安楽死について

 自殺に対する世間の印象は悪い。列車とびこみなどにより自殺は迷惑だと考える人もいれば、自殺は本人のためにもよくないと考える人もいる。しかし、私は自殺が道徳的に容認される場合や、本人のためになる場合もあると考える。また、それでもなお自殺が非道徳的で、非合理的な場合も多いため、これら自殺の問題点を解決するため、世に言う積極的安楽死制度を導入すべきだと考える。

 

1.自殺は本人にとって善い場合もある

 死ぬことは本人にとって悪いことだと考えられがちである。どんな死も葬式で悔やまれる。しかし、こういう世間の常識とは反して、どんな場合も生き続けたほうがいいとは限らない。臨床状態で苦に満ちた人生しか残されていない場合がそのいい例である。この例ほど極端ではないだろうが、自殺志願者について、生き続ける人生のほうが、今すぐ死ぬ人生よりも悪い可能性は原理的にありえるだけではなく、現実的にも多いのではないだろうか。

 もちろん、自殺志願者が、本当に自分が生き続けたほうがすぐ死ぬよりいい人生か、正確に比較できることはほとんどないだろう。正常な状態でもこれは困難であり、その大半は精神疾患を患っている自殺者の場合はなおさらである。自殺志願者は、過度に悲観的になって死を選ぶ傾向がある以上、死んだほうが自分にとっていいと考えていても、本当は死なないほうが良かった可能性があるからだ。だが、だからといって、本当に死んだほうが良かったという可能性が無くなるわけではない。

 

2.自殺が道徳的に容認される場合もある

自殺はいくつかの理由で不道徳だと言われる。

 まず、自殺は他者の悲しみや社会に与える損害を考えないエゴだと批判されることが多い。確かに自殺は利己的動機からなされることが多い行為である。しかし、エゴという点では、止めようとするほうも等しくエゴである。自殺が本人のためになる場合、道徳的な人であれば本人のために自殺を望むはずである。にもかかわらず、自分が悲しいから、自殺を止めるというのも同じくエゴではないだろうか。エゴというのは不道徳である理由にはならないのである。

 つぎに、命や身体は自己だけではなく、同時に社会も所有していて、勝手に処分していいものではないという反論がある。この前提を仮に疑わないとしても、もし生きていて周りや社会の負担や迷惑にしかならない場合はどうだろうか。その場合、言い方は悪くなるが、彼自身は事実上社会にとって「負債」である。自発的な死をもって社会の負債を(かってに)返済するのも不正だとは言えないだろう。

 同様の反論として、自殺が物理的に、もしくは心理的に他者に危害を加えるという反論がある。しかし、生き続けたほうが社会や家族ともに大量の医療費がかかり、家族には心労がかかるといった場合もある。その場合、自殺をしたほうが迷惑が少ないという可能性だってあるだろう。

 上記では、死ぬよりも生き続けるほうが、社会や家族にとって悪い(迷惑な)場合を問題としてきた。しかしそれ以外の場合でも、生きる苦が、周囲の悲しみや社会の損失を上回る場合は、功利主義の立場をとれば、自殺は正当化可能であるように思われる。

 

3.現行の自殺の問題点

以上の主張にも関わらず、現行の個人的な自殺には問題点がある。

 まず、合理的に行われていない自殺が多い以上、本当は本人のためにならない自殺も多いと考えられる。それに、逆に自殺をしたほうがいいのに自殺に踏み切れない人たちもおり、彼らにとっては自殺という手段が不十分である。

 また、どんな手段を取っても、自殺は周囲に迷惑をかけることが多い。電車飛び込みや高所からの飛び降りはもちろん、首つり自殺であっても、処分費用や不動産価値の下落など、かなりの手間とコストを周囲に強いる。

 

4.積極的安楽死について

3.の問題点等を解消するために、私は下記の積極的安楽死を導入すべきだと考える。

流れとしては、まず本人がカウンセラーや家族に対して希死念慮を表明する。カウンセラーは別の選択肢を提示し、家族は希死念慮をなくすサポートを行う。また、家族と本人の間で互いの気持ちを理解するためのコミュニケーションを十分にとる。それでもなお、一定期間後なお継続的に死にたい意思がある場合、医師が薬物投与して安楽死させるというものである。ただし、次の条件をつける。

まず、社会へ与えるコストや機会損失の対価として、数百万程度の料金や、臓器ドナーの義務を課す。あと、当然犯罪者や債務を抱えた人は利用不可とする。また、安楽死を幇助する医師は決して強制されず、自由意志で行う。(志願者がいない場合は制度を凍結する)

 

5.積極的安楽死のメリット

上記の積極的安楽死には確かなメリットがあると思われる。

まず、カウンセラーや家族と相談し、自己の気持ちや考えを整理したり他者の考えを聞くことにより、非合理的な自殺を減らせる。また、自殺場所の管理ができるうえ、死体の処置が楽になり、社会的なコストが最小限で済む。

さらに、自殺のハードルが下がり、以前は苦しみながらも死ねなかった人も、手軽に死ぬことができ、苦痛を回避できるようになる。それだけではない。これにより、苦しくてもすぐ死ねないという死にたい理由の一つであった苦痛が解消される。二重の意味で、希死念慮を抱く人の苦痛は減るのである。

 

6.積極的安楽死に対する反論と再反論

以上に述べたメリットにも関わらず、いくつかの反論が考えられる。

 まず、いくら社会的なコストが減っても家族等の悲しみはなくならない(それゆえに道徳的に正当化されない)という点がある。しかし自殺したい本人の気持ちを家族がくみ取り、自殺したほうが本人のためになることがわかれば、少しでも悲しみは軽減されるのではないだろうか。それでもなお、自殺志願者が死ぬのが悲しいのならば、心理的なケアや金銭的な援助を行う等、なにがなんでも自殺させない手だてを家族等は取るはずである。それでもし死を思いとどめさせるほどの支援をする気にならなかったということは、悲しみの程度も限られているのでは無いか。

 対して、死ぬ本人は家族の悲しみを踏まえてでも死にたいと決意したわけであるから、相当生きるのがつらいと考えられる。ゆえに生きる苦しみが周りの悲しみを上回り、安楽死が道徳的に正当化される可能性は高い。

 次に自殺のハードルが下がることにより死ぬ人が増えるという懸念が考えられる。しかし、仮に死ぬ人が増えたとしても、それが必ずしも悪いこととは限らない。死んだほうがその人のためになるような人もたくさんいるのである。また、簡単には死ねない苦痛が解消されることで、希死念慮が弱まるという効果があると考えられるため、自殺も加えた死亡者数は全体として減る可能性もある。

 最後に、死にたくない人が社会的な圧力により死を選択させられる可能性を懸念する人が多い。これに対しては、カウンセリングで、患者自身が家族や社会の負担になっていると感じているかについても調査を行い、該当する場合は本人の意思に関わらず安楽死を控える等の配慮が可能である。

 また、安楽死の選択肢のない現状では、生きたくないけれども、自殺の周囲への迷惑を考えたり、自身で自殺をするほどの精神的・身体的余力がなく、生を選択せざるをえない人がいる。死にたくない意思ばかりを尊重するばかりに安楽死制度に反対し、そのために生きたくない意思が犠牲にされている現状を肯定するのは不当である。

7.まとめ

自殺が本人にとって善く、道徳的にも容認される場合はある。しかしそれでも、現行の自殺は非合理的で不道徳な場合も多い点は否めない。ただ、上に述べたとおり、積極的安楽死という制度で自殺という手段を補完することで、その非合理性や不道徳性の大部分は軽減できると思う。もちろん、積極的安楽死は悪用される懸念がある以上、運用は慎重に行うべきだと思うが、この制度は、そのリスクを補ってあまりある利益を、希死念慮を抱く人および社会全体に与えるものだと思う。

今の日本では、生きたいという意思や権利が神聖不可侵として扱われている。もちろんこれは重要である。生きている限り、生きたいという根源的な利害は尊重されてしかるべきである。しかし、死にたいという意思も、生そのものに関わる以上、生きたいという意思に劣らず根源的で尊重されてしかるべきではないだろうか。

思考の節約について

1.思考は私にとって快楽である

世の人には、思考が嫌いな人も多いようである。彼らは思考をもっぱら日常生活に成果を還元するための手段とみなすようである。対して、私は思考すること自体が好きであり、思考で得られる結果とは関係なくその過程が好きなのである。

 思考といってもいろいろある。一つのことについて多くの事柄を考える個別的な思考もあれば、多くのことについて普遍的なことを考える哲学的な思考もある。限られたことについて、いろいろなことが言えるのは当たり前である。対して、多くのことについて同じことが言えるのは非自明で驚くべきことである。したがって、私は後者の思考をすることに対してより大きな満足や達成感を抱くようである。

 

2.思考の希少性

 しかし、社会人である私が思考に使うことのできる時間は限られている。私の人生はせいぜい80年しかなく、その大部分が労働に占められている。余暇に恵まれている時ですら、思考が回る時間はわずかしかない。また、思考に使えるハードウェア、知能や素養や(ワーキング)メモリや記憶も、全てがきわめて限られていて、希少である。

 以上に述べた思考のリソースの制約にもかかわらず、私が思考すべき世界はあまりに多くの物事で溢れている。我々の世界は、ただですら取り留めがないほど莫大なのに、日を追うごとに新しい物事がどんどん追加されていく。日々押し寄せる新しい事実の荒波に、圧倒されんばかりである。

 それでもなお、世界全体について十分に考えるには、思考の節約が必要となるだろう。思考の節約とは、出来るだけ少ない思考のリソースで、出来るだけ多くの事実を考えることである。

 

3.思考の節約の例

 例えば、多様な事物を一つの概念で把握することが思考の節約術の一つである。我々一人ひとりを人間という概念でまとめて把握することがあるだろう。これにより、例えば私の足が二本あり、あなたの足が二本あり…という無数の命題を、人間の足は二本である、という一言でまとめて考えることが出来る。抽象化は、時間、能力やメモリーの観点から考えて、極めて有効な思考の節約である。

 また、多数の命題を一つの原理から演繹的に説明することや、多数の概念を一つの概念で定義することも思考の節約になる。例えば、ニュートン万有引力を発見する以前は、アリストテレスの伝統にしたがい、恒星の運動と地球の重力による自由落下は別の原理によるものとされていた。しかしニュートン万有引力という共通の原理で両者を説明した。これ自体が偉大な発見であるが、思考の節約という観点から見ても、従来は別々の原理を念頭に置かなければ理解できなかったものが、一つの統一的原理を知れば説明できるようになったのだから、メモリーや記憶の節約となり、大きな進歩であるといえる。多種多様な概念を一つの概念を用いて定義するというのも、念頭に置くべき要素を減らすことができ、より思考がシンプルになるという点で思考の(メモリーの)節約であるといえるだろう。

 

4.思考の節約のデメリット

 しかし、思考の節約は時に思考の正しさや深さを犠牲にする。例えば、先の例で挙げた「人間の足は二本である」という言い方をしてしまっては、足を失った障碍者について誤りをおかすことになる。我々一人一人を人間という一般概念で代表させることは、思考の節約と引き換えに精度を犠牲にしているのである。

 思考の節約とは、一種の近似である。必ずしもすべてに当てはまるとは限らない概念を用い、原理を仮定することで、思考を簡便にする近似式のようなものなのである。数学で近似を用いるときは、いつも誤差がどれくらいの範囲に収まるか評価するものである。思考の節約においても、近似化の粗さには常に自覚的であり、粗が目立つようであれば近似式を見直す用意がなければならない。間違っても、近似式に現実を当てはめようとする誤謬は犯してはならないのである。

 思考の節約による近似で特に見過ごされがちなのは、細部に宿る違いである。美学ではこれが致命的になる、建築家の残した、神は細部に宿り給う、という格言のとおりである。思考の節約は、どのような分野でも有効であるとは限らない。

 

5.思考の節約の重要性

 ただ、我々のいかなる思考も言葉を使う以上、ある程度の一般化は免れない。どんな思考も100%正しいということはありえず、いくばくかの単純化・近似化を含む。思考の節約は何も特別なことではなく、程度問題なのである。扱う事物の性質によって、つまり細部が重要なのか、それとも細部は非本質的で大枠が重要なのかに応じて、近似の度合いを変えることが必要であるといえるだろう。

 また、思考の節約を行うからと言って、思考の正しさや精度を追求することをずっと怠るわけではない。簡便な方法で物事について一通り考えてから、余った思考のリソースを後から理論の改善に充てることも出来るのである。最初から正しく深い思考を心掛けるよりも、最初は簡便で近似的な理論を措定してから、徐々に改善・洗練させていくほうが思考を網羅的に、そして効率的に行うことができるのである。

 以上より、思考の節約にはデメリットはあれ、余りある多大な効用があること、そして我々がすでに日常的に行っていることが示せたと思う。私は積極的に、しかし自覚的かつ注意深く思考の節約を活用していこうと思っている。

 

6.思考の節約の実践

 ではいかなる方法で思考の節約を行おうか。私は、例で挙げたような、演繹的な説明が出来る理論体系をこしらえることで思考の節約を行いたいと思う。演繹という一から多を説明する操作は、思考力は消費するものの、記憶力やメモリーの節約になる。しかも、この理論は極力登場する基本概念が少なく、明晰であるのが望ましい。これは、複雑な思考を避けるためである。先ほど述べたように、もちろん世界はそんな単純ではない。数少ない概念と仮定からすべてを説明するのは無理があるだろう。

 それでも、そういう世界の多様性や複雑性を、単一な原理や概念を用いて明晰に説明しようとしてこそ、(思考の節約になるのみならず)知的な価値があると私は考えている。もともと世界が多であるのは当たり前なのである。それをいかにまとめて説明するかという点でこそ、我々の知性は試されているのではなかろうか。

 また、多様性が単一な原理や概念で説明されるということは、美しくもあると思う。多様な自然界が、一つの波動方程式で説明されるということや、少数の公理から、数々の非自明な定理が導出されるのは、それ自体が美しい奇跡ではなかろうか。

 以上より、思考の節約という観点以外からも、私が目指すところは価値あるものであるように思われる。世の人は正しいことが真理だと考えているようだが、私に言わせれば理論性、シンプルさ、明晰さも、正しさや深遠さに劣らず真理の価値に寄与するものなのである。

 

独我論と他者実在論はいかに両立するか

独我論と他者実在論、利己主義と道徳性はしばしば対立するものだと考えられている。しかし私の中では、それぞれが異なるレベルで両立している。それがいかに可能かを以下で説明したい。

1.素朴独我論

全ての実在は経験である。例えば、知覚はもちろん、認識、想像、感情、思考などの精神的活動、およびこれらの対象(客観、イメージ、好き嫌い、命題、言葉)全てが経験である。経験は意識と言い換えてもいい、しかし意識する主体、つまり私は経験されず、ただ意識されるものだけがあるのである。

これだけならば、この(私の)意識がすべてであるという素朴独我論が成り立つ。しかしこの素朴独我論の世界には、他者どころか、それと対比される私という概念すら居場所がない。私は、確かに私は素朴独我論は正しいと思うが、世界がそれだけしかないのは不満である。そんな貧相な世界の中で完結して生きていたくはないのである。したがって、私は以下に述べる類推により世界を拡大したくなる。

 

2.身体と経験の対応関係

よく注意してみると、経験の中でも、特殊な経験がある。身体、それものちに「私の」身体と呼ぶ唯一のものに関する認識がそれである。それはどういう点で特殊なのだろうか。

たとえばそこらへんの石ころが真っ二つに割れたとする。それでも、石ころに関する知覚の経験が少し変わるだけで、ほかの経験に何の影響もないだろう。それに対して、この身体、例えば手が少しでも傷つくだけで、痛いという強い経験が引き起こされる。手の機能が停止するほど傷ついたら、手を通じて得られていた知覚経験そのものが無くなってしまうだろう。さらに類推すると、身体活動が停止してしまえば、この経験の全体もすっぽり消えてしまうと考えられる。

経験の一部をなすに過ぎないこの身体(特に脳)の活動が、経験の全体に対応している。こんな不思議なことがあるだろうか。しかもそれだけではない、外から見ればこの身体とほぼ同じ構造、機能をしている他の身体が無数にあるのだ。

 

3.他者の措定

もしこの経験がこの身体に対応しているのならば、他の身体に対応する別個の「経験」があると類推することができる。この経験を私の経験、別個の経験を他者の「経験」と呼ぶ。

経験について - 思考の断片

上の記事で説明したとおり、この他者の「経験」は確かに経験ではない。言うまでもなく、他人が感じたり、考えることをそのまま知ることはできないし、そのような精神活動の主体としての他人そのものも認識できないからだ。

私の独我論について - 思考の断片

しかし、この記事に述べたように、他者を尊重するような人間関係の中で生きたい私には、この他者の「経験」というのはどうしてもなくてはならない要請なのである。もし他者に「経験」が無ければ、他者は石ころ同然のモノ、単なる身体にすぎないだろう。そんなたかがモノとの関係では私は満足しないのである。

それゆえに、無いはずの他者の「経験」を私は経験として在るかのごとく措定する。それは命題として『他者の「経験」が存在する』ことが正しいと信じることではない、態度として他者の「経験」があるかのごとく、振る舞うことである。

他者の「経験」があるかのごとく振る舞うとはどういうことなのか、説明しよう。まず、他者不在の時の私はどのように振る舞うだろうか。他者がいないとなると我々は自分内部の経験だけを考えて行動するはずである、つまり自分の経験で自分にとって善いものを追求し、悪いものを忌避する。例えば喉が渇いていると、私の渇きが癒えるという善い事態を引き起こすため、水を飲みに行くという行為を取る。

しかし、もし他者の「経験」があると考えれば、私の経験以外に、他者の「経験」でも、私にとって善いものと悪いものがあるはずである。例えば、大切な人が苦しむという他者の「経験」は私にとっても悪いものだから、大切な人に協力してその事態を避けようとするだろう。逆に憎い人が苦しむという他者の「経験」は私にとって善いものだから、それを引き起こすように意地悪をするかもしれない。

つまり、他者の「経験」があるかの如く振る舞うとは、その「経験」を私にとっての善として追求したり、悪として忌避する態度のことを言う(※)のである。

 

※ある事態を善いものとして追求することが合理的であるためには、その事態がある(ありうる)と信じていなければならないだろう。例えば、幸せになりようもないと分かっているのに、意識のないロボットに、幸せになってもらうよう努力するのは全くの不合理なのである。他者の「経験」が「ある」かの如く…という場合の「ある」は、倫理的実践の前提となる信念なのである。

 

 

4.道徳の成立

私の経験が私にとっての善悪を持つならば、他者の「経験」が他者自身にとっての善悪も持つと考えるのが自然だろう。善悪も経験同様、私にとっての善悪と、他者にとっての「善悪」の二種類があり、後者は厳密には経験とは言えないものである。しかし、後者の「善悪」を全く無いものとして無視することは、私にはできない。それは完全に冷酷なエゴイスト、非人間にしかできない所業であろう。

他者にとっての「善悪」を、あたかも自分にとっての善悪であるかのように追求もしくは忌避する態度、これこそが道徳的態度である。この意味では、私を含め、我々は誰しもある程度は道徳的である。(※)

 

※しかし、私も皆も、「完全に」道徳的ではない。

道徳について - 思考の断片

この記事で定義したとおり、「完全に」道徳的とは、他者にとっての「善悪」を私にとっての善悪と「等価なものとして」追求もしくは忌避する態度のことである。誰だって、自分が一番かわいいのであり、自分にとっての善悪は、他者にとっての「善悪」に優先する。皆が実際には完全に道徳的ではないからこそ、当為としての道徳がある。私は当為としての道徳に従おうとするという意味では、道徳的とは言えない。

 

以上のとおり、(最初の意味であれ、当為としての意味であれ)道徳は他者を措定するからこそ成立するものであることがわかるだろう。もし他者がいないのだとしたら、他者のことを慮るというのは完全に無意味になる。他者不在でもなお成り立つ倫理といえば、己を意識するまでもない、利「己」主義くらいではないだろうか。独我論者の倫理は必然的に利己主義である

 

5.それでも独我論・利己主義

上記のとおり、私は、他者の「経験」と他者にとっての「善悪」を措定しており、それらに一定の実在性を認めている。しかも私はある程度道徳的である。しかしそれでもなお私自身は根っこでは理論的には(素朴)独我論者で、倫理的には利己主義者ではないかと思っている

前者の理由は、実践上は他者の存在を前提としていても、理論上は、存在するのは(私のものと後に呼ぶ)この経験だけであるという確信があるからである。他者も、私自身がよく生きるための要請から私が作ったものにすぎず、私の経験の一部に過ぎないのである。この意味では私は他者に実在性を認めていない。

後者の理由は、いくら私が道徳的であるとはいえ、結局は自分が生きたいように生きるために、道徳的態度をとっているに過ぎないからである。他者にとっての「善」を追求したいというのも、広い意味で言えば、私自身のためである。この広い意味で言えば、私は「ある程度道徳的な」利己主義をとっていると言える。

以上に説明した通り、私は、独我論・利己主義と他者実在論・道徳性は異なるレベルで両立すると思っている。ただ、前者のほうがより根本的であることは強調したいと思う。私の都合でこそ他者は措定されたのであり、私のためにこそ、他者のためを思うのである。

善く生きるとは何かを問うのはなぜか

私は長らく、よく生きることは何かという問いに興味を持っている。よく生きるとは、自分にとって幸せだといえるような生き方をすることだ。例えば、私が好きな食べ物を今日食べることは、わざわざ嫌いな食べ物を食べるよりもよく生きることだし、おそらく仕事をすることも無職でいるよりはよいことなのだろう。

 

このような例を挙げると、よく生きることは一見、やりたいことや欲しいものをひたすら追求する当たり前のことだと思われ、そもそもなぜ問いが生じるのか疑問に思うかもしれない。しかし、実際はそう単純ではなく、欲しいものをなんでも追求することは最善とは限らない。以下でいくつかの理由を述べる。

 

まず、そもそも欲求の充足が全て善いこととは限らないからである。

・偽の欲求

例えば子供のころ、今振り返ってみればいらなかったものが欲しかった経験をした人は多いと思う。また、大人になっても、欲しかったものを手に入れても心が満たされないことは往々にしてある。

・外的に刷り込まれた欲求

CMなどを見て欲しいと思ったものを入手したところで、それは善いと思わされたものにすぎず、自分にとって本当に善いものとは限らないのではないか。

・遠隔の欲求 

仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲したとして、その病人の病気が私が知らずして治ったところで、私にとって善いことだろうか。

 

また、善いものを正しく捉えた欲求でも、ひたすら追求してればいいというものではない。

欲求は満たされると善いものだが、逆に満たされなければ悪いものである。実現可能な欲求は追求するに越したことはないが、実現が困難な欲求は、追求するよりもあきらめたほうが、欲が満たされない悪を避けられることが往々にしてある。

 

 

だからこそ、今私が求めているものが本当に善いのか、そして追求するべきかという実践的な問題や、そもそも善いこととは何なのか、という哲学的な問題が生じるのである。この問題こそ、私が生涯かけて考えていくべきものだと思っている。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか

 1.死が恐いのは、死が悪いからではない

 私は死が怖く、それゆえに先延ばしにしている。私にはどうもその私の行動が合理的なものには思えない。つまり、死が私にとって悪いから避けているのではなく、ただ怖くて避けているだけではないかと思われるのである。

ただ、もし死が悪くないにも関わらず、恐ろしいものだとするならば、その恐怖の説明が必要だろう。以下で私がなぜ自身の死を怖いものだと感じているのか説明する。

まず、死そのものではなく死ぬまでの過程は間違いなく苦痛で悪いものである。死ぬまでの過程と、死そのものは全くの別物であり、私は理屈の上では峻別することが出来る。しかし、私が死を怖いと意識するとき、両者はそんなに厳密に区別されていないように思える。頭でわかっていても、死ぬまでの苦痛に対する怖さに引きずられて死を怖いと思っているのではないだろうか。

次に、私は感覚としては、死んだあとどうなるかが分からない。もしかしたら天国に行く可能性もあれば地獄に落ちる可能性もあるのなら、そのリスクを避けたい(先延ばしにしたい)と思うのも自然だろう。しかし、私は理屈では死後が単なる無だと考えている。意識が脳の活動に対応して存在するならば、後者が止まったら前者も無くなるのが道理というものだろう。私の理屈が正しいか否かはともかく、感覚として死後がどうなるかわからないというのは拭えない。だから怖いという感覚が残ってしまうのではないかと思う。

以上の二つの理由によって、私は私自身の死に対する恐怖がある程度説明できるのではないかと思う。(皆の場合はどうだかわからないが)死が怖いのは、死が悪いからである必要はなく、別の理由があるのである。

 

怖いからと言って、死が悪いとは限らないとわかったところで、次に私にとって死が悪くないと考える理由を説明したい。

※ここで、私は「快楽主義者の私にとって」と但し書きを強調したい。快楽主義者の私と考え方や価値観が違う他人にまで、私の考え方は通じるか分からないからだ。

 

2.快楽主義について

私がとる、快楽主義という立場についてまず述べよう。

快楽主義:私にとって善いのは快楽のみであり、悪いのは苦痛のみである。

私の快楽主義について - 思考の断片

上の記事で述べたように、何を快楽と考えるかに関して私は特殊な考え方をしているが、私が快楽主義者であることに相違はない。

 

快楽主義は、あるものを価値あるものたらしめるのは、快楽もしくは苦痛(を含むこと)のみであるとする立場のことである。それによれば、例えば、おいしいものを食べることが善いことなのは、それが快楽を伴うからであって、おいしいものを食べたいという欲求が満たされるからではないのである。また、人生が善いか否かも、どれだけ多くの快楽や苦痛を伴うかで決まるのである。

たしかに我々は快楽以外にも様々なものに価値を見出す。例えば、快楽だけではなく、欲求が満たされることや、有意味であることも善いことではないか、と思う人は多いだろう。快楽主義者も、これらが快楽や苦痛を生み出す限りにおいて、派生的に価値があるものとは認めるだろう。しかし、善悪の最終的な由来は快楽や苦痛のみであるとする点において、彼らは一般の人と考えが異なるのである。

 

3.死が悪いか否かという問題の明晰化

さて、「死が悪いか否か」の問題に戻ろう。これを問う前に、まず概念を明晰にしなければならない。まず、先ほども区別したように「死」は、生きている間死ぬまでの過程ではなく、生から死へと移り変わる瞬間的な出来事を意味するものとしたい。

また、「悪い」というのは「私自身にとって」という利己的な意味における悪である。道徳的な悪でも、残された近しい人にとっての「悪い」ではない点に注意が必要である。

最後に、注意深く考えてみると、死には二つの側面がある。

まず、死は生の剥奪と考えられている。ある時点で死ぬということは、もし死ななければ生きられたであろうその後の人生が無くなることであると言われる。

同時に、そしてよりシンプルに考えれば、死は消滅である。生きていた時に存在していた私がまるごといなくなる、それが死という出来事である。

これら死の二つの側面に対応して、「死が悪いか否か」という問題は二つに分けられる

一つ目は、「より早い死はより遅い死より、多くの生を剥奪するから、結果として相対的に悪いか否か」という問題である

「死ぬほうが悪いから、生き続けたい」という場合は、この意味で「死が悪い」と言われている。厳密には「より早い」死が悪いのであって、このカッコが省略されていると考えていいだろう。

二つ目は、「死は(遅かれ早かれ)、私自身がまるごと消滅するから、それ自体として絶対的に悪いか否か」という問題である

足を骨折することは、(先延ばしに出来たほうがいいかもしれないが)それが早くても遅くてもそれ自体として悪いことだろう。死もこのような意味で悪い出来事を構成するか否か、というのが、二つ目の意味である。

両者の違いは、次からわかる。(仮に悪いとした場合)一つ目の悪は、死を先延ばしにすることにより避けられるが、二つ目の悪はいくら先延ばしにしても避けられない。また、一つ目の意味で死が悪いとしなくても、つまりいつ死が降りかかっても善し悪しに変わりがなくとも、なお死が悪いという可能性がある。逆に、死そのものが悪くないとしても、人生を楽しめないぶん早い死のほうが悪いという可能性があるだろう。

さて、私は、いずれの問いに対しても否、と答えたい

 

4.二つ目の意味で、死は悪くないことの説明

4-1.annihilation account

まず、二つ目の意味で死が悪いと考えられる説明として、次を挙げたい。

1.私は生存したいという強い欲求選好を持っている。

2.死という出来事は私を消滅させるため、この欲求を挫く。

3.1.と2.ゆえに死そのものが私にとって、端的に悪いことである。

これは死の悪さに対する「消滅による説明(annihilation account)」と呼ばれる。

 

4-2.annihilation accountに対する反論

1.は当てはまる。2.も否定しようがなく正しいだろう。しかし快楽主義者である私は、3.の推論を受け入れない

なぜだろうか。まず、快楽主義が悪いと考えるのは苦痛のみで、生きたいという欲が挫かれることは、本来的に(intrinsically)悪いことではない

ただし、通常、欲が挫かれることは、苦痛を伴う。例えば、水や食べ物が欲しいという欲求が満たされなければ、渇きや飢えによる苦痛が生じるし、より一般に、したいことが出来ないというのは苦痛である。

しかし、生存したいという欲求は一つの例外である。生きている間はこの欲が挫かれることはない。そして欲求が挫かれる死の瞬間もしくは死んだ後は、その欲が挫かれたこと、そしてそれによる苦痛を経験する私がそもそもいない。ゆえに、生存したいという欲求が挫かれることにより、私が苦痛を経験することはない(※)のである。したがって、生きたいという欲求が挫かれることは、派生的にも(derivatively)悪いことではない。

以上より、快楽主義者の私が生きたいという関心を持ちつつも、死ぬことはなお私に悪いことではないことが分かるだろう。そんなのナンセンスだという人がいるかもしれないが、それが私にとっての「悪」の意味である、悪とはあくまで苦痛が経験されてこそ悪なのである

 

※強いて言えば、将来死ぬと「知る」ことで苦痛を被ることはあるかもしれない。将来死ぬと知ることには二つの意味がある。一つは「すぐ死ぬ」と知ること、もう一つは遅かれ早かれ「いずれ死ぬ」と知ることである。

まず、すぐ死ぬからといって、すぐ死ぬことを知る必要はない。突然の事故や暗殺により、知らずして死ぬこともありうる。だからすぐ死ぬこと(による苦痛)と、すぐ死ぬと知ること(による苦痛)は全くの別物で、後者はあっても前者はないと考える。

対して、いずれ死ぬと知ることは、いずれ死ぬこととは切り離せないだろう。いずれ死ぬことは確定している以上、いずれ死ぬと知ることは避けられない。したがって、いずれ死ぬと知ることによる苦痛を、いずれ死ぬことによる苦痛に含めて考えるのもおかしくはない。ただ、この苦痛は無視できるほど微々たるものである

 

5.一つ目の意味で、死は悪くないことの説明

 

さて、先ほど述べたように、仮に二つ目の意味で死が悪くないとしても、一つ目の意味で死が悪くないとは限らない。その議論を以下に述べる。

 

5-1.Deprivation account

快楽主義の仮定から、次を述べていいように一見思われる。

1.快楽は常に善であり、善の度合いは快楽の量に一致する。苦痛は常に悪であり、悪の度合いは苦痛の量に一致する。

 

次に、

2.私の人生が全期間を通じて快楽で満たされていると仮定する

すると、

3.2.より、s<tとすると、時点sで死ぬ場合、時点tで死ぬ場合に比べて私が経験する快楽は減る。

したがって、

4.時点sで死ぬことは、時点tで死ぬよりも、結果として相対的に悪いことである。

 

要するに、2.を仮定すればの話だが、時点sで早めに死ぬことは、時点tまで生きれば得たであろう快楽の善を「奪う」がゆえに、より悪いというのである。これは死の悪さに対する「剥奪による説明(deprivation account)」と呼ばれる。

 

5-2.Deprivation accountの仮定に対する反論

もっともらしい説明である。しかし、少し違和感がある。時点sからtまでの快楽の善が「奪われた」というが、いったい誰から奪われたのだろうか。私が時点でsで死んでしまうと、時点sからtまでの快楽を経験したかもしれない主体の私すらいないのである。被害者不在の剥奪というのは、果たして悪いことなのだろうか、そうは思えない

あと、もしこの説明を受け入れると、より多くの快楽を経験するためにより長く生きるべきということになる。しかしこれは逆であって、より長く生きるからこそ、より多くの快楽を我々は必要とするのではないだろうか。生の器があるからこそ、それが快楽で満たされるのが望ましいのであって、より多くの快楽を満たすために、大きい(長い)生の器を用意するというのは本末転倒ではないだろうか。

では上記の議論のどこがおかしいのだろうか。1以降の推論は私も正しいと思う、したがって私は1.そのものがおかしいのではないかと思っている。

快楽は本当にどのような場合も善いものなのだろうか。快楽を経験する主体が存在しない限り、善くはないものではないだろうか

例えば、仮に実際には私がいなかったとしよう。その場合、私が快楽を経験しているという仮想的な事態は善くも悪くもないはずである、その人にとって善いまたは悪いと言えるところの私が存在しないからである。

同様のことは、私の死についても言えると思われる。実際に時点sで私が死んでしまったとしよう。その状況を基準にすれば、時点tでもし私が生きていれば経験したであろう快楽になど、何の価値もないのではないだろうか

※対して、基準を変えれば、つまり時点tで私が生きている状況を基準にすれば、時点tまでに私が経験した快楽は価値のあるものである。どの状況を基準に考えるかによって、ものごとの善しあしは変わるのである。

 

5-3.議論の修正

以上を踏まえると、1.は次のように訂正される。

1’.時点tの(私が経験したであろう)快楽は、私が時点tで実際に生存する場合に限って善いものである。その場合、善の度合いは快楽の量に一致する。苦痛は常に悪であり、悪の度合いは苦痛の量に一致する。

そうすると、もし実際に私が時点sで死ぬ場合2.を仮定して3.が成り立っても、4は成り立たない。なぜならば、死んだs以降の快楽は善ではないからである。

4’.時点sで死ぬことは、時点tで死ぬよりも悪いことではない。

 

※以上は、実際にWs:私が時点sで死ぬ場合を基準とした場合の比較で、実際にWt:私が時点tで死ぬ場合を基準にすれば、Ws:時点sで死ぬことはWt:時点tで死ぬことより悪いではないか、と反論されるだろう。もちろんそうである。

しかし、事態WtがWsよりも善いと言えるためには、Wsを基準にしてもなお、Wtが善いと言える理由がなければならないのではないだろうか。そうでなければ、Wsでも構わないことになってしまい、WtがWsよりも善いとはいえない。

ゆえに、事態WtはWsより善いとは言えない。つまり、仮に人生が快楽で満たされていても、遅く死ぬことは、早く死ぬよりも善いとは言えないのである。

 

長くなったが、以上より一つ目の意味でも死が私にとって悪くないことが示された。

 

6.まとめ

私にとって、死はそれ自体として悪いわけではないし、より早く死ぬことが遅く死ぬより比較的に悪いわけでも無い。したがって、私にとって死ぬべきでない理由は無いことになる。では逆に死ぬべき理由はあるかと聞かれると、(議論は割愛するが)あると答えるだろう。つまり、合理的に言えば、私は自殺をするのが最善なのである。

にも関わらずそれを先延ばしにしているのは、偏に私の不合理性ゆえだろう。人生はやめてしまったほうがマシだが、それでもやめられないものである、というのが私の死生観である

反出生主義の試論2

私は反出生主義として、子供を生むことは道徳的に悪いことだと主張してきた。対して、当記事では、子供を生むことが不当であることを示したいと思う。

 

1.生きる努力について

世の人は当たり前のように、自分にとって最善の結果をもたらすための努力ができる。彼らは例えば自分自身のコンディションを維持するために、体の手入れや適度な運動を欠かさず行うことができるし、放置すると余計に面倒になる行政の手続きを面倒くさがらずに行うことができる。また彼らは生活のためには大変な仕事ですら平然とやってのける。これらに共通するのは、長期的な利益のために、意に反して嫌なことをする努力ができるという点である、私はこれを生きる努力と呼びたい

 

しかし私は、大人になった今でも総合的に見ていい結果をもたらすことでも、面倒くさくてできないことが多い。そのため、親にはこの歳になってもやるべきことをやれと注意されることが多い。私はそういう時いつも思うのである、嫌なことを避けて通れればどれだけよかったと。そして、嫌なことを避けてはろくな人生が歩めない人生の仕様がいかに理不尽なものかと。

 

2.生きる努力と生の善さについて

ところで、世間の人は、大半の人の人生は全般的に見て善いものだと考えているように見受けられる。彼らは特段の厭世的思考に陥っていないし、子供を生む際も、生むのを躊躇しないほどには子供が幸せになると信じて疑わないのである。確かに彼らの言う通りなのかもしれない。実際、生まれないほうが良かったと嘆く人はごく少数であり、最近の世論調査からわかるように大半の人は生活に満足しているのである。

 

しかし彼らの善い人生は、彼ら自身の不断の生きる努力で勝ち取られていることも忘れてはいけないだろう。もし彼らが上述の「生きる努力」を怠る場合は、彼らはろくな人生を送れないことに、世の人も同意するだろう。それどころではない。生きる努力の中でも最たるもの、仕事をしなければ生きることすらかなわないだろう。もしくは、生きる努力を拒むために自殺をするという究極の選択肢も一応ある。これらは悲惨な生を送るよりも悲惨な顛末であるように思われる。

だからこそ親たちは、躾を通じて「生きる努力」ができる「大人」に育て上げようと試みるのである。

 

ゆえに、人生は生きる努力を行って善き生を手に入れるか、努力をせずに悲惨な人生を送るか(もしくは自殺するか)の二択である。とはいえ、多大な苦痛を代償とするため、後者を選ぶ自由は実質上無いも同然であり、努力をなんとかして行おうとする前者以外の選択肢は実質的に無い。つまり、嫌な努力を強いられているといえる。

 

3.生きる努力が強いられる人生の不当性

さて、生きる努力を強いられることは理不尽だと私は考える。全体的に利益になるからといって、なぜわざわざ毎日風呂に入って歯を磨き、身だしなみを整えなければならないのだろうか。なぜ生活のために仕事をすることを強いられなければならないのだろうか等々、様々な不満がある。果たして私の主張は正しいのだろうか。

 

これまで述べた人生の仕様は例えば次のようにモデル化できる。

 

a.生きる努力(100の苦痛=コスト)の労を払えば、200の喜びに満たされた人生を送ることができる。(人生は全般的に善いものと仮定しているため、喜びのほうが大きいとする)

b.生きる努力をしなければ200の苦痛に満たされた人生を送る(もしくは自殺する)ことになる

c.以上a.b.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

 

まず、上で言ったように、b.にもかかわらず、大きい苦痛200は避けなければならないため、実質的に生きる努力をしない選択肢はない。だから、①を強いることは②を強いることと等価である。

 

a'.生きる努力(100の苦痛=コスト)をせざるを得ず、その代わり200の喜びに満たされた人生を送ることができる。

c. a'.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

 

この事態は不当だと言えるだろうか。a'では苦痛を上回る喜びが保証されていると仮定している。だからこれは不当どころか恵まれたことだと多くの人が主張したくなるに違いない。しかし、話はそう単純ではない。これには二つの理由がある。

 

3-1.(努力しない)自由の剥奪

まず、相当の努力が強制されているという点に注意すべきである。②と次の場合③とを比較をしてみよう。

 

a''.(生きる努力をするもしないも自由だが)必ず100の苦しみと200の喜びに満たされた人生を送ることになる

c. a''.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

②と③で結果的に被る苦しみと喜びはともに同じだが、③は生きる努力をするかしないかの自由がある。その分、③のほうが②よりマシだと考える人は多いだろう。意に反して生きる努力をしない自由が奪われているという点で②は③に比べて悪いのである。

さらに、②は③より悪い以前に、それ自体として不当であるとも主張できる。(意に反することを)何もしない自由は、数ある自由の中でも最も基本的なものである。なるほど、何か義務がある場合、この自由は正当に制限されることにはなる。しかし、生まれる前に何か悪いことをしたわけでもないのに、なぜ労働の義務等に縛られ、自由が生まれつき損なわれなければならないのだろうか。少なくとも私には正当な理由が思い当たらない。

 

3-2.苦痛の強制

次に、苦痛を与える悪が、喜びを与える善で相殺できるとは限らない。もし両者が互いに同じ量で相殺されるとしたら、③を強いることは④を強いることと等価である。

 

a'''.(生きる努力をするもしないも自由だが)必ず100の喜びに満たされた人生を送ることになる。

c. a'''.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる 

しかし、喜びから苦痛を差し引いた値が同じでも、苦痛のない④を強いることのほうが③を強いることよりも善いと同意する人は多いだろう。同じ量の喜びを同時に与えるだけでは、苦痛を与えることは不当なのである。したがって、200の喜びを与えるからと言って、100の苦痛を与えることが正当とは限らない。

 

※それだけではなく、私はさらに、いくら多くの純粋な喜びを与えたからといって、苦痛を強いることは許されないと考える。つまり、同時に与える喜びが1000だろうと、10000だろうと、100の苦痛を強いる不当を正当化する理由にならないということである。

確かに、同意がなくとも、十分な利益を与えれば苦痛を与えることが正当化されることはある。例えば火災現場で瓦礫に腕がはさまって、しかも意識を失っている人がいるとする。腕を切除することが、彼を助ける唯一の方法だとすると、同意を得ずにそうすることは不当ではないだろう。また、子供に対する躾も、それ自体としては子供にとって苦痛である、しかし将来のことを考えればそれ以上の利益があるから正当化される。だが、以上の例における利益はいずれも、(火災で命を落とすだとか、大人になって困るだとか)より大きな苦痛あるいは損失を避けるという消極的なものである。

対して、例えば、より優れた身体能力を得られたり、より長い寿命を得られるといった純粋な利益の代償として、少しの苦痛を伴う薬物の注射を同意なく行うことはやはり不当なのである。喜びというのも、同様に純粋な利益に違いないのであり、そのために苦痛を強いることは同様に許されないのである。

 

4.3.のまとめ

さて、以上の議論の結果をまとめよう。

まず、不当ではないと確実に言える事態は④のみである。私は、③は④と比べて悪いだけではなく、※にて③が不当であるという議論も示した。

そして、②は③よりさらに悪い。しかも、②は、自由が損なわれているという理由で、比較によるまでもなく不当であるといえる。

以上の理由により②(①)の事態は(本人がそう考えているとしても)恵まれているとは限らず、むしろ不当な事態であると言える。

 

5.人生のリスク

以上では、仮に生きる努力をすればそれを上回る恩恵が得られると前提しても、その努力を強いられることが不当であると論じた。しかし、実際はそのように楽観的な前提は成立せず、努力がもともとできないもしくは、努力が報われないことは往々にしてある。生きる努力と同時に、生きる努力が報われないリスクも強いられることは、ただでさえ理不尽な人生をさらに理不尽にする。

 

6.最後に

人生の理不尽は押し売りの不当性になぞらえることができる。仮に押し売られた側が結果的に満足しても、押し売りが不当なのは1)コストを強いるから、2)買わない自由を侵害するから 3)買わされた側が満足しないリスクを強いるからである。1)は③の不当性、2)は②の不当性に対応しているだろう。3)は、5.で述べた人生のリスクに対応していると考えられる。

子供を生むことは、生きる努力の対価と引き換えに人生を押し売られた被害者を生み出すことであり、押し売りと同様に不当であると私は主張する。

反出生主義の試論

1.出産することと、しないことの比較の特殊性

私が好物を食べることと、苦手な食べ物を食べることでは前者のほうが後者よりも望ましい。いうまでもなく、この比較関係は私が実際に好物を食べることになった場合も、苦手な食べ物を食べることとなった場合も変わらない。これが普通の場合である。

 

しかし、出産は特別なケースである。例えば、極端に不幸な子供が生まれることと、そもそも誰も生まれないことのどちらが望ましいだろうか。実際に極端に不幸な子供が生まれた場合、そもそも彼が生まれてこない事態のほうがましだったと言える。しかし、実際に子供が生まれない場合、生まれてくるはずだった子供そのものの利害がないのだから、彼が生まれなかったほうが良かったとする理由もなくなるのではないだろうか。

出産の場合、子供が生まれる場合は生まれる子供の利害を考慮してものの良しあしを決めなければならないが、子供が生まれない場合は彼の利害を考慮する必要がないため、双方の場合で良しあしを決める基準が異なるのである。

以上を一般化すると、事態AとBのどちらが起こるかによって、AとBのどちらが望ましいかが変わってしまうわけである。未だA(子供が生まれる)かB(子供が生まれない)のどちらが起こるか決まっていない場合(子供を生むか否か迷っている場合)、AがBよりも善いといえるのはどういう場合だろうか。

 

2.私が考える比較の基準

私は次のように考える。AがBよりも善い(BがAよりも悪い)ということは、仮にAが起こるとした場合、AよりもBのほうが善かったとする不満がなく(考え直す理由がない)、仮にBが起こるとした場合に、BよりもAのほうが善かったとする不満がある(考え直す理由がある)ということではないだろうか。

もし、AとBのどちらが起こるか決めることのできる人がいたとすると、彼はBを選択するやいなや不満を覚え、Aを選択しなおし、Aで満足するのである。 これこそが、AがBよりも善いことの特徴づけではないだろうか。

これはすなわち次を意味する。

α:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、BがAよりも望ましいわけではない かつ ・仮にBが起こった場合、AがBよりも望ましい

 

3.反論および再反論

これに対して、次のように異議を唱える人がいるだろう。「上の考え方では不満を基準に考えているが、喜びを基準に考えるべきである。つまり、AがBよりも善いというのは、Aが起こった場合に、BよりもAで良かったと喜び、Bが起こった場合は、Bで良かったという喜びが無いということである」と。まとめると次のとおりである。

β:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、AはBよりも望ましい かつ ・仮にBが起こった場合、BがAよりも望ましいわけではない

なるほど、Aが実際に起こった時に、Aで善かったと考えることは「AがBよりも善い」ことの積極的な特徴づけではあるかもしれない。しかし、後者、つまりBが起こった場合、単にBで善かったという喜びがないだけで、Bに対する不満がない(満足してしまっている)ことは、「AがBよりも善い」とはもはや言えないのではないだろうか。βは基準としては不適切である。

 

もし彼らの言い分を譲歩して、前者のみ受け入れるとすると、次の基準が考えられる。

β’:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、AはBよりも望ましい かつ ・仮にBが起こった場合、AがBよりも望ましい⇔AはBよりも常に望ましい

これはシンプルで魅力的な基準である。しかし私は、これは出生をめぐる価値判断にはそぐわないと思う。以下に理由を示す。

仮に、子供を生むと、先天的に極端な苦痛を伴う障害を持って生まれることが決まっているとする。ほとんどの人が、この子供が生まれないことが、生まれることよりも善いことだと認めるだろう。しかし、仮にこの子供が生まれないとした場合、この子供の利害が存在しなくなるのだから、子供が生まれないことが生まれるよりも望ましいことにはならない。したがって、β’によれば、この子供が生まれないことが、生まれることよりも善いことではなくなるのである。これは背理である。

したがって、私は出生をめぐる価値判断には、β’よりもαの基準を採用すべきだと考える。

 

4.反出生主義の導出

もしαの基準を採用する場合、極端に不幸な子供が生まれないことは、生まれることに比べて善いことである。もし仮に生まれなかった場合、生まれたほうが良いわけではないし、もし仮に生まれる場合は、生まれなかったほうがマシだったからである。

では逆に極端に幸福な子供が生まれることは、生まれないことに比べて善いことだろうか。もし仮に生まれた場合は、確かに生まれなかったほうがいい理由はない。しかし、もし仮に生まれなかった場合は、この子が生まれるべき理由はないのである。したがって、極端に幸福であっても、子供が生まれることは生まれないことに比べて善いことではない。

以上から、αを採用すれば、不幸な子供が生まれることは、子供が生まれないよりも悪いことであるのに対して、幸福な子供が生まれることは、生まれないよりも決して善いことではないといえる。したがって、

γ:子供を生むことは悪いことになる場合はあれ、善いことになることはない

という反出生主義の結論が導かれる。

 

※4の推論に対して論点先取を指摘する人は多いだろう。つまり、結論である反出生主義γは、幸福の存在よりも、不幸が無いことを善しとする否定的な立場であり、前提であるαも、満足の有ることよりも不満が無いことを善しとする否定的な立場であるからだ。

私も前提に結論に類するものが含まれていることは否定しない。しかし、不人気な反出生主義の主張γよりも、αのほうを受け入れる人が多いので、4の議論には価値があるものだと思っている。

 

5.以前に述べた反出生主義との比較

私は一年前、以下の記事でも反出生主義の立場を表明した。

私の反出生主義について - 思考の断片

しかし今回の主張は、上の記事で述べた主張とは前提が異なるものである。

上の記事で述べた主張をより明晰に表現することで、両者の相違点を明らかにしたい。

 

まず、出生と非出生の比較の基準として、β’を採用する。

次に、価値判断の前提として、1.子供が幸福になることと(一定の範囲内で)不幸になることは、子供が実際に生まれる場合にのみ、望ましいもしくは悪いことであるとしよう。(これは誰もが受け入れることであろう。)

最後に、2.子供が一定以上の水準で不幸になることは、(子供が実際に生まれることがない場合でも)常に悪いことであるとしよう。

以上の前提から反出生主義が導かれる。

 

β’より、出生することがしないよりも望ましい(悪い)のは、仮に生まれたとしても、生まれなかった場合も、出生が望ましい(悪い)ときに限られる。すると、1.より子供が生まれなかった場合は子供の利害が存在しない以上、幸福な子供の出生は望ましいことではないため、幸福な子供が生まれることは生まれないことに比べて善くはない。

対して、上の記事では、2.一定以上の不幸については、(子供が仮に生まれない場合も)絶対にあってはならないとする価値判断を仮定している。子供が一定水準以上に不幸になる場合は、子供が生まれた場合も、生まれなかった場合も、そもそも子供が生まれないのが望ましいと主張でき、β’より、一定水準以上に不幸な子供が生まれることは、生まれないことよりも悪いことである、と主張することが出来る。

以上より、幸福な子供が生まれることは善いことではないが、一定以上に不幸な子供が生まれることは悪いことであるとする反出生主義の主張が導出される。

 

対して、今回述べた反出生主義では、比較の基準としてαを採用し、また1.のみを仮定している。(2.は仮定していない)これらが両者の相違点である。

 

6.最後に

もし、不満なきことを善しとするαの基準をネガティブすぎるとして今回述べた反出生主義の議論を拒絶する人がいても、代わりにシンプルで同意の得られやすいβ’を勧め、価値判断2.について説得を試みることができるだろう。

では、2.にはいかほどの根拠があるだろうか。有力なものとしては、一定以上の不幸は人の尊厳を損なうものであり、人の尊厳は無条件で尊重されるべきであるとする主張が考えられる。仮にそういう人間が実在しなくとも、人間が拷問で苦しめられる事態が悪いことに変わりはない。それは、実際には存在しない人間の利害に反するからではない、実在しない人間のものであっても、尊厳が踏みにじられることは断じてあってはならないからである。

私としては、基準αを擁護するのと、価値判断2.を擁護するのと、二段構えで反出生主義を展開していきたいところである。