幸福とはなにか

以下は、私が幸福の哲学入門についてツイキャスを配信した際の原稿である。

ツイキャスを見逃してしまった人、ペースが速すぎて理解が追い付かなかった人には、プレゼンテーション資料と一緒に見つつ、じっくり読んでほしい。

幸福の哲学に対して興味を持つ人が一人でも増えれば、私も幸福である。

 

プレゼンテーション資料

https://1drv.ms/p/s!AsbCcnIgz_qDlGwuCukNnsfFh2Sb

ツイキャス実況パート1

幸福の哲学入門1 - 散歩家 (@Silent_Theoria) - TwitCasting

ツイキャス実況パート2

幸福の哲学入門2 - 散歩家 (@Silent_Theoria) - TwitCasting

 

目次

イントロダクション

1.幸福(Well-being)の哲学とは

2.「幸福とは何か」という問いはなぜ重要か

3.幸福の諸理論

快楽主義

4.快楽主義(快楽とは)

5.快楽主義(長所)

6.快楽主義(反論)

7.快楽主義(反論に対する回答)

8.快楽主義(まとめ)

欲求実現説

9.欲求実現説

10.欲求実現説(長所と反論1)

11.欲求実現説(反論2)

12.欲求実現説(修正)

13.欲求実現説(まとめ)

客観主義、複合理論

14.客観的リスト説

15.客観的リスト説(長所と反論)

16.卓越主義(本性を構成する能力)

17.卓越主義(長所と反論)

18.客観主義(まとめ)

19.複合理論

幸福の哲学について

20.幸福の理論を選ぶ基準は何か(私見)

21.幸福の理論を選ぶ基準でないもの(私見)

22.幸福に関する他の問題

参考文献や自己紹介

23、24.参考文献および入門書

25.私について

想定問答集

 

1.幸福(Well-being)の哲学とは

ある人の幸福とは、その人にとっての人生の価値のことである。幸福の類義語としては、ほかに福利や厚生という言葉があげられる。

逆に、幸福ではないものと区別することで、幸福の概念を明らかにしよう。

 

1-1.幸福(価値)と幸福感(心理)の区別

まず、幸福とはたんなる幸福感のことではない。親が自分の子供に幸福になってほしいというとき、幸福感を感じてほしいといっているわけではなく、良い人生を生きてほしいのである。幸福感は単なる心理状態であるのに対して、幸福は価値なのだ。

 

1-2.幸福と、ほかの価値の区別

価値と言っても、幸福以外にも、道徳的価値、美的価値、人生の意味などいろいろある。

幸福と道徳的価値は別物である。例えばマザーテレサの人生は、道徳的に崇高なものかもしれないが、本人は不幸だったかもしれない。逆に、チンギス・ハーンは、子供をたくさん設け、野望を成し遂げた幸福な人生を送ったに違いないが、大量に虐殺を行って、到底道徳的に善い人生とは言えない。

幸福と美的価値も別物である。悲劇ハムレットの主人公の復讐に燃えた人生は、芝居の題材になるほど美しいかもしれないが、本人にとって不幸であることには間違いない。

最後に、幸福と人生の意味も別物である。偉大な作品を残したが、生前は評価されなかった芸術家がいたとしよう。彼の人生には、傑作を作りあげるという大きな意味があったに違いないが、やはり本人は不幸である。

 

1-3.内在的価値と、手段的価値の区別

お金はあくまで、ほかのものを買うための手段としてのみ価値があり、それ自体に価値はない。対して、快楽はなにかの手段として価値があるわけではなく、それ自体価値があるものである。前者を手段的価値、後者を内在的価値として区別しよう。今回は、幸福を得るための手段としての価値ではなく、幸福の構成要素としての内在的な価値を問題としよう。

 

1-4.幸福の主体の範囲

幸福の主体としては、皆はふつう人間や動物を考える。しかし、一部の考え方によれば、植物も幸福を持ちうる。では、動物とは異質な経験をもつ高度なAIの場合どうだろうか、など、疑問は深まる。

 

1-5.人生論や自己啓発との相違点

幸福の哲学は、whatやwhy、つまり何が、なぜ幸福の本質なのかを問題とする。この点で、幸福のhow、つまりどうすれば幸福に生きられるかを問題とする人生論や自己啓発とは全く違う営みである。

 

2.「幸福とは何か」という問いはなぜ重要か

自分の幸福が一番大事だという人にとっては、最重要な価値として、幸福はそれ自体本質を問うに値する概念だろう。

道徳が幸福よりも大事だと考える人もいるだろう。それでも、幸福が道徳の重要な考慮事項であることには間違いがない。功利主義をはじめとする厚生主義をとるならば、自他の幸福だけで、道徳的な望ましさが決まる。厚生主義をとらず、義務、権利や徳などの、幸福以外の要素も道徳的に大事だと考える人でさえも、幸福の重要性は無視できないだろう。道徳主義者にとっても、幸福は道徳の実質的内容として、本質を問うに値する。

最後に、幸福は政治にとっても無視できない概念である。GNH(国民総幸福)を目標の一つとして掲げたブータンのような国もある。

 

3.幸福の諸理論

快楽主義は、快楽が良くて苦痛が悪いという立場である。

欲求実現説は、欲求が満たされることが良くて、満たされないことが悪いという立場である。

いずれも、主観的な態度や感じ方で幸福がきまるという立場である。

対して客観主義は、例えば、本人が主観的に望んでいるかに関係なく、愛や友情などの特定の項目が常に良いという立場だ。

うち、客観的リスト説は、幸福の構成要素を列挙するだけである。たいして卓越主義は、なぜ各項目が良いのかについて、種としての本性を発揮、発展させられるからだ、という共通の理由を与える。

複合理論は、三つの立場の折衷案である。

 

4.快楽主義(快楽とは)

4-1.感覚的快楽と態度的快楽

快楽というと普通快感を思い浮かべる。美食の味覚、マッサージの触覚、冷暖房の感覚など。これらを感覚的快楽とよぼう。

しかし、他方で、世界が平和であることに対して快く思う平和主義者や、快感を感じていないことを快く思う禁欲主義者もいる。彼らの快楽は特定の信念に対する態度である。これを態度的快楽と呼ぶ。

この区別を提唱し、態度的快楽が本質的で、価値があるとする態度的快楽主義をとるのが現代の哲学者フェルドマンである。

彼によれば、これは古くからある違いだという。古代ギリシャアリスティッポスをはじめとするキュレネ派は感覚的快楽に価値をおいていたのに対し、エピクロスは、苦痛がないという事態に対する態度的快楽(静的快楽)に価値を置いていた。

態度的快楽観には例えば、信念を抱く能力のない一部の動物が態度的快楽をいだけるのかという批判がある。それでも、態度的快楽主義は、考慮に値する面白い理論だと思う。

 

4-2.快楽の内在主義と外在主義

さて、感覚も態度は別物だが、経験の一要素であるという点では同じだ。以後は快い経験を快楽と呼びたい。

快楽といっても、美味、入浴、冷暖房、芸術鑑賞、世界平和に満足する経験など、いろいろなものがある。これら異質な快楽に共通の本質が内在しているとは、直観的には思えない。これが快楽の異質性問題である。

この直観にも関わらず、共通の本質があるのだと主張するのが、快楽に関する内在主義である。快楽の感覚そのものが存在するという立場や、快楽は、色覚の色や聴覚の音量のような、経験のトーンだとする立場がある。

対して、快い経験が共通しているのは、欲求されるという点に過ぎないと主張するのが、快楽に関する外在主義である。

外在主義は、エウテュプロンの問題に直面する。エウテュプロンとは、プラトンの対話篇の登場人物で、神に愛されるからこそ敬虔なのか、敬虔だからこそ神に愛されるか、どちらが先かについて、ソクラテスと論争をした。

今回は、神の愛と敬虔ではなく、欲求と快楽の前後関係が問題である。外在主義によれば、例えば林檎を味わう経験が快いから林檎を味わいたいのではなく、林檎を味わいたいから林檎を味わう経験が快いというのである。これは再び直観に合わない。例えば珍しいから痛みを感じてみたいという変な欲求を持っている場合も、その痛みは快楽なのだろうか。

 

ここでは、以上3つの快楽観の決着をつけることはしない。

ただ、快楽主義にも、態度的快楽主義、内在主義をとる快楽主義、外在主義をとる快楽主義の3つのバージョンがあることは留意してほしい。

 

 

5.快楽主義(長所)

5-1.快楽主義の定式化

快楽主義とは、快楽のみが良いという立場である。

ただし、重要なのは、同時に快楽が良いのは快いからだと主張する点である。

これは同語反復じゃないかという人もいるだろうが、ちゃんとした内容がある。

例えば、皆が快楽と苦痛の欠如しか欲求しないとする。そして、快楽や苦痛の欠如は欲求されるから良いとしよう。その場合でも、快楽のみがよく、苦痛のみが悪い。しかし、この立場は快楽主義ではなく、次に述べる欲求実現説である。

快楽主義は、快楽であることが、良いことの本質であると主張するのである。

さいごに、良さの度合いについては、ここでは快楽の量、つまり強度×時間で決まると定式化しよう。例外はあるが、その時に述べる。

 

5-2.快楽主義の長所

快楽主義の長所は、一見した直観的な説得力があることだ。

まず、快楽主義の最大の魅力は、経験要請を満たすことである。それは、私が見たり感じたり、考えたりする経験に一切無関係な出来事は、私の幸福には影響しようがないという直観である。よく考えてみればこの直観は間違っているかもしれないが、一見した説得力があるのは確かだ。

根拠がないわけではない。例えば、人生は生まれてから死ぬまでの経験の系列としよう。その場合、人生に無関係な出来事は本人の幸福に影響しないから、経験に無関係な出来事は幸福に影響しないと理由づけられる。ただし、この独我論的な人生観を共有している人でなければ受け入れられないだろう。

経験要請に対する反論としては、たとえ知らなくても望みがかなうことは幸福ではないか、というものがあげられる。例えば、ある画家が自分の作品に展示されてほしいと強く願っていたとする。そして、画家の作品が描いた翌年に展示されるが、死むまで知らなかったとする。例えば、たくさんの人の手をわたるうちに、作者不明になったとしよう。この場合も画家にとっては幸せだという人がいるだろう。

しかし、展示されたのが死後だったらどうだろうか。もはや、それは画家にとって幸せではないだろう。でも、死後の場合に幸せでなければ、なぜ生前の場合は幸せなのか、説明がつかない。たまたま展示されたときに生きていたからか?そうとは思えない。

 

次に、余計なものを欲求する大人と違って、躾を受けたり、自己欺瞞に陥っていない子供は、快楽を第一に追求する。これこそ、快楽にこそ、直接的で確実な価値があるという何よりの証拠ではないのか。

最後に、感覚を有する幅広い動物に当てはまるという利点がある。ただし、経験の質が生物とは異質なAIの場合はどうなのか、という問題はありそうだ。

 

6.快楽主義(反論)

6-1.低級快楽の問題

まずは、同じ強度の快楽をもたらすことにも、価値の違いがあるのではないかという反論がある。満足した愚者よりも不満足なソクラテス、という言葉に象徴的だが、別の例を挙げる。

バッハを聴く快楽と、スナックを食べる快楽の強度が仮に同じだったとしても、バッハを聴くほうがスナックを食べるよりも価値があるという直観を皆は持っているだろう。しかし、先ほどの快楽主義によれば、両者で得られる快楽の価値は同じだから、快楽主義は間違っていることになる。

もしかしたら、バッハを聴く快楽が、スナックを食べる快楽よりも価値があるのかもしれないし、あるいはバッハを聴く経験そのものに、快楽とは別の美的な価値があるのかもしれない。

 

6-2.経験機械の問題

低級快楽の反論は、経験の価値は、快楽の強度だけでは決まらないのではないかと主張していた。たいして、経験機械の反論は、そもそも経験以外にも、重要な価値があるのではないかと主張する。

①Aさんは、願い通り、愛と友情に恵まれ、仕事で偉業を成し遂げる一生を送ったとする。

②対して双子のBさんは、脳に電気信号を送る機械に生まれた時からつながれ、Aさんと知覚や思考に至るまで、まったく同じ経験をして、一生を送ったとする。

我々は、Aさんよりも、Bさんの人生の価値が低いという直観を持っているだろう。しかし、Aさんと、Bさんの人生の経験も、快楽も全く同じなのだから、快楽主義によればAさんと、Bさんの人生の価値は同じである。したがって、快楽主義は間違っていることになる。

もしかしたら、Bさんが経験機械で得られる偽りの快楽の価値は低いのかもしれない。あるいは、Aさんしか得られない、願望の成就、真の愛、友情や達成に、快楽とは独立して価値があるのかもしれない。

 

6-3.欲求満足説への還元

快楽について、態度的快楽観もしくは外在主義を取る場合、快楽主義は欲求満足説に還元される懸念がある。

世界が平和であることに対して快く思うことは、世界に平和であってほしいという欲求が満足することとどう違うのだろうか。Chris Heathwoodは、態度的快楽主義は、(共時的)欲求満足説に外ならないと主張している。

また、外在主義が正しいとした場合、快楽とは欲求される経験にほかならなかった。では快楽はなぜ良いのだろうか。快いから、というのは即ち欲求されるからであり、これは快楽主義ではなく欲求満足説の主張そのものになってしまう。

 

6-4.客観主義

快楽について、残りの内在主義を取る場合も問題がある。

内在主義によれば、禁欲主義者が快楽を忌避する場合も、それが快楽であることに変わりがない。その場合、禁欲主義者は快楽を忌み嫌っているにも関わらず、快楽主義によれば彼にとって快楽は良いものになってしまう。これは、禁欲主義者の価値観を無視した、おしつけではないだろうか。

 

7.快楽主義(反論に対する回答)

ここでは、低級快楽と経験機械の問題に対して回答を行う。

 

7-1.直観が正しいと認め、理論を修正する

J・S・ミルは、快楽の価値を決定する要素に、量だけではなく質があると主張した。バッハの快楽と、スナックを食べる快楽の量が同じなのに、前者のほうにより価値があるのは、前者の方が後者より質的に高級だからだというのである。しかし、質というのは何だろうか。それが快さを決める一要素なら、結局量に還元される。快さとは関係がないのなら、それはもはや快楽以外の何かではないだろうか。ミルの立場に対しては、快楽以外の価値を導入して、快楽主義の体をなしていないのではないかという批判がある。

フェルドマンも態度的快楽主義を修正した。粗食など、快楽を抱くのにそこまでふさわしくない事態に対して抱く快楽や、経験機械の中で得られるような、実際には正しくない事態に対して抱く快楽は、小さい価値しか持たないというのである。彼の修正された立場も、相応しさや、快い事態の真偽など、快楽以外の価値を持ち込んでいるという指摘が付き物である。

 

以上の修正は、快楽の価値が、快楽の強度以外に左右されることを認めるものである。しかし、たとえ快楽をともなわなくとも、美と触れ合う経験や、経験を超えた人間関係に価値があるという直観もあるように思える。この直観は修正版の快楽主義でも説明できない。

 

7-2.直観を否定し、間違った直観を持つ理由を説明する

二つ目は、反論が前提とする直観が間違っていると主張したうえで、誤った直観を持つ原因を説明するという回答が考えられる。

 

低級快楽の問題について回答しよう。

例えば、スナックを食べると、健康に悪く、長期的には快楽が損なわれる。バッハを聴けば、審美眼が養われ、長期的には快楽が増進される。スナックの食事よりもバッハの音楽鑑賞に手段的価値があり、これを快楽の内在的価値と混同しているのではないか、という回答ができる。

 

経験機械の問題についてはどうだろうか。

まず、幸福とは無関係な水槽の中の脳に対する生理的嫌悪感が影響しているかもしれない。水槽の中の脳ではなく、高度なコンピュータシミュレーションにより全く同じ意識が生み出されていたら、嫌悪感が和らぐかもしれない。

また、我々の価値に関する直観は、進化論的な適応の影響を受けている。しかし、進化は、幸福の増進よりも、DNAの保存に有利な方向に進む。たとえ、幸福をもたらさない場合でも、パートナーや友達に裏切られず、そして獲物を捕らえることが重要だと信じることは、遺伝子を残すのに有利だっただろう。

したがって、我々は、進化の結果、経験機械の中の人生が劣っているという誤った直観を持っているのである。

 

私が最も説得的だと思うのは、快楽主義のパラドックスによる擁護である。

快楽主義のパラドックスとは、快楽だけを追求するとかえって快楽が得られないという事象のことをいう。一見、快楽主義の問題点にも見えるこのパラドックスが快楽主義を救う。

本当は、快楽の強度が同じなら、バッハの音楽鑑賞とスナックの食事の価値が同じでも、バッハにはスナックにない美的価値があると誤って信じたほうが、芸術を熱心に追求するようになり、結果的に多くの快楽が得られるようになる。

本当は、もたらす快楽が同じなら、本物と偽物で、愛、友情や達成の価値に差はなくても、真正の愛、友情や達成には、偽物よりも価値があると誤って信じたほうが、実際にゆたかな人間関係に恵まれ、高い確率で成功を成し遂げることができるようになり、結果的に多くの快楽を得られるようになる。

つまり、低級な快楽よりも高級な快楽に価値を見出し、経験機械の人生よりも現実の人生に価値を見出す誤った直観を持ったほうが、幸福になれるのであり、持つべきなのである。

では、なぜ現にそういう直観を我々は持っているのだろうか。

例えば、快楽主義の真理に目覚める人がいても、パラドックスを知っていて、幸福になりたければ、誤った直観を自覚的に持つだろうし、子供をそのようにしつけるだろう。

また、パラドックスを知らなくても、快楽主義を実践に移す人は快楽が得られず、不幸になる。彼は自分が何か間違っていると思い、快楽以外のものに価値を見出す非快楽主義者の倫理観から学ぼうとするだろう。

以上の理由で、我々は、快楽主義に反した誤った直観を持っているのである。

 

8.快楽主義(まとめ)

快楽主義の特徴について大雑把にまとめる。

快楽主義のこころは、良し悪しは経験で決まるという点である。

一見すると直観的な説得力があることが快楽主義の魅力であった。知らないことが利益や害になるとは一見思えないし、快苦に価値があることは子供にも明らかである。

しかし、よく吟味してみると、快楽の度合い以外にも幸福を左右する要素や価値があるのではないか、という反論が考えられた。快楽は、価値として狭すぎるのである。

これに対しては、快楽以外のものにも価値があると誤って信じたほうが、結果的に快楽が得られるから、そのように信じるべきで、現にそうしているのだ、という説明が快楽主義からもつけられる。快楽主義は、快楽や経験以外のものに対しても価値があると信じたほうが快楽が得られるという理由で、価値を拡張することができる。

 

9.欲求実現説

いや、それでも経験機械の直観が正しく、快楽主義が間違っていると考える人がいるかもしれない。欲求実現説は経験機械の直観を説明することが出来る。

 

9-1.欲求とは

欲求とは、ある事態(命題)に真になってほしいという態度である。

こう定義すると、再びヴィーガンの人から、信念を抱く知能のない動物の場合はどうなのだと批判されるだろうが、ここでは人間の場合を考える。

 

9-2.欲求の実現、欲求の満足や快楽の区別

さて、友達に愛されたいという欲求を例にとって考えよう。

願い通り、本当に愛されている場合、欲求が実現したという。

対して、本当は嫌われていても、愛されていると信じられる場合は、欲求が満足したという。

欲求の実現と、快楽や欲求の満足の違いが判らない人がいるかもしれないので、強調しておきたい。

愛されていると本人が信じていなくても、事実として愛されてさえいれば、欲求は実現している。このように欲求の実現は、本人の心理状態とは独立して、世界の状態で決まる。

対して、実際には愛されていなくても、本人が愛されていると信じてさえいれば、欲求は満足し、快楽は得られている。このように、欲求の満足や快楽は、世界の状態とは独立して、心理状態あるいは経験だけで決まる。

 

9-3.欲求実現説、欲求満足説の定式化

欲求実現説は、欲求の実現に価値があるという立場である。

欲求満足説は、欲求の満足に価値があるという立場である。こちらは快楽主義に近い。

そして、これらの説は、例えば結果的に快楽がもたらされるからではなく、欲求が満たされるからこそ良いと主張する。

両方とも、価値の度合いは、欲求の強度に比例するとしよう。

 

10.欲求実現説(長所と反論1)

10-1.長所

欲求実現説の長所は多い。

まず、経験機械の反論に回答できる。経験機械につながれた人は、例えば、いると信じている人に愛されたい、実際になにかを成し遂げたいという欲求を持っている。それらの欲求は満足しているかもしれないが、決して実現していない。でも、満足感を得たいという欲求は実現しているから、無価値ではないだろう。

次に、自然主義、つまり科学的な対象しか存在しないという考え方と相性がいい。快楽は、直接観察不可能なクオリアであるのに対して、欲求は物理的な現象として観察可能である。

最後に、欲求実現説は、幸福の主体の主観を尊重する。あなたにとって何に価値があるかが、あなたの主観的な態度次第で決まり、あなたならではというのは、直観的にかなりしっくりくる。

 

10-2.反論(時点の問題)

反論を検討してみよう。

まず、欲求は、抱く時点と、実現する時点にギャップがあるため、欲求の実現は、いつ良いのかという問いが立てられる。

抱いた時点だとするのはおかしい。明日ラーメンを食べたいと今日欲求して、明日食べられたとしても、今日良いわけではない。

では実現した時点か?ある画家が、自分の作品に展示してほしいと欲求したとして、死後展示されたとする。画家にとって、それが良かった時点は、実現した死後だと主張するのもおかしい。

 

11.欲求実現説(反論2)

11-1.反論(幸福にあまり寄与しない欲求)

次に、幸福にあまり寄与しない欲求があるという指摘もある。

  • 私が、電車で仲良くなった見知らぬ乗客に、いつか幸福になるよう願うようになったとしよう。そして、彼はあとで幸福になったが、私が知ることはなかったとする。その場合、私の欲求は実現したが、私は幸せだろうか。そうは思えない。
  • 次に、庭の中の草の数を数えたいなど、くだらない欲求が実現しても本人はさほど幸せではないのではないだろうか
  • 3つ目に、女性差別がひどかったころ、ジェンダーロールにはまりたいという女性の欲求が実現しても、さほど幸せではないだろうか。
  • 4つ目に、ある仕事をしたいと強く欲求していたが、してみるとつまらなかったとしよう。この欲求は実現したが、その人は幸せではないだろう。
  • 5つ目に、昔は医者に強くなりたかったが、今は芸術家にそれなりになりたい人がいるとしよう。その人が今医者になることは、芸術家になるよりも、強い欲求を実現するが、幸せだとは思えない。
  • 最後に、子供を救うために、自分の命を犠牲にしたいと願う親がいるとする。その欲求が実現しても、親は幸福になったというより、自分の幸福を犠牲にしたように思える。

どの欲求の実現も、欲求実現説によれば、欲求の強度に比例した価値があるはずだ。

しかし、実際は、欲求の強度ほどには、実現が幸せに結びついてはいないのではないか。

 

11-2.反論(パラドックス

不幸になりたいという欲求しか持たない人がいるとする。

もし彼の欲求が実現しているならば、彼は不幸である。しかし、欲求実現説によれば、彼は幸福である。

もし彼の欲求が実現していないならば、彼は不幸ではない。しかし、欲求実現説によれば、彼は不幸である。

 

12.欲求実現説(修正)

12-1.共時的欲求実現説

時点の問題に対しては、共時的欲求実現説という修正の方法がある。

欲求と抱くのと同時の実現にのみ価値があるという立場である。快楽主義にちょっと近くなる。

 

幸福に寄与しない欲求の問題については、快楽主義同様、反論が前提とする直観が間違っていると主張することは可能である。しかし、ここではそれは検討しない。

共時的欲求実現説は、この問題についても、いくつか正しい結果が出してくれる。

例えば、この修正を行うと、④死海の林檎や⑤過去の欲求の実現に価値はないことになり、直観に合う。しかし他がダメなままである。

 

12-2.知悉的欲求実現説

他の修正も可能である。知悉的欲求実現説によれば、仮に主体が合理的で、すべての情報を知っていれば持っていたであろう、理想的な欲求の実現が重要だというのである。

これによれば、女性差別に甘んじていたい適応的欲求や、思ったほど良くはない仕事に対する死海の林檎の欲求は、仮に人権や仕事について多くを知っていれば、そもそも持たなかったであろうから、これら現実の欲求の実現は幸福に寄与しない。

しかしこの修正にはほかの問題もある。本人がすべての情報を知っていた場合に抱いた欲求というのは、あまりにも現実からかけはなれ、現実の本人とは関係がなくなってしまうのではないだろうか。

例えば、現実の太郎君はサッカーを観戦したいが、すべてを知った理想的な太郎君はオペラを鑑賞したいとする。そのとき、オペラを鑑賞することが、現実の太郎君にとっていいことだろうか?

知悉的欲求実現説は、欲求実現説の魅力であった主観主義、つまり現実の本人の主観を尊重するという利点を失っているように思われる。

 

12-3.欲求満足説

最後に、欲求実現説を欲求満足説、つまり知ることが重要だという立場に修正すれば、①見知らぬ乗客に対する欲求は、実現されても満足していないから、価値はないということができる。しかし、こういう快楽主義的な修正は、経験機械の反論を呼び込んでしまう。経験機械の中でも欲求は満足するからである。

 

12-4.エウテュプロンの問題

さて、以上のアプローチは、同時の実現のみ、もしくは理想的な欲求のみが重要だと、欲求実現の範囲を制限する修正である。しかし、欲求実現説が言うとおり、欲求が実現するからこそ良いのならば、「なぜ」制限された欲求の実現「だけ」がよく、はじかれた欲求の実現は良くないのか、説明がつかない。

ここで、エウテュプロンの問題が再燃する。欲求実現説は、欲求されるからこそ、欲求の対象となる事態が良いと主張するのだが、実は、欲求はもとから良い事態を後からなぞっているだけではないのかという疑惑が生じる。

 

13.欲求実現説(まとめ)

欲求実現説についてまとめる。

欲求実現説のこころは、良し悪しは世界に関する事実で決まるというものである。

欲求実現説には、本人の好みや主観を尊重しているという利点がある。

他方で幸福に寄与しない欲求も存在するという欠点がある、つまり欲求実現説は価値を広くとりすぎている。

そこで、欲求の範囲に制限を加えることで、価値を狭めることが可能である。しかし、この修正は別の困難も呼び寄せてしまう。

 

快楽主義、欲求実現説に続く三つ目の立場は、客観主義である。

快楽主義や欲求実現説の魅力は、本人が好むものこそが本人にとって良い、と主観を尊重する点であった。仮にモーツァルトとバッハの音楽に同じくらい客観的な芸術的価値があったとしても、私はバッハの音楽に快楽を抱き、好むから、バッハの方が私にとって価値があるのである。

その反面、スナック菓子による低級な快楽や、草の数を数えたいというしょうもない欲求に、不当に高い価値を認めてしまっているという反論が考えられた。

客観主義は、大雑把に言うと、必ずしも本人の主観的な好みだけで幸福のすべてが決まるわけではないのではないか、という発想である。

客観主義は、客観的リスト説と卓越主義に分けられる。

 

14.客観的リスト説

まず取り上げたいのが、客観的リスト説である。

 

14-1.客観的リスト説の定式化

客観的リスト説は、良いものを列挙したリストに含まれる項目、たとえば愛や友情、知識には、常に価値があると主張する立場である。

リストの候補としては、愛、友情、知識、快楽、達成、徳、自由、個性などがあげられ、リストの項目によってさまざまな立場が考えられる。ただ、どの立場にも客観主義という共通の特徴がある。

例えば、孤独な人は愛や友情を望まないかもしれないし、興味のないことの知識や達成も望まないだろう。あと、徳、自由や個性を重視しない人もいる。それらの場合でも、客観的にそういう要素に価値があると主張するのが客観的リスト説である。

 

14-2.快楽主義も客観的リスト説の一つか

最後に、快楽はどうだろうか。快楽についての内在主義を取るならば、禁欲主義者のように快楽を望まない人にとっても、快楽に価値があると主張する点で、快楽主義も客観的リスト説の一種であるといえると考える人もいる。

 

14-3.多元主義

すべてとは限らないが、多くの客観的リスト説は、善のリストには複数の項目があると主張する。これも、快楽主義や欲求実現説とは異なる特徴ではある。

 

次に長所と反論を取り上げたいが、客観的リスト説の妥当性はリストの内容に依存するので、ひとくくりにして論じることは困難である。そこで、快楽、友情、達成、知識、自律の五項目からなるリストを主に想定しつつ、出来るだけ多くの立場に当てはまる議論を紹介したい。

 

15.客観的リスト説(長所と反論)

15-1.長所

客観的リスト説の第一の長所は、常識的な考え方に近いことである。一般の人に幸福とは何かと聞いたら、快楽や欲求実現と答える人は少数で、具体的に、配偶者や子供との愛や、仕事で偉業を達成することなどを挙げる人が多いだろう。しかし、常識が正しいとは限らないし、彼らは幸福の本質をなす内在的価値ではなく、幸福の手段について答えている可能性がある。

第二の長所は、リストの内容によるが、善の範囲が狭すぎず、広すぎでもないことである。まず、客観的リスト説は、経験機械につながれた人生の価値がなぜ低いかを説明できる。それは、真の愛、友情や達成が欠けているからである。

次に、客観的リスト説は、見知らぬ乗客が、私の知らないところで望み通りに幸せになっても、私が幸せではないことを説明する。私自身は、リストのどの項目も得られないからである。また、差別に甘んじていたいという欲求が満たされても、自律という重要な価値が欠けているから、そこまで良いことではないと主張できる。

もし、項目をうまく選べば、そして増やせば、常識や直観に近い理論が出来るのではないか、と期待が出来る。

 

15-2.反論

では反論に移ろう。しばしば客観的リスト説に対してなされる批判は、疎外、つまり本人の主観や好みを十分に考慮に入れられていないという点である。それは、例えばある知識に、本人が好むか好まざるかにかかわらない客観的な価値があると主張するからである。

ただし、例えばもし知識だけではなく、快楽がリストに入っていれば、知識から得られる快楽の差により、本人が好む知識の方に、より価値があるといえるだろう。この批判は、主観的要素も多く含むリストには、あまり当てはまらないようである。

似ているが、本人にとって価値がないものに、価値があると誤って主張してしまうのではないかという批判がある。

例えば、とある人は保険に興味がないが、仕事上仕方がなく、保険制度について、好きでもない知識を身に着けたとする。しかしその人は退職してしまい、その知識は役に立たなくなってしまった。それでもその知識が本人にとって価値がある、と客観的リスト説は主張するだろうが、本当だろうか。

 

15-3.理論的な問題

以上は内容に対する批判だが、客観的リスト説に対しては、理論としての説明力に問題があるとする批判のほうが多い。

一つ目は、客観的リスト説は、「何が」良いかという問いに対して、項目を列挙しているだけで、「なぜ」各項目が良いかを説明しないというものである。愛、友情や達成は全く異質だが、なぜすべてが内在的に良いのか、共通の本質はあるのだろうか、それとも、それぞれ別の理由で良いのだろうか。この問いに、客観的リスト説は答えていない。

これに対しては、なぜ快楽がいいのか、なぜ欲求の実現が良いかということを説明できない点で、快楽主義も欲求実現説も同じであると再反論が出来る。

しかし、多元的な客観的リスト説の場合、複数の項目に対してそれぞれの説明が必要であること、そして本人の主観に関連付ける説明が出来ないことを考えれば、客観的リスト説にとってこの問題は最も深刻である。

 

二つ目は、多元的な客観的リスト説は、一単位の愛、友情や達成が、それぞれ幸福にどの程度寄与するか、説明を与えていないことである。それらは全く異質で、価値の比較のしようがないように思われる。

これに対しても、快楽主義だって異質な快楽や苦痛の価値をどう比較するかという問題を抱えていると再反論できる。しかし快楽や苦痛は同じ経験であるのに対して、多元的な客観的リスト説は、関係、事実、経験など全く異質なもの同士の価値の比較をしなければいけない分、やはり一番困難を抱えているだろう。

 

 

16.卓越主義(本性を構成する能力)

16-1.卓越主義の定式化

客観的リスト説の一つ目の理論的問題、なぜリストの項目が良いかについて、共通の説明を与える立場が、卓越主義である。卓越主義によれば、客観的リストの項目は、種としての本性を構成する能力を発揮できるから、良いのだという。

 

16-2.本性を構成する能力とは

では、本性を構成する能力とはどういう能力のことだろうか。

例えば、卓越主義者達が念頭に置いているのは、人間の場合、とくに、理性的に考え、行動する能力である。

では、どうしてこういう能力が人間の本性なのだろうか。

一つ目の考え方は、理性が人間固有の能力だから、というものである。しかし、もし理性を備えた宇宙人が存在すれば、もはや理性は人間の本性ではなくなってしまい、理性を働かせることが幸福ではなくなってしまう。これはおかしい。

二つ目の考え方は、理性が、生き物として生きていくうえで、人間に本質的な能力だから、というものである。理性無くして、人間は人間として生きていけない。この基準によれば、代謝や運動などの身体的能力、社会的能力も、人間の本性を構成する能力のうちの一つだろう。

対して、鳥の場合は、理性は除外され、空を飛ぶ能力が入るだろう。

問題がないわけではないが、今回はこの考え方を採用したい。

 

 

17.卓越主義(長所と反論)

17-1.長所

卓越主義は、客観的リスト説と同様に、経験機械の問題を回避する。経験機械の中で生きる人は、身体的、社会的能力を行使するかのような経験は出来ていても、実際には行使する活動が出来ていないからだ。

卓越主義の次の魅力は、生物種による幸福の多様性が説明できることだ。快楽主義は、鳥だろうと、人間だろうと、快楽が共通の善であると主張する。しかし、ある動物の幸福は、その動物の本性に依存すると考えるほうが自然ではないだろうか。卓越主義は、なぜ哲学をすることが、人間ならではの幸福であるかを説明できる。

 

17-2.反論

卓越主義には、難点も多い。

まず、卓越主義によれば、私の幸福は、人間一般としての本性に依存するというが、私個人の本性、つまり個性はどうなるのだろうかという問題もある。客観的リスト説同様、個の主観を十分に考慮できていないという懸念がある。

また、幸福は能力の行使及び発展だが、不幸はどう定義できるだろうか?しいて言えば、能力が減退することが不幸だといえるだろう。

次に、快楽の良さはどう説明できるだろうか?確かに身体的快楽を生み出す感覚は、受動的ではあるが、生物として生きていくのに必要な能力であると説明できなくもない。しかし、感覚を通じて、我々は苦痛も感じる。苦痛を感じることこそ、生存するためには必須の能力である。そうすると、苦痛を感じることが良いことになってしまう!

この結論を避けるために、卓越主義者は、苦痛は、他の能力を減退させるなどの説明が出来るかもしれないが、説得力がない。

 

最後に、能力の基準そのものの問題がある。理性的能力を欠いた知的障碍者でも、ちゃんと生きることは出来る。理性は人間の本性を構成する能力なのだろうか。また、生きていくうえで嘘はしばしばつかなければいけない。嘘をつく能力を発揮することは、幸福なのだろうか。

これに対しては、卓越主義者達は、人間本性に理性を含めて、嘘をつく能力を除外したがるだろうが、どういう理由があるだろうか。

結局、理性の行使が利己的、道徳的に善く、嘘をつくことが道徳的に悪いからではないだろうか。

ここで、またエウテュプロンの問題が生じる。人間本性の一部だから、ある能力が幸福に寄与するのではなく、幸福や道徳的価値に寄与するからこそ、ある能力は人間本性の一部だと呼ばれるのではないかと。

 

18.客観主義(まとめ)

さて、客観主義についておおまかなまとめを行う。

客観的リスト説は、項目をうまく選べば、経験機械や、幸福にあまり寄与しない欲求の問題を回避し、常識や直観と合致した結果をもたらす理論が作れそうである。

しかし、リストの各々の項目がなぜ良いか、異質な項目の良さをどう比較するかという理論的な問題を抱えている。

 

リストの項目が良い共通の理由として、人間本性を持ち出すのが卓越主義である。

卓越主義のこころは、活動を通じて能力を発揮することが良い、というものである。

人間は人間の本性、鳥は鳥の本性によって、人間や鳥ならではの幸福を説明できる点が長所である。

しかし、苦痛が悪いことの説明が難しいうえに、人間本性が価値を決定するのではなく、その逆ではないかという疑念がある。

 

最後に、客観主義共通の問題として、個や主観の違いが軽視されているのではないかという懸念がある。

 

19.複合理論

最後に紹介したいのが、折衷案としての複合理論である。

足し算と掛け算の考え方がある。快楽主義と欲求実現説を例にとって説明しよう。

足し算としては、快楽と、欲求の実現が両方良いという多元主義の考え方がある。この説によれば、快いということと、欲求が満たされるということは、両方とも、良い理由になるのである。

掛け算としては、快楽のともなう欲求の実現のみが良いというハイブリッド説の考え方がある。この説によれば、ある物事が良いためには、快楽をともなうことだけではなく、欲求を実現するという両方の性質が必要である。

掛け算に似ているが、主観的要素と客観的要素を結合した理論もある。客観的に価値がある対象に対する主観的な快楽や欲求の実現こそが、幸福であるという立場である。

フェルドマンの提案した修正版態度的快楽主義、つまり、正しく、快楽を抱くに相応しい事態に対する快楽に、とくに価値があるという立場は、この一種である。

複合理論にはたくさんの組み合わせ方があり、その妥当性は個別に検討してみないとわからない。

 

20.幸福の理論の妥当性の基準は何か(私見

さて、これまで、幸福に関する理論をたくさん紹介してきた。どれを採用すべきか迷う人もいるだろう。そこで、私見ではあるが、妥当な幸福の理論が満たすべき基準について考えを述べたい。

 

20-1.直観の説明力

まず、幸福の理論はなによりも正しくないといけない。科学理論は、理論と事実と突き合わせることで正しさを検証するが、幸福の場合、幸福に関する事実を直接観測することが出来ない。そこで、参考にすべきが我々の持つ直観である。思考実験を通じて、直観と理論が一致するか確かめるべきである。

ただし、直観の全てが正しいとは限らない。例えば、道徳の場合もトロッコ問題に関する我々の道徳的直観を直ちに信頼すべきとは限らないと功利主義者はいうだろう。我々の価値に関する直観は誤りうるからだ。

だから私は、理論と直観との一致はかならずしも必要ではないと考える。ただし、直観が誤っていると言い張る場合は、なぜその誤った直観を実際に我々が持っているか、そして持つべきかについて理論は説明しないといけないのである。

功利主義者は、トロッコ問題についてこの説明をしている。行為ベースではトロッコ問題で一人を五人を救うための手段として扱うべきでないという直観は誤っているとしたうえで、そうした直観を持っている方が、功利性がより実現できるとして合理化している。

私は、快楽主義者として経験機械についても同様の合理化を行った。

とはいえ、直観との一致や説明力においては、やはり客観的リスト説が有利ではないかと私は考える。

 

20-2.理論的な説明力

次に、幸福の理論に必要なのは、何に価値があるかに加えて、それがなぜ、そしてどの程度幸福に寄与するか、という説明である。客観的リスト説はこの点では課題が多い。また、卓越主義や制限された欲求実現説も、なぜという問題に適切に答えているか、疑わしい。この点では私は快楽主義に軍配を上げたい。

 

20-3.計測可能性

三つ目に幸福の理論に望ましいのは、計測可能性である。ある人がどれだけ幸せか、外的に観察できれば、道徳や政治において幸福を評価するうえで有用である。この点では、(理想化されていない)欲求実現説が優れているだろう。

ツイキャスで指摘があったように、この基準は理論の妥当性とは関係がないかもしれない。道徳や政治に応用する場合、満たしていたら都合がいいくらいのものである。)

 

20-4.美しさ

最後に、シンプルできれいというのも、理論に無くてはいけない美点である。この点でも、私は快楽主義を支持したい。

 

21.幸福の理論の妥当性の基準でないもの(私見

次に、幸福の理論を選ぶ際に、意識的に除外すべきだと私が考える基準がある。それは、幸福の理論を正しいと信じることで、我々がどれだけ幸せになれるか、というプラグマティックな基準である。

 

この基準を参考に幸福の理論を選ぶ人は、二つの問いを混同していると思う。

一つは、幸福の本質は何か、事実として何に、なぜ価値があるかという問いである。これこそが幸福の哲学が解明すべき問いである。

二つ目は、何を「幸福」だと信じれば、幸福に生きられるかという問題である。この問いも極めて重要だが、人生論や自己啓発が解明すべき問いであろう。

一つ目の真の幸福は、二つ目の信じるべき幸福とは違う。快楽と同様、幸福にも幸福のパラドックスがあるからである。

幸福だけを直接の目的として追求する人はかえって幸福になれないというのは、よく知られた事実である。幸福な人というのは、時には自分の幸福を犠牲にしてでも、人間関係を大切にしたり、生きがいや使命感をもって何かを成し遂げようとしたり、正義や他人のために行動する人である。

自分の真の幸福だけではなく、人間関係や、何かを成し遂げることや、道徳的に振る舞うことも、それ自体として自分にとって大事だと信じることで、真の幸福が実現されるのである。ここで、概念の汚染が生じる。人間関係や達成や道徳そのものにも、自分にとって価値がある、つまり幸福の一部として組み込まれてしまうのである。

幸福という概念がこうも難解なのは、真の幸福概念が、「幸福」の一部だと信じるべき他の概念で汚染されているからである。

 

仮に真の幸福を知った冷徹なエゴイストがいたとしよう。彼は、幸福に生きられない自分と他人を比較して、意識的、無意識的に幸福のパラドックスに気づいた結果、幸福がすべてではないとか、人間関係や道徳そのものが幸福の一部なのだとかいうまやかしで自分をだまそうとするだろう。その結果、彼は他者や道徳を尊重する、ごく普通の人になってしまうのである。

このように誤った幸福感を持ってしまった人には、もはや真の幸福と偽の幸福の区別がつけることが難しいし、区別せずに真実を知らないほうが幸福に生きられるのである。

もちろん本人にとっても社会にとってもこれはいいことだ。しかし、問題は哲学をする際も、偽の幸福も幸福の一部だという誤った直観を持ち込んでしまうことだ。だからこそ、経験機械の人生が劣っていたり、徳も幸福の一部だという誤った主張をするのである。

彼らにとっては、幸福について哲学をすること自体も、幸福に生きる営みのうちの一部なのである。だから、幸福に生きるための自己欺瞞をやめられないのである。

しかし、哲学とは、たとえ道徳や幸福のような価値をいくら損なってでも、真実を追求する営みであるべきだとおもう。

 

22.幸福に関する他の問題

さて、今回のツイキャスでは、何が、そしてなぜ幸福であるかについての議論を紹介した。しかし、これは幸福に関する哲学の一問題に過ぎず、ほかにも興味深い問題はたくさんある。

 

22-1.幸福は最重要か?

私が個人的にもっとも関心があるのは、万人の利益、自分だけの利益、今の自分だけの利益、どれを最も追求すべきかという点である。私は利己主義を擁護したいが、パーフィットは反論している。

 

22-2.瞬間的幸福と全体の幸福の関係

幸福にも瞬間的な幸福と、人生全体の幸福があると同意する人が多いだろう。その場合、人生全体の幸福は、瞬間的な幸福の単純な総和で決まるのか、もっと複雑な決まり方をするかという、アトミズムと全体論の対立がある。快楽主義者はアトミズムを取りがちであるが、例外もいる。

 

22-3.どの場合に死は不幸か?

3つ目に、死の問題がある。誰しも死は悪いことだと考える。しかし、病苦しか残されていない時のように、死んだほうが良い場合もあるだろう。ではどういう場合に死ぬことは利益なのだろうか。極端な主張としては、ヘゲシアスは苦痛をなくす死は常に幸福であると主張し、エピクロスは、死はどういう場合も無害であると主張した点で有名である。面白いことに二人とも快楽主義者である。

対して、多くの人は、余生の価値をはく奪するから、死はたいていの場合悪いと反論する。しかし、いつ死が悪いかという興味深い難問もある。

 

22-4.幸福をどのように測るか?

4つ目に、幸福をどのように計測するかという科学的な問題もある。

 

22-5.道徳で幸福だけが問題か?

5つ目に、道徳と幸福の関係についての問題がある。果たして、厚生主義のいうように、道徳的な望ましさは、幸福に関する事実ですべて決まるのだろうか。幸福に関する客観的立場をとるばあい、幸福を道徳的に望ましいものとして押し付けていいのかという問題がある。また、差別に適応して幸福を感じることには問題がないのだろうか。さいごに、人の幸福よりも選好を尊重すべき場合はないのか。

 

22-6.国家は幸福の増進を直接の目的とすべきか?

最後に、政治と幸福の関係が問題とされる。政治は、国民の幸福を直接目標にすべきなのか、それとも幸福追求の自由や権利を保証する以上に介入してはいけないのか。

 

23、24.参考文献および入門書

さて、おわりに、参考文献を紹介する。

Guy Fletcherによる入門書は洋書だが、極めてお勧めである。内容は最小限とはいえ、それぞれの理論、論拠や反論が明晰に整理されていて、これぞ分析哲学という感じの本である。ただ、深い内容を望んでいる人には少し物足りないかもしれない。

 

森村進先生による入門書も、深いところまで踏み込んだ議論が多いうえ、思考実験が豊富でお勧めである。

 

最後に快楽主義者Ben Bradleyによる入門書がある。論拠や反論が細かく紹介されていて、立場の検討をしたい人に特におすすめである。

 

入門書ではないが幸福に関するRoutledgeの論文集もある。私が先ほど述べた、幸福に関する様々な問題を幅広く取り扱っており、幸福について詳しく知りたければ必読の書である。

 

25.私について

最後に、私について。普段はツイッターで散歩家(@Silent_Theoria)という名前で呟いています。あまり良い記事がかけていないけれども、ブログhttp://silentterrorist.hatenablog.com/もご覧ください。

今度、快楽主義について私の考えをまとめた記事を書きます。快楽主義キャスもするので、ぜひ来てね。

幸福について論じた古典的な哲学者でも、特にすきなのがエピクロスとミルです。快楽主義だからというのもあるけども、エピクロスは幸福主義と死無害説を提唱した点、ミルは快楽主義によって、徳や個性など幅広い価値を説明しようとした点が好きです。

 

私は快楽主義については詳しく勉強しましたが、客観主義についてはあまり知りません。間違いなどを見つけたら、指摘いただければ幸いです。

幸福の哲学を布教したいため、再配布はどんどんしちゃってください。でも、改変する際は一言ことわってください。

では、さよなら。長時間聞いてくださり、ありがとう。

 

 

想定問答集

Q:欲求の満足と快楽の違いは?

A:欲求するのを忘れ、何に熱中している時や、ハイな時は、快楽だけあって欲求がないように思える。また、禁欲主義者が感じる快楽は欲求を満足していない。

 

Q:そもそも幸福に関する真理なんて実在するのか?本人が「幸福」だと直観的に思えるものこそが幸福なのではないか。幸福に関して判断が誤っているというのは押し付けがましい。

A:本人の幸福に関する判断はたしかに誤る。差別に適応して幸福になった人、カルトに洗脳された信者達、マゾヒストや禁欲主義者達はたしかに自分たちが幸福だと信じているだろうが、彼らは本当にそうだろうかと問うことができる。幸せだと信じられることは、確かに幸せの一要因であることには間違いないが、幸せそのものではない。

あと、幸福に関する直観は矛盾している。我々は一方で経験要請を直観的だと思うが、他方で経験機械の中の人生が直観的に悪いと考える。こういう理由からも直観は全信頼できない。

 

Q:真の幸福が実在するとして、我々はそれをどうやって知ることが出来るのか。

A:確かに、すでに幸福について誤った自己欺瞞をしてしまった我々は、偽と真の幸福の区別がつかないかもしれない。

しかし、真の価値に対する正しい直観は確かにあると思う。経験要請があったが、たしかにいい経験をすることこそが幸福だ、と納得する独我論的な直観が、みんなにはあるとおもう。そして、この直観をもっとも維持しているのが、子どもである。もちろん、子供にも進化によるバイアスはかかっているものの、子供は快楽をもっぱら追求し、それ以上はあまり追求しようとはしない。それが、快楽主義が一見正しく、よく考えてみれば間違っているが、本当はやはり正しいことの決定的な証拠だと思う。

快楽主義のこころ

私が思うに、快楽主義のこころを一言で言えば、独我論である。独我論をとるならば、倫理観としては必然的に(広義の)快楽主義をとらざるを得ない。対して、快楽主義をとるからと言って独我論をとる必然性はないが、快楽主義を支持する直観はやはりどこか独我論的である。以下でこれを説明しよう。

 

1.快楽主義のこころ:人生は自己完結している

私の快楽や苦痛は私の経験に完全に含まれている。私が友達に好かれていたり、真理の大発見をしたと自己満足さえしていれば、たとえ実は友達が私を嫌っていても、私が真理だと思っていたものが実は間違っていても、私の快楽は揺ぎ無いのである。私の幸福が、私の経験だけで完全に決まると主張する点で、快楽主義は自己完結的である。

これは例えば欲求の充足が幸福であると主張する、欲求充足説とは対照的である。本当に友達に好かれていないと、本当に真理を発見しないと、私の欲求は本当には満たされない。私の経験を超えた、他者や世界についての事実が重要だと主張する点で欲求充足説は自己完結していない。

私がここでいう独我論は、私の経験以外には何も存在しないという立場である。独我論をとれば、私にとって良かったり悪かったりするのは、私の経験のほかにはない、つまり快楽主義が正しいことになる。

逆に、他者や客観的な世界が存在したとしても、快楽主義は矛盾なくとることはできる。しかし、快楽主義は、他者や世界が、まったく重要ではない、すなわちあっても無くても私の幸福に変わりはないと主張する点で、倫理的な意味で独我論的だと言わざるを得ない。

 

2.快楽主義のこころ:人生は享受するものである 

快楽や苦痛というのは享受するものである。冷房の風を受けたり、おいしいものや面白い動画を消費したり、快く寝たり、これらはすべて受け身な快楽である。もちろん、スポーツをしたり、面白い仕事をしたりなど、主体的な活動の過程で得られる快楽もあるが、これも主体性そのものというよりも、その結果である。苦痛はもっと明らかだ。進んで苦痛を経験しようとする者はなく、苦痛は仕方がなく受けるものだ。

快楽主義は、我々が何を試み、何が達成できたかよりも、その結果何を享受したかを重視するのである。これに対しては、快楽主義は人間の主体性を軽視しているという反論もあるだろう。例えば、たとえ苦しくても目的に向けて必死に頑張り、目的を達成することが良い、というような幸福観がある。我々は単に経験する自己ではなくて、意志して努力する自己なのだ、快楽は前者を充足しても、後者は充足しないのだと。

これに対して快楽主義者は、主体性や努力する自己そのものを懐疑するのではないだろうか。我々は自らを自由な意志を持った主体的な自己だと思っているが、自由意志や、主体なんて経験のどこを見回してもないではないか。主体的に、自由に努力しているというのも、我々が享受する一種の経験にすぎないではないか、と。

この発想は再び独我論的である。私の経験だけしか存在しないとすれば、私という主体すら消去されてしまう。あるのはただ映像のように流れる経験だけであり、我々はそれを鑑賞する観客にすぎない。

快楽主義は無主体論と親和性が高く、独我論は無主体論を含意するのである。

 

3.快楽主義のこころ:人生は瞬間の総和にすぎない

快楽や苦痛は、すべて、のものである。将来への期待、過去の回想による快楽や苦痛も、すべて期待や回想をする今において生じているものである。快楽や苦痛は、1.で述べたように個人の経験の中で自己完結しているだけではなく、時間的にも自己完結しているのである。

それによれば、今の私の幸福は、今の私の経験だけで決まる。過去や将来に影響されて、今が意味を持つことはないのである。

もし、人生全体の幸福という概念があるにしろ、それは過去、現在や将来の各時点の今の幸福の総和に他ならないと考えるのが自然だろう。この考え方がすなわち幸福に関するアトミズムである。

 

対して、例えば欲求は時間を超える。将来研究者になりたい、明日ラーメンを食べたい、といった欲求は、抱く時点と充足される時点に違いがある。(*1)そうすると、将来に今の欲求が満たされるか否かに応じて、今の幸福が遡及的に変わる可能性もあるだろう。

また、人生は物語的な有機的全体である、という考え方もある。例えば、過去の努力が将来に実を結べば、過去の苦労も報われることになり、これも過去や将来との関係によって、今の幸福が変わるという発想につながる。ほかにも、各時点の幸福以前に人生全体の幸福が先にあるのだ、という考え方などがある。

 

これらの考え方に対し、快楽主義者は、次のように反論できるだろう。

・後になって望みがかなっただとか、報われたというのも、後になってから感じた喜びにすぎず、過去の私を幸せにしたり、過去の苦労を軽減するものではない。

・人生全体を通じた物語や意味というのも、やはり人生の時々において、見通しては肯定されるものであって、結局は瞬間的な快楽に還元される。

 

さて、この発想はやはりどこか独我論的である。独我論を突き詰めると、今の私の経験しか存在しない、という独今論にたどり着く。過去や将来の私の経験も、他者の経験と同様、直接は経験されないからである。

独今論から額面通りに、過去や将来の<私>は存在しないだとか、時間を通じて自己同一な「私」という利害の主体は存在しない、という極論をしないにしても、私の今の利害は過去や将来から独立しているだとか、人生全体という物語も実在するというよりは各時点で抱く観念にすぎないという、主張はできるのではないか。

 

4.まとめ

快楽主義者の考える人生観を例えるならば、孤独な映画鑑賞そのものである。映画が現実だろうと、フィクションだろうと、映画の楽しさに変わりはない。また、鑑賞者は一方的に決まった映画の内容を享受するだけである。最後に、映画はコマの集まりである。確かに映画には物語性もあるが、物語性を楽しむことを含めて、すべてが映画のコマの内容に含まれているのである。

他者、自己、世界がなくても、彼はどこか消極的に人生をゆるく楽しみ、内容に満足して人生を終えるのである。

 

 

*1:これが原因で欲求充足説にはいろいろな難点があるが(欲求の充足が「いつ」良いのか、過去の欲求は尊重すべきか等)、快楽主義にはそのたぐいの難点は一つもない。快楽主義者Ben Bradleyが言っているように、これは快楽主義の見過ごされた一つの長所である。

快楽主義の擁護1(快楽の質の問題)

快楽主義とは、簡単に言うと次の立場である。

Ⅰ.快楽のみが、本人にとって良く、苦痛のみが、本人にとって悪い。

Ⅱ.快楽の良さは快楽の度合に比例し、苦痛の悪さは苦痛の度合に比例する。

 

快楽主義に対してよく向けられる批判の一つとして、快楽の質の違いによる反論がある。

 

反論1.ある人がクラシック鑑賞をする(高級な)快楽と、ピザを食べる(低級な)快楽の度合いが同じだとする。快楽主義の仮定Ⅱによれば、両者の快楽の価値は同じである。しかし、前者のほうが価値あるのではないか。

 

反論2.ある人間が作曲に一生を費やし、ある牡蠣が水辺にぷかぷかと浮かぶ一生を送ったとする。もし、後者の牡蠣が仮にいくらでも長生きできた場合、いつかぷかぷかと浮かぶ快楽の価値が、作曲をする快楽を上回る時点がある。しかし、いくら長生きしても、牡蠣の生の価値は、人生の価値におよばないように思われる。

 

1.反論1に対する再反論

そもそも、高級な快楽が低級な快楽よりも価値があると考えられる直観は何に依拠しているだろうか。それは、「われわれ」が高級な快楽を低級な快楽よりも経験したいと「欲求」するからに尽きるのではないか。

 

つまり、反論1は次の主張をしていると思われる。

①「われわれ」がそれ自身のために欲求することこそが、良いことである。

②「われわれ」は低級な快楽よりも高級な快楽をそれ自身のために欲求する。

③高級な快楽のほうが、低級な快楽よりも良い。

 

「われわれ」とは誰のことだろうか。

反論1を受け入れ、高級な快楽が低級な快楽よりも価値があることを認める快楽主義者J・S・ミルによれば、高級な快楽と低級な快楽を両方知った、理性や判断力のある人だという。しかし、このような理想的な判定者を想定するまでもなく、こうして哲学する我々自身が、「われわれ」として高級な快楽をより欲求していることは事実である。

 

1-1:②の批判 

再反論にうつろう。

まず、②が疑わしい。たしかに、快楽の度合いが同じであれば、「われわれ」はクラシック鑑賞をピザを食べるよりも欲求する。しかし、それはクラシック鑑賞の快楽をより欲求するからではなく、クラシック鑑賞することそれ自体や、クラシック鑑賞に対して快楽を抱くことをより欲求するからではないだろうか。実際、クラシック鑑賞をピザの食事よりも欲求するのはなぜかと聞かれたら、美そのものや、美を楽しめることに価値があるからと答えるのであり、快楽が貴いからと答える人はほとんどいないだろう。

 

つまり、ここでは三つの欲求がかかわっていると思われるのである。

a)クラシック鑑賞(ピザの食事)の快楽に対する欲求

b)クラシック鑑賞(ピザの食事)をする事態そのものに対する欲求

c)クラシック鑑賞(ピザの食事)をすることに快楽をいだくことに対する欲求

 

クラシック鑑賞とピザの食事では、a、b、cのすべてが満たされる。前者に対する欲求が強いのは、bとcの欲求が強いからであり、aの欲求に違いはないと考えられる。

よって、仮に①を認めるにしても、a)快楽そのものの価値には変わりはないと主張することができる。③を認めるミルは誤っていたのである。

 

1-2:①の批判

それでもなお、①を認めれば、クラシック鑑賞には、a)快楽の価値以外に、b)快楽とは独立した美的価値や、c)快楽が見出されるに相応しいという価値があると主張できる。ミルは暗黙の裡にこういった快楽とは独立した価値を認めていたのではないか、と疑うことができる。 

 

快楽主義はa)快楽の価値のみを認め、b)美そのものや、c)相応しさという価値を認めない。しかし、われわれは快楽とは独立して美を求め、美に快楽を見出したいと欲求するのである。それでもなお快楽主義を擁護するには、①を否定しなければならない。

また、そもそも快楽主義は、①を前提して、快楽が欲求されるから良いと主張するのではない。それは欲求充足説の主張である。快楽が快いというまさにその理由により、快楽は良いと主張するのが快楽主義である。快楽主義と①は相容れず、快楽主義を擁護するには①が否定されなければならない。

 

①の欲求充足説に対しては、下記の記事で反論を行った。

欲求充足説に対する反論 - 思考の断片

要点は、欲求の充足が良いのは、あくまで満足感という快楽をもたらす場合に限られるということであった。

 

ここで、二つの場合を考えよう。

(i): a)快楽に対する欲求から独立して、b)美を観照する欲求や、c)美に対して快楽を見出したい欲求が満たされることが、満足感を少しでももたらす場合

(ii): a)快楽に対する欲求から独立して、b)美を観照する欲求や、c)美に対して快楽を見出したい欲求が満たされることが、満足感を全くもたらさない場合

 

(i)の場合、クラシック鑑賞による直接的な快楽のほか、クラシック鑑賞をし、それに満足感を見出すという事実に対する満足感という別の快楽が存在することになる。快楽主義者はこれら別の快楽があるから、クラシック鑑賞はピザの食事に勝ると答えることができる。(つまり、反論1の前提が成り立たない)

 

(ii)の場合は、b)やc)の欲求が満たされても、満足感が全く得られないため、ちっとも良いことではない、と上の記事から主張することができる。(つまり、反論1の結論が間違っている)

 

以上より、いずれの場合も快楽主義を反論1から擁護することができるのである。

 

なお、快楽の度合いが同じならば、クラシック鑑賞が、ピザの食事と価値が変わらないという上記の主張はもちろん、クラシック鑑賞をピザの食事よりも欲求することが不合理だと含意するわけではない。クラシックを鑑賞して審美眼を鍛えることで、長い目で見ればさらに多くの高度な快楽が得られるだろう。美そのものには価値がないのだが、あたかも価値があるかのように美を欲求したほうが、結果的に快楽という真の価値が多く得られるのである。

 

2.反論2に対する再反論

 反論2の主張を精緻化すると次のとおりである。

人間の快楽の密度をH、快楽を享受した時間をT、牡蠣の快楽の密度をh、快楽を享受した時間をtとおく。

⓪快楽主義が正しいとする。

①快楽主義のⅡより、人間と牡蠣の快楽の価値はそれぞれ、H×T、h×tである。

②①と快楽主義のⅠより、人間と牡蠣の生の価値はそれぞれ、H×T、h×tである。

③十分に大きい実数tに対して、h×t>H×Tであり、②より、牡蠣の生の価値は人間の生の価値を上回る。

④しかし、tがどんなに大きくても、牡蠣の生の価値は人間の人生の価値を上回らない。

⑤③と④が矛盾するので、仮定⓪は誤っている。

 

 さて、どのように反論すべきだろうか。

まず、①は自明ではない。時間が増えれば快楽の価値は増えることは確かかもしれないが、時間に比例して快楽の価値が増えるとは限らないからである。牡蠣の快楽の価値が、h×f(t):f(t)が上界Fのある増加関数であり、h×F<H×Tならば、どんなにtが大きくとも、牡蠣の生の価値は人間の生の価値を上回らず、③も成立しない。

※私は、例えばf(t)として有界な関数∫[0,t]exp(-λs)dsを設定したいと思う。

 

 つぎに、仮に①が正しいとしても、③が正しいとは限らない。たしかに、もし快楽の密度hやHが実数ならば③は成り立つ。しかし、例えばhやHが辞書式順序の入った実数の組(x,y)だったらどうだろうか。人間が作曲する快楽を(P,0)、牡蠣がぷかぷかと水に浮かぶ快楽を(0,p)とした場合、つまり人間の快楽の次元が牡蠣の快楽より高いとした場合、いくら実数tが大きくとも、人間の快楽(PT,0)>牡蠣の快楽(0,pt)であり、牡蠣の快楽は人間の快楽にかなわない。

私は、快楽や苦痛の度合いは、実数値ではなく、このように次元があるものだと思う。大きい苦痛の負の価値は、ちんけな快楽をいくらかき集めたところで相殺できないのである。

 

3.まとめ

われわれは、快楽の量が同じでも、高級な快楽をもたらすクラシック鑑賞を、低級な快楽しかもたらさないピザの食事よりも欲求する。しかし、それは、高級な快楽そのものがより望まれるからではなく、快楽以外のことを欲求するからである。ただ、いくら欲求されるからといって、欲求が満たされた際の満足感というやはり一種の快楽がなければ、価値はないというのが私の見解である。

また、快楽の度合いには次元がある。低次の快楽は、いくら量をかき集めても、高次の快楽の価値には及ばない。だから、例えば牡蠣の快楽は、どんなに持続しても人間の快楽に、及ばないのである。

エピクロスの倫理観について

エピクロスは、古代ギリシャ(ヘレニズム期)の思想家である。

彼は哲学の中でも倫理学、そして倫理の中でも幸福を最重要のものとして探究した。

彼によれば、幸福は主観的な快楽、とくに心の平穏による静的快楽(アタラクシア)であるという。これは、客観的な徳の発揮が幸福(エウダイモニア)だと考えたアリストテレス、快楽の中でも享楽的な快楽こそが良いと考えたキュレネ派と対照的である。

さらに彼がユニークなのは、死が無害、つまり死によって幸福は損なわれないと考えた点である。彼はむしろ、死は無害だという真理に心から納得して、死に対する不合理な恐怖を克服することが、幸福には必須だと考えていたのである。

残念なことに、彼の著作の大部分は失われており、彼の教義も体系的とはいいがたい。それでもなお、現代の哲学者達は整合的で体系的な解釈をエピクロスの思想に与えようと試みている。

私はとくに、以下のように解釈されたエピクロスの倫理観に共感を覚える。

この記事では、それぞれの主張に関する説明を述べたいと思う。(*1)

 

Ⅰ.エピクロスの快楽主義

1.静的快楽は、単に苦痛が無いことではなく、苦痛が無いことに対する肯定的な態度である。

2.ある時点における静的快楽の大きさ、あるいは強度(価値)には上限がある。

3.既に静的快楽が得られている場合、その時間が長引いても、静的快楽の大きさ(価値)は増えない。

4.ある人にとって良いのは静的快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

5.2~4より、動的快楽を得たり、(いったん静的快楽を得たならば)生き続けることは、より良いことではないが、追求するに越したことはない。 

 

Ⅱ.直接的死無害説

6.死それ自体は、苦痛も静的快楽ももたらさない。

7.(4および6より)死は、死ぬ本人にとって、直接的には良くも悪くもない。

 

Ⅲ.総合的死無害説

静的快楽をすでに享受した人の場合、

8.(2および3より)今すぐ死んでも長生きしても静的快楽の大きさは変わらない。

もし、今すぐ死んでも、長生きする場合に比べて苦痛が増えない場合(例えば無痛・無自覚な死であれば)

9.(4および8より)死は、死ぬ本人にとって、総合的にも悪くはない。

 

Ⅳ.批判(受け入れがたい帰結)

静的快楽をすでに享受した人の場合、

10.将来少しでも苦痛を被ることがあれば、無痛・無自覚な安楽死は、死ぬ本人にとって総合的に良い。

 

Ⅰ.エピクロスの快楽主義について

1.静的快楽の定義 

彼は、快楽を動的快楽と静的快楽の二つに分類する。

動的快楽は、食事、入浴、性交による快感など、欲求が満たされる過程において生じる快楽である。対して、静的快楽は、肉体的苦痛や精神的不安が無いことや、満たされない欲求が無いことによりもたらされる快楽である。

それでは、苦痛や満たされない欲求が全くないことそのものが静的快楽なのかというと、そうではないと私は思う。もしそうだとすると、昏睡状態などの状態が、最も静的快楽に溢れていることになってしまうが、これはおかしい。

苦痛がないというだけではなく、それに対して肯定的な態度を抱かなければ、快楽とは言えないのではないだろうか、とFred Feldmanは提案する。彼は、静的快楽とは、自分自身が苦痛や不安を感じていないことに対する(態度的)快楽だと解釈している。

この態度的快楽は、快感とは厳密に区別される。快感は単なる感覚であるのに対して、静的快楽を含む態度的快楽は、ある命題が成立することに対して好ましく思う態度なのである。私もこのFeldmanの解釈に基本的には同意したい。(*2)

 

2.静的快楽の強度には上限がある

エピクロス自身、主要教説の3.でこう述べている。

「快の大きさの限界は、苦しみが無く除き去られることである」

確かに、苦しみが全くない状態以上に、静的快楽は大きくなるときはないだろう。しかし、苦しみが全くない状態でも、いろいろな状態がありえる。苦しみがないことに全くありがたみを感じず、平然としている時もあれば、過去に経験した苦しみがないことを喜んでいる場合もある。後者のほうが静的快楽が大きいのではないだろうか。

Clay Splawnは、静的快楽は、単に苦痛がないことのみならず、過去に経験した苦痛が無いことに対する態度的快楽である、と解釈している。彼によれば、過去にどれだけの苦痛を経験したかが、静的快楽の大きさの限界であるという。

もちろん、過去に経験した苦痛は、静的快楽の大きさに影響するだろう。しかし、その人の気質や、人生に対する態度(感謝)など、他のファクターもあると思われる。ただ、それらを考慮しても、苦痛が無いことに対して抱く快楽には、先天的・後天的に決まるリミットがあるのではないか、と私は直観的に思うので、2.には同意しよう。

 

3.静的快楽は時間が長引いても増えない

物議をかもし、皆の直観に反するであろう主張が、3.である。

Steven.E.Rosenbaumは、苦痛がないことによる静的快楽を、病気や怪我のない健康になぞらえて、次のように説明する。動的快楽や、苦痛や病気には強度があり、持続することによりそれは増大するだろう。しかし、苦痛や、病気・怪我が全くないことによる静的快楽や健康には強度がなく、持続することで増えもしないのだと。

確かに、もし静的快楽が、苦痛がないことそのものであると解釈すれば、そうだろう。しかし、1.では静的快楽は苦痛がないことに対する積極的な態度であり、2.で強度を持つと解釈したのである。それならば、長引くことで大きさも増えるのではないだろうか。

この疑問に対しては、エピクロスは、いったん静的快楽の境地に達すれば、その時点で人間の本性は充足され、人生の目的は達成されると考えていたと言われる。その後にどれだけ静的快楽が続こうとも、すでに満たされた人生に付け加わる価値はない。どれだけ長く静的快楽が継続するかではなく、どれくらい快い静的快楽に達したかどうかが重要だというのである。(*3)

 

もし彼の意見を受け入れるならば、例えばこう定式化できるのではないだろうか。

3S:人生における静的快楽の大きさは、人生全体を通じた静的快楽の強度の最大値である。

 

4.静的快楽としての幸福

エピクロスはいわずとしれた幸福(well-being)に関する快楽主義者である。

・ある人にとって良いのは快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

とくに、彼は動的快楽よりも静的快楽を重視したといわれる。私は次のように解釈する。

・ある人にとって良いのは静的快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

これより、以下のように定式化できると思う。

4S:ある人の人生の価値は、静的快楽の大きさから、苦痛の大きさを引いたものである。

 

では、動的快楽の価値についてはどうだろうか。確かに、彼は美食などによる動的快楽にも一応限定的な価値を認めていた。しかし、 私は、エピクロスは動的快楽には、静的快楽をもたらす限りの手段的価値しかないと考えていた、と解釈する。(*4)

我々はしばしば、美味などの動的快楽を直接欲求し、それが得られないことに対して未練や不満を抱く。その場合、動的快楽が得られれば、満たされない欲求が減ることによって静的快楽がもたらされるだろう。

むろん、エピクロスが贅沢な動的快楽を追求することに対して、欲を増長させるなどの理由から戒めていたのは周知のとおりである。動的快楽が、静的快楽をもたらすどころか、損なう可能性もあるのであり、エピクロスはこちらの可能性を危惧していた。ただ、悪影響がない場合に限れば、彼は動的快楽にも限定的な価値を認めていた。

 

5.動的快楽や生の、価値中立的な追求

4.で述べた通り、幸福に寄与するのは静的快楽のみで、動的快楽は直接寄与しないが、だからといって動的快楽を追求すべきでないというわけではない。動的快楽はそれ自体価値のあるものではないが、好ましいものではあるからだ。動的快楽に耽り、依存してしまわない限り、動的快楽も追求するに越したことはないのである。

エピクロス主義者たちは、動的快楽を欲求し、可能であればありがたく享受するが、だからといって実際に得られなかったとしても嘆いて苦痛を被るような真似はしない。動的快楽に対する欲求は、完全に価値中立なのである。

同じことは生きることそれ自体についてもいえる。8.で再び述べるが、一度静的快楽の境地に達したならば、2.および3.より、生き続けても静的快楽の大きさがさらに増えるわけではなく、したがって4.よりさらに幸福になるわけではない。

しかし、生き続けて、静的快楽が長い間楽しめることや、さらに多くの動的快楽を楽しめることは、好ましいことではある。だから、生き続けられるならば、生を享受するにこしたことはない、だからといって生き続けられなくても嘆きはしない、というのがエピクロス主義者達のスタンスなのである。

 

 

死無害説

 エピクロスは上記の快楽主義から、死は死ぬ本人にとって悪くはないと結論づけている。ここで、死は悪くはないという主張にも二つの意味があることに注意すべきである。

・一つは、死が直接的に悪くはないという主張である。

例えば、足の骨折は、それ自体が悪い、もしくは足の痛みをもたらすから悪いことである。足の骨折それ自体が悪いか、悪い出来事をもたらすという意味において、足の骨折は直接的に悪い。死はこのような意味では、直接的には悪くないというのが一つ目の主張(直接的死無害説)である。

 

・もう一つは、死が総合的に悪くはないという主張である。

例えば、足の骨折をすると、足が痛むという直接的な害悪以外に、本来は行けたであろう明日の散歩に行けなくなるかもしれない。このような間接的な影響も考慮すると、足の骨折をした場合、他の条件が同じで骨折をしなかった場合に比べて総合的に人生が悪くなるという意味で、足の骨折は総合的に悪い。死がこのような意味でも、総合的には悪くないというのが二つ目の主張(総合的死無害説)である。

 

Ⅱ.直接的死無害説

6.死は苦痛ではない

死には二つの意味がある。

a) 死ぬまでの過程(dying)

b) 死ぬ瞬間の出来事、および死んでしまった状態(death or being dead)

大抵の死に関しては、a)が苦痛なのは間違いないだろう。病死、事故死、殺害の例をとっても、最期の瞬間は悲惨なものである。(無痛無自覚な死という例外はあるが)

しかし、b)はどうだろうか。死ぬ瞬間およびそれ以降は、我々はすでに死んでいるのだから、苦痛を感じることは出来ないはずである。したがって、b)は苦痛を伴わないし、苦痛をもたらさないのである。(*5)

死をb)の意味で捉えるならば、6.の主張は疑いようがないと思う。

 

7.死は直接的には無価値である

主張7.は、4.および6.の帰結である。死は苦痛や静的快楽をもたらさない。したがって、4.より、悪い出来事や良い出来事をもたらさない。よって、死は死ぬ本人にとって、直接的には悪くはないと結論づけられる。

 

Ⅲ.総合的死無害説

8.死は静的快楽を奪わない

2.で存在すると主張した、苦痛が一切ないことによる、静的快楽の強度の上限Uを既に享受した人がいるとしよう。

その場合、3S.より静的快楽の大きさは強度の最大値であったわけだから、もし彼が今すぐ死んでも、さらに長生きしても、彼の静的快楽の大きさは、人生全体を通じた静的快楽の強度の上限=Uから変わらないのである。

 

9.死は総合的には悪くはない

8.より、ある人が今すぐ死ぬ場合も、生き続ける場合に比べて、静的快楽の大きさは減らない。もし、今すぐ死ぬ場合、生き続ける場合に比べて、苦痛の大きさは増えはしないと仮定すると、少なくとも、今すぐ死んだ場合、今すぐ死ななかった場合に比べて総合的に人生が悪くなりはしない。つまり、死は、死ぬ本人にとって、総合的にも悪くはないのである。

 

Ⅳ.エピクロスの倫理観に対する私の批判

10.無痛・無自覚な安楽死の肯定

エピクロスは、死は直接的にも総合的にも悪くないと主張していた。では、エピクロスによれば、死んでしまったほうが良いことはあるのだろうか。

7.より、死は直接的には良くはないのは明らかである。しかし、死が総合的に良いことはあるのではないか、と私は思う。それどころか、ほとんどの場合、死んだほうがいいということになりはしないか、と思う。

例えば、ある人が今は静的快楽を享受しているとする。そして、将来にちょっとでも苦痛が待ち受けているとする。

その場合、もし無痛・無自覚に安楽死できるならば、今すぐ死ぬほうが、生き続ける場合に比べて苦痛は減るだろう。対して、静的快楽は生き続けても増えはしない。したがって、今すぐ無痛・無自覚に安楽死した場合、しなかった場合に比べて総合的に人生が良くなるのである、つまり苦痛があるくらいなら安楽死したほうがマシということである。

 

将来にちょっとでも苦痛があれば、無痛・無自覚な安楽死したほうが良いというのは、多くの人にとって受け入れがたい結論ではないだろうか。また、いくら静的快楽の積極性をとなえたところで、死が最大の幸福と説いて自殺を勧めたヘゲシアスと、帰結が変わらないではないか。

しかし、実際のエピクロス主義者たちが、自殺を極力さけていたのは事実である。彼らは、生を快いものとして捉えていた。もしかしたら、エピクロスが尿管結石で死ぬ間際に過去の快い思い出を想起したように、大抵の苦痛は快楽で相殺でき、取るに足らないのかもしれない。とはいえ、快楽をうわまわる苦痛はあるだろうし、そもそも苦痛が快楽で相殺できるか、疑わしい。いくら鍛錬をつんだエピクロス主義者でも、人生が辛い瞬間はあるだろう。

それではなぜ死なないのか、と彼らは聞かれるだろう。彼らはこう答えるに違いない。生き続けても、我々の人生の価値は増えるどころか、苦痛で減るかもしれない、しかし、5.で述べたように、より多く、長い動的快楽や静的快楽を味わいたいから生きるのだと。

人生の価値が減っても、快楽を味わいたいから生きるというのは、確かに態度として矛盾はしていないだろう。しかし、その場合、彼らの生き続けたいという欲求は、本来持つべきではない不合理な欲求だとは言えないだろうか。

 

11.まとめ

エピクロスの倫理観は、死の恐怖を避けようとしたあまり、死に対してあまりに友好的過ぎないか、と私は思う。大半の人は、死に恐怖しながらも人生をより良くしようと努力し続けたいのであり、満足した抜け殻のようにはなりたくないのである。ましてや、ちょっと苦痛があるだけで死が望ましいなどとは思いたくないのである。

10.のように、苦痛を被るくらいなら安楽死したほうがマシだという結論に至る元凶となったのは、やはり3、つまり(静的)快楽は時間によって大きくならないという主張である。とはいえ、これを諦めるならば、Ⅲ総合的死無害説は成立しない。エピクロス主義者はジレンマに面することになる。

私は、このジレンマは解決不可能だと思う。そのうえで、エピクロス主義は10.を認めざるを得ないのではないかと思う。死無害説は、彼の主張の一つの結論に過ぎないにせよ、静的快楽(アタラクシア)を達成するための重要な信条であったわけだから。

ちなみに、私もエピクロス主義同様、10.に同意する。ではなぜ安楽死しないかというと、すぐ安楽死すると今知ることが怖くてたまらないからである。つまり、今の自分の利益のために、死を先延ばしにしている次第である。

しかし、刹那的快楽主義を戒め、一線を画するエピクロス主義はこのような合理化が出来ない。そもそも、彼らは、死が怖いという理由すら利用できない、死は恐れるべきではない、と主張しているのだから。結局、10.で述べたように、彼らは、価値は増えずとも、快いから生きたいと言うほかはないのである。これが彼らにできる最大限のいいわけである。

以上に述べたように、エピクロス主義には重大な問題がある。しかし、私は快楽主義や、死無害説につながる彼のこころにはかなり共感する。だから、彼の精神を引き継ぎつつ、一貫した倫理観を模索したいところである。

 

 

*1:私は、歴史上実在したエピクロスの思想の解釈よりも、以下の解釈によるエピクロス主義の妥当性に興味があるため、解釈の問題には極力触れないつもりである。

 

*2:ただ、私は彼の態度的快楽の考えそのものには同意しない。快楽は態度そのものではなく、例えば態度のような経験が含む快さという質だと考えている。

 

*3:実際エピクロスメノイケウス宛の手紙でこう言っている。「食事に、いたずらにただ、量の多いのを選ばず、口に入れて最も心地よいものを選ぶように、知者は、時間についても、最も長いことを楽しむのではなく、もっとも快い時間を楽しむのである。」

 

*4:もし大きさに際限のない動的快楽にも内在的な価値があるとすれば、幸福に限りがないことになってしまい、これは彼の幸福観とは相いれない。また、彼はメイノケウス宛の手紙でこう明言している。

「快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、―― 一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとは違って ―― 道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。」

 

*5:なお、1.の解釈より、死は静的快楽(安楽)ももたらさないという点に注意である。単に苦痛が無いことではなく、それに対して快楽を抱くためには、生きていなければならないからである。

欲求充足説に対する反論

1.欲求充足説について

 世の大半の人は、欲求に素直である。彼らは本当にしたいことが(自分にとって)良いことを疑わない。
 確かに、大人は子供と違って、自分がしたいことが、本当にしたいことなのかを考える。誰しも、歯医者には行きたくないが、行かなければ虫歯が進行することを考慮して、総合的には行きたいと欲求するから、歯医者に行くのである。
 しかし、ここまで考えて、歯医者に行きたいからといって、歯医者に行くことは自分にとって本当に良いことなのかと疑う人はいない。やはり彼らにとっては、欲求すること=良いことなのである。
 哲学者達の間では、さらに強い立場が有力である。彼らはたんに、歯医者に行きたいと欲求するならば、歯医者に行くことが良いと主張するだけではなく、歯医者に行きたいと欲求するからこそ、歯医者に行くことが良いと主張する。
 つまり彼らは、欲求が、良いものを正確に把握するだけではなく、欲求こそが、良いものを良いものたらしめるものである、と主張しているのである。
この立場は欲求充足説(Desire fulfillment theory or DFT)と呼ばれる。

 

欲求充足説

①欲求が充足することのみが常に良く、欲求が充足しないことのみが常に悪いことである。

②欲求の充足の良さや、欲求の不充足の悪さの程度は、欲求の強度に比例する。

③:①では、欲求が充足するからこそ良く、欲求が充足しないからこそ悪い。

欲求の充足:欲求はある命題Pに真であってほしいという態度である。命題Pに対する欲求が充足するとは、この態度を抱き、かつ命題Pが真である事象を指す。

 

私は、この立場に全面的に反対し、次のように主張する。

 

欲求充足説に対する反論

Ⅰ.欲求が充足されても、(そこまで)良くはないこともある。よって、①(や②)は偽である。
Ⅱ.欲求が充足されなくても、良いこともある。よって、①は偽である。
Ⅲ.Ⅰ、Ⅱより①は偽であり、欲求は、良し悪しの大まかな指標に過ぎない。

Ⅳ.Ⅰより②は偽であり、欲求の強度とは別に、良し悪しの程度を決める基準がある。

Ⅴ.Ⅲ,Ⅳより、③も偽である。

 

Ⅲ、Ⅳ、ⅤはⅠ、Ⅱより導かれるため、ⅠおよびⅡを示す。

 

Ⅰ:欲求が充足されても、(そこまで)良くはないこともある。

 

2.死海の林檎に対する欲求

・見た目は美味しそうな林檎でも、触れた瞬間灰になってしまうリンゴがあるとする。この死海の林檎に対する欲求が充足しても、全く良いことではないように思われる。これはⅠの例ではないだろうか。


これに対しては、欲求充足説からは二つの答え方があると言われる。
 一つは、欲求の充足の中でも、欲求を抱くのと同時の充足が重要だ(Concurrent desire fulfillment theory or CDFT)とする答え方である。死海の林檎を欲求するのは、手に入れるまでであって、手に入れた瞬間欲求が失せてしまう。よって、死海の林檎が欲しく、同時にその欲求が充足される時は全くない。したがって、CDFTによれば、欲求は本当に充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 二つ目は、実際の欲求ではなく、知識や思慮が十分だった場合の理想的な欲求の充足が重要だ(Idealized desire fulfillment theory or IDFT)という答え方である。もし、死海の林檎であることを知っていたならば、それを欲求することもなかったであろう。したがって、IDFTによっても、理想的な欲求は充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 私はここでは、CDFTやIDFTに対して反論はしない。だが、これらがDFTの残った候補であることは示せたと思う。

 

 

3.自分のものではない欲求
女性差別があった時代に、女性が家事をしたいと妥協的に、しかし強く欲求していたとする。彼女が望み通り、家事に専念できたとしても、彼女にとってそこまで良いことではないと言えないだろうか。
・ミーハーな人が、広告で宣伝されていたり、流行っていたから、変なぬいぐるみを強く欲しいと思ったとする。そんなぬいぐるみが手に入ったところで、そこまで良いことではないと言えないだろうか。


 両方の主張を支えている直観は、欲求が本当にその人のものではないという点である。であれば、欲求が充足されても、その人にとってはそこまで良いことではないのではないだろうか、というのである。
 これに対しては、先ほどのCDFTはうまく答えられないように思える。対して、IDFTからは、本当の自己は何者かを知るならば、自分のものではない欲求は抱かなかったであろう、と主張することは可能であるように思える。

 


4.満足感を伴わない欲求の充足
・我々は死にたくないと意識的であれ無意識的であれ、常に欲求している。しかし、死にたくないという欲求が常にかなえられていても、それだけで特段我々が幸福なわけではない。(死ぬことに比べて、相対的に幸福かもしれないが。)死にたくないという欲求の充足は、それだけで見ると(そこまで)良いことではない。
・私が電車で見知らぬ人と打ち解けて仲良くなり、その人にもっと幸せになってほしいと欲求するようになったとする。そして、その人は実際にもっと幸せになったのだが、私はそれを知ることがないとする。この場合、私の欲求は充足されても、私にとっては(そこまで)良いことではないように思える。


 これらには、CDFTもIDFTもうまく反論できないように思える。前者を例に挙げると、死にたくないと欲求するのと死なないのは同時であるし、知識や思慮が十分でも我々は死にたくないと欲求しただろう。
 さて、両者に共通しているのは、本人が何ら満足感を得ていないということである。もし、前者の例で、生きられて恵まれている、とありがたみを感じているならば、死にたくないという欲求の充足は良いものだろう。もし後者の例で、見知らぬ人が幸せになったことを私が知って満足したならば、欲求の充足は良いものだろう。つまり、重要なのは、欲求の充足そのものよりも、それに伴う満足感だと私は主張したい。

 

2.から4.の例により、欲求充足説はⅠの反論に耐えられないのではないかと私は考える。

 

Ⅱ:欲求が充足されなくても、良いこともある。

 

5.純粋経験
・なんの欲求もなくても、気分が高揚していたり、心が平安だったりすることがある。欲求が充足されていなくても、これらの心的状態は良いものではないか。
・ゲームを遊びたいと欲求する余裕もないほど、ゲームに熱中しているとする。いわゆるフローの状態である。欲求が充足されていなくとも、ゲームに熱中することは良いことではないか。

 

 欲求充足説からこれらに対して決まってなされるのは、欲求がないのではなく、単に意識されていないだけであるという反論である。ハイでいたい、平安な境地でいたい、ゲームを遊びたい、という無意識の欲求は確かに充足されているではないか、と。
 もし無意識の欲求なるものを認めれば、確かにⅡは成り立たないだろう。しかし、無意識な欲求があるとして、いったいどれくらいあるのだろうか。死にたくない、世界に平和であってほしい、苦しみを避けたい、幸福になりたい、癌になりたくない…枚挙に暇がない。これら全てが無意識の世界でうごめいていて、それぞれの欲求の充足不充足が全て私の幸福に寄与しているとはにわかには信じがたい。
 また、意識すらされていないのに、欲求の強度はどのように定義されるのだろうかという疑問もある。
 最後に、そもそも私は、無意識な欲求の充足には価値が無いと思う。無意識な欲求には満足感が伴わず、4.のケースに該当すると考えるからである。


6.最後に
 この記事では、欲求されることと価値はイコールではなく、ましてや欲求されるから価値があるわけではないことを示した。欲求が価値を規定するのではなく、逆に価値があるからこそ、欲求するに値するのである。
 私は、何かを欲求する前に、欲求する当のものを手に入れることでどういう価値が実現され、手に入れないことでどういう価値が損なわれるかを思慮し、本当に欲求するに値するかを見極めたい。私は、たんに欲求するのではなく、価値とは何かについて常に考え、価値を欲求する倫理的な人間でありたいと強く欲求するのである。

動物にとって苦痛は害悪なのか

1.苦痛と害悪

 我々の多くは、苦痛が悪いのは当たり前だと考える。確かに苦痛を好む人はいない。マゾヒストという例外もいるように思えるが、彼らは単に、通常の人が苦痛と感じるものを快楽として感じているだけである。

 しかし、苦痛と害悪は概念としては決して等しくない。それは「Xは苦痛である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いが無意味ではないからだ。実際、この問いに対しては、例えば「いや、苦痛など取るに足らない」と答えることも論理的に可能である。しかし、もし苦痛が概念として害悪に一致していれば、この問いは、「Xは害悪である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いと同様に馬鹿げているはずである。

 では苦痛と害悪はどのように異なっているのだろうか。苦痛はある意識に内在する属性である。もしくは、ある意識内容に対する嫌悪である。いずれにせよ、それら単独では単なる意識や態度であって、それ自体価値とイコールではない。対して、害悪というのは(主体にとっての)負の価値そのものである。それは単に嫌いなだけでなく、忌避すべきものである。例えば、「苦痛など取るに足らない」という人は、確かに苦痛を感じ嫌悪もしているが、苦痛を無くすべきだと考えていない。苦痛や嫌悪と、価値は別物なのである。

 では(ある主体にとって)価値があるとは何を意味するだろうか。私は、その主体自身が価値を見出す(価値があると直観する)ことに他ならないと思う。もちろん、我々が間違った価値を見出すこともある。例えば、喉が渇いている時、目の前の生水が自分にとって良いものに思えるかもしれないが、実はそれが汚染されていて悪いものかもしれない。しかし、知識や思慮が十分な理想的な状況下で直観されるであろう価値は、正しいと言って良いのではないかと思う。

 

2.動物にとって苦痛は害悪なのか

 動物が苦痛を感じ、苦痛を避けようと欲求することは科学的な類推からわかる。しかし、その苦痛は動物にとって負の価値があるものなのだろうか。つまり、動物は、苦痛に対して負の価値を見出しているのだろうか。

 私は、良し悪しの概念すら持たない動物に、良い、悪いという価値判断を下すことが出来るか、はなはだ疑問である。彼らは苦痛を避け、欲求を満たそうとするが、実は、良さや悪さなんてものは彼らにとっては無いのかもしれない。動物が我々と同等の倫理的直観を備えているかというのは、動物が我々と同様に苦痛や欲求を備えているかという問題よりはるかに疑わしい。
(たぶん、ヒトに近い動物は備えているのだろう、と思うが。)

 確かに我々は動物にとって苦痛が悪いと直観する。しかしその直観はあくまで我々の直観であって、動物自身の直観ではない。我々は、自分が動物の身になってみて、あんな苦痛を被るのはごめんだと想像する。しかし、どんなに動物の身になったつもりでも、価値を見出しているのは我々人間である。我々は動物の苦痛を想像できても、動物の視点に立って苦痛を価値づけることは決してできない。我々から見た場合、動物にとって苦痛は悪いのであるが、動物自身から見た場合、自身にとって苦痛が悪いかどうかは、我々にはわからないのである。

 対して、人間の場合は、誰しも苦痛に負の価値を見出していることがある程度類推できる。というのも他人とは苦痛や価値という概念を共有していて、「苦痛は悪いものだ」と意志疎通ができるからである。

 以上より、(動物自身から見て)動物にとって苦痛が悪いか、そもそも悪いということがあるのかどうかは疑わしいのに対して、(その人自身からみても)ある人にとって苦痛が悪いと考える理由はある。

 

3.動物に苦痛を与えることはやはり道徳的に悪い

 しかし、だからといって私は、動物に苦痛を与えることが道徳的に許容されるとは思わない。道徳が問題とするのは、動物自身ではなく、あくまで、道徳の主体達(主に人間)から客観的にみて、動物にとって苦痛が悪いかだからである。そして、我々からみて、動物にとって苦痛が悪いのは間違いがない。

 このような道徳は、人間の価値の押し付けであり、傲慢だと批判されるかもしれない。本当に動物のことを思うのならば、動物の立場から見た価値を追求すべきではないのか。確かに、我々は極力動物の立場に立たなければならない。しかし、いくら動物の立場に立ったところで、(動物と会話は出来ないのだから)最終的に道徳的判断を下すのは、結局は道徳的に行動する我々人間である。これが我々に出来る精一杯のことである。道徳は客観的で他者視点であり、傲慢であることから逃れられない。

快楽主義について(その2)

利己的快楽主義というと、どこか享楽的で、不道徳な響きがする。しかし、私が考える利己的快楽主義者のイメージは、非快楽主義者と見かけはほとんど変わらない。彼は、しっかりとしたライフプランも持ち、道徳を尊重し、人生の意味を追求するだろう。私は、以下で、私の考える利己的快楽主義は極めて穏健で健全であることを主張したいと思う。

 

まず、利己的快楽主義にも、心理的快楽主義、規範的快楽主義と価値論的快楽主義がある

 

1.心理的快楽主義

心理的快楽主義は、人間や動物の心理について次の命題が正しいと主張する。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求する。

 

例えば、我々がアイスクリームを食べたいと思うのは、厳密にはアイスクリームを食べたいからではない。もしアイスクリームを美味しいと思わなければ、つまりなんの快楽ももたらさないと思われれば、アイスクリームを食べる理由はないだろう。我々は、アイスクリームのもたらす快楽を目的として、アイスクリームを手段として食べるのである。

対して、我々は快楽を他の何の目的のために追求するわけでもない。何のために快楽を求めるのか、という質問は愚問であり、快楽は快楽それ自身のために求めるものである。以上より、快楽は最終的な目的だというわけである。

 

しかし、私は、心理的快楽主義は上の例については正しいが、成り立たない場合もあると思う。

例えば、道徳的な動機から人を助けるとき、我々は道徳的満足感を得るために助けるというよりは、助けるべきだから助けるのである。もし仮に、道徳的満足感という快楽よりも、助ける労力が大きいとわかっていても、道徳的な人は人助けするのである。

また、例えば、好きな友達に愛されたいのも、決して愛される満足感を得るためだけではないだろう。もしそうだとすると、我々は友達に愛されると信じられるだけで満足するはずである。しかし、我々は愛されていると信じたいだけではなく、実際に愛されたいのである。

 

2.規範的快楽主義

心理的快楽主義は事実言明であるのに対して、規範的快楽主義は価値に関する以下の主張である。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求すべきである。

(追求することが当の人間や動物にとって、最も価値あることである)

ここでいう「べき」に道徳的な意味はない。あくまで、自分のために利己的・合理的に、追求することに価値があると主張しているに過ぎない。

 確かに、友情、達成、道徳など、快楽以外にも自分のために追求すべき価値はある。しかし、規範的快楽主義は、これらはあくまで快楽をもたらす手段として追求すべきだというのである。誰かと友達になっても、何かを成し遂げても、道徳的に振舞っても、それで楽しかったり満足感が得られなければ何の意味もない。全ては快楽を得る手段なのである、と。

 

確かに、快楽のみを目的として追求するという行動原則をとることはできる。しかし、それが私にとって最も価値があるとは思えない。快楽主義のパラドックスがあるからだ。

快楽は、直接の目的として追求してはかえって得にくいものである。快楽そのものではなく、快楽を生み出すものを直接の目的として追求したほうが、多くの快楽が得られるのである。

・道徳的な満足感は大きな快楽だが、自己満足のために道徳的行為を行うことは、道徳的な意義を損ない、かえって道徳的な満足感を損なう。道徳のために道徳的行為をしてこそ、道徳的満足感が最も得られるのである。

・少し話がずれてしまうが、道徳を目的として追求すればするほど、自他の利害は一致し、争いで傷つけあうことが少なくなる。自己中心的な人は、周囲との争いが絶えないのに対して、利他的な人は、誰からも愛される。どちらが多くの快楽を得られるかは明らかだろう。

・達成による達成感も大きな快楽だが、達成感それ自体を味わうために、達成を成し遂げようとすることは、達成それ自体を目的とする場合に比べて、モチベーションが弱い。達成を成し遂げたいという欲求は無条件な意志であるのに対して、達成感を味わえる限り、達成を成し遂げたいというのは、条件づけられた欲求に過ぎないからである。達成感それ自体のためではなく、達成を成し遂げるために努力してこそ、達成を成し遂げられる可能性がより高くなり、達成感も最も得られるのである。

以上より、快楽を目的として追求することは、かえって快楽を損ねてしまう。規範的快楽主義を取る理由はない。

 

以上の二つの立場は、記述的・規範的の違いがあるにせよ、評判が悪い。自分の快楽を直接の目的として求める・求めるべきという姿勢は、享楽的、利己的だと思われても仕方がないだろう。また、どこか自己完結していて、虚しいと思われても仕方がないだろう。

 

3.価値論的快楽主義

私にとってもっとも魅力的なのは、次の価値論的快楽主義である。

・我々人間や動物にとって、自分の快楽のみが、最終的な目的として価値あるものである。

一見、規範的快楽主義との違いが分からないかもしれない。しかし、「目的として追求すべき」ことと、「目的として価値がある」ことは全く別である。価値あるからと言って、直接追求すべきとは限らないのである。

実際、もし快楽に目的として価値があるとするならば、快楽主義のパラドックスにより、快楽を目的として追求することはかえって快楽を損なうから、快楽を目的として追求すべきでないことになる。

価値論的快楽主義は、他の価値に対して排他的でない。

たとえば、快楽以外の道徳や、(達成などの)人生の意味を最終的な目的として追求すべきではないとは主張しない。もし結果的に快楽を増進するならば、道徳や人生の意味を最終目的として追求することも奨励するのである。

快楽主義のパラドックスより、道徳や人生の意味を直接目的として追求することは、快楽を得る手段として追求するよりも、多くの快楽をもたらす。だから、価値論的快楽主義は、人生の意味や道徳を目的として追求する欲求と矛盾なく両立するのである。

確かに、人生の意味や道徳を追求することは、時として快楽の追求を犠牲にすることもあるだろう。何事も程度問題であり、人生の意味や道徳の過度な追求は、快楽を犠牲にする。もしそう判断された場合は、彼は自身の道徳的欲求や、意味に対する欲求を意識的に弱めようとするだろう。逆に、人生の意味や道徳に対する欲求が弱すぎて、自身の人生が空虚だと感じられた場合は、彼は自分の欲求を意識的に強めようとするだろう。

 

こう説明すると、結果的に快楽が増えるから道徳や人生の意味を追求しているのであり、結局道徳や人生の意味を快楽を得る手段として位置づけてはいまいかと批判する人がいるだろう。しかしそれは違う。

彼は、決して、快楽を得られる手段として、新たに道徳や人生の意味を追求しようとするのではない。彼はあくまで、既に道徳や人生の意味に対する欲求を持ってしまっている以上、それ自体のために追求するのである。単に、それらを快楽とは別に追求することが結果的に快楽という価値を損ねないから、欲求を抑制する理由がないだけである。

確かに、快楽を増進するという理由で、道徳や人生の意味に対する欲求を強めようとすることは、快楽を得る手段かもしれない。しかし、一度それが成功して欲求が強められたら、手段であったはずの道徳や人生の意味は目的となるのである。

 

道徳や人生の意味に対する欲求が強すぎれば抑制し、弱すぎれば強めようとする、この戦略により、価値論的快楽主義者は、人生の意味、道徳、快楽を目的として追求する欲求を、結果的に快楽が最大化するような適当な割合で保持する。彼は、時に快楽を目的として追求することもあるが、道徳のために道徳的に振舞うし、人生の意味のために盛大なプロジェクトを手掛けたりもする。彼は利己的快楽主義であるにも関わらず、十分に道徳的で実存主義的なのである

 

4.価値論的快楽主義の擁護

4ー1.経験機械の問題

多くの人は、現実世界の中で生きた人の生のほうが、経験機械で同じ経験をした人の生よりも良いと考える。前者には成し遂げたものがあるが、後者は何も成し遂げていないのだから、と。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の人生の価値は変わらないのである。

私は、我々は成し遂げることを目的として追求すべきだし、それゆえに経験機械で生きたくないと欲するべきだと考える。先ほど述べたように、快楽主義のパラドックスにより、達成感のためではなく、達成のために努力をしてこそ、より達成感が得られるからである。

経験機械の生が一見悪いと思われるのは、経験機械の生が嫌悪すべきものだからではないだろうか。もしそうであれば、これは価値論的快楽主義に反しない。

 

4ー2.不道徳な快楽と美しい快楽

多くの人は、同じ快楽でも、動物虐待によって得る快楽より、読書をしたり、高尚なクラシック音楽を聴くことで得る快楽のほうが価値があると考えている。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の快楽は同じである。これはどう説明できるだろうか。

ここで、道徳だけではなく、美そのものを目的として追求する欲求を持つことは、結果的にかえって快楽を増進するのではないかと思う。(知識についてもおそらく同様である)美的観照は大きな快楽である。しかし、快楽のためだけに美を追求する即物的な姿勢を取ることは、審美眼を曇らせる。また、知も、観照や技術を通してたくさんの快楽をもたらすが、知を快楽や即物的な利益のために追求していては、かえって知が得られないことは、古代ギリシャや近代の科学革命の例を見れば明らかである。

だから、動物虐待の快楽があまり良くないのではなく、快楽とは別に、動物虐待することを道徳的に嫌うべきなのである。美や知のもたらす快楽が特に良いわけではなく、快楽とは別に、知や美を好むべきなのである。これは、価値論的快楽主義に反しない。 

 

5.まとめ

快楽主義にも、快楽を直接追求すべき、という立場と、快楽の価値を間接的に追求しようとする立場がある。前者には賛同できない、快楽主義のパラドックスにより、直接快楽を追求することは、かえって快楽を損なうからである。対して、後者には賛同できる。快楽だけが価値あるものだと言っても、快楽以外の道徳や人生の意味を目的として追求すべきでないとは限らず、むしろそれらも適度に追求したほうが快楽はより多く得られるのである。

それだけでなく、快楽以外の、目的として追求すべき道徳や人生の意味は、経験機械の生や不道徳な快楽を我々がなぜ嫌悪すべきか、説明を与えてくれるのである。

私は、適度に道徳的に、そして人生の意味を追求しながら生きつつも、価値論的(利己的)快楽主義者として、自分がいかなる欲求を持つべきかについてしっかり吟味をして生きていきたいと思う。