読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

私の反出生主義について

私は次の態度を取ることにおいて反出生主義者である。

・子供が生まれることは、生まれないことに比べて(子供自身にとってではなく)道徳的に悪い

しかも、この態度は、私が下の記事で定義した(私自身の)エピクロス主義の延長なのである。

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。 - Silentterroristの日記

この記事では、この反出生主義がどのようにエピクロス主義の延長として帰結するか、そして私の反出生主義の内容の一部について述べたい。

 

まず、道徳は一般に、将来の自分に対する思慮の延長であることを説明する。

これは、将来の自分は、他人もより近いものの、(今の)自分にとっての他者であることに変わらず、他人と(今の)自分の中間に位置する存在だからである。

他者とは、自分と同様に経験が展開される場であり、しかも自分は、その他者という場も他者の経験も、決して経験できないところのものである。私は他人として経験することはできないし、他人が経験したことも決して知りえない。したがって他人は他者である。

将来の自分も、彼の経験が展開される場は今の自分とは隔絶されている。というのも、今の私にとって将来の私の経験は、やはり現時点での想像、すなわち今の私の経験の形態を取らざるを得ないし、将来の私も今の私の経験を将来時点での記憶として、将来のものとしてのみ経験できるからである。したがって、将来の自分も他者であることには変わりがない。

ただ、それにも関わらず、我々は現在の自分と将来の自分を括る共通の自己を措定し、あたかも時間を通じて同一の経験主体があるかのごとく考えがちである。この傾向がなぜ生じるかについては、例えば進化的な適応性等、いくつも理由があげられるだろうが、他人に比べ将来の自分を近しい他者であると我々が考えることは確かである。

したがって、将来の自分に対する思慮は、利己的態度と、他人の尊重を本質とする道徳的態度の中間をなすものであり(道徳の発達理論が示すところである)、将来の自分の利害を考慮するのと同様に、他人の利害を考慮する態度こそが道徳である

 

では、本題に戻り、私が定義したエピクロス主義の延長として反出生主義が導かれることを示す。

私は自分自身がとるエピクロス主義を、次の通り定義した。

1.2.を除き死ぬこと、生き続けることのいずれもより望みはしない。
2.ただ、あまりにも将来が過酷なら生き続けない方がいい。
3.もし生き続けるならば、出来るだけ善く生きたほうが良い。

 

これらは以下のように言い換えられる。

① ②を除き、将来の自分が存在することは、望みも忌避もしない。

②ただ、将来の自分がある程度以上の不幸を被ることになる場合、彼がそもそも存在しないことを望む

③将来の自分が存在することになる場合、彼が極力幸福であることを望む

(幸福とは、より多くの善を享受でき、悪を避けられることである)

 

ここで、将来の自分を、他人、とくに生まれるかもしれない子供に置き換えると以下のとおりである。

Ⅰ.Ⅱを除き、子供が実際に生まれることは、道徳的に望ましくも、悪くもない

Ⅱ.ただ、子供が生まれるならば一定水準以上に不幸になる場合、彼がそもそも生まれないことが道徳的に望ましい

Ⅲ.もし子供が生まれる場合は、彼が極力幸福になることが道徳的に望ましい

 

Ⅰ~Ⅲを総合すると、あらゆる可能性を考慮する場合、子供が生まれないほうが道徳的に望ましいという(私の)反出生主義の主張が導かれる。

なぜなら、子供が幸福になる可能性があろうとも、Ⅰ.よりその子供が生まれることは道徳的に望ましくはない。対して、子供が一定水準以上に不幸になる場合、Ⅱ.より子供が生まれないほうが道徳的に望ましいからである。後者の可能性が少しでもある以上、子供が生まれない方が道徳的に望ましい。

 

※なお、(私の)エピクロス主義についても同様に、将来の自分が極度な不幸に陥る可能性が否定しきれないため、私は将来の私自身が存在しないことを僅かであれ願うだろう。しかし、生まないだけで済む反出生主義とはことなり、エピクロス主義の場合は自殺という多大なコストを払わないといけない。そのためやむなく生きているのである。

これはエピクロス本人の態度とは異なる。彼は否定の態度を持たず、生きることを、必要でも避けるべきでも無い快として捉えていたようである。

 

以上のとおり、生まれることになる子供に対する(私の)反出生主義は、将来の私自身に対する(私の)エピクロス主義の延長なのである

 

しかし、Ⅰ~Ⅲの特徴づけはあまりにも形式的で、内容を欠いている。善悪については以前に定義したものの、Ⅱの「一定水準の不幸」については説明が必要だろう。

私は、この不幸を「自分が生まれた(生存した)ことは悪いことだった(※)」とする出生(生存)に対する否定に限りたいと思う。少なくとも、己が生まれたことに対して否定を行う人に対する最大の尊重は、(否定的な判断そのものを否定し、肯定を押し付けるのではなく)その人が生まれる(た)ことを道徳的な悪として忌避する、もしくは痛ましく思うことにあるだろう。ただ、すでに生まれてしまった人に対しては、その人が生まれたのも悪くないと自発的に思えるように、出来る限りの協力をするに越したことはない。しかし、これは出生を痛ましく思うことと矛盾しないのである。

※この態度はしばしば「生まれない方がよかった」という表現で表明される。しかし、生まれた当人にとって、生まれて不幸になった経験を、そもそも生まれなかったという非経験と比較するのは不可能であるとするのが私の立場である。上の表明を行う人は、生まれなかったという非経験を無、つまり肯定も否定も一切ないニュートラルの基準として、生まれて不幸になった経験を否定しているのだから、彼は、正確には「生まれたことは悪いことだった」という絶対的な否定を行っているのである。

 

より過酷な状況下にある人は、上のような出生否定を行う余裕すらないかもしれない。もし仮に精神的な余裕が生じた場合、出生否定を行うである人の不幸もこの「一定水準の不幸」には含めたい。

しかし、苦しみながらも、己の存在には決して否定的ではない人々の不幸は、出生を道徳的に望ましくないとする理由にはならないだろう。彼が、出生を肯定もしくは是認する以上は、彼を尊重する人が、彼が生まれたことを痛ましいと考える理由も全くないのである。

したがって、ある人の出生を道徳的に否定する理由になる「不幸」としては、その人が自身の出生を否定するという不幸を除いて存在しないのである。

 

以上で述べた、子供の結果的な「不幸」を理由に出生を道徳的な悪とする主張は、私の反出生主義の主張の一部をなすに過ぎない。私は最終的な結論として、「子供を生むことは不正である」と主張したいと考えているが、今回の主張は最も基本的であれ、数ある根拠のうち一つでしかない。他の根拠については後日述べたいと思う。

道徳について

今回の記事は何の要旨も持たない。ただ、道徳について考えをまとめるために、言葉に記すことにする。書きたいことを赴くがままに欠いたので、まとまりの無さは容赦いただきたい。

 

まず、道徳を定義するために次の問題を考える。利己的な態度と道徳的な態度を分かつものは何だろうか。
子供のころは、道徳指導として、よく他人のことを考えなさいと言われた。これは他人の立場から見た善し悪しを考慮して行動しろ、という意味であるが、これは道徳的に振る舞うための必要条件ではあれ十分条件ではない。
というのも、他人にとっての利害を知ることは、利己主義を徹底するためにも有用だからである。自分の利益は、他人が状況に応じてどう行動するかに大きく左右される。そこで、賢明な利己主義者は、他人の利害を計算のための情報として用い、より正確な利害計算を行おうと試みるだろう。彼は確かに他人の利害を考えてはいるが、考えたことをあくまで自分のことを考えるための手段、情報としている過ぎず、目的として扱っていないのである。
もし、彼が他人にとっての善悪を知るのみならず、自分にとっての善悪と同様、追求もしくは忌避の対象として、それで初めて彼は道徳的であるということが出来る。自らの善を追求して悪を避けることは、己が自由であろうとすることであった。同様に他人の善を追求して悪を避けることは、他人が自由になれるよう努めることである。したがって、他人を(自らの自由を実現する手段とみなすのではなく、)自分と同様に自由を追求する主体として尊重する、つまり他人の自由を願う態度こそが、道徳的である

道徳的なふるまいとは、万人にとっての善悪を自らの善悪とし、善が最大限、悪が最小限となるように行動することであり、道徳的善や悪とはそのために行うもしくは避ける必要のある行為を指す。

道徳はかくして、自他ともに万人を分け隔てなく尊重するという点において普遍的であり、誰が道徳的判断を下しても(情報が完全なら)結論が同じという点において客観的である。

 

※確かに現実に存在する道徳規範はしばしば、えこひいき、独善的や感情的の誹りを免れず、普遍性や客観性を備えていない。これは、道徳を論じる側の先入観で判断が歪められたり、事実判断や価値判断を行う際の情報の不足により、何が善いかについて誤った判断が下されるからである。
そもそも、一人一人の利害を把握し、計算すること(R.M.Hareにしたがい、これを批判的なレベルの道徳と呼ぶ)は、可能性としては考えることができても現実には全く不可能である。我々が出来ることと言えば、どの行為がどの結果に結びつくか因果関係をできるだけ正確に把握し、コミュニケーションを通じて各々の利害を極力分かり合うことで、道徳的判断を完全なものに近づけるくらいである。
また、この啓蒙と対話のプロセスですら、時間と思考力に非常に多くの思考力がなければ実現できないものである。したがって、当てはめるだけで即席の判断ができるよう、どういう場合になにをすべきかを命じる道徳規則が作られ、先に述べた完全な道徳的判断の代用とされるのである。(これを直感的レベルの道徳と呼ぶ)我々が普段道徳と呼ぶものは、この簡易的な規則のことである。

ともかく、普遍性・客観性とはかけ離れているという批判は、あくまで現実の不完全な道徳規範にあてはまるものであり、当為としての完全な道徳的判断については成り立たないのである。

 

しかし、以上に述べた道徳的なふるまいが、同時に(個人的な)善、つまり私個人が自由に生きるために有用な手段となるとは限らない。言うまでもなく、自他の立場が相違している以上、自他にとっての善悪も異なるからである。
もちろん、子供や親友の幸せを願う場合のように、道徳を持ち出すまでもなく他者を限定的に尊重することはある。だが、この尊重は、選択的な愛情に基づくものであり、ごく限定的なものに過ぎない。対して道徳は、万人を分け隔てなく、自分と同等に尊重することを命じるのである。
したがって、皆は実際には道徳的に振る舞おうとはしない。そのため、道徳は「~すべき」という規範性を持つのである。この規範性も道徳独特の特徴である。もし皆が完全に道徳的に振る舞う場合、食べ物を食べて水を飲め、と言うのが無意味なのと同様に、「~べき」と道徳が命じるまでもないだろう。現実には皆が道徳的に振る舞わないからこそ、道徳は当為として存在意義を持つのである。
この規範性ゆえに、道徳は各々の自由、本性に対する否定を伴う。道徳的言明に用いられる言辞はいずれも、「~すべき」、「~ねばらならい」、「~してはならない」と言うように、何かをする、もしくはしないことに対する否定である。反対に、道徳に「~すれば素晴らしい」というような肯定的言辞は一切登場しない。個人の自由に反して道徳にしたがわせるのには、道徳的な善の肯定では力不足であり、否定の力が必要だからである。したがって道徳はそれ自体としてみれば、己の自由の否定であり、それはすなわち悪である


では、そもそもなぜ、このように自由を損なう悪である道徳が、規範として存在しているのだろうか。一見、道徳は、無いほうがいい規範として望まれず、効力を持たないように思われる。
それは、私一人だけが道徳的に振る舞うことは私にとって悪いことだが、私を含め万人が道徳的に振る舞うことはほとんどの場合、総じて私にとっても善だからである。したがって、皆は、自他がともに道徳にふるまうことを、そして振る舞わせる規範的な力(制裁等)が存在することを望むのである。
例えば囚人のパラドックスにおいて、各々が自由に、非協力的な振る舞いをする場合、両者は非協力的な選択を行い、双方ともに損をするだろう。しかしもし、各々が全体最適が実現される協力的な行動(※)を取るように(事後制裁による脅しなどにより)強制されていれば、各々は協力的な行動を取り、この強制が無い場合に比べて得をする。

※一方が非協力的な選択を取ることによる利得が極めて大きい場合は一方が協力、他方が非協力的な選択を行い、のちに埋め合わせをするような合意がなされるだろう。

だが、突出した力を持つ者等、一方的に相手の利益を侵害できる立場にある人にとって道徳は(仮に皆が従うものであっても)自らを縛る足かせに過ぎず、皆が道徳に従うことが万人にとって善いことであるとは限らない。道徳が要請されるのは、皆のパワーバランスがある程度均衡していて、大半の人が害する側と害される側の両方になりうるからである。

 

では、道徳を守らせる規範的な力はどういうものだろうか。
この力の一つは、違反した場合の制裁に紐づく法律であったり、相互監視の形態を取る。これらは、非道徳的な振る舞いに制裁を与えられる環境を作ることで、個人的で利己的な善を、道徳的な善に近づけようとするものである。
ただし、制裁を以てしても、皆を道徳的に振る舞わせるには不十分である場合もある。例えば、自らの利益のため道徳的な悪行をはたらいたことを隠すに十分な怜悧さを持ち合わせた人にとって、制裁は無力だろう。したがって、彼らには利己心に訴える制裁とは別の規範的な力が必要とされる。
そのために、習慣付けや情緒等への訴えを通じて、環境ではなく個人を、道徳的に行動するように変えるのである。例えば、しつけや初等的な道徳教育は、自らの利益を多少損なおうとも道徳的に振る舞うことを、少年期のうちに習慣づけることを目的としたものである。また、犯罪や戦争の被害を受けた人、恵まれない人々の様子を仔細に報道するのは、彼らの立場を考慮するように、情に訴えるものだろう。

 

道徳は以上に述べた通り、有用かつ有効である。しかし、それがあくまで各々が、互いに害することなく個人的な善や自由を追求するための手段であることを忘れてはならない。もし道徳を目的化した場合、つまり道徳的善が、自分自身にとっての善であるかのように最優先に求めてしまうと、以下に述べる弊害がある
まず、道徳的判断の形式は不変であるが、その内容は状況に応じて変わるものである。先ほど述べた簡易的な道徳規則が以前は道徳的に妥当であったとしても、時代や社会が変わり、現状にそぐわなくなることも多い。この場合は、再度道徳的な議論を根気よく行い、新たな規則で置き換えるべきである。だが、もし規則に従うことが目的化している場合、時代錯誤の道徳規則が残ったままとなってしまう。(日本人によくありがちなバカげた話である。)
以上は直感的レベルの道徳規則についての話であるが、批判的レベルの完全な道徳を遵守するのも、善いこととは言えない。先にのべた通り、道徳は、他の人が従うという恩恵を除けば、あくまで不自由を強いる悪である。道徳的善は誰にとっての善でもない。「誰にとって」という自己中心性を排する点に、道徳の本質があるからである。しかし我々の生は自身の個体を確固たる中心としており、それゆえに道徳は生を根本的に否定するものである
したがって利害の中心を持たぬ、無人称的な善の追求は、極めて生気に欠けている。そこには個性というものが、私が私ゆえに追求するものが無いのである。

「分かりやすい」文章の盲点

分かりやすい文章には、読者にとっての伝達効率や精度が良いという、特にビジネスに有用な長所がある一方で、没個性である、考える過程の楽しさを無視しているという書き手軽視の短所もある。

しかしこの短所は認識されず、巷ではビジネス以外の場面、例えば会話や、本の内容にも、この分かりやすさがますます求められるばかりである。
その結果、文章が書き手不在で読者中心の読み物となり、書き手が文章に自己表現したり、読者が書き手の意思や個性を垣間見る面白みが失われる。
このような事態を防ぐために、場面に応じて分かりやすさの優先度を下げたり、読者の都合よりも書き手自身の個性を重視した面白い文章を使い分ける工夫が必要である。
以上の文章を説明する。

1.分かりやすい文章の特徴
 まず、分かりやすい文章は結果の伝達に重点があり、次の性質を持つ。
(1)階層化された論理構造
 伝達効率を重視するため、説明する回数が最小となる、ツリー上の論理構造を取っている。全体的な結論が一番上の頂点となり、下に説明項、そのさらなる説明項が延々と続く。
(2)結論から根拠に辿っていく説明順序
 以上の論理構造における一番上の頂点から、その説明根拠を次々と辿っていく説明がなされる。
 分かりやすい文章は、文字通り、読者が内容を「分」類・「分」析しやすい文章である。

 

2.長所について
(1)内容
 分かりやすい文章の長所は、以下で述べるように、内容伝達のスピードと、客観的な理解可能性にある。
 ・まず、階層的な論理構造ゆえ少ない回数で説明が出来るため、読者が内容の繋がりを理解するのに時間がかからない。
 ・次に、言いたいことを先に述べるため、内容を主張する目的が読者にわかりやすい。
 ・最後に、1.(1)や1.(2)における規格化された文章構造ゆえ、同一の内容を文章化した場合に文体が書き手の癖に左右されない。したがって書き手との相性に左右されることなく、読者が内容を理解できる。


(2)長所が役立つ場面
 ・まず、その伝達効率ゆえに「速い」理解が求められる場面、つまりビジネスや緊急時の情報共有に役立つ。
 ・次に、客観的な理解可能性が求められる場合として、ビジネスのほか、例えば意見の異なる人と合意を形成するため、文書もしくは口頭で議論を交わす場面で有用である。なぜなら、内容について合意にいたるのには、論理の形式を含め出来るだけ多くの前提を共有したほうが都合が良いし、ツリー型の論理構造は、誤りやその影響を指摘するのに適しているからである。

 

3.短所について
 以下の通り、分かりやすい文章には、考えた結果の効率的で客観的な伝達の長所とは裏腹に、考える過程の趣深く個性的な表現に向かないという短所がある。


(1)内容
 ・まず、その規格的な形式ゆえに、書き手の個性が表現される余地が少ない。まとめる仕方は一意ではないにせよ、文章は単調で没個性的なものとならざるを得ない。
 ・結果の伝達に最適な形式で書かれているため、書き手の個性の一つである、思考のプロセスとは異なる順序や切り口で書かれる。したがって、書き手は思考の個性に反した不自然な文章の書き方を強いられ、文章を書くことが思考の補助にならない。また、自らの個性に従い趣くがままに文章を書く、楽しさが損なわれる。
 ・1.(2)で述べた論理構造にそぐわない内容は、「分かりやすく」文章化できず、捨象せざるを得ない。
例えば、階層的な論理構造は、全体を部分に還元できることを前提とするため、雑多な具体物に関して一つの一般的判断を下す、帰納的な推論を行うのに適する。しかし、数学的な論理のように抽象を具体物に還元せずに直線的な演繹を行う場合や、哲学におけるように単純な要素に還元不可能な全体物を扱う場合、無力である。

 

(2)短所が致命的となる場面
 ・教育等、「なぜこう考えたか」という思考の過程の伝達に重点がある場合
 ・書き手が、書くこと自体の楽しさや、限定された読者に向けた自己表現のために文章を書く場合。または逆に読者が書き手の個性を感じるために文章を読む場合。
 ・演繹的(直線的)な論理の筋道を述べる場合や、哲学などの分野で、明晰に語れないことを、「分かりえないものとして」語ろうとする場合。
 
4.分かりやすさの氾濫
 とりわけインターネットを通じて誰もが発信者になれるようになって以降、2.(2)で述べた、分かりやすさが必要な場面以外においても、分かりやすさが追求され、濫用されるようになった。その背景と弊害について述べる。


(1)文章を書くことの(読まれる)手段化、分かりやすさの目的化
 現代社会では、文章がかつてないほどにデフレ化している。それは二つの要因による。(根拠は挙げられていない)
 ・インターネットを通じ、文章を発信できる人口が増えたこと。
 ・薄利多売もしくは承認欲のため、「一つの文章がより多くの読者を欲している(文章の供給を賄う需要がより多くなっている)こと」
 後者を具体的に述べる。物書きが生計を立てるために必要とする記事一つ当たりの読者数が以前に比べ大幅に増している。そして、SNSなどの非営利の文章の書き手も、より多い閲覧数による自己承認を求め、閲覧数が目的化するほどである。
 それゆえ、文章を書くことが、読まれる(そして、金を稼ぐか承認を得る)ための手段となる傾向にある。
 読者は理解できることを、文章を読むための第一の必要条件として求める。したがって、読者が重視され、高い伝達効率と客観的な理解可能性を持つ「分かりやすい」文章に対して、より多くの読者がつく。
 したがって、分かりやすさは全般的にもとめられる傾向にある。

 

(2)弊害
 3.(2)で述べたように分かりやすさが文章の魅力を損なうような場面で、分かりやすさが追求された場合、本来の目的が分かりやすさのために犠牲となる問題が生じる。
・難解な思想を分かりやすく書こうとしたところで、本質の大部分が捨象された簡略な思想しか伝わらない。
・大多数からの承認のため分かりやすく文章を発信しても、承認してほしいと欲していたその人自身の個性は、皆が読んでくれる文章の内にはなく本末転倒である。
全般的には、次の弊害がある。
・書き手が文章を書いていても楽しくない。
・読者も、とっつきやすさや分かり易さの恩恵には与りつつも、単調で没個性な文章・論理展開に飽きてくる。
以上より、書き手が文章を書くのを楽しみつつ自己表現し、読者が文体に書き手の個性を感じるのを楽しむという、読み書きの楽しさが損なわれる。

 

5.分かりやすさと、面白さの使い分け
 まず、分かりやすさには対価を伴うことを認識のうえ、目的に応じて優先度を下げることが必要である。
 特に書く文章の分かりやすさと、書く面白さとはトレードオフにあることを意識しつつ、読者や聞き手へのサービスと、自己表現の愉しみのどちらに重きを置くかに応じて、両者を使い分ける必要がある。

 

以上のように分かりやすい形式で文章を書いたつもりだが、やはり書いていてつまらなかった。ここはビジネスの場とは異なり、自由に言論・表現ができる場なのだから、今後も以前と同様、分かりにくくとも面白い文章を書いていきたいと思っている。

生の「意味」について

私は、先日のブログ:

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。 - Silentterroristの日記

で下記の態度を表明した。

①将来どんないいことが約束されていても、死んでも生きてもどちらでもいい。

同時に、大多数の人が①の態度をとらない理由を、生きたいがために善いことを経験しようとするか、善いことを経験するために生きようとするからだと言った。

しかし、善を生きるからこそ必要とされるものだとする、私の善悪観からすれば、後者の理由はありえないのである。

ただ、理由をもって生きている人がいることは確かである。善い経験が理由ではないとすれば、何が理由で彼らは生きているのだろうか。私に言わせれば、彼らは自らの生に意味を持たせるために生きている。このように主張したいところだが、まず意味を定義しよう。

 

人生の意味は、言葉の意味に類比して定義できる。言葉は、対象を指示することによって、あるいは指示に限らず、言語使用において機能を持つがゆえに、意味を持つ。言葉の意味するものとして、対象ないし機能があげられるならば、言葉の意味とは、意味すること、言葉と、対象ないし機能の関係であろう。

ところで、言語はそれだけでは無意味である。確かに文法上の機能は言語内に含まれるが、言語外の何かが指示されないことには、助詞や接続詞のみから成るナンセンスしかありえないだろう。したがって、直接的、間接的を問わず、言葉は言語外の対象との関係を通じて初めて意味を持ちうる

人生についても同様のことがいえるだろう。人生は、それ自体としてみれば経験の遷移である。単なる経験の集まりに過ぎない人生が意味を持ちえるのは、単なる記号に過ぎない言語が意味を持ちえるのと同様に、人生の外の何かと関係することによってである

外とは(彼が存在すると信じる)他者や、客観世界かもしれないし、イデア界のような経験を超えた超越的世界かもしれない。関係するとは、影響を及ぼすか、単に観照的に知ることにあるかもしれない。ともかく、経験の外に世界があると信じ、人生と外の世界の間に見出せた関係こそが、意味なのである。

ゆえに、意味は生の内部と外部の接する境界に存在すると言えるだろう。

 

対して、善は、下記のブログで私が定義した意味では、生の活動をより自由な在り方に近づけるものであり、善の意味はあくまで生の内部で完結している。善の目的は、自由に生きること、それ以上の何物でもないのであり、そこに他者や、客観世界に及ぶ道徳的意味は一切登場しない。

自由および善の消極性について - Silentterroristの日記

 

このように善と意味は全く性質を異にした倫理的意義を持つが、同じものが同時に善でありかつ意味を持つ可能性はあるし、意味が生きる活力になる人にとっては、何かが意味を持つことが同時に善をなす。したがって善と意味は別物ではあれど、善いものと意味あるものは共通部分をしばしば持つのである。

 

さて、「意味のために生きることの意味が、これで明らかになっただろう。それは、生の外部とのつながりがより緊密になるように、より長く生存して人生全体の内容を豊富にすることである。

ただし、人生全体の意味が期間に比例して多くなるわけではない。これまでのポリシーに反した生き方によって、人生の意味が減ずることさえある。しかし、より長く生存しないことには、人生をより有意味にすることが出来ないことは確かである。

 

果たして、この意味が皆が「善のために生きる」とする「善」の内容を説明するものだろうか。それを確かめるためには、この典型的な「善」を挙げればよい。将来世代や人類に貢献する、家族を作る、性交する、アニメの世界を堪能する、世界を呪詛する、真理を探究する…どれを挙げても、生や経験の外部へ向けての影響や態度を志向した理由である。美味しいものを食べるために生きる、より気持ちよい自慰をするために生きる、というのはあまり聞かない。もしそういう人がいるにせよ、これまでに経験しなかった未知の世界に触れたいという志向がそこにはある。

彼らが言う「善」の成分のうち、生きているから必要となる善ではなく、そのために生きる意味こそが、彼らが生きる理由なのである。

 

最後に、なぜ意味が求められるかが説明されるべきだろう。私が定義した意味が取るに足らなければ、彼らが意味のゆえに生きることは説明できない。

私は主張する、善が自由な生を送るのに足りないから、生がそれ自体としては満足がいかないものだからこそ、生の外部を参照して、人生を耐えうるものとすべく意味が要請されるのだと。この意味で、意味は善に対する次善なのである。

大多数の人の生は労苦や苦痛で一杯であり、現在の自由、そして将来の自由にも程遠い。しかし、彼らに不自由な生よりも自由な死を選ぶ潔さは無い、したがって自らの生き続けることを合理化する理由として、意味が要請されるのである。意味は溺れる人がつかむ藁にも等しい、ニーチェが言うように我々は苦痛には耐えられても、意味が無いことには耐えられないのである。

彼が主張したように、意味は近代までは生無き宗教や真理の楽園に求められた。そして彼がこれらの「神」々に死刑判決を下した後の現代も、「社会」や「他者」という生の外部に意味が求められ続けているのである。

 

求められる理由に限らず、この意味はどこまでも次善的である。先に述べた、意味が生の境界にあって生、経験で完結しないということから、生の内部で完結する善が自体的な意義を持つのに対して、意味が単なる外在的なものでしかないことがわかる。そして自体的な善が自由に属するのに対し、外在的な意味は生の外の何かのため、即ち他律に属するのである。

 

しかし、ここまで意味を批判しておきながらも、私は意味を求める人「間」の性は否定はしない、むしろ、意味こそ我々が「個人」ではなく「人間」である限りの善ではあるかもしれない。したがって、動物的な善が、人間的な善に必ずしもならなくても重要であるように、人間的な善の一つである意味も、それが個人的な善に必ずしもならなくても重要であることには変わりはないのである。

意味は必要だが、意味が必要ないほど善が十分であることに越したことはなく、善も必要だが、善が必要ないほど自由であることに越したことはないのである。

エピクロス主義者の願望はいかなる意味で生存に条件づけられているか。私の場合は。

私はこれまでエピクロス主義を二通りに定義したが、どうも明晰さに欠くようである。そこで、再定義を行いたい。

まず、私がエピクロス主義の特徴づけとして用いた、「生存に条件付けられた願望」が一体どういうものなのか、詳細に説明したい。

そもそも、生存に「条件づけられている」のは願望という態度そのものなのか、願望する内容なのかに応じて、二つの態度を定義することができる。

定義

・A(t):時点tで自分が生きているという命題

・X(t):時点tで事象Xが起こるという命題

・態度(1):もしA(t)ならば、「X(t)」に真であって欲しい。

・態度(2):「A(t)ならばX(t)」という命題に真であって欲しい。

前者の態度は、「…であって欲しい」という願望の態度が丸ごと、「もしA(t)ならば」という生存の条件の下に置かれているが、後者は「もしA(t)ならば」が願望の中身に入ってしまっている。後者の願望は、実際にtに自分が生きているか否かに関係なく、無条件に抱くものである。

態度(1)の形態でしか願望を持たない人をα、態度(2)の願望もとる人をβと定義しよう。

 

まず、αは生死に対して全く中立であることに注意すべきである。αが時点tのXをYにまして欲するのは、あくまで時点tでαが生きている場合だけであり、αが行う比較は、AかつXとAかつYの比較の形態しかとらない。α自身の生と死、つまりAかつA(=A)と、Aかつnot A(=矛盾)の比較は意味をなさない。

αの選好は、αが同時に生きている事態の集合{AかつX| XはAと排反でない}上に限られているのである。

 

対して、βも決して死を避ける理由はないが、場合によって死を望むことがある。

αの抱く命題の他に、βが真であって欲しいと願う命題は、「A(t)ならばX(t)」であるが、これは「not A(t) または ( A(t)かつX(t) )」と同値である。つまりtで死んでいてもβの願望はかなうので、βにも死を避ける理由はないだろう。

しかし、彼には死を望む理由がある。例えば彼が、命題「A(t)ならば not X(t)」に真であってほしいと欲するとしよう。(例として、Xとして「自分が悲惨な苦痛を味わう」という事態が挙げられる)

もしXという事態がもし時点tで生きていれば決して避けられないならば、彼はA(t)かつX(t)(生きて悲惨な苦痛を味わう)もしくは、not A(t)(死んでいる)の二択を迫られる。彼が真であってほしいと願う命題は、前者において偽であり、後者において真であるから、彼は死を願うだろう

この態度は、前回の記事で述べたような、Xに対する否定の態度ということができるだろう。Xになるくらいなら死んだほうがマシだ、というのだから。

人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。 - Silentterroristの日記

 

以上のα、βは、私が以下で定義したエピクロス主義αとβの特徴と一致するのが確認できる。

エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正) - Silentterroristの日記

 

 

前回の記事で述べたように、いかなる人もある程度を超えた苦痛や悪に対しては否定の態度をもつことから、エピクロス主義者と言えどもその例外ではなく、αのエピクロス主義的な条件付けられた願望に加え、βの無条件の否定願望を持つのではないかと思われる。つまり、現実的なエピクロス主義はやはりβであろう。

 

このβの生死、善悪に対する態度は以下の通り整理できる。

X:βが否定する、つまりそれが起こるくらいなら死んだほうがいいと考える事態として、4つの事態を定義する。

 定義

・D:βが死んでいる

・AX:βが生きており、同時にXが真である

・AB:βが生きており、Xは偽であるが、βにとっての害悪Bが生じている

・AG:βが生きており、Xが偽かつ、βにとっての善Gが生じている

 

βは上4つの事態を他に比べてどのように選好するだろうか?

まず、Xに対する否定から、βはAXを必ず避けようとするため、AX<D, AB, AGだろう。

そして、生きている(A)以上悪よりも善を経験することを望むであろうから、AB<AGであろう。

それでは、DとAB、AGの関係はどうだろうか。

 

ここで、βに次の質疑応答がなされるかもしれない。

Q:「あなたは死ぬ(D)のと、生きて少し悪い経験をする(AB)のとどちらがいいか」

β:「どちらでもいい」

Q:「あなたは生きて少し悪い経験をする(AB)のと、生きていい経験をする(AG)のとどちらがいいか」

β:「生きるならいい経験をしたほうがいい(AG)」

Q:「DとABのどちらでもよく、ABよりAGのほうが良いのなら、DよりAGのほうが良いのではないか?」

β:「いや違う、死ぬのと生きていい経験をするのも、どちらでもいい」

 

質問者Qとβの認識の齟齬は、Qがβの「どちらでもいい」という発言を同等に望ましい(=)の意で解釈していたのに対して、βは比較不可能である(順序が定義されていない)の意味で言っていたことによる。

つまり、DはABやAGと比較出来ないという意味で、良くも悪くもないのである。

 

これでβの態度がより明らかになったものと思われる。彼は、生きているという条件のもと、「悪がより少なく、善がより多くあってほしいという願望」をもつ。そして、前提条件である生死に対しては、次を除けばどちらを望みも避けもしない

ただし、否定の対象となるほどに大きな悪に対しては、生きてそれを経験するくらいなら死んだほうがいいと判断するのである。

 

 

そして私もβのエピクロス主義者ではないかと思われる。

①将来どんないいことが約束されていても、死んでも生きてもどちらでもいい。

②ただ、あまりにも将来が過酷なら自殺を考えないでもない。(実行は難しそうだが)自殺に及ぶほど将来が過酷ではなく、仮にそうなっても実行は絶望的なので、私は恐らく生き続けるのだろう。

③生き続ける以上は、出来るだけ善く生きたほうが良いから、その努力をするまで、と。

②、③は大多数が共有する態度だろう。だが、大多数の人は①の態度をとらず、生きたいがために善いことを経験しようとするか、善いことを経験するために生きようとする。しかし、私は善を消極的に捉える倫理観、死生観から①の態度を取るのである。

人は死を絶対的に望みうるが、生は相対的にしか望みえない。

悪は、質や程度によっては、無いほうがよいという相対的な忌避の対象であることを超えて、絶対に在ってはならないという否定の対象となる。そのような一線はなく、自分はどこまでも肯定的だと主張する者がいれば、是非、ありとあらゆる物理的、化学的、精神的手法を組み合わせた拷問の苦しみでも受けてみればいいだろう。

 

対して、善(=素晴らしいこと)の肯定は、その質や程度によらず、あったほうがいいというだけである。決して「善」が絶対に在らねばならない、つまり「善」が在らぬことが絶対にあってはならない、とはならない。そのような態度はもはや肯定ではなく、「善」の不在に対する否定である。そしてそもそも、その欠如が大きな悪であるような消極的な「善」が、素晴らしき善であるわけがない。

 

(私に言わせれば、善は自由な生を「より」活発に行うことを可能にするものであるのに対して、巨悪はそれを阻害するどころか、自由を規定する本性そのものを損ない、自由を不可能にするものである。そのような悪は、避けて死ぬほうがまだ自由であるが故に、自由を愛する者は死んでまで避けるものである。)

 

ゆえに、悪は一線を越えれば絶対に在ってはならないものとなるのに対して、善はどこまでも出来るだけ在ったほうがいいものに過ぎない。悪に対する否定と、善に対する肯定という態度は非対称的なのである。

 

ところで、生きて悲惨な経験をすることは、否定の対象になりえる悪であるのに対して、死んで良い経験ができないことは、機会損失すら被ることがない無の状態であるがゆえに、悪ではなく、たんなる善の不在である。

 

したがって、生き続ければ経験するであろう大きな悪は、(生きたくはないと願うだけではなく、)生きることが在ってはならない理由になるのに対し、生き続ければ経験するであろう大きな善は、(人によっては生きたいと願う理由にはなるかもしれないが)生き続けなければならない理由にならない。

自由および善の消極性について

先日書いた記事:

そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由 - Silentterroristの日記

では、善を自由に生きることを可能にする手段として定義した。

しかし、この定義は消極的に過ぎるのではないか。そもそも善、特に最高善は他のいかなるもののためでもなく、それ自体のために追求されるものではないかという疑問もありうる。もしそのような最高善があるとすれば、あらゆる善がそのために追求される、自由がそれにあたるだろう。

しかし、自由も主観的には、そこに善さを見出す余地がないほど消極的である。もしある人が完全に自由な状態にあるとすれば、善として意識されうる何物も無いはずである。なぜなら、現実に不自由だからこそ自由が当為として、自由を阻むものが悪として意識されるからである。

自由の丁度良い類比として健康がある。むしろ、健康は我々が動物として生きる限りの自由と言っても差し支えないだろう。健康は客観的には、身体の器官が円滑に機能し、生命活動が滞りなく行われている積極的な状態を意味するが、主観的には、痛みや病気など、生存の障害となるものが全く無い状態を指す。それは確かにあるのだが、目が目それ自身を見ることができないように、積極的な何かとして意識・認識されることはない。したがって、健康はかけがえのないものであるが、その善さは失って初めて痛感される消極的なものに過ぎないのである。

健康も自由も、そうある当事者にとっては単なる無であり、善さがあてがわれる対象たりえない。確かに不健康、不自由な時には、健康や自由が渇望されるだろうが、得られたら消滅するものは、積極的な存在に着せられる善と呼ぶにふさわしくない。自由はあくまで、自由でしか無い

ただ、健康と同様、自由の消極性はあくまで主観の上であり、客観的には本性に従って活動できている積極的な状態を表す。したがって、無だからと言って、何事も無ければ自由が自動的に達成されると考えるのは誤りである。

健康が、外的な生活環境や食糧に恵まれて初めて維持できるように、自由も、本性に従った活動を可能にする積極的な環境や対象無くして成立しない。これらを私は善と呼ぶのである。これら善いものは、主観的にも積極的に対象として意識される。したがって善そのものも積極的な何かと思われがちだが、やはり自由という無の手段として消極性を免れないのである。