そもそも、善き生とは何か。また、必ずしもその継続を願うとは限らない、より直接的な理由

前回の記事では、善き生は生存してまで継続したいと願うものである、とする主張に対し反論を試みたものの、主張の一つの根拠を批判するのみであり、主張そのものを否定出来てはいない。エピクロス主義を擁護するならば、もっと直接的な反論が必要だろう。

その前に、そもそも善き生とは何を指すのか、定義を与える必要がある。なお、これまでの記事では極力、主観的な見解を前提として話をすすめるのを避けてきたが、ここでは私自身の生命観を前面に出すこととしたい。

 

まず、善は生きる誰かに対して決まるものであるから、生の定義を先に行う。生きるとは、(最も動物的な意味においては)客観的には身体が生理学的に化学反応ないし物理的に運動することで、主観的にはいろいろ知覚し、体験することである。この、身体と精神の表裏一体の変化を活動と呼ぶ。生とはこの活動(の名詞形)である。(ここでは、「生」を生きた結果ないし軌跡という意味では使わない。)

活動の仕方にもいろいろある。植物と動物の生命活動は明らかに異なるものだろう。生きる者は、一定の仕方で活動を行うべく方向づけられている。この一定の活動様式が、本性と呼ばれるものである。

しかし、方向づけられているからと言って、実際に自らの本性に即して活動が出来るとは限らない。日光が無ければ、植物は光合成を経て生長することが出来ないし、四肢が損傷すれば動物はその名のとおり動くことも出来ない。したがって自らの本性に由り活動すること、つまり自由に生きることは当為に過ぎず、現実には外的な環境制約により不自由な生が強いられているのである。だから、本性に従って活動すべく方向づけられている生者は、自由に生きる障害が無くなることを望み、そのために努めるのである。

ここで、自由に生きることを可能にする諸々の事物が「善」として、生きる者に必要とされる。逆に、自由に生きることを阻害する諸々の事物が「悪」として忌避されるのである。したがって、厳密には、生を形容するのは自由もしくは不自由であり、善悪はそれらの原因もしくは手段に過ぎないのである。「善き生」という概念も、自由たるのに十分な善に恵まれた生に他ならない。

 

以上が、生および善の定義であるが、生に関して極めて動物的な定義しか行っていない。生体反応が活発に行われていれば、動物として生きているとはいえるのかもしれないが、他人に対してなんの感情もいだかない人は、人間として生きているとは言い難い。そして人間的に生きている人でも、個性を殺して大衆に追従していては、個人的な生を送っているとは言えない。

したがって、生には動物的生→人間的生→個人的生の階層があり、上で述べた例のように、前の意味で生きていても、後ろの意味では生きていないという場合がある。前の生は後ろの生の前提であって、より基本的ではあるが、ある個人にとって最も本質的なのは個人的な生である、なぜならその人は動物もしくは人間の一員よりも、ほかならぬその人個人として生きているからだ。

生の内容が階層に応じて異なるとなると、本性や善悪もしかりである。動物的生を規定する本性が「本能」であれば、人間的生の場合は「人間性」、個人的生の場合は「個性」である。そして、これら本性はしばしば相反するのである

例えば、動物的な生命活動は、(死が予定されていても、リミットが来るまでは)その本性から生の継続に固執するが、これは人間としての尊厳にしばしば反する。臨床医療におけるような、家族と愛し合ったり、ものを考えることすら出来なくなる事態は人間としての本性を否定するものであり、人間的生としてはそうまでして生きることは忌避されてしかるべきものである。個性についても同様に、厭世的だったり、社会に不適合的である場合は、自殺や引きこもり等の非動物的、非人間的な生が送られるだろう。

 

さて、最初の問い:「善き生は生存してまで継続したいと願うものであるか否か」に戻る。

まず、善は生きる以上自由になるために必要とされるに過ぎないから、その善さのために生の継続が願望されることはないと言うことは出来る。善は現実に継続的に生きることになる場合に限り求められるものにすぎず、継続して生きることが決まっていない(願望の)段階では、何の意味も持たないからである。ましてや、継続して生きる理由にはならない。

もし生存が、その結果善い生を送りたいという期待とは別の動機により予定されれば、継続する生が善きものになることも願望されるだろう。したがって、結果的に善く生きることが願望される。しかし、その善さゆえに生の継続が願望されているわけではないのである。

例えば、動物的な生は、(もし阻害されなければ)生存しようと努力する本性のまま、衝動的に継続されるだろう。そして、こうして生き続けること、本能に生かされ続けることを前提として、我々は将来善に恵まれることを願うのである。しかし決して将来善いことがあるから生き続けているのではなく、おそらく生き続けるであろうから将来の善いことを期待しているだけなのである。

人間的生や個人的生は無条件でその継続を志向するものではないし、エピクロス主義者の個人的生のように、生の継続をその個性上求めることがない場合もある。

このような場合のように、もし生き続けることを願わなければ、その生が善いことを願う理由もない。したがって、善い生を生き続けることは、単に生き続けることよりも望ましくはない。よって、善い生生き続けることも願わないのである。

したがって、最初の問いの答えは否である。

善き生は、敢えて生存し続けてまで継続したいものか

私はこれまでエピクロス主義者について特徴づけを行い、彼らの生に対する姿勢や、持ちうる願望について考察してきた。そこでは、彼らの願望が刹那的な快楽の形態の独特なものに制限されていること、生き続けることを忌避することはあれ、積極的には求めないという生存への消極性を明らかにした。

なぜわざわざ4つも記事を書いてまで彼らの態度について考察したかというと、私が彼らに賛同する点が多く、思想により精神の安静を確立する彼らの立場が魅力的に思えたからである。

 

私の次なる関心は、エピクロス主義者のように極めて関心が制限されていて、生存に消極的であっても、(むしろそうだからこそ)善き生が送れることを示し、見習うべきところを見習って生きることにある。ちょうど、スピノザが人格神に対する信仰無しでも幸福に生きれることを示し、そのように生きるように努めたように。

しかし、エピクロス主義的な幸福、アタラクシアには、人格神なき幸福よりも、はるかに多くの懐疑が付きまとう。まずはこれらからエピクロス主義を擁護するところから始めないといけないだろう。

 

一つ目は分析哲学者Steven Luperが主張したもので、善いと呼べるような生は、生存してまで生きたいものではないか、(そしてエピクロス主義者の生は違う)というものである。彼は、生存する理由にならない、エピクロス主義者の願望を詳細に分類・分析している。その中でも自身の生存に条件付けられた願望(conditional desires)の例を挙げ、それらが真の願望とはなりえないこと、そして生を善きものにしないことを主張している。

 

例えば彼は、「自身が生きている間に限って」子供に幸せになってほしいと願い、将来世代には無関心な、エピキュリアンの冷淡な願望を挙げる。

エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記

彼は、私が上の記事で挙げた、「自身が生きている間に限って」子供の将来の幸福や、将来世代の厚生のために努めたいとする願望の可能性は考慮するが、自身が死んだ後の子供や将来世代への無関心と両立することは、心理学的に不可能だと主張する。

私は、無関心どころか、死後の存在を信じずとも上記の願望、というより快楽はありうる(むしろその快のために死後の世界やそこに生きる他者が措定される)と考えるが、心理学的な検証無しには反論が出来ない。

しかし、仮にこのような願望がありえても、(私も同意するように)それは将来の子供や将来世代のために「努力すること」を欲しているだけであり、将来の子供や将来世代の幸せは間接的にしか願っていないと、彼は主張する。

そして、エピクロス主義者の願望は自身の生の境界を超えないものに終始している、と彼は総括する。

 

確かに全くその通りであるが、自身の生の境界を超えないような願望、例えば生きている間に起こる事象に対する願望でも、生を有意義にするものは確かに存在する。自分の能力を存分に発揮したり、自由に行う活動(に対する願望)がそれである。そして、意義は(全てとは言わずとも)善の一種である。

生の境界を超えずして獲得されないのは、生の善さではなく、意味である。なぜなら、意味とは生(経験)の外部との関係に他ならないのだから。

意味以外の形態を取る善はいくらでもあるし、意味も必ずしも善きものとは限らない。世界に対する呪詛に意味を見出す犬儒主義者もいるのである。

 

したがって、彼の主張は、生の境界で自己完結した願望しか持たないエピクロス主義者の生が善くなりえない理由にはならない。

生存しているから快楽が必要に過ぎないのか、快楽を経験するために生存するのか。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか - Silentterroristの日記

昨日のブログで、「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」エピクロス主義者達は、もし生存すれば快い経験を楽しむことが保証されれば、そして生きて快楽を経験したいと積極的に望まれる場合、これから派生して、より長く生存することに対する願望を持つと述べた。

 

この生存に対する願望は、その結果経験する快楽に対する願望から派生しているため、「快楽を経験するために生存したいという願望」である、と言える。これは、仮定に過ぎない生存を条件として快楽を求めている点で、「生存する(ことが決まっている)以上は快楽を経験したい」という願望に比べ、快楽により独立した善さを認める願望である。エピクロス主義者に限らず、果たして快楽は、生存する理由になるほど積極的な善なのだろうか。そして、βの定義だけではこの願望を持つ可能性は否定できなかったが、エピクロス主義者は持ちうるのだろうか。

 

この問いに答えるには、快楽そのものの特徴を探らなくてはいけない。

快楽は何かが在ることに伴う(積極的な)経験なのだろうか、それとも何か(苦)の不在に伴う(消極的な)経験なのだろうか。

まず、快楽も快適と快感とに大分される。快適さは、苦や煩わしさの不在以上の何物でもない。なぜなら強度に上限があり、苦が無いときには、常にその同じ強度が達成されるからである。もし快適が積極的な何かに関する経験だとしたら、苦が無い時も、その何かの多少に応じて快適の強度は変わるだろうが、実際にはより快適な状態はあり得ない。正の定数を乗じても変わらないのは零だけであり、零なのは苦である。

 

他方で、快感の強度には際限がない。しかし、いくら強い快感でも、長続きすることはなく、むしろ強度に反比例して期間が短くなるのが経験の示すところである。(例えば、エクスタシーや、性的なオルガズムはほんの一瞬である)

また快感はその種類に応じて、美食欲、性欲等の諸々の欲望が満たすが、欲には満たされる限度があり、満たす欲望がなくなっては快感はほとんど得られなくなる

 

以上が示唆するのは、快感が欲の充足に過ぎないということである。欲の充足は快感の単なる結果ではなく、それなくして快感があり得ないほど、快感と一体なのである。また快感の強度に際限がないのは、(限りある)欲の充足という変化の速さに比例するからであり、これは快感の強度と期間が反比例するという事実を説明する。

ところで、欲が充足されていない状態は、不満や欠乏という苦そのものである。したがって快感は苦の減衰と言い換えることもでき、やはり快適と同様に消極的な経験である。

 

さて、快適については、苦を含めて経験の全く無い死んだ状態に対する本源的な願望を持つ理由が無いのと同様、生きて苦の無い経験をすることを望む理由はどこにもない

また、快感は苦の減衰なので、苦の存在を前提とする。ちょうど、苦を我慢した分が快感として返済されるがごとく、全体としては何の得もしていないのである。従って、快感に満ちた生を望む理由も無いだろう。

 

さらにエピクロス主義に関して言えば、当のエピクロス本人も、快を身体の苦痛や精神の動揺無き事として、消極的に定義している。一般的にも、エピクロス主義としても、快楽が生存する理由にはならず、逆に生存しているからこそ快楽が必要でしかないのである。

 

それでは、苦はどうだろうか。苦は、生存を忌避する理由になりうるか、それとも生存すると決まっている限り、苦をできるだけ避けるに過ぎないのだろうか。

もし、苦も何かの不在に伴う消極的な経験だとしたら、快楽と同様に後者が成立し、生存しても悲惨な苦しか待ち受けていないエピクロス主義者が、生存そのものを忌避する願望を持つ理由がなくなってしまう。

 

しかし、苦は快楽と異なり、何かの存在に伴う積極的な経験である。苦の強度には際限がないし、強い苦は強い快感と異なり持続する。

一見、苦は欲したり必要とするものが無いことに伴う消極的な経験であるように思われるかもしれない。だが、そもそも何かが無いことが苦となるのは、その何かに対する欲望が在り、そして己が飢えた者として在るからである。苦の経験は、それを十分に満たすものが存在しないような欲望が、存在することによるのである。

(対して、無欲な人でも快(適)を享受できる。)

例えば、小児性愛者は、犯罪となる欲の充足が事実上不可能であることよりも、己の欲望に苦しんでいる。彼は出来るならば、相手を傷つける罪を犯さずには充たせない欲の除去されることを切実に願っているだろう。

 

快楽は消極的なのに対して苦は積極的である、ゆえに、快楽のために敢えて生存することを願う理由はないのに対して、苦を避けるために生存することも避けることを願うのは不自然ではないのである。

エピクロス主義者は死のタイミングに対してどういう願望を持つか(7/17修正)

エピクロス主義者は、死が経験できる出来事ではないがゆえに、死に対して中立、つまり避けることも欲することもないのであった。

 

ただ、死は我々がいかなる選択をしようと遅かれ早かれ必ず訪れる。彼らはこの不可避な運命に対する恐怖心、もしくはそれを生み出す誤謬を哲学的考察により解消することに主眼を置いたのだろうが、果たして我々の選択が及びうる問題、つまり死がより早くもしくはより遅く訪れる(より長くもしくは短く生存する)ことに対して、彼らは一体どういう態度を取るのだろうか。

 

私は、エピクロス主義者を「α:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを選好の対象とする」人々と定義した。

しかし、より長く生存することそのものは、経験される出来事ではない。そもそも、ちょうど水を入れる器のように、生存は出来事を経験出来るための前提条件なのであり、それ自体が経験をなすわけではないからである。

従って、彼らは、いつまで生きるかについて特段の本源的な望みを持ちはしない。

ここで「本源的」と言ったのは、生存することが、その結果とは独立に望ましくも望ましくなくも無いという意味である。これは、生存の結果生じる(生きている間の)出来事を望むが故に、その手段として生存を望む、派生的な願望と区別される。

 

では、彼らは生存する期間について派生的な願望を持ちうるだろうか。

もし持ちうるのだとしたら、その願望の根源は、生存することである出来事を経験する願望、もしくは生存しないことである出来事の経験を避けたいという願望にあるだろう。なぜなら、ある出来事に対する願望が派生するのは、その結果に対する願望からであり、エピクロス主義者が考慮する生存の結果は、生きて経験出来ることに限られるからである。

つまり、彼らがより長く生存することを派生的に望むとしたら

①:生存してある種の(言うまでもなく、快い)経験をすることを本源的に望んでいるからであり、

逆に彼らがより短く生存することを望む場合

②:生存して苦しい経験をすることを本源的に忌避しているからである。

 

さて、私がαとして特徴づけたエピクロス主義者たちは願望①、②を持たない。なぜなら、経験する出来事の「選好」は生きて経験する出来事の間に成り立つものであり、生きて経験する善い出来事と、経験できる出来事が無く、好みを持つことすら出来ない死んだ状態との間にそもそも選好の比較が成り立たないからである。しかし、①はともかく②を持たない、つまりどんなつらい苦境が待ち受けていても、生き続けたくないとする(派生的な)願望を持たない人は、極めて稀にしかいないだろう。

私はその類の人々に少なくとも該当はしないし、興味も持たない。私が与えたαの「選好」による特徴づけは限定的に過ぎたようである。

 

エピクロス主義者の定義を見直すとすれば、相対的な比較を絶対的な価値判断に変えればいいだけの話だ。「β:生きている間に起きる、ないしは経験できる出来事のみを肯定もしくは否定の対象とする」人々と定義する。

βのエピクロス主義者がもし生き続けても、酷く苦しい出来事しか待っていないとしよう。彼は生き続けない場合との比較(選好)によらず、生き続けた場合の悲惨な経験に対する絶対的な否定から、生存を忌避する願望を持つ。対して、すぐ死ぬことに対しては、それ自体としても、それがもたらす結果(何も起きないこと)からも、忌避または希求する願望は生まれないから、生存を忌避する派生的願望②だけが残るのである。

(なお、βもαと同様、長く生きることそれ自体は経験ではないがゆえに、本源的願望は持ちえない)

 

逆に、もし生き続けた場合に生が幸せな出来事で充たされることが保証されている場合も、その快楽を経験することが積極的に望まれる場合(7/17追記)、βのエピクロス主義者は同様の理由から派生的願望①を持つと思われる。

 

ただし、前者と後者の場合で非対称な点が一つだけある。

もし前者の場合で、生存を忌避する願いがあるにも関わらず、その願いがかなえられなかったら、つまり自殺の手段を奪われる等して生き続けることを強いられれば、彼には、願いがかなえられない害悪のみならず、生き続けて悲惨な経験をする害悪が降りかかる。

対して後者の場合、彼の願いに反して、より長く生存できなかったとしても、彼は願いがかなえられなかったのを残念に思うだけで(これも一応害悪ではある)、早く死んでしまった後に、死ななければ経験できた素晴らしい出来事に対する機会損失に苦しまなくていいのである。

以上より、βのエピクロス主義者は、より長い生よりもより早い死に寛容であると言える。

エピクロス主義者は「願望」することよりも、楽しく生きることに真面目である

私は先日のブログ:エピクロス主義について(6/28微修正) - Silentterroristの日記で、「エピクロス主義者」を、下記の通りの選好しか持たない人々として定義した。

(α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。

そして、彼らが死後の事象に対し間接的に「願望」を持ちえるものの、それは刹那的な快楽(楽しみあるいは有意義感)という特殊な形態をとっており、非エピクロス主義者の有する、己の生存に条件付けられず、逆に己が生存する理由となるような願望とは異質なものであることを述べた。

(上記のブログでは言及していなかったが、彼らは生きている(と彼らが自身が信じる)間に起こる事象に対しては、通常の願望を持ちうる。)

 

ここでは、エピクロス主義者がもつこの特殊な「願望」がいかなるものか、より詳しく説明したいと思う。

この刹那的な快楽としての「願望」は、(何かを)願望する(desire)のではなく、願望する現在を楽しむ(enjoy desiring)態度を指す名詞である。

では、そもそも願望はどのように、現在の快楽になりうるのだろうか。

a)まず、願望は、苦労の割に合う範囲でその実現可能性を高める方法がある場合(※)は、願望を実現しようとする努力を伴う。少ない困難で願望を実現できるのに、それに向けて何も努めて行わない場合、それはもはや願望とは言えない。願望は、それを実現しようとする努力と表裏一体である。

b)そして、願望の実現に向けて努めることはしばしば、(その困難がもたらす苦を上回る)充実感や困難を乗り越える自信といった快を伴ったり、努めて行う活動そのものが快いことがあるのである。

このように、(※)の条件が満たされる場合、願望はそれを実現しようとする努力を通じて間接的に、刹那的な快楽を生み出すのである。そして、一般的な願望が、エピクロス主義者の有する生存に条件づけられた「願望」であっても、a)やb)の正しさに変わりはないのである。

 

ただ、この「願望」は努力を通じてこそ快楽となるので、enjoy desiringよりも、enjoy working for one's desires という表現のほうが的確だろう。

ここで「願望」と、「願望」に向けての努力が主客転倒していることが見て取れるだろう。本来、努力は「願望」する事態の実現可能性を最大化する手段であった。だが、「願望」の快楽は「願望」そのものよりも、それに向けた努力という活動のうちにある。

もしエピクロス主義者が快楽を求めるのなら、彼らは願望を実現するために努力をするのではなく、むしろ快く努力(活動)できるために、努力の方向を決める目標として願望を必要とするのである。

 

以上に述べたことはあまりにも抽象的で、直感にそぐわないので、実例を二つあげよう。

・あるエピキュリアンXが、己の生ある限りYの幸福を願う、つまり現在および将来にわたってYにとっての善を行おう(A)と努めるとする。

ここで、Xは第一に他者Yが幸せになってほしいから、Yのためになることをしたいのではない。逆に、まず(「Yのような人」のためになることをするという)活動A、つまりある特定の人の愛し方をしたいがゆえに、それを可能ならしめるYという愛すべき人を選び、Yが幸福になるという願望を目標として抱くのである。(そんなの愛と呼べるのか、と常識人は反応するだろう。)

 

一般人には、上のエピキュリアンの感覚は理解できないかもしれない。そこで、一般人も抱くような「願望」の例を挙げよう。

ボードゲームのプレーヤーには、対戦相手に勝ちたいという願望がある。

彼は、勝利を目的にボードゲームで対戦するというより、対戦する過程で知性を思い存分発揮し、知的な駆け引きをするという勝利に向けての過程を楽しむために、勝利したいという願望ないし目標を持つことが多い。

もちろん、負けず嫌いで勝利の優越感を味わいたいだけの人、ゲームの腕をひたすら上げたい人、仕事で対局している人など、前者の人もいるだろう。しかし、彼らは勝つための手段と化してしまったゲームを純粋に楽しんでいるとはいえない。試合を楽しむことを第一義とするアマチュアの大半は、ほとんど後者の勝利「願望」を持っているのではないかと思われる。

 

最初の具体例を見ればなおさら、先のブログで述べたように、エピクロス主義者の願望は不真面目なものだと批判したくなる人は多いだろう。確かに、彼らにとって願望は、自分の活動、さらには生を楽しく在らしめるべく導くための手段である。

だが、彼らは不真面目に「願望」する代わりに、真面目に生を楽しんでいるのである。二つ目の具体例の勝利「願望」も、プロの勝利に対する(願望を超えた)執念に比べればいささか切実さに欠けるものではある、しかしその代わり、勝利を手段とするほどに、勝利「願望」を持つ人は真面目にゲームを楽しんでいるのである。

 

エピクロス主義、もしくはその含意する快楽主義は決して、今が楽しければそれでいいや、等といういい加減な妥協では無い。通常は生きることがその手段となるほどに尊い目的をも、徹底的に手段とするくらいに、自らが楽しく生きることに真剣な立場なのである。

エピクロス主義について

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※文章のまとまりのなさ、体裁の悪さはご容赦願います

最近私が興味を持っている思想家はエピクロスである。それは、一面において彼の倫理観と私の立場が一致しているからである。以下では、彼の倫理のこの一側面を紹介し、さらにはその内容がどれだけ同意できるものかを吟味したうえで、考えられうる批判に対する擁護を行いたい。

周知のとおり、エピクロス主義は、哲学的論証を通じて幸福、すなわち苦や恐怖から解放された心の平安を実現しようとする立場である。我々が克服する必要のある恐怖の最たるものは、死の恐怖である。そこで、彼は死が恐れるに足るものではないことをとりわけ強調している。その論理は、以下のとおりである。
経験(知覚)できるのは生きている間の出来事のみである
は生きている状態が終わった後に訪れる
③経験できないことは、恐れるに足らない
ゆえに、死が恐れるに足らないと彼は主張する。

 

まず、定義を明確にすべき概念がある。


・「生きている」というのは、知覚機能が働く程度に生命活動が維持されている状態を指す。脳死などの例を挙げるまでもなく、知覚が生じているか否か、生きているか否かは程度問題であり、明確な線引きは可能ではないが、ここでは問題としない。


・では、肝心の「死」は何を意味するのだろうか。
死という言葉の用法は次の三つの意味に大別することができる。
(1)ある時点において、既にその人が生き終えてしまった、現在完了形の死
(2)ある瞬間において、生きている状態が丁度終了すること(時制なき動詞としての死)
(3)ある時点において、その人の生命活動が終焉に向かいつつある現在進行形の死
上3つの定義で明確に違うのは、(1)および(2)の死が生じる時点において、死ぬ本人が生きるのを止めているのに対して、(3)の死は、死ぬ本人が生きている間に生じる点である。(3)については主張②が成立しないので、エピクロスはこの種類の死、つまり死にゆくこと(で経験する苦)に対する恐怖は排除できていないのである。

 

・「恐れるに足らない」という表現も、どうも主観的である。単に悪いことではないという意味なのか、それとも起こるか否かに関して完全に選好が中立であることを意味するのかはっきりしないが、ここでは後者の意味に解釈する。

 

さて、①、②は否定しようのない事実であるが、③は一定の倫理的立場を示している。事象を②の死に限定せず一般化すると、①と③の対偶による三段論法により、次の通り倫理的言明を導ける。


(α)選好の対象となるのは、生きている間に起きる出来事のみである。


要するに、私が上で規定したエピクロス主義者は、「生存に条件づけられた選好」しか持たないのである。

(この立場に、私はかなり強く賛同できた。というのも、私は、己の生存とは独立にあり続け、もしくはかつてあった世界の存在を認めず、それは単なる信仰の対象でしかないと考えているからだ。もし、私の立場を前提するならば、私が死んだ後の世界は存在しないのだから、すべての出来事は私が生きている間にしか起こらない。ゆえに、(α)は必ず真なのである。)

 

ここで、(α)の条件を満たす選好、あるいは願望はあまりに限定され過ぎてはいまいかという批判が考えられる。
(α)は自身が死んだ後の出来事に対してどうでもいいという態度を取ることを要求しているので、「私の死後も」愛する人に幸せでいてほしい、国や社会に発展してほしい、もしくは自身が手掛けていたプロジェクトに実現してほしい、と言った願望を排除する。自分自身が生きている期間に限って、幸せ、夢や目標の成就を願う、つまり自らが死んだ後のことはどうでもいいなど、なんと冷淡で不道徳だろうか。

 

私は、この批判に対して次のようにエピクロス主義を擁護したい。
私の死後に起こる出来事、例えば死後にわたる愛する家族の幸福も、「愛する家族が将来幸福になる期待として現在の出来事として間接的に願うことが出来るのではないだろうか。その人は、己が生きている限り、将来にわたり家族が幸せになる確率が極力高くなることを願い、その可能性をある一つの制約(※後述)のもと、極力高めるように行動するのである。この態度は(α)に反しない。

 

ただ、ある事象が将来「実際に起こること」を願うこと(x)は、現時点を基準とした「起こる確率」の最大化を願うこと(y)とは別物だと反論されるかもしれない。私はxとyが同一だと再反論するつもりはない。ただ、xの願望を持つ人が、現時点においてはyの願望を持つこと、そしてyの願望のみを持つ人とまったく同じ努力、つまり起こる確率の最大化を試みるであろうことは、明らかである。両者は、「いま」何を望み、何を行うかという点で(後述の※以外に)相違がないため、ほとんど同じであると言って差支えない。

エピクロス主義者も、彼なりに将来(に対する期待)に想いを馳せることはできるのである。これは少なくとも、「死んだ後は野となれ山となれ」という無責任で投げやりな態度とは全く異なるものである。

 

ただ、最後に(※)の但し書きについて注意しなければならない。
例)ある人が、己の死後に渡っても家族が幸せになる確率を最大化したいと願っているとし、その人がより長く生きて努力すればするほど、その確率は高くなるとする。
この場合、彼は(家族を助けるために)己自身がより長く生きることを望むだろう。
しかし、エピクロス主義者は異なる。彼は、己が生存する限り、将来にわたり家族の幸福を確実にしようと努めても、逆に家族の幸福を確実にするべく自ら行為するために、己がより長く生存したいという願望を持たないのである。
なぜなら、エピクロス主義者が持つ、家族の幸せを確実にしたいという願望は、あくまで彼が生きている限り有効であるため、この「限り」以降に家族の幸せがより確実になってほしいという願望は存在しない。したがって、その「限り」以降に、家族を助けるために生きたいと願う理由もないのである。

 

このような、ある将来に向けての願望の実現に向けて努力しようとする態度と、そのために敢えて生存を望みはしない態度は、常識的には両立しがたいように見える。もし両立するにしても、後者の態度を取る場合、前者の願望や努力は非常に不真面目なものとして映るだろう。

不真面目というのはある意味正しいかもしれない。というのも、快楽主義的傾向の強いエピクロス主義者にとってはおそらく、何かを願望すること、そしてその実現に向けて努力することですら、一つの刹那的な楽しみあるいは有意義(感)なのであろうから。(彼は、願望する何かの実現を直接追求してはいない、むしろ何かを願望し、そしてその実現に向けて努力する己の態度や活動の現在を楽しむのである。)

刹那的な快楽は、それが持続することも、したがってそれを生存して経験し続けることも要請しない。ゆえに、願望する何かのために彼は己の生存し続けることを、敢えて欲しないのである。

 

エピクロス主義者は、このように、我々の常識とは別種の、刹那的で快楽主義的な「願望」を持ち、それに向けての「努力」を行う。彼は徹底して将来でなく現在に生き、他人や世界でなく己のために生きる。しかし、倫理的な在り様がいかに異なろうとも、そのために己が敢えて生存しようとしない(※)点を除き、我々と同じように道徳的にふるまうことが出来るのである。