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エピクロスの倫理観について

エピクロスは、古代ギリシャ(ヘレニズム期)の思想家である。

彼は哲学の中でも倫理学、そして倫理の中でも幸福を最重要のものとして探究した。

彼によれば、幸福は主観的な快楽、とくに心の平穏による静的快楽(アタラクシア)であるという。これは、客観的な徳の発揮が幸福(エウダイモニア)だと考えたアリストテレス、快楽の中でも享楽的な快楽こそが良いと考えたキュレネ派と対照的である。

さらに彼がユニークなのは、死が無害、つまり死によって幸福は損なわれないと考えた点である。彼はむしろ、死は無害だという真理に心から納得して、死に対する不合理な恐怖を克服することが、幸福には必須だと考えていたのである。

残念なことに、彼の著作の大部分は失われており、彼の教義も体系的とはいいがたい。それでもなお、現代の哲学者達は整合的で体系的な解釈をエピクロスの思想に与えようと試みている。

私はとくに、以下のように解釈されたエピクロスの倫理観に共感を覚える。

この記事では、それぞれの主張に関する説明を述べたいと思う。(*1)

 

Ⅰ.エピクロスの快楽主義

1.静的快楽は、単に苦痛が無いことではなく、苦痛が無いことに対する肯定的な態度である。

2.ある時点における静的快楽の大きさ、あるいは強度(価値)には上限がある。

3.既に静的快楽が得られている場合、その時間が長引いても、静的快楽の大きさ(価値)は増えない。

4.ある人にとって良いのは静的快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

5.2~4より、動的快楽を得たり、(いったん静的快楽を得たならば)生き続けることは、より良いことではないが、追求するに越したことはない。 

 

Ⅱ.直接的死無害説

6.死それ自体は、苦痛も静的快楽ももたらさない。

7.(4および6より)死は、死ぬ本人にとって、直接的には良くも悪くもない。

 

Ⅲ.総合的死無害説

静的快楽をすでに享受した人の場合、

8.(2および3より)今すぐ死んでも長生きしても静的快楽の大きさは変わらない。

もし、今すぐ死んでも、長生きする場合に比べて苦痛が増えない場合(例えば無痛・無自覚な死であれば)

9.(4および8より)死は、死ぬ本人にとって、総合的にも悪くはない。

 

Ⅳ.批判(受け入れがたい帰結)

静的快楽をすでに享受した人の場合、

10.将来少しでも苦痛を被ることがあれば、無痛・無自覚な安楽死は、死ぬ本人にとって総合的に良い。

 

Ⅰ.エピクロスの快楽主義について

1.静的快楽の定義 

彼は、快楽を動的快楽と静的快楽の二つに分類する。

動的快楽は、食事、入浴、性交による快感など、欲求が満たされる過程において生じる快楽である。対して、静的快楽は、肉体的苦痛や精神的不安が無いことや、満たされない欲求が無いことによりもたらされる快楽である。

それでは、苦痛や満たされない欲求が全くないことそのものが静的快楽なのかというと、そうではないと私は思う。もしそうだとすると、昏睡状態などの状態が、最も静的快楽に溢れていることになってしまうが、これはおかしい。

苦痛がないというだけではなく、それに対して肯定的な態度を抱かなければ、快楽とは言えないのではないだろうか、とFred Feldmanは提案する。彼は、静的快楽とは、自分自身が苦痛や不安を感じていないことに対する(態度的)快楽だと解釈している。

この態度的快楽は、快感とは厳密に区別される。快感は単なる感覚であるのに対して、静的快楽を含む態度的快楽は、ある命題が成立することに対して好ましく思う態度なのである。私もこのFeldmanの解釈に基本的には同意したい。(*2)

 

2.静的快楽の強度には上限がある

エピクロス自身、主要教説の3.でこう述べている。

「快の大きさの限界は、苦しみが無く除き去られることである」

確かに、苦しみが全くない状態以上に、静的快楽は大きくなるときはないだろう。しかし、苦しみが全くない状態でも、いろいろな状態がありえる。苦しみがないことに全くありがたみを感じず、平然としている時もあれば、過去に経験した苦しみがないことを喜んでいる場合もある。後者のほうが静的快楽が大きいのではないだろうか。

Clay Splawnは、静的快楽は、単に苦痛がないことのみならず、過去に経験した苦痛が無いことに対する態度的快楽である、と解釈している。彼によれば、過去にどれだけの苦痛を経験したかが、静的快楽の大きさの限界であるという。

もちろん、過去に経験した苦痛は、静的快楽の大きさに影響するだろう。しかし、その人の気質や、人生に対する態度(感謝)など、他のファクターもあると思われる。ただ、それらを考慮しても、苦痛が無いことに対して抱く快楽には、先天的・後天的に決まるリミットがあるのではないか、と私は直観的に思うので、2.には同意しよう。

 

3.静的快楽は時間が長引いても増えない

物議をかもし、皆の直観に反するであろう主張が、3.である。

Steven.E.Rosenbaumは、苦痛がないことによる静的快楽を、病気や怪我のない健康になぞらえて、次のように説明する。動的快楽や、苦痛や病気には強度があり、持続することによりそれは増大するだろう。しかし、苦痛や、病気・怪我が全くないことによる静的快楽や健康には強度がなく、持続することで増えもしないのだと。

確かに、もし静的快楽が、苦痛がないことそのものであると解釈すれば、そうだろう。しかし、1.では静的快楽は苦痛がないことに対する積極的な態度であり、2.で強度を持つと解釈したのである。それならば、長引くことで大きさも増えるのではないだろうか。

この疑問に対しては、エピクロスは、いったん静的快楽の境地に達すれば、その時点で人間の本性は充足され、人生の目的は達成されると考えていたと言われる。その後にどれだけ静的快楽が続こうとも、すでに満たされた人生に付け加わる価値はない。どれだけ長く静的快楽が継続するかではなく、どれくらい快い静的快楽に達したかどうかが重要だというのである。(*3)

 

もし彼の意見を受け入れるならば、例えばこう定式化できるのではないだろうか。

3S:人生における静的快楽の大きさは、人生全体を通じた静的快楽の強度の最大値である。

 

4.静的快楽としての幸福

エピクロスはいわずとしれた幸福(well-being)に関する快楽主義者である。

・ある人にとって良いのは快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

とくに、彼は動的快楽よりも静的快楽を重視したといわれる。私は次のように解釈する。

・ある人にとって良いのは静的快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

これより、以下のように定式化できると思う。

4S:ある人の人生の価値は、静的快楽の大きさから、苦痛の大きさを引いたものである。

 

では、動的快楽の価値についてはどうだろうか。確かに、彼は美食などによる動的快楽にも一応限定的な価値を認めていた。しかし、 私は、エピクロスは動的快楽には、静的快楽をもたらす限りの手段的価値しかないと考えていた、と解釈する。(*4)

我々はしばしば、美味などの動的快楽を直接欲求し、それが得られないことに対して未練や不満を抱く。その場合、動的快楽が得られれば、満たされない欲求が減ることによって静的快楽がもたらされるだろう。

むろん、エピクロスが贅沢な動的快楽を追求することに対して、欲を増長させるなどの理由から戒めていたのは周知のとおりである。動的快楽が、静的快楽をもたらすどころか、損なう可能性もあるのであり、エピクロスはこちらの可能性を危惧していた。ただ、悪影響がない場合に限れば、彼は動的快楽にも限定的な価値を認めていた。

 

5.動的快楽や生の、価値中立的な追求

4.で述べた通り、幸福に寄与するのは静的快楽のみで、動的快楽は直接寄与しないが、だからといって動的快楽を追求すべきでないというわけではない。動的快楽はそれ自体価値のあるものではないが、好ましいものではあるからだ。動的快楽に耽り、依存してしまわない限り、動的快楽も追求するに越したことはないのである。

エピクロス主義者たちは、動的快楽を欲求し、可能であればありがたく享受するが、だからといって実際に得られなかったとしても嘆いて苦痛を被るような真似はしない。動的快楽に対する欲求は、完全に価値中立なのである。

同じことは生きることそれ自体についてもいえる。8.で再び述べるが、一度静的快楽の境地に達したならば、2.および3.より、生き続けても静的快楽の大きさがさらに増えるわけではなく、したがって4.よりさらに幸福になるわけではない。

しかし、生き続けて、静的快楽が長い間楽しめることや、さらに多くの動的快楽を楽しめることは、好ましいことではある。だから、生き続けられるならば、生を享受するにこしたことはない、だからといって生き続けられなくても嘆きはしない、というのがエピクロス主義者達のスタンスなのである。

 

 

死無害説

 エピクロスは上記の快楽主義から、死は死ぬ本人にとって悪くはないと結論づけている。ここで、死は悪くはないという主張にも二つの意味があることに注意すべきである。

・一つは、死が直接的に悪くはないという主張である。

例えば、足の骨折は、それ自体が悪い、もしくは足の痛みをもたらすから悪いことである。足の骨折それ自体が悪いか、悪い出来事をもたらすという意味において、足の骨折は直接的に悪い。死はこのような意味では、直接的には悪くないというのが一つ目の主張(直接的死無害説)である。

 

・もう一つは、死が総合的に悪くはないという主張である。

例えば、足の骨折をすると、足が痛むという直接的な害悪以外に、本来は行けたであろう明日の散歩に行けなくなるかもしれない。このような間接的な影響も考慮すると、足の骨折をした場合、他の条件が同じで骨折をしなかった場合に比べて総合的に人生が悪くなるという意味で、足の骨折は総合的に悪い。死がこのような意味でも、総合的には悪くないというのが二つ目の主張(総合的死無害説)である。

 

Ⅱ.直接的死無害説

6.死は苦痛ではない

死には二つの意味がある。

a) 死ぬまでの過程(dying)

b) 死ぬ瞬間の出来事、および死んでしまった状態(death or being dead)

大抵の死に関しては、a)が苦痛なのは間違いないだろう。病死、事故死、殺害の例をとっても、最期の瞬間は悲惨なものである。(無痛無自覚な死という例外はあるが)

しかし、b)はどうだろうか。死ぬ瞬間およびそれ以降は、我々はすでに死んでいるのだから、苦痛を感じることは出来ないはずである。したがって、b)は苦痛を伴わないし、苦痛をもたらさないのである。(*5)

死をb)の意味で捉えるならば、6.の主張は疑いようがないと思う。

 

7.死は直接的には無価値である

主張7.は、4.および6.の帰結である。死は苦痛や静的快楽をもたらさない。したがって、4.より、悪い出来事や良い出来事をもたらさない。よって、死は死ぬ本人にとって、直接的には悪くはないと結論づけられる。

 

Ⅲ.総合的死無害説

8.死は静的快楽を奪わない

2.で存在すると主張した、苦痛が一切ないことによる、静的快楽の強度の上限Uを既に享受した人がいるとしよう。

その場合、3S.より静的快楽の大きさは強度の最大値であったわけだから、もし彼が今すぐ死んでも、さらに長生きしても、彼の静的快楽の大きさは、人生全体を通じた静的快楽の強度の上限=Uから変わらないのである。

 

9.死は総合的には悪くはない

8.より、ある人が今すぐ死ぬ場合も、生き続ける場合に比べて、静的快楽の大きさは減らない。もし、今すぐ死ぬ場合、生き続ける場合に比べて、苦痛の大きさは増えはしないと仮定すると、少なくとも、今すぐ死んだ場合、今すぐ死ななかった場合に比べて総合的に人生が悪くなりはしない。つまり、死は、死ぬ本人にとって、総合的にも悪くはないのである。

 

Ⅳ.エピクロスの倫理観に対する私の批判

10.無痛・無自覚な安楽死の肯定

エピクロスは、死は直接的にも総合的にも悪くないと主張していた。では、エピクロスによれば、死んでしまったほうが良いことはあるのだろうか。

7.より、死は直接的には良くはないのは明らかである。しかし、死が総合的に良いことはあるのではないか、と私は思う。それどころか、ほとんどの場合、死んだほうがいいということになりはしないか、と思う。

例えば、ある人が今は静的快楽を享受しているとする。そして、将来にちょっとでも苦痛が待ち受けているとする。

その場合、もし無痛・無自覚に安楽死できるならば、今すぐ死ぬほうが、生き続ける場合に比べて苦痛は減るだろう。対して、静的快楽は生き続けても増えはしない。したがって、今すぐ無痛・無自覚に安楽死した場合、しなかった場合に比べて総合的に人生が良くなるのである、つまり苦痛があるくらいなら安楽死したほうがマシということである。

 

将来にちょっとでも苦痛があれば、無痛・無自覚な安楽死したほうが良いというのは、多くの人にとって受け入れがたい結論ではないだろうか。また、いくら静的快楽の積極性をとなえたところで、死が最大の幸福と説いて自殺を勧めたヘゲシアスと、帰結が変わらないではないか。

しかし、実際のエピクロス主義者たちが、自殺を極力さけていたのは事実である。彼らは、生を快いものとして捉えていた。もしかしたら、エピクロスが尿管結石で死ぬ間際に過去の快い思い出を想起したように、大抵の苦痛は快楽で相殺でき、取るに足らないのかもしれない。とはいえ、快楽をうわまわる苦痛はあるだろうし、そもそも苦痛が快楽で相殺できるか、疑わしい。いくら鍛錬をつんだエピクロス主義者でも、人生が辛い瞬間はあるだろう。

それではなぜ死なないのか、と彼らは聞かれるだろう。彼らはこう答えるに違いない。生き続けても、我々の人生の価値は増えるどころか、苦痛で減るかもしれない、しかし、5.で述べたように、より多く、長い動的快楽や静的快楽を味わいたいから生きるのだと。

人生の価値が減っても、快楽を味わいたいから生きるというのは、確かに態度として矛盾はしていないだろう。しかし、その場合、彼らの生き続けたいという欲求は、本来持つべきではない不合理な欲求だとは言えないだろうか。

 

11.まとめ

エピクロスの倫理観は、死の恐怖を避けようとしたあまり、死に対してあまりに友好的過ぎないか、と私は思う。大半の人は、死に恐怖しながらも人生をより良くしようと努力し続けたいのであり、満足した抜け殻のようにはなりたくないのである。ましてや、ちょっと苦痛があるだけで死が望ましいなどとは思いたくないのである。

10.のように、苦痛を被るくらいなら安楽死したほうがマシだという結論に至る元凶となったのは、やはり3、つまり(静的)快楽は時間によって大きくならないという主張である。とはいえ、これを諦めるならば、Ⅲ総合的死無害説は成立しない。エピクロス主義者はジレンマに面することになる。

私は、このジレンマは解決不可能だと思う。そのうえで、エピクロス主義は10.を認めざるを得ないのではないかと思う。死無害説は、彼の主張の一つの結論に過ぎないにせよ、静的快楽(アタラクシア)を達成するための重要な信条であったわけだから。

ちなみに、私もエピクロス主義同様、10.に同意する。ではなぜ安楽死しないかというと、すぐ安楽死すると今知ることが怖くてたまらないからである。つまり、今の自分の利益のために、死を先延ばしにしている次第である。

しかし、刹那的快楽主義を戒め、一線を画するエピクロス主義はこのような合理化が出来ない。そもそも、彼らは、死が怖いという理由すら利用できない、死は恐れるべきではない、と主張しているのだから。結局、10.で述べたように、彼らは、価値は増えずとも、快いから生きたいと言うほかはないのである。これが彼らにできる最大限のいいわけである。

以上に述べたように、エピクロス主義には重大な問題がある。しかし、私は快楽主義や、死無害説につながる彼のこころにはかなり共感する。だから、彼の精神を引き継ぎつつ、一貫した倫理観を模索したいところである。

 

 

*1:私は、歴史上実在したエピクロスの思想の解釈よりも、以下の解釈によるエピクロス主義の妥当性に興味があるため、解釈の問題には極力触れないつもりである。

 

*2:ただ、私は彼の態度的快楽の考えそのものには同意しない。快楽は態度そのものではなく、例えば態度のような経験が含む快さという質だと考えている。

 

*3:実際エピクロスメノイケウス宛の手紙でこう言っている。「食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口に入れて最も心地よいものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、もっとも快い時間を楽しむのである。」

 

*4:もし大きさに際限のない動的快楽にも内在的な価値があるとすれば、幸福に限りがないことになってしまい、これは彼の幸福観とは相いれない。また、彼はメイノケウス宛の手紙でこう明言している。

「快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、―― 一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとは違って ―― 道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。」

 

*5:なお、1.の解釈より、死は静的快楽(安楽)ももたらさないという点に注意である。単に苦痛が無いことではなく、それに対して快楽を抱くためには、生きていなければならないからである。

欲求充足説に対する反論

1.欲求充足説について

 世の大半の人は、欲求に素直である。彼らは本当にしたいことが(自分にとって)良いことを疑わない。
 確かに、大人は子供と違って、自分がしたいことが、本当にしたいことなのかを考える。誰しも、歯医者には行きたくないが、行かなければ虫歯が進行することを考慮して、総合的には行きたいと欲求するから、歯医者に行くのである。
 しかし、ここまで考えて、歯医者に行きたいからといって、歯医者に行くことは自分にとって本当に良いことなのかと疑う人はいない。やはり彼らにとっては、欲求すること=良いことなのである。
 哲学者達の間では、さらに強い立場が有力である。彼らはたんに、歯医者に行きたいと欲求するならば、歯医者に行くことが良いと主張するだけではなく、歯医者に行きたいと欲求するからこそ、歯医者に行くことが良いと主張する。
 つまり彼らは、欲求が、良いものを正確に把握するだけではなく、欲求こそが、良いものを良いものたらしめるものである、と主張しているのである。
この立場は欲求充足説(Desire fulfillment theory or DFT)と呼ばれる。

 

欲求充足説

①欲求が充足することのみが常に良く、欲求が充足しないことのみが常に悪いことである。

②欲求の充足の良さや、欲求の不充足の悪さの程度は、欲求の強度に比例する。

③:①では、欲求が充足するからこそ良く、欲求が充足しないからこそ悪い。

欲求の充足:欲求はある命題Pに真であってほしいという態度である。命題Pに対する欲求が充足するとは、この態度を抱き、かつ命題Pが真である事象を指す。

 

私は、この立場に全面的に反対し、次のように主張する。

 

欲求充足説に対する反論

Ⅰ.欲求が充足されても、(そこまで)良くはないこともある。よって、①(や②)は偽である。
Ⅱ.欲求が充足されなくても、良いこともある。よって、①は偽である。
Ⅲ.Ⅰ、Ⅱより①は偽であり、欲求は、良し悪しの大まかな指標に過ぎない。

Ⅳ.Ⅰより②は偽であり、欲求の強度とは別に、良し悪しの程度を決める基準がある。

Ⅴ.Ⅲ,Ⅳより、③も偽である。

 

Ⅲ、Ⅳ、ⅤはⅠ、Ⅱより導かれるため、ⅠおよびⅡを示す。

 

Ⅰ:欲求が充足されても、(そこまで)良くはないこともある。

 

2.死海の林檎に対する欲求

・見た目は美味しそうな林檎でも、触れた瞬間灰になってしまうリンゴがあるとする。この死海の林檎に対する欲求が充足しても、全く良いことではないように思われる。これはⅠの例ではないだろうか。


これに対しては、欲求充足説からは二つの答え方があると言われる。
 一つは、欲求の充足の中でも、欲求を抱くのと同時の充足が重要だ(Concurrent desire fulfillment theory or CDFT)とする答え方である。死海の林檎を欲求するのは、手に入れるまでであって、手に入れた瞬間欲求が失せてしまう。よって、死海の林檎が欲しく、同時にその欲求が充足される時は全くない。したがって、CDFTによれば、欲求は本当に充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 二つ目は、実際の欲求ではなく、知識や思慮が十分だった場合の理想的な欲求の充足が重要だ(Idealized desire fulfillment theory or IDFT)という答え方である。もし、死海の林檎であることを知っていたならば、それを欲求することもなかったであろう。したがって、IDFTによっても、理想的な欲求は充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 私はここでは、CDFTやIDFTに対して反論はしない。だが、これらがDFTの残った候補であることは示せたと思う。

 

 

3.自分のものではない欲求
女性差別があった時代に、女性が家事をしたいと妥協的に、しかし強く欲求していたとする。彼女が望み通り、家事に専念できたとしても、彼女にとってそこまで良いことではないと言えないだろうか。
・ミーハーな人が、広告で宣伝されていたり、流行っていたから、変なぬいぐるみを強く欲しいと思ったとする。そんなぬいぐるみが手に入ったところで、そこまで良いことではないと言えないだろうか。


 両方の主張を支えている直観は、欲求が本当にその人のものではないという点である。であれば、欲求が充足されても、その人にとってはそこまで良いことではないのではないだろうか、というのである。
 これに対しては、先ほどのCDFTはうまく答えられないように思える。対して、IDFTからは、本当の自己は何者かを知るならば、自分のものではない欲求は抱かなかったであろう、と主張することは可能であるように思える。

 


4.満足感を伴わない欲求の充足
・我々は死にたくないと意識的であれ無意識的であれ、常に欲求している。しかし、死にたくないという欲求が常にかなえられていても、それだけで特段我々が幸福なわけではない。(死ぬことに比べて、相対的に幸福かもしれないが。)死にたくないという欲求の充足は、それだけで見ると(そこまで)良いことではない。
・私が電車で見知らぬ人と打ち解けて仲良くなり、その人にもっと幸せになってほしいと欲求するようになったとする。そして、その人は実際にもっと幸せになったのだが、私はそれを知ることがないとする。この場合、私の欲求は充足されても、私にとっては(そこまで)良いことではないように思える。


 これらには、CDFTもIDFTもうまく反論できないように思える。前者を例に挙げると、死にたくないと欲求するのと死なないのは同時であるし、知識や思慮が十分でも我々は死にたくないと欲求しただろう。
 さて、両者に共通しているのは、本人が何ら満足感を得ていないということである。もし、前者の例で、生きられて恵まれている、とありがたみを感じているならば、死にたくないという欲求の充足は良いものだろう。もし後者の例で、見知らぬ人が幸せになったことを私が知って満足したならば、欲求の充足は良いものだろう。つまり、重要なのは、欲求の充足そのものよりも、それに伴う満足感だと私は主張したい。

 

2.から4.の例により、欲求充足説はⅠの反論に耐えられないのではないかと私は考える。

 

Ⅱ:欲求が充足されなくても、良いこともある。

 

5.純粋経験
・なんの欲求もなくても、気分が高揚していたり、心が平安だったりすることがある。欲求が充足されていなくても、これらの心的状態は良いものではないか。
・ゲームを遊びたいと欲求する余裕もないほど、ゲームに熱中しているとする。いわゆるフローの状態である。欲求が充足されていなくとも、ゲームに熱中することは良いことではないか。

 

 欲求充足説からこれらに対して決まってなされるのは、欲求がないのではなく、単に意識されていないだけであるという反論である。ハイでいたい、平安な境地でいたい、ゲームを遊びたい、という無意識の欲求は確かに充足されているではないか、と。
 もし無意識の欲求なるものを認めれば、確かにⅡは成り立たないだろう。しかし、無意識な欲求があるとして、いったいどれくらいあるのだろうか。死にたくない、世界に平和であってほしい、苦しみを避けたい、幸福になりたい、癌になりたくない…枚挙に暇がない。これら全てが無意識の世界でうごめいていて、それぞれの欲求の充足不充足が全て私の幸福に寄与しているとはにわかには信じがたい。
 また、意識すらされていないのに、欲求の強度はどのように定義されるのだろうかという疑問もある。
 最後に、そもそも私は、無意識な欲求の充足には価値が無いと思う。無意識な欲求には満足感が伴わず、4.のケースに該当すると考えるからである。


6.最後に
 この記事では、欲求されることと価値はイコールではなく、ましてや欲求されるから価値があるわけではないことを示した。欲求が価値を規定するのではなく、逆に価値があるからこそ、欲求するに値するのである。
 私は、何かを欲求する前に、欲求する当のものを手に入れることでどういう価値が実現され、手に入れないことでどういう価値が損なわれるかを思慮し、本当に欲求するに値するかを見極めたい。私は、たんに欲求するのではなく、価値とは何かについて常に考え、価値を欲求する倫理的な人間でありたいと強く欲求するのである。

動物にとって苦痛は害悪なのか

1.苦痛と害悪

 我々の多くは、苦痛が悪いのは当たり前だと考える。確かに苦痛を好む人はいない。マゾヒストという例外もいるように思えるが、彼らは単に、通常の人が苦痛と感じるものを快楽として感じているだけである。

 しかし、苦痛と害悪は概念としては決して等しくない。それは「Xは苦痛である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いが無意味ではないからだ。実際、この問いに対しては、例えば「いや、苦痛など取るに足らない」と答えることも論理的に可能である。しかし、もし苦痛が概念として害悪に一致していれば、この問いは、「Xは害悪である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いと同様に馬鹿げているはずである。

 では苦痛と害悪はどのように異なっているのだろうか。苦痛はある意識に内在する属性である。もしくは、ある意識内容に対する嫌悪である。いずれにせよ、それら単独では単なる意識や態度であって、それ自体価値とイコールではない。対して、害悪というのは(主体にとっての)負の価値そのものである。それは単に嫌いなだけでなく、忌避すべきものである。例えば、「苦痛など取るに足らない」という人は、確かに苦痛を感じ嫌悪もしているが、苦痛を無くすべきだと考えていない。苦痛や嫌悪と、価値は別物なのである。

 では(ある主体にとって)価値があるとは何を意味するだろうか。私は、その主体自身が価値を見出す(価値があると直観する)ことに他ならないと思う。もちろん、我々が間違った価値を見出すこともある。例えば、喉が渇いている時、目の前の生水が自分にとって良いものに思えるかもしれないが、実はそれが汚染されていて悪いものかもしれない。しかし、知識や思慮が十分な理想的な状況下で直観されるであろう価値は、正しいと言って良いのではないかと思う。

 

2.動物にとって苦痛は害悪なのか

 動物が苦痛を感じ、苦痛を避けようと欲求することは科学的な類推からわかる。しかし、その苦痛は動物にとって負の価値があるものなのだろうか。つまり、動物は、苦痛に対して負の価値を見出しているのだろうか。

 私は、良し悪しの概念すら持たない動物に、良い、悪いという価値判断を下すことが出来るか、はなはだ疑問である。彼らは苦痛を避け、欲求を満たそうとするが、実は、良さや悪さなんてものは彼らにとっては無いのかもしれない。動物が我々と同等の倫理的直観を備えているかというのは、動物が我々と同様に苦痛や欲求を備えているかという問題よりはるかに疑わしい。
(たぶん、ヒトに近い動物は備えているのだろう、と思うが。)

 確かに我々は動物にとって苦痛が悪いと直観する。しかしその直観はあくまで我々の直観であって、動物自身の直観ではない。我々は、自分が動物の身になってみて、あんな苦痛を被るのはごめんだと想像する。しかし、どんなに動物の身になったつもりでも、価値を見出しているのは我々人間である。我々は動物の苦痛を想像できても、動物の視点に立って苦痛を価値づけることは決してできない。我々から見た場合、動物にとって苦痛は悪いのであるが、動物自身から見た場合、自身にとって苦痛が悪いかどうかは、我々にはわからないのである。

 対して、人間の場合は、誰しも苦痛に負の価値を見出していることがある程度類推できる。というのも他人とは苦痛や価値という概念を共有していて、「苦痛は悪いものだ」と意志疎通ができるからである。

 以上より、(動物自身から見て)動物にとって苦痛が悪いか、そもそも悪いということがあるのかどうかは疑わしいのに対して、(その人自身からみても)ある人にとって苦痛が悪いと考える理由はある。

 

3.動物に苦痛を与えることはやはり道徳的に悪い

 しかし、だからといって私は、動物に苦痛を与えることが道徳的に許容されるとは思わない。道徳が問題とするのは、動物自身ではなく、あくまで、道徳の主体達(主に人間)から客観的にみて、動物にとって苦痛が悪いかだからである。そして、我々からみて、動物にとって苦痛が悪いのは間違いがない。

 このような道徳は、人間の価値の押し付けであり、傲慢だと批判されるかもしれない。本当に動物のことを思うのならば、動物の立場から見た価値を追求すべきではないのか。確かに、我々は極力動物の立場に立たなければならない。しかし、いくら動物の立場に立ったところで、(動物と会話は出来ないのだから)最終的に道徳的判断を下すのは、結局は道徳的に行動する我々人間である。これが我々に出来る精一杯のことである。道徳は客観的で他者視点であり、傲慢であることから逃れられない。

快楽主義について(その2)

利己的快楽主義というと、どこか享楽的で、不道徳な響きがする。しかし、私が考える利己的快楽主義者のイメージは、非快楽主義者と見かけはほとんど変わらない。彼は、しっかりとしたライフプランも持ち、道徳を尊重し、人生の意味を追求するだろう。私は、以下で、私の考える利己的快楽主義は極めて穏健で健全であることを主張したいと思う。

 

まず、利己的快楽主義にも、心理的快楽主義、規範的快楽主義と価値論的快楽主義がある

 

1.心理的快楽主義

心理的快楽主義は、人間や動物の心理について次の命題が正しいと主張する。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求する。

 

例えば、我々がアイスクリームを食べたいと思うのは、厳密にはアイスクリームを食べたいからではない。もしアイスクリームを美味しいと思わなければ、つまりなんの快楽ももたらさないと思われれば、アイスクリームを食べる理由はないだろう。我々は、アイスクリームのもたらす快楽を目的として、アイスクリームを手段として食べるのである。

対して、我々は快楽を他の何の目的のために追求するわけでもない。何のために快楽を求めるのか、という質問は愚問であり、快楽は快楽それ自身のために求めるものである。以上より、快楽は最終的な目的だというわけである。

 

しかし、私は、心理的快楽主義は上の例については正しいが、成り立たない場合もあると思う。

例えば、道徳的な動機から人を助けるとき、我々は道徳的満足感を得るために助けるというよりは、助けるべきだから助けるのである。もし仮に、道徳的満足感という快楽よりも、助ける労力が大きいとわかっていても、道徳的な人は人助けするのである。

また、例えば、好きな友達に愛されたいのも、決して愛される満足感を得るためだけではないだろう。もしそうだとすると、我々は友達に愛されると信じられるだけで満足するはずである。しかし、我々は愛されていると信じたいだけではなく、実際に愛されたいのである。

 

2.規範的快楽主義

心理的快楽主義は事実言明であるのに対して、規範的快楽主義は価値に関する以下の主張である。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求すべきである。

(追求することが当の人間や動物にとって、最も価値あることである)

ここでいう「べき」に道徳的な意味はない。あくまで、自分のために利己的・合理的に、追求することに価値があると主張しているに過ぎない。

 確かに、友情、達成、道徳など、快楽以外にも自分のために追求すべき価値はある。しかし、規範的快楽主義は、これらはあくまで快楽をもたらす手段として追求すべきだというのである。誰かと友達になっても、何かを成し遂げても、道徳的に振舞っても、それで楽しかったり満足感が得られなければ何の意味もない。全ては快楽を得る手段なのである、と。

 

確かに、快楽のみを目的として追求するという行動原則をとることはできる。しかし、それが私にとって最も価値があるとは思えない。快楽主義のパラドックスがあるからだ。

快楽は、直接の目的として追求してはかえって得にくいものである。快楽そのものではなく、快楽を生み出すものを直接の目的として追求したほうが、多くの快楽が得られるのである。

・道徳的な満足感は大きな快楽だが、自己満足のために道徳的行為を行うことは、道徳的な意義を損ない、かえって道徳的な満足感を損なう。道徳のために道徳的行為をしてこそ、道徳的満足感が最も得られるのである。

・少し話がずれてしまうが、道徳を目的として追求すればするほど、自他の利害は一致し、争いで傷つけあうことが少なくなる。自己中心的な人は、周囲との争いが絶えないのに対して、利他的な人は、誰からも愛される。どちらが多くの快楽を得られるかは明らかだろう。

・達成による達成感も大きな快楽だが、達成感それ自体を味わうために、達成を成し遂げようとすることは、達成それ自体を目的とする場合に比べて、モチベーションが弱い。達成を成し遂げたいという欲求は無条件な意志であるのに対して、達成感を味わえる限り、達成を成し遂げたいというのは、条件づけられた欲求に過ぎないからである。達成感それ自体のためではなく、達成を成し遂げるために努力してこそ、達成を成し遂げられる可能性がより高くなり、達成感も最も得られるのである。

以上より、快楽を目的として追求することは、かえって快楽を損ねてしまう。規範的快楽主義を取る理由はない。

 

以上の二つの立場は、記述的・規範的の違いがあるにせよ、評判が悪い。自分の快楽を直接の目的として求める・求めるべきという姿勢は、享楽的、利己的だと思われても仕方がないだろう。また、どこか自己完結していて、虚しいと思われても仕方がないだろう。

 

3.価値論的快楽主義

私にとってもっとも魅力的なのは、次の価値論的快楽主義である。

・我々人間や動物にとって、自分の快楽のみが、最終的な目的として価値あるものである。

一見、規範的快楽主義との違いが分からないかもしれない。しかし、「目的として追求すべき」ことと、「目的として価値がある」ことは全く別である。価値あるからと言って、直接追求すべきとは限らないのである。

実際、もし快楽に目的として価値があるとするならば、快楽主義のパラドックスにより、快楽を目的として追求することはかえって快楽を損なうから、快楽を目的として追求すべきでないことになる。

価値論的快楽主義は、他の価値に対して排他的でない。

たとえば、快楽以外の道徳や、(達成などの)人生の意味を最終的な目的として追求すべきではないとは主張しない。もし結果的に快楽を増進するならば、道徳や人生の意味を最終目的として追求することも奨励するのである。

快楽主義のパラドックスより、道徳や人生の意味を直接目的として追求することは、快楽を得る手段として追求するよりも、多くの快楽をもたらす。だから、価値論的快楽主義は、人生の意味や道徳を目的として追求する欲求と矛盾なく両立するのである。

確かに、人生の意味や道徳を追求することは、時として快楽の追求を犠牲にすることもあるだろう。何事も程度問題であり、人生の意味や道徳の過度な追求は、快楽を犠牲にする。もしそう判断された場合は、彼は自身の道徳的欲求や、意味に対する欲求を意識的に弱めようとするだろう。逆に、人生の意味や道徳に対する欲求が弱すぎて、自身の人生が空虚だと感じられた場合は、彼は自分の欲求を意識的に強めようとするだろう。

 

こう説明すると、結果的に快楽が増えるから道徳や人生の意味を追求しているのであり、結局道徳や人生の意味を快楽を得る手段として位置づけてはいまいかと批判する人がいるだろう。しかしそれは違う。

彼は、決して、快楽を得られる手段として、新たに道徳や人生の意味を追求しようとするのではない。彼はあくまで、既に道徳や人生の意味に対する欲求を持ってしまっている以上、それ自体のために追求するのである。単に、それらを快楽とは別に追求することが結果的に快楽という価値を損ねないから、欲求を抑制する理由がないだけである。

確かに、快楽を増進するという理由で、道徳や人生の意味に対する欲求を強めようとすることは、快楽を得る手段かもしれない。しかし、一度それが成功して欲求が強められたら、手段であったはずの道徳や人生の意味は目的となるのである。

 

道徳や人生の意味に対する欲求が強すぎれば抑制し、弱すぎれば強めようとする、この戦略により、価値論的快楽主義者は、人生の意味、道徳、快楽を目的として追求する欲求を、結果的に快楽が最大化するような適当な割合で保持する。彼は、時に快楽を目的として追求することもあるが、道徳のために道徳的に振舞うし、人生の意味のために盛大なプロジェクトを手掛けたりもする。彼は利己的快楽主義であるにも関わらず、十分に道徳的で実存主義的なのである

 

4.価値論的快楽主義の擁護

4ー1.経験機械の問題

多くの人は、現実世界の中で生きた人の生のほうが、経験機械で同じ経験をした人の生よりも良いと考える。前者には成し遂げたものがあるが、後者は何も成し遂げていないのだから、と。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の人生の価値は変わらないのである。

私は、我々は成し遂げることを目的として追求すべきだし、それゆえに経験機械で生きたくないと欲するべきだと考える。先ほど述べたように、快楽主義のパラドックスにより、達成感のためではなく、達成のために努力をしてこそ、より達成感が得られるからである。

経験機械の生が一見悪いと思われるのは、経験機械の生が嫌悪すべきものだからではないだろうか。もしそうであれば、これは価値論的快楽主義に反しない。

 

4ー2.不道徳な快楽と美しい快楽

多くの人は、同じ快楽でも、動物虐待によって得る快楽より、読書をしたり、高尚なクラシック音楽を聴くことで得る快楽のほうが価値があると考えている。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の快楽は同じである。これはどう説明できるだろうか。

ここで、道徳だけではなく、美そのものを目的として追求する欲求を持つことは、結果的にかえって快楽を増進するのではないかと思う。(知識についてもおそらく同様である)美的観照は大きな快楽である。しかし、快楽のためだけに美を追求する即物的な姿勢を取ることは、審美眼を曇らせる。また、知も、観照や技術を通してたくさんの快楽をもたらすが、知を快楽や即物的な利益のために追求していては、かえって知が得られないことは、古代ギリシャや近代の科学革命の例を見れば明らかである。

だから、動物虐待の快楽があまり良くないのではなく、快楽とは別に、動物虐待することを道徳的に嫌うべきなのである。美や知のもたらす快楽が特に良いわけではなく、快楽とは別に、知や美を好むべきなのである。これは、価値論的快楽主義に反しない。 

 

5.まとめ

快楽主義にも、快楽を直接追求すべき、という立場と、快楽の価値を間接的に追求しようとする立場がある。前者には賛同できない、快楽主義のパラドックスにより、直接快楽を追求することは、かえって快楽を損なうからである。対して、後者には賛同できる。快楽だけが価値あるものだと言っても、快楽以外の道徳や人生の意味を目的として追求すべきでないとは限らず、むしろそれらも適度に追求したほうが快楽はより多く得られるのである。

それだけでなく、快楽以外の、目的として追求すべき道徳や人生の意味は、経験機械の生や不道徳な快楽を我々がなぜ嫌悪すべきか、説明を与えてくれるのである。

私は、適度に道徳的に、そして人生の意味を追求しながら生きつつも、価値論的(利己的)快楽主義者として、自分がいかなる欲求を持つべきかについてしっかり吟味をして生きていきたいと思う。

意志について

1.無条件欲求

 私は、死は私にとって悪くはない、もしくは不幸でないと主張した。しかし、それだけではない。私は、(死ぬまでの苦痛はともかく)死そのものにはほとんど無関心である。つまり、死で挫かれる欲求がほとんどない。

 果たしてそんなことがあり得るのだろうか。哲学者Steven Luperは、死で欲求を一切挫かれないような「エピキュリアン」がどういう欲求を持ちうるかについて、論文「Annihilation」で以下のようにまとめている。

・逃避欲求(もし時点tでXが事実でなければ、時点tで私が死んでいるほうがマシだ)

 死は逃避欲求を挫くどころか、必ず満たす。後件命題が真になるからである。

 

・独立欲求(時点tでXに事実であってほしい:Xが実現される確率は私の生存に依存しない)

 死は、独立欲求を挫きも、満たしもしない。

 

・生存条件付欲求(もし私が時点tで生きていれば、時点tでXに事実であってほしい)

 死は条件付き欲求を挫きはしない。

 

 あまりに図星だったため、私は衝撃を受けた。私は、もし将来極度の不幸が避けられなければ、その時に死んでいるほうがマシだと思う。これは、逃避欲求である。また、私は、家族を含む他人に出来るだけ幸せになってほしいと思うが、私自身に幸せにするだけの力があるとは思っていない。この欲求は独立欲求である。最後に、最も重要だが、私は、幸福になりたいというより、生きている限りは幸福になりたい。これは生存条件付欲求である。

 

 逃避欲求は誰しもがもっていると思う。誰しも、耐えがたい苦痛を味わうくらいなら、死んだほうがマシだろう。しかし、皆は生存条件付欲求に加えて、次の欲求も持つと思う。

 

・無条件欲求(私が時点tで生きるかに関わらず、時点tでXに事実であってほしい)

 例えば、皆は将来家族に幸せであってほしいと考える。仮に、自分が家族の前に死ぬとしてもである。しかも、皆は自分が家族を幸せにする力があると信じている。したがって、この無条件欲求は、生存条件付欲求でも、独立欲求でもなく、死で挫かれるのである。

 

 無条件欲求のうち、独立欲求でないものは「意志」と呼ぶことが出来る。それは、生きるから欲求するのではなく、そのために生きるような使命感や熱意を伴うものである。また、自分次第で欲求を実現できる、という自信や主体性も伴う。

 思うに、私以外の人々にとっても、意志は欲求の中のほんの一握りである。例えば、多くの人にとって、快楽を得たい、幸福になりたい…ほとんどの欲求は生存条件付欲求であり、意志ではない。

 仮にあなたが明日死ぬとしよう。それ自体は残念なことである。しかしその場合、あなたは、明日生きられないことと独立して、明日生きていれば得られていたはずの快楽や幸福が得られないことを嘆くだろうか。我々は、明日生きたいから死にたくないのであって、明日快楽や幸福を得たいから、死にたくないわけではないのである。

 ではどういうものが意志なのだろうか。例えば、将来生きたいというのは意志である。それは、それ自体目的でもあれば、他の意志を達成する手段でもあろう。他の意志とは例えば、他者に愛されるとか、他者を本当に幸せにするとか、世界の中で偉業を痕跡として残すなどの、単なる経験を超えた人生の意味である。

 

2.意志のない生

このような意志のない生はどういうものだろうか。

 まず、Steven Luperは、意志がなく、三種類の欲求に限定された「エピキュリアン」にとっては、死は、欲求を一切挫かないから、悪くないという。

 これに反論する方法はある。なぜなら、死で彼の欲求が全く挫かれずとも、将来生き続ければ得られた快楽や、欲求の充足が剥奪される、とは主張できるからである。確かに、生存条件付欲求しか持たない彼は、将来生き続けない限り快楽や欲求の充足を欲求しないから、欲求は一切挫かれず、それらの剥奪が悪くはないと主張しうるかもしれない。だが、それは直接的に悪くはないだけで、比較的、間接的に悪いことだとは主張しうる。ただ、死の後も生き続けたであろう人の利害を考慮することに、私は懐疑的であるため、この剥奪説はとらない。

 

 次に、最も重要だが、Steven Luperは、「エピキュリアン」の生は、死で損なわれない代わりに、極めて劣悪であると主張する。

1.彼は、死ぬことが悪くなければ、生きることは良くはないのではないか、と言う。

 これに対しては、先ほどと同様、「エピキュリアン」も生存条件付欲求の充足にともなう快楽を享受して、良き生を送ることが出来る、と言いたい。確かに、彼の生は、意志の成就、つまり達成という善に欠けているかもしれない、しかし快楽という別の方面で良いということはありうる。

 

2.彼は、生存条件付欲求は、本当の意味の欲求ではありえない、という。自分が生きている間は子供に幸せになってほしいというのは、子供に対する真の愛情ではないし、自分が生きている限り、仕事で偉業を成し遂げたいというのも、偉業に対する真の情熱ではない。

 確かに、自分が死ねばどうなってもいい、という留保がある場合、本当になにかを欲求することは出来ないだろう。ましてや、そのために本気で努力することも、心理的に不可能かもしれない。ただ、そのような生は情熱に欠けるものの、悪いものだとは言えないと思うのである。

 情熱に満ちた生は、魅力的かもしれない。しかし、それは大きな喜びや達成のほかに、大きな苦痛や絶望も伴う。

 他方で、エピクロスが説くような、欲求や苦痛から自由で、精神的に平穏な生も、別の次元の魅力があるように思える。そのような生は、すごく良いということも無いが、すごく悪いということもほとんどない。浮き沈みがなかったり、自分の欲求や周りに振り回されたりしないということは、それ自体一つの人生の良さを構成するものではないだろうか。

 

 以上のように、私は「エピキュリアン」にとって(少なくとも直接的には)死は悪くないが、だからといって必ずしも彼の人生は良くないわけではないと思う。しかし、私自身、やはりどこか物足りないように思う。仕事や恋愛などで、どこか「生きがい」を見出したいところである。

  

3.意志と、独立な無条件欲求

 以上では、意志と無条件欲求をほとんど区別せずに用いてきた。たが、無条件欲求は、意志と独立な無条件欲求に分けられ、両者は決定的に異なる。

 意志は、自分次第で何とかなる、何とかしようと思えるような欲求である。だから、それは生きる理由を与えるのであり、その反面死で挫かれもする。対して、独立な無条件欲求が成就するかは、もはや自分がいるか否かに関りがない。したがって、その欲求のために自分が生き続ける理由はない。出来ることと言えば、欲求がかないますように、と祈るくらいである。

 私は、独立な無条件欲求もほとんどは、もともとは何らかの意志だったものと思う。人は、自分ではどうにもなりそうにないことは、欲求する気にはならないからである。では、どういう場合に意志は、単なる独立な無条件欲求に変わるのだろうか。

①一つは、意志が既に成就された場合である。偉大な研究成果を残したいという意志を持った研究者が、実際に成果を残せたとする。その場合、その意思はすでにかなえられており、彼が仮に今すぐ死んでも、変わりはない。

②または、意志がまだ実現されてはいないものの、すでに自分が出来ることを全てやり終えることによっても、意志は独立な無条件欲求に変わる。例えば、起業をした人が、自分の会社に未来にわたって繁栄してほしいと意志したとする。そして、彼は自分の役割を完全に終え、後継者へ意志や引き継がれたとする。この場合もやはり、彼がいつ死んでも、彼の意志の実現には影響がない。

③また、意志は既に挫かれた場合も、独立になる。理由は①と同様である。

④最後に、意志を実現する能力が自分に無くなってしまった場合である。例えば、意志が成就しそうもないと絶望する場合、自分は実際に無力になってしまう。もしくは、老衰で能力が衰えてしまった場合もそうである。

 

Steven Luperは「ネオ・エピキュリアン」という生き方として、以下を提案している。

・人生の早い段階では、極力自分のライフスパンに収まるような、計画的な意志を抱き、熱意をもって生きる。

・人生を送るにしたがって、意志を①や②の方法によって、独立な無条件欲求に変える。

・人生の最後には、挫かれる意志がなく、心残りなく安心して死を迎えられる。

 

 意志を持って生きたいのならば、彼の提案は魅力的である。医療に恵まれた現代では、我々は死のタイミングをある程度選べるため、未実現の意志が残ったまま死ぬリスクもほとんどないだろう。

 ただ、彼の提案は言われるまでもない、と多くの人は感じるのではないだろうか。我々は、自分の生きているうちに何とかなる意志は、①極力実現しようとするし、何とかならない意志も、②出来る限りのことをするだろう。

 もし仮にそれが出来ない場合は、③意志が挫かれるか、④自分が老衰で無力になるのである。(ただ、これらは死と同じく意志の挫折である。)

だから、大半の意志(※)は独立欲求に自動的に変わるのである。

※一つ例外がある。生きたいという意志は無条件だし、自分が生き続けるかに完全に依存するから、決して独立にはならない。十分に生きた老人にとっても死が悪いと考えられているのは、純粋に生き続けられないためなのだろう。

 結局、彼の提案で重要なのは、欲求をライプスパンに収まるようなもの、つまり③や④で挫折したり絶望することなく、①や②で独立欲求に変えられるものに制限するということである。それには、例えば、自分に何が出来るかを常に考え、出来ないことは理性的に諦めることが必要なのだろう。

 

4.意志に対する道徳的配慮

 道徳は、他者の欲求を尊重するものであるというのが私の立場である。私は特に、過去に存在した他者の欲求も、過去に遡れば遡るほど程度は弱くなるが、尊重すべきだと考える。例えば我々は、死人の遺言や、認知症患者の認知症になる前の意向を尊重する。それは、現在は存在しないが過去に存在した人の欲求を尊重するからである。

 過去に存在した人の欲求にも、(生存)条件付欲求と無条件欲求がある。うち条件付欲求に対しては、現在や未来において、過去の人や、過去の人の欲求は存在しない以上、配慮する必要がない。配慮すべきは、過去の人の意志に対してである。

 過去の人の意志に対する尊重は、誰も幸せにせず、一見不合理に思える。なぜわざわざ現在の人の幸福を犠牲にしてまで、過去の人の意志を尊重すべきなのだろうか。一つ利己的な理由を挙げるとすれば、過去の人の意志を現在の我々が尊重すれば、現在の我々の意志を未来の人々に尊重してもらえる見込みも高くなり、我々自身が、自分たちの意志がないがしろにされるのではないかと不安に思わなくて済むからである。

 また、過去の人の意志に対する尊重は、確かにその人を幸福にはしないが、広義の意味でその人の利益になるとは言えないだろうか。例えば、ある親が子供の幸せをひどく願い、子供を残して死んだとする。そのあとで、子供が幸せになることは、親の人生を全く変えないから、親にとって直接的な利益になるとは言えないにしろ、親の願望が成就したのだから、親が報われた、もしくは親の人生が有意味になったとは言いたくはなる。

 

5.最後に

 意志がなく、条件付欲求だけでも幸福に生きることはできる。しかし、意志は、人生に本質的な生きがい、生きる理由、生きる意味である。道徳が、本人の死後も意志を尊重するのは、その証拠である。

 意志を持つことが、私自身にとって良いことか、わからない。意志をもつことで、意志の実現という善を得る可能性もあれば、意志の挫折という悪を被る可能性もある。また、意志を持つ限りは、早期の死を恐れなければいけない。

 ただ、意志の実現に関して、もし出来る限りのことをしたならば、もはやそれは独立な無条件欲求に変わり、死そのものでは挫かれない。重要なのは、挫かれたり、絶望したりする無謀な意志を持たないことである。私は、この範囲内であれば、自分の意志を大切にしたいと思う。

幸福と道徳における人生観の違い

1.幸福と道徳の根本的な違い

 幸福と道徳は、我々が追求する別のものである。確かに、これらはほとんどの場合は一致している。大抵は、打算であっても道徳的に行為することは、自分の幸福にとっても一番良い。それに、本心から道徳的に行為すると、道徳的な満足という幸福感が得られる。また、自身の幸福も道徳が尊重する利害の一部である。このように、幸福と道徳は、互いを入れ子構造のように含みあっている。

 しかし、私は、両者には次に述べる決定的な違いがあると思う。それは、幸福と道徳が前提とする人間観が全く違うからである。

 幸福という概念は、徹頭徹尾、主観的、独我論的、自己完結的である。幸福は、私だけのものであり、私だけが評価できるものであり、私から見たものである。そこに他者の視点は存在しない、他者から見てどうだろうが、本人から見て幸福ならば幸福なのである。幸福の主体は、「人間」というより、孤立した「人」である。

 対して、道徳という概念は、客観的、社会的、人間的である。道徳においては、人は行為を通じて他者とかかわりあう「人間」として尊重される。したがって、その善は他者から見ても、客観的に良いものでなければならない。

このような人間観の違いに応じて、内容も以下のように変わる。

 幸福といった場合、自分の視点から見て幸福かが重要である。たとえ無知に基づく偽りの幸福や、洗脳により刷り込まれた幸福であっても、幸福であることには違いがない。すなわち、幸福とは、主観的に良い経験をすることである

 対して、道徳は、他者の視点からみても本人にとって良いことをせよ、と命じる。道徳は本人にとって客観的に良い世界を実現してあげることなのだ

 これらの違いを踏まえ、私は幸福についての快楽主義、道徳については欲求充足説を取る

 ここでいう快楽主義とは、単に狭義の感覚的快楽のみではなく、欲求の充足や人生に対する満足感まで幅広く含む、良い経験(広義の快楽)こそが幸福を構成するという立場である。この立場によれば、例えば、他人に裏切られていても、本人が気づいていなければ幸福に変わりがない。

 対して、欲求充足説は、我々の望むことが(そう信じられるかとは無関係に)本当に世界において実現されることが善で、実現されないことが悪とする立場である。他人に裏切られたくないという欲求を持っていれば、本人が気づくかとは関係なく、他人に裏切られることは悪なのでる。

 

2.幸福と道徳の具体的な違い

快楽主義と欲求充足説の違いゆえに、私は幸福と道徳的尊重には具体的には次の違いがあると思う。

 

2-1.経験機械

 もしも、映画マトリックスのように、我々の人生が、すべて水槽の中で脳に送られた電気信号だったらどうだろうか。一部の人々は、このような事態に嫌悪感を示す。

 しかし、彼に我々の人生がこのような経験機械に繋がれた人生であろうと、我々の経験に違いはない以上、我々の幸福には変わりはない

 では、他人を経験機械につないで、偽りの幸福を夢みさせることは道徳的に悪いことだろうか。それはやはり不正に思える。彼は現実の世界で実際に何かを成し遂げたいのであり、単に経験機械のなかで何かを成し遂げた気分に浸りたいわけではない、前者の欲求を挫くから、彼を経験機械につなぐことは不正である

 

 

2-2.幸福な事故

次に挙げたいのは、前の記事でも挙げた、トマスネーゲルの思考実験である。

 ある人が哲学や芸術などの知的な活動を楽しんでいたとする。しかし、彼は突然交通事故で脳障害を負い、知能が幼児の水準まで退行してしまった。にもかかわらず、幼児として可愛がられ、事故にあうまで以上の幸福感が得られたとする。

 この場合、明らかに、彼は事故に遭うことで不幸になるどころか、幸福になっている。知的、芸術的な観照以上に、可愛がられることが良い経験なのであれば、幸福は経験の良さで決まったのだから、彼の幸福は増加するのである。

だからといって、運転手が彼をこのような目に合わせることは、決して道徳的に善いことではない。むしろ、彼を幸福にしてもなお、運転手は事故の責任を厳しく問われるだろう。

これについては、以下のように説明がつく。

 事故に遭う前の私は、事故に遭うであろう時点のあとも、哲学や芸術を楽しみたいと考えていたであろう。それも、その時に哲学や芸術をしたいと欲求する場合に限り、したいと考えていたのではなく、その時に自分がどう思うおうと、哲学や芸術をしたいと考えていたであろう。しかしながら、事故は、事故に遭う前の私のこの欲求を挫く、おそらくは、事故にあった後の私の、可愛がられたいという欲求を満たす以上に。それゆえに、事故に遭わせることは過去から未来にわたる彼の欲求を全体的に挫くゆえに、道徳的に悪いことなのである。

 

 

2-3.死の不幸と殺しの悪について

私は下の記事で死は不幸ではない(死ぬ本人にとって悪くない)と主張した。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか - 思考の断片

 まず、死は生の剥奪だと言われるが、主体が死ぬ以上、死以降の私は存在しない。存在しない主体の利害に価値はない。よって、死以降の剥奪された生に価値はない。したがって、死は(良き)生の剥奪として悪くない。

※対して、死んだ後の生の苦痛にも価値はあると考える。したがって、死は(悪しき)生の回避として良いことはある。

 また、死は生の消滅だと言われる。確かに我々は生き続けられないことで挫かれるような利害、欲求を持つ。しかし、我々は生の消滅で欲求が挫かれる苦しみを経験することはないから、死は生の消滅としても悪くない。

 

対して、私は人や動物を殺すことは、たいていの場合道徳的な悪であると考える。

 確かに、殺された以降の私が抱く欲求の充足に価値はないかもしれない。だから、殺しは生の剥奪としては道徳的に悪くはない。つまり、殺しは生きられたであろう私に対する道徳的悪ではないのである。

 

 しかし、殺しは、殺される前の私の、将来も生きたい、(将来生き続けることによって)何かを得たい/したい、という欲求をも挫く。(赤ん坊ですら、快楽を得たい、母親に愛されたいという、死で挫かれる欲求を持つ。)つまり、死は、これまで生きてきた私の、将来生きたい、生きることでなにかをしたいという意志を挫くがゆえに、道徳的に悪いのである。

 

私の立場は、殺人の悪に対する次の直観をよく説明すると思う。

 三人がほぼ同じ幸福な人生を生きた/生きるであろう場合、1.生まれて間もない赤ん坊を殺すことと、2.20代の青年を殺すことと、3.70代の老人を殺すこと、どれが一番道徳的に悪いだろうか。私は、2>1>3の順であると思う。多くの人も同意するであろう。

しかし、もし殺しが剥奪として悪いならば、1>2>3の順に悪い。

 対して、私の立場を取れば、赤ん坊は生きたい(それにより何かをしたい)という意志が青年より希薄である、それゆえに2>1の順で道徳的に悪いのである。

 では、2>3の順で悪いのはなぜだろうか。それは、老人はすでに将来生きたいという意志をたいして持ってはおらず、若かりし頃の生きたいという意志も、ほとんどが実現済のものだからである。

 

3.伝記的生と、映像的生

 以上の三つの例で、幸福と道徳が目指すところ、つまり快楽(いい経験をすること)と欲求の充足の以下の二点の違いが明らかになったと思う。

 まずは、最初に述べたように、欲求の充足とは、たんなる主観的な自己満足にはとどまらない、意志の真の成就である。道徳は、我々を意志する主体として尊重するのである。対して、幸福は、我々を意志の主体というよりは、どちらかというと経験を享受する存在としてみなす。

 また、欲求は時間を超える。我々は、現在だけではなく、将来の我々が生きるか、何をなしとげるか、何を欲求するかについて強い関心を持つ、時間的に絡み合った自己である。我々は、現在を通じて過去も未来も生きる、歴史的な存在として尊重されるのである。

 対して、快楽は常に現在の私の快楽である。確かに過去の記憶や未来の期待による快楽も存在するが、快楽を引き起こすのはあくまで現在の記憶や期待であって、過去や未来が実際にどうあろうと、現在の快楽に変わりはないのである。幸福が評価するのは、時間的にも自己完結した、刹那的な生である。

 要するに、道徳が尊重する生は、様々なことを意志し、努力してきた歴史としての生、つまり我々の伝記的生である。これに対して、幸福が評価する生は、あくまで、どこか受け身で、多数の今に切り離せる、映画のコマのような、映像的生なのである。

 多くの人々にとって、どちらが魅力的な人生観かは、一目瞭然だと思う。私も、一つの伝記を紡ぐつもりで生きたほうが良いと思うし、他者をそういう存在として尊重したい。しかし、いくらそのように生きているつもりでも、結局私が獲得でき、最終的にものをいうのは、映像的生以上のなにものでもないということに、自覚的でありたい。