起こす様は知覚できるし、他人の発する言葉を理解することもできる。しかし、他人が感じたり、考えることをそのまま知ることはできないし、そのような精神活動の主体としての他人そのものも認識できない
われわれが(意識を持った)他人が存在するという場合、それはあくまで、他人と同様に身体として言動を起こす自分自身が、意識を持っているという事実からの類推に他ならないし(この類推が合理性を欠くとはいえ)、他人が経験する内容を知っていると言う場合、それもあくまで、他人の発する言葉と自分の経験を照らし合わせることによる想像に過ぎない。
つまり、他人や他人の経験も、想像や思考の上の措定物としてしか経験されない

物自体=経験から独立した(経験されずとも在る)存在も、定義から知覚や認識できないものなので、経験不可能なものである。ただし、この場合も「物自体」という言葉や概念を用いて思考することは(認識内容を欠いた概念を用いる思考に如何ほどの有用性があるかどうかはともかく)可能である以上、「物自体」という概念は経験に含まれる。

 

以上のような、経験不可能な存在を、「超越物」と定義しよう。
注意すべきは、我々は超越物を直接経験することはできないが、(超越物を指すかのごとく用いられる)概念や、(超越物を表象するかのごとく想定される)観念を、一つの経験として構成することはできることだ。前者を構成することを措定、後者を構成することを想像と呼ぶことにし、前者の構成物を措定物、後者の構成物を想像と呼ぶことにする。

これら措定物や想像は、実在物(知覚できる対象など)の概念や観念と異なり、表象という機能を欠いている。なぜなら、それらが指す対象は、経験のどこを探してもないからだ。しかし、それらはあたかも何かの対象を意味するかのように扱われることで、特定の「機能」を持つ。「意識を持った他人」という措定は、他人を単なる身体として道具扱いせず、自分と同じ人格として道徳的に尊重する基礎となるし、「神」という措定も、戒律を守らせる規範的な機能を持つ。言うまでもないが、何かの対象を表象するだけが、概念や観念の機能ではないのである。

 

さて、ここで私の立場を明らかにしよう。まず、経験が存在する全てであり、経験以外のものは、存在するとも存在しないともいえない。それらは、存在概念と無縁の対象である。
また、経験に機能のバリエーションはあれど、「どれが本物でどれが虚構」というように差別をせず、あらゆる経験に等しく存在資格を認める、とする立場であり、私はそれを経験主義と呼ぶことにする。

得体の知れない超越物の措定や想像に、直接的な知覚対象や、存在証明のある対象と同等の実在性を認める経験主義は、寛容であると同時に、矛盾がない限り「何でもあり」の立場である。なぜなら、措定物は知覚や認識とは別につくられたものだから、その存在を実証や論証できないだけではなく、反証も論駁もできないからである。
例えば、超越物を措定するような哲学や神を措定する宗教でさえ、それら超越物があくまで措定であって知覚や認識の対象でないことに自覚的である限りは、経験主義と矛盾することはない。
経験主義はあくまでも多種多様な経験のカテゴライズを正しく行い、在りもしない経験やカテゴリーの錯誤を排除しようとする姿勢に過ぎず、特定の主張を支持、もしくは否定するものではないのである。

 

反出生主義についての若干の補足

私の反出生主義について - Silentterroristの日記

前回は、私の主観の延長として反出生主義を提示したに過ぎない。したがって、この客観的な妥当性に関してはなんも説明がなされていない。一般に道徳は、常識や、実際の道徳的実践と一致するとは限らないが、もし常識や実際の道徳的実践に反する場合はその説明が必要だろう。この記事では、私の反出生主義の主張の一部が、常識や実際の道徳的実践とも整合していることを示す

私の立場は以下の通りである。うち、Ⅲ.は明らかに皆の認めるところだろう。対してⅣ.は一般的には同意を得るのが容易ではない。そこで、Ⅰ,Ⅱの常識や実際の道徳的実践との整合を示す。

 

Ⅰ.Ⅱを除き、子供が実際に生まれることは、道徳的に望ましくも、悪くもない。

Ⅱ.ただ、子供が生まれるならばある水準以上に不幸になる場合、彼がそもそも生まれないことが道徳的に望ましいような、一定水準が存在する。

Ⅲ.もし子供が生まれる場合は、彼が極力幸福になることが道徳的に望ましい

Ⅳ.Ⅱ.の「一定水準の不幸」とは、「自分が生まれた(生存した)ことは悪いことだった」とする出生(生存)に対する否定である。


Ⅱ.はそのままでも支持を得られるだろうが、次のより容易に受け入れられる主張からⅡ.を示すことができる。

2.生き続けてもある水準以上に不幸になる場合、そもそも生き続けないことが本人にとって(したがって道徳的にも)望ましいような、一定水準が存在する。

この主張は、臨床医療の現場でしばしば認められるところである。ある種の極端な不幸、例えば生き続けても苦しむだけで何もできないような状況に対しては、そもそも人生を継続しないほうが本人にとって良いとされることがしばしばある。

子供が生まれることは、子供が一定期間生き続けることを含意するし、そもそも生まれる過程自体が段階的に高度化する生存過程である。もし子供が重度の障がい等により、生まれつき2.のような不幸を経験することが決まっているとしたら、少しでも生き続けてはならないだろう。しかし子供が生まれてしまう以上は、これが不可能であるから、彼がそもそも生まれてしまうことが、道徳的にあってはならないことなのである。

 

Ⅰ.については、直接的な正当化は不可能ではあるが、一般的な道徳的実践に反していないことをもって擁護したい。

Ⅰ.に対する反対意見は次のとおりである。
1.幸福な子供が生まれることは、生まれない場合に比べて道徳的に望ましい

両者による道徳的判断の相違が生じるケース、生まれれば幸せになるであろう子供を生むと決めたカップルの動機や理由づけを、1とⅠのどちらかが妥当に説明するだろうか。

彼らは二つの態度「子供を生みたいと考える」、「生まれる子供が幸福になるであろうことが望ましいと考える」を取るであろうが、経験が示すように前者が後者の理由である。逆に、生まれる子供が幸福になるであろうことを理由に子供を生むカップルはいない

しかし、1はまさに生まれる子供が幸福になるであろうことが、子供を生むことが望ましい道徳的理由になると主張しており、全く実態を説明していない。つまり、「出生道徳」と言うべき1が仮に正しいのだとしても、それは全く機能していないと言える。

対して、ⅠはⅢとともに上の動機および理由づけを説明する。つまり、幸せな子供が生まれるであろうことは、生まれないことに比べて道徳的に望ましくも悪くもないゆえに、実際に子供を生むための道徳的理由にはならない。しかし、逆に、子供を一たび生むことが決まってこそ、Ⅲより彼が幸せになることが(生まれないことではなく、生まれて不幸になるよりも)望ましくなるのである。

したがって、上記の例は、1よりもⅠが一般的な道徳的実践に合致していることを示している