欲求充足説に対する反論

1.欲求充足説について

 世の大半の人は、欲求に素直である。彼らは本当にしたいことが(自分にとって)良いことを疑わない。
 確かに、大人は子供と違って、自分がしたいことが、本当にしたいことなのかを考える。誰しも、歯医者には行きたくないが、行かなければ虫歯が進行することを考慮して、総合的には行きたいと欲求するから、歯医者に行くのである。
 しかし、ここまで考えて、歯医者に行きたいからといって、歯医者に行くことは自分にとって本当に良いことなのかと疑う人はいない。やはり彼らにとっては、欲求すること=良いことなのである。
 哲学者達の間では、さらに強い立場が有力である。彼らはたんに、歯医者に行きたいと欲求するならば、歯医者に行くことが良いと主張するだけではなく、歯医者に行きたいと欲求するからこそ、歯医者に行くことが良いと主張する。
 つまり彼らは、欲求が、良いものを正確に把握するだけではなく、欲求こそが、良いものを良いものたらしめるものである、と主張しているのである。
この立場は欲求充足説(Desire fulfillment theory or DFT)と呼ばれる。

 

DFT:欲求が充足することのみが、そして充足するからこそ良いことで、欲求が充足しないことのみが、そして充足しないからこそ悪いことである。良さや悪さの程度は、欲求の強度に比例する。

欲求の充足:欲求はある命題Pに真であってほしいという態度である。命題Pに対する欲求が充足するとは、この態度を抱き、かつ命題Pが真である事象を指す。

 

私は、この立場に全面的に反対し、次のように主張する。

Ⅰ.欲求が充足されても、(そこまで)良くはないことがある。
Ⅱ.欲求が充足されなくても、良いことがある。
Ⅲ.Ⅰ,Ⅱより、欲求は、良いことの大まかな指標に過ぎない

 

まず、Ⅰの例を紹介する。

 

2.死海の林檎に対する欲求

・見た目は美味しそうな林檎でも、触れた瞬間灰になってしまうリンゴがあるとする。この死海の林檎に対する欲求が充足しても、良いことではないように思われる。これはⅠの例ではないだろうか。


これに対しては、欲求充足説からは二つの答え方があると言われる。
 一つは、欲求の充足の中でも、欲求を抱くのと同時の充足が重要だ(Concurrent desire fulfillment theory or CDFT)とする答え方である。死海の林檎を欲求するのは、手に入れるまでであって、手に入れた瞬間欲求が失せてしまう。よって、死海の林檎が欲しく、同時にその欲求が充足される時は全くない。したがって、CDFTによれば、欲求は本当に充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 二つ目は、実際の欲求ではなく、知識や思慮が十分だった場合の理想的な欲求の充足が重要だ(Idealized desire fulfillment theory or IDFT)という答え方である。もし、死海の林檎であることを知っていたならば、それを欲求することもなかったであろう。したがって、IDFTによっても、理想的な欲求は充足されておらず、Ⅰは成り立たない。
 私はここでは、CDFTやIDFTに対して反論はしない。だが、これらがDFTの残った候補であることは示せたと思う。

 

 

3.自分のものではない欲求
女性差別があった時代に、女性が家事をしたいと妥協的に、しかし強く欲求していたとする。彼女が望み通り、家事に専念できたとしても、彼女にとってそこまで良いことではないと言えないだろうか。
・ミーハーな人が、広告で宣伝されていたり、流行っていたから、変なぬいぐるみを強く欲しいと思ったとする。そんなぬいぐるみが手に入ったところで、そこまで良いことではないと言えないだろうか。


 両方の主張を支えている直観は、欲求が本当にその人のものではないという点である。であれば、欲求が充足されても、その人にとってはそこまで良いことではないのではないだろうか、というのである。
 これに対しては、先ほどのCDFTはうまく答えられないように思える。対して、IDFTからは、本当の自己は何者かを知るならば、自分のものではない欲求は抱かなかったであろう、と主張することは可能であるように思える。

 


4.満足感を伴わない欲求の充足
・我々は死にたくないと意識的であれ無意識的であれ、常に欲求している。しかし、死にたくないという欲求が常にかなえられていても、それだけで特段我々が幸福なわけではない。(死ぬことに比べて、相対的に幸福かもしれないが。)死にたくないという欲求の充足は、それだけで見ると良いことではない。
・私が電車で見知らぬ人と打ち解けて仲良くなり、その人にもっと幸せになってほしいと欲求するようになったとする。そして、その人は実際にもっと幸せになったのだが、私はそれを知ることがないとする。この場合、私の欲求は充足されても、私にとっては良いことではないように思える。


 これらには、CDFTもIDFTもうまく反論できないように思える。前者を例に挙げると、死にたくないと欲求するのと死なないのは同時であるし、知識や思慮が十分でも我々は死にたくないと欲求しただろう。
 さて、両者に共通しているのは、本人が何ら満足感を得ていないということである。もし、前者の例で、生きられて恵まれている、とありがたみを感じているならば、死にたくないという欲求の充足は良いものだろう。もし後者の例で、見知らぬ人が幸せになったことを私が知って満足したならば、欲求の充足は良いものだろう。つまり、重要なのは、欲求の充足そのものよりも、それに伴う満足感だと私は主張したい。

 

2.から4.の例により、欲求充足説はⅠの反論に耐えられないのではないかと私は考える。
ではⅡの反論についてはどうだろうか。

 

5.純粋経験
・なんの欲求もなくても、気分が高揚していたり、心が平安だったりすることがある。欲求が充足されていなくても、これらの心的状態は良いものではないか。
・ゲームを遊びたいと欲求する余裕もないほど、ゲームに熱中しているとする。いわゆるフローの状態である。欲求が充足されていなくとも、ゲームに熱中することは良いことではないか。

 

 欲求充足説からこれらに対して決まってなされるのは、欲求がないのではなく、単に意識されていないだけであるという反論である。ハイでいたい、平安な境地でいたい、ゲームを遊びたい、という無意識の欲求は確かに充足されているではないか、と。
 もし無意識の欲求なるものを認めれば、確かにⅡは成り立たないだろう。しかし、無意識な欲求があるとして、いったいどれくらいあるのだろうか。死にたくない、世界に平和であってほしい、苦しみを避けたい、幸福になりたい、癌になりたくない…枚挙に暇がない。これら全てが無意識の世界でうごめいていて、それぞれの欲求の充足不充足が全て私の幸福に寄与しているとはにわかには信じがたい。
 また、意識すらされていないのに、欲求の強度はどのように定義されるのだろうかという疑問もある。
 最後に、そもそも私は、無意識な欲求の充足には価値が無いと思う。無意識な欲求には満足感が伴わず、4.のケースに該当すると考えるからである。


6.最後に
 欲求されるから価値があるのではない。逆に、価値があるから欲求するのに値するのである。
 私は、何かを欲求する前に、欲求する当のものを手に入れることでどういう価値が実現され、手に入れないことでどういう価値が損なわれるかを思慮し、本当に欲求を追求するに値するかを見極めたい。私は、たんに欲求するのではなく、価値とは何かについて常に考え、価値を欲求する倫理的な人間でありたいと強く欲求するのである。

動物にとって苦痛は害悪なのか

1.苦痛と害悪

 我々の多くは、苦痛が悪いのは当たり前だと考える。確かに苦痛を好む人はいない。マゾヒストという例外もいるように思えるが、彼らは単に、通常の人が苦痛と感じるものを快楽として感じているだけである。

 しかし、苦痛と害悪は概念としては決して等しくない。それは「Xは苦痛である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いが無意味ではないからだ。実際、この問いに対しては、例えば「いや、苦痛など取るに足らない」と答えることも論理的に可能である。しかし、もし苦痛が概念として害悪に一致していれば、この問いは、「Xは害悪である、しかしXは私にとって害悪だろうか」という問いと同様に馬鹿げているはずである。

 では苦痛と害悪はどのように異なっているのだろうか。苦痛はある意識に内在する属性である。もしくは、ある意識内容に対する嫌悪である。いずれにせよ、それら単独では単なる意識や態度であって、それ自体価値とイコールではない。対して、害悪というのは(主体にとっての)負の価値そのものである。それは単に嫌いなだけでなく、忌避すべきものである。例えば、「苦痛など取るに足らない」という人は、確かに苦痛を感じ嫌悪もしているが、苦痛を無くすべきだと考えていない。苦痛や嫌悪と、価値は別物なのである。

 では(ある主体にとって)価値があるとは何を意味するだろうか。私は、その主体自身が価値を見出す(価値があると直観する)ことに他ならないと思う。もちろん、我々が間違った価値を見出すこともある。例えば、喉が渇いている時、目の前の生水が自分にとって良いものに思えるかもしれないが、実はそれが汚染されていて悪いものかもしれない。しかし、知識や思慮が十分な理想的な状況下で直観されるであろう価値は、正しいと言って良いのではないかと思う。

 

2.動物にとって苦痛は害悪なのか

 動物が苦痛を感じ、苦痛を避けようと欲求することは科学的な類推からわかる。しかし、その苦痛は動物にとって負の価値があるものなのだろうか。つまり、動物は、苦痛に対して負の価値を見出しているのだろうか。

 私は、良し悪しの概念すら持たない動物に、良い、悪いという価値判断を下すことが出来るか、はなはだ疑問である。彼らは苦痛を避け、欲求を満たそうとするが、実は、良さや悪さなんてものは彼らにとっては無いのかもしれない。動物が我々と同等の倫理的直観を備えているかというのは、動物が我々と同様に苦痛や欲求を備えているかという問題よりはるかに疑わしい。
(たぶん、ヒトに近い動物は備えているのだろう、と思うが。)

 確かに我々は動物にとって苦痛が悪いと直観する。しかしその直観はあくまで我々の直観であって、動物自身の直観ではない。我々は、自分が動物の身になってみて、あんな苦痛を被るのはごめんだと想像する。しかし、どんなに動物の身になったつもりでも、価値を見出しているのは我々人間である。我々は動物の苦痛を想像できても、動物の視点に立って苦痛を価値づけることは決してできない。我々から見た場合、動物にとって苦痛は悪いのであるが、動物自身から見た場合、自身にとって苦痛が悪いかどうかは、我々にはわからないのである。

 対して、人間の場合は、誰しも苦痛に負の価値を見出していることがある程度類推できる。というのも他人とは苦痛や価値という概念を共有していて、「苦痛は悪いものだ」と意志疎通ができるからである。

 以上より、(動物自身から見て)動物にとって苦痛が悪いか、そもそも悪いということがあるのかどうかは疑わしいのに対して、(その人自身からみても)ある人にとって苦痛が悪いと考える理由はある。

 

3.動物に苦痛を与えることはやはり道徳的に悪い

 しかし、だからといって私は、動物に苦痛を与えることが道徳的に許容されるとは思わない。道徳が問題とするのは、動物自身ではなく、あくまで、道徳の主体達(主に人間)から客観的にみて、動物にとって苦痛が悪いかだからである。そして、我々からみて、動物にとって苦痛が悪いのは間違いがない。

 このような道徳は、人間の価値の押し付けであり、傲慢だと批判されるかもしれない。本当に動物のことを思うのならば、動物の立場から見た価値を追求すべきではないのか。確かに、我々は極力動物の立場に立たなければならない。しかし、いくら動物の立場に立ったところで、(動物と会話は出来ないのだから)最終的に道徳的判断を下すのは、結局は道徳的に行動する我々人間である。これが我々に出来る精一杯のことである。道徳は客観的で他者視点であり、傲慢であることから逃れられない。

快楽主義について(その2)

利己的快楽主義というと、どこか享楽的で、不道徳な響きがする。しかし、私が考える利己的快楽主義者のイメージは、非快楽主義者と見かけはほとんど変わらない。彼は、しっかりとしたライフプランも持ち、道徳を尊重し、人生の意味を追求するだろう。私は、以下で、私の考える利己的快楽主義は極めて穏健で健全であることを主張したいと思う。

 

まず、利己的快楽主義にも、心理的快楽主義、規範的快楽主義と価値論的快楽主義がある

 

1.心理的快楽主義

心理的快楽主義は、人間や動物の心理について次の命題が正しいと主張する。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求する。

 

例えば、我々がアイスクリームを食べたいと思うのは、厳密にはアイスクリームを食べたいからではない。もしアイスクリームを美味しいと思わなければ、つまりなんの快楽ももたらさないと思われれば、アイスクリームを食べる理由はないだろう。我々は、アイスクリームのもたらす快楽を目的として、アイスクリームを手段として食べるのである。

対して、我々は快楽を他の何の目的のために追求するわけでもない。何のために快楽を求めるのか、という質問は愚問であり、快楽は快楽それ自身のために求めるものである。以上より、快楽は最終的な目的だというわけである。

 

しかし、私は、心理的快楽主義は上の例については正しいが、成り立たない場合もあると思う。

例えば、道徳的な動機から人を助けるとき、我々は道徳的満足感を得るために助けるというよりは、助けるべきだから助けるのである。もし仮に、道徳的満足感という快楽よりも、助ける労力が大きいとわかっていても、道徳的な人は人助けするのである。

また、例えば、好きな友達に愛されたいのも、決して愛される満足感を得るためだけではないだろう。もしそうだとすると、我々は友達に愛されると信じられるだけで満足するはずである。しかし、我々は愛されていると信じたいだけではなく、実際に愛されたいのである。

 

2.規範的快楽主義

心理的快楽主義は事実言明であるのに対して、規範的快楽主義は価値に関する以下の主張である。

・我々人間や動物は常に、自分の快楽のみを、最終的な目的として追求すべきである。

(追求することが当の人間や動物にとって、最も価値あることである)

ここでいう「べき」に道徳的な意味はない。あくまで、自分のために利己的・合理的に、追求することに価値があると主張しているに過ぎない。

 確かに、友情、達成、道徳など、快楽以外にも自分のために追求すべき価値はある。しかし、規範的快楽主義は、これらはあくまで快楽をもたらす手段として追求すべきだというのである。誰かと友達になっても、何かを成し遂げても、道徳的に振舞っても、それで楽しかったり満足感が得られなければ何の意味もない。全ては快楽を得る手段なのである、と。

 

確かに、快楽のみを目的として追求するという行動原則をとることはできる。しかし、それが私にとって最も価値があるとは思えない。快楽主義のパラドックスがあるからだ。

快楽は、直接の目的として追求してはかえって得にくいものである。快楽そのものではなく、快楽を生み出すものを直接の目的として追求したほうが、多くの快楽が得られるのである。

・道徳的な満足感は大きな快楽だが、自己満足のために道徳的行為を行うことは、道徳的な意義を損ない、かえって道徳的な満足感を損なう。道徳のために道徳的行為をしてこそ、道徳的満足感が最も得られるのである。

・少し話がずれてしまうが、道徳を目的として追求すればするほど、自他の利害は一致し、争いで傷つけあうことが少なくなる。自己中心的な人は、周囲との争いが絶えないのに対して、利他的な人は、誰からも愛される。どちらが多くの快楽を得られるかは明らかだろう。

・達成による達成感も大きな快楽だが、達成感それ自体を味わうために、達成を成し遂げようとすることは、達成それ自体を目的とする場合に比べて、モチベーションが弱い。達成を成し遂げたいという欲求は無条件な意志であるのに対して、達成感を味わえる限り、達成を成し遂げたいというのは、条件づけられた欲求に過ぎないからである。達成感それ自体のためではなく、達成を成し遂げるために努力してこそ、達成を成し遂げられる可能性がより高くなり、達成感も最も得られるのである。

以上より、快楽を目的として追求することは、かえって快楽を損ねてしまう。規範的快楽主義を取る理由はない。

 

以上の二つの立場は、記述的・規範的の違いがあるにせよ、評判が悪い。自分の快楽を直接の目的として求める・求めるべきという姿勢は、享楽的、利己的だと思われても仕方がないだろう。また、どこか自己完結していて、虚しいと思われても仕方がないだろう。

 

3.価値論的快楽主義

私にとってもっとも魅力的なのは、次の価値論的快楽主義である。

・我々人間や動物にとって、自分の快楽のみが、最終的な目的として価値あるものである。

一見、規範的快楽主義との違いが分からないかもしれない。しかし、「目的として追求すべき」ことと、「目的として価値がある」ことは全く別である。価値あるからと言って、直接追求すべきとは限らないのである。

実際、もし快楽に目的として価値があるとするならば、快楽主義のパラドックスにより、快楽を目的として追求することはかえって快楽を損なうから、快楽を目的として追求すべきでないことになる。

価値論的快楽主義は、他の価値に対して排他的でない。

たとえば、快楽以外の道徳や、(達成などの)人生の意味を最終的な目的として追求すべきではないとは主張しない。もし結果的に快楽を増進するならば、道徳や人生の意味を最終目的として追求することも奨励するのである。

快楽主義のパラドックスより、道徳や人生の意味を直接目的として追求することは、快楽を得る手段として追求するよりも、多くの快楽をもたらす。だから、価値論的快楽主義は、人生の意味や道徳を目的として追求する欲求と矛盾なく両立するのである。

確かに、人生の意味や道徳を追求することは、時として快楽の追求を犠牲にすることもあるだろう。何事も程度問題であり、人生の意味や道徳の過度な追求は、快楽を犠牲にする。もしそう判断された場合は、彼は自身の道徳的欲求や、意味に対する欲求を意識的に弱めようとするだろう。逆に、人生の意味や道徳に対する欲求が弱すぎて、自身の人生が空虚だと感じられた場合は、彼は自分の欲求を意識的に強めようとするだろう。

 

こう説明すると、結果的に快楽が増えるから道徳や人生の意味を追求しているのであり、結局道徳や人生の意味を快楽を得る手段として位置づけてはいまいかと批判する人がいるだろう。しかしそれは違う。

彼は、決して、快楽を得られる手段として、新たに道徳や人生の意味を追求しようとするのではない。彼はあくまで、既に道徳や人生の意味に対する欲求を持ってしまっている以上、それ自体のために追求するのである。単に、それらを快楽とは別に追求することが結果的に快楽という価値を損ねないから、欲求を抑制する理由がないだけである。

確かに、快楽を増進するという理由で、道徳や人生の意味に対する欲求を強めようとすることは、快楽を得る手段かもしれない。しかし、一度それが成功して欲求が強められたら、手段であったはずの道徳や人生の意味は目的となるのである。

 

道徳や人生の意味に対する欲求が強すぎれば抑制し、弱すぎれば強めようとする、この戦略により、価値論的快楽主義者は、人生の意味、道徳、快楽を目的として追求する欲求を、結果的に快楽が最大化するような適当な割合で保持する。彼は、時に快楽を目的として追求することもあるが、道徳のために道徳的に振舞うし、人生の意味のために盛大なプロジェクトを手掛けたりもする。彼は利己的快楽主義であるにも関わらず、十分に道徳的で実存主義的なのである

 

4.価値論的快楽主義の擁護

4ー1.経験機械の問題

多くの人は、現実世界の中で生きた人の生のほうが、経験機械で同じ経験をした人の生よりも良いと考える。前者には成し遂げたものがあるが、後者は何も成し遂げていないのだから、と。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の人生の価値は変わらないのである。

私は、我々は成し遂げることを目的として追求すべきだし、それゆえに経験機械で生きたくないと欲するべきだと考える。先ほど述べたように、快楽主義のパラドックスにより、達成感のためではなく、達成のために努力をしてこそ、より達成感が得られるからである。

経験機械の生が一見悪いと思われるのは、経験機械の生が嫌悪すべきものだからではないだろうか。もしそうであれば、これは価値論的快楽主義に反しない。

 

4ー2.不道徳な快楽と美しい快楽

多くの人は、同じ快楽でも、動物虐待によって得る快楽より、読書をしたり、高尚なクラシック音楽を聴くことで得る快楽のほうが価値があると考えている。しかし、価値論的快楽主義によれば、両者の快楽は同じである。これはどう説明できるだろうか。

ここで、道徳だけではなく、美そのものを目的として追求する欲求を持つことは、結果的にかえって快楽を増進するのではないかと思う。(知識についてもおそらく同様である)美的観照は大きな快楽である。しかし、快楽のためだけに美を追求する即物的な姿勢を取ることは、審美眼を曇らせる。また、知も、観照や技術を通してたくさんの快楽をもたらすが、知を快楽や即物的な利益のために追求していては、かえって知が得られないことは、古代ギリシャや近代の科学革命の例を見れば明らかである。

だから、動物虐待の快楽があまり良くないのではなく、快楽とは別に、動物虐待することを道徳的に嫌うべきなのである。美や知のもたらす快楽が特に良いわけではなく、快楽とは別に、知や美を好むべきなのである。これは、価値論的快楽主義に反しない。 

 

5.まとめ

快楽主義にも、快楽を直接追求すべき、という立場と、快楽の価値を間接的に追求しようとする立場がある。前者には賛同できない、快楽主義のパラドックスにより、直接快楽を追求することは、かえって快楽を損なうからである。対して、後者には賛同できる。快楽だけが価値あるものだと言っても、快楽以外の道徳や人生の意味を目的として追求すべきでないとは限らず、むしろそれらも適度に追求したほうが快楽はより多く得られるのである。

それだけでなく、快楽以外の、目的として追求すべき道徳や人生の意味は、経験機械の生や不道徳な快楽を我々がなぜ嫌悪すべきか、説明を与えてくれるのである。

私は、適度に道徳的に、そして人生の意味を追求しながら生きつつも、価値論的(利己的)快楽主義者として、自分がいかなる欲求を持つべきかについてしっかり吟味をして生きていきたいと思う。

意志について

1.無条件欲求

 私は、死は私にとって悪くはない、もしくは不幸でないと主張した。しかし、それだけではない。私は、(死ぬまでの苦痛はともかく)死そのものにはほとんど無関心である。つまり、死で挫かれる欲求がほとんどない。

 果たしてそんなことがあり得るのだろうか。哲学者Steven Luperは、死で欲求を一切挫かれないような「エピキュリアン」がどういう欲求を持ちうるかについて、論文「Annihilation」で以下のようにまとめている。

・逃避欲求(もし時点tでXが事実でなければ、時点tで私が死んでいるほうがマシだ)

 死は逃避欲求を挫くどころか、必ず満たす。後件命題が真になるからである。

 

・独立欲求(時点tでXに事実であってほしい:Xが実現される確率は私の生存に依存しない)

 死は、独立欲求を挫きも、満たしもしない。

 

・生存条件付欲求(もし私が時点tで生きていれば、時点tでXに事実であってほしい)

 死は条件付き欲求を挫きはしない。

 

 あまりに図星だったため、私は衝撃を受けた。私は、もし将来極度の不幸が避けられなければ、その時に死んでいるほうがマシだと思う。これは、逃避欲求である。また、私は、家族を含む他人に出来るだけ幸せになってほしいと思うが、私自身に幸せにするだけの力があるとは思っていない。この欲求は独立欲求である。最後に、最も重要だが、私は、幸福になりたいというより、生きている限りは幸福になりたい。これは生存条件付欲求である。

 

 逃避欲求は誰しもがもっていると思う。誰しも、耐えがたい苦痛を味わうくらいなら、死んだほうがマシだろう。しかし、皆は生存条件付欲求に加えて、次の欲求も持つと思う。

 

・無条件欲求(私が時点tで生きるかに関わらず、時点tでXに事実であってほしい)

 例えば、皆は将来家族に幸せであってほしいと考える。仮に、自分が家族の前に死ぬとしてもである。しかも、皆は自分が家族を幸せにする力があると信じている。したがって、この無条件欲求は、生存条件付欲求でも、独立欲求でもなく、死で挫かれるのである。

 

 無条件欲求のうち、独立欲求でないものは「意志」と呼ぶことが出来る。それは、生きるから欲求するのではなく、そのために生きるような使命感や熱意を伴うものである。また、自分次第で欲求を実現できる、という自信や主体性も伴う。

 思うに、私以外の人々にとっても、意志は欲求の中のほんの一握りである。例えば、多くの人にとって、快楽を得たい、幸福になりたい…ほとんどの欲求は生存条件付欲求であり、意志ではない。

 仮にあなたが明日死ぬとしよう。それ自体は残念なことである。しかしその場合、あなたは、明日生きられないことと独立して、明日生きていれば得られていたはずの快楽や幸福が得られないことを嘆くだろうか。我々は、明日生きたいから死にたくないのであって、明日快楽や幸福を得たいから、死にたくないわけではないのである。

 ではどういうものが意志なのだろうか。例えば、将来生きたいというのは意志である。それは、それ自体目的でもあれば、他の意志を達成する手段でもあろう。他の意志とは例えば、他者に愛されるとか、他者を本当に幸せにするとか、世界の中で偉業を痕跡として残すなどの、単なる経験を超えた人生の意味である。

 

2.意志のない生

このような意志のない生はどういうものだろうか。

 まず、Steven Luperは、意志がなく、三種類の欲求に限定された「エピキュリアン」にとっては、死は、欲求を一切挫かないから、悪くないという。

 これに反論する方法はある。なぜなら、死で彼の欲求が全く挫かれずとも、将来生き続ければ得られた快楽や、欲求の充足が剥奪される、とは主張できるからである。確かに、生存条件付欲求しか持たない彼は、将来生き続けない限り快楽や欲求の充足を欲求しないから、欲求は一切挫かれず、それらの剥奪が悪くはないと主張しうるかもしれない。だが、それは直接的に悪くはないだけで、比較的、間接的に悪いことだとは主張しうる。ただ、死の後も生き続けたであろう人の利害を考慮することに、私は懐疑的であるため、この剥奪説はとらない。

 

 次に、最も重要だが、Steven Luperは、「エピキュリアン」の生は、死で損なわれない代わりに、極めて劣悪であると主張する。

1.彼は、死ぬことが悪くなければ、生きることは良くはないのではないか、と言う。

 これに対しては、先ほどと同様、「エピキュリアン」も生存条件付欲求の充足にともなう快楽を享受して、良き生を送ることが出来る、と言いたい。確かに、彼の生は、意志の成就、つまり達成という善に欠けているかもしれない、しかし快楽という別の方面で良いということはありうる。

 

2.彼は、生存条件付欲求は、本当の意味の欲求ではありえない、という。自分が生きている間は子供に幸せになってほしいというのは、子供に対する真の愛情ではないし、自分が生きている限り、仕事で偉業を成し遂げたいというのも、偉業に対する真の情熱ではない。

 確かに、自分が死ねばどうなってもいい、という留保がある場合、本当になにかを欲求することは出来ないだろう。ましてや、そのために本気で努力することも、心理的に不可能かもしれない。ただ、そのような生は情熱に欠けるものの、悪いものだとは言えないと思うのである。

 情熱に満ちた生は、魅力的かもしれない。しかし、それは大きな喜びや達成のほかに、大きな苦痛や絶望も伴う。

 他方で、エピクロスが説くような、欲求や苦痛から自由で、精神的に平穏な生も、別の次元の魅力があるように思える。そのような生は、すごく良いということも無いが、すごく悪いということもほとんどない。浮き沈みがなかったり、自分の欲求や周りに振り回されたりしないということは、それ自体一つの人生の良さを構成するものではないだろうか。

 

 以上のように、私は「エピキュリアン」にとって(少なくとも直接的には)死は悪くないが、だからといって必ずしも彼の人生は良くないわけではないと思う。しかし、私自身、やはりどこか物足りないように思う。仕事や恋愛などで、どこか「生きがい」を見出したいところである。

  

3.意志と、独立な無条件欲求

 以上では、意志と無条件欲求をほとんど区別せずに用いてきた。たが、無条件欲求は、意志と独立な無条件欲求に分けられ、両者は決定的に異なる。

 意志は、自分次第で何とかなる、何とかしようと思えるような欲求である。だから、それは生きる理由を与えるのであり、その反面死で挫かれもする。対して、独立な無条件欲求が成就するかは、もはや自分がいるか否かに関りがない。したがって、その欲求のために自分が生き続ける理由はない。出来ることと言えば、欲求がかないますように、と祈るくらいである。

 私は、独立な無条件欲求もほとんどは、もともとは何らかの意志だったものと思う。人は、自分ではどうにもなりそうにないことは、欲求する気にはならないからである。では、どういう場合に意志は、単なる独立な無条件欲求に変わるのだろうか。

①一つは、意志が既に成就された場合である。偉大な研究成果を残したいという意志を持った研究者が、実際に成果を残せたとする。その場合、その意思はすでにかなえられており、彼が仮に今すぐ死んでも、変わりはない。

②または、意志がまだ実現されてはいないものの、すでに自分が出来ることを全てやり終えることによっても、意志は独立な無条件欲求に変わる。例えば、起業をした人が、自分の会社に未来にわたって繁栄してほしいと意志したとする。そして、彼は自分の役割を完全に終え、後継者へ意志や引き継がれたとする。この場合もやはり、彼がいつ死んでも、彼の意志の実現には影響がない。

③また、意志は既に挫かれた場合も、独立になる。理由は①と同様である。

④最後に、意志を実現する能力が自分に無くなってしまった場合である。例えば、意志が成就しそうもないと絶望する場合、自分は実際に無力になってしまう。もしくは、老衰で能力が衰えてしまった場合もそうである。

 

Steven Luperは「ネオ・エピキュリアン」という生き方として、以下を提案している。

・人生の早い段階では、極力自分のライフスパンに収まるような、計画的な意志を抱き、熱意をもって生きる。

・人生を送るにしたがって、意志を①や②の方法によって、独立な無条件欲求に変える。

・人生の最後には、挫かれる意志がなく、心残りなく安心して死を迎えられる。

 

 意志を持って生きたいのならば、彼の提案は魅力的である。医療に恵まれた現代では、我々は死のタイミングをある程度選べるため、未実現の意志が残ったまま死ぬリスクもほとんどないだろう。

 ただ、彼の提案は言われるまでもない、と多くの人は感じるのではないだろうか。我々は、自分の生きているうちに何とかなる意志は、①極力実現しようとするし、何とかならない意志も、②出来る限りのことをするだろう。

 もし仮にそれが出来ない場合は、③意志が挫かれるか、④自分が老衰で無力になるのである。(ただ、これらは死と同じく意志の挫折である。)

だから、大半の意志(※)は独立欲求に自動的に変わるのである。

※一つ例外がある。生きたいという意志は無条件だし、自分が生き続けるかに完全に依存するから、決して独立にはならない。十分に生きた老人にとっても死が悪いと考えられているのは、純粋に生き続けられないためなのだろう。

 結局、彼の提案で重要なのは、欲求をライプスパンに収まるようなもの、つまり③や④で挫折したり絶望することなく、①や②で独立欲求に変えられるものに制限するということである。それには、例えば、自分に何が出来るかを常に考え、出来ないことは理性的に諦めることが必要なのだろう。

 

4.意志に対する道徳的配慮

 道徳は、他者の欲求を尊重するものであるというのが私の立場である。私は特に、過去に存在した他者の欲求も、過去に遡れば遡るほど程度は弱くなるが、尊重すべきだと考える。例えば我々は、死人の遺言や、認知症患者の認知症になる前の意向を尊重する。それは、現在は存在しないが過去に存在した人の欲求を尊重するからである。

 過去に存在した人の欲求にも、(生存)条件付欲求と無条件欲求がある。うち条件付欲求に対しては、現在や未来において、過去の人や、過去の人の欲求は存在しない以上、配慮する必要がない。配慮すべきは、過去の人の意志に対してである。

 過去の人の意志に対する尊重は、誰も幸せにせず、一見不合理に思える。なぜわざわざ現在の人の幸福を犠牲にしてまで、過去の人の意志を尊重すべきなのだろうか。一つ利己的な理由を挙げるとすれば、過去の人の意志を現在の我々が尊重すれば、現在の我々の意志を未来の人々に尊重してもらえる見込みも高くなり、我々自身が、自分たちの意志がないがしろにされるのではないかと不安に思わなくて済むからである。

 また、過去の人の意志に対する尊重は、確かにその人を幸福にはしないが、広義の意味でその人の利益になるとは言えないだろうか。例えば、ある親が子供の幸せをひどく願い、子供を残して死んだとする。そのあとで、子供が幸せになることは、親の人生を全く変えないから、親にとって直接的な利益になるとは言えないにしろ、親の願望が成就したのだから、親が報われた、もしくは親の人生が有意味になったとは言いたくはなる。

 

5.最後に

 意志がなく、条件付欲求だけでも幸福に生きることはできる。しかし、意志は、人生に本質的な生きがい、生きる理由、生きる意味である。道徳が、本人の死後も意志を尊重するのは、その証拠である。

 意志を持つことが、私自身にとって良いことか、わからない。意志をもつことで、意志の実現という善を得る可能性もあれば、意志の挫折という悪を被る可能性もある。また、意志を持つ限りは、早期の死を恐れなければいけない。

 ただ、意志の実現に関して、もし出来る限りのことをしたならば、もはやそれは独立な無条件欲求に変わり、死そのものでは挫かれない。重要なのは、挫かれたり、絶望したりする無謀な意志を持たないことである。私は、この範囲内であれば、自分の意志を大切にしたいと思う。

幸福と道徳における人生観の違い

1.幸福と道徳の根本的な違い

 幸福と道徳は、我々が追求する別のものである。確かに、これらはほとんどの場合は一致している。大抵は、打算であっても道徳的に行為することは、自分の幸福にとっても一番良い。それに、本心から道徳的に行為すると、道徳的な満足という幸福感が得られる。また、自身の幸福も道徳が尊重する利害の一部である。このように、幸福と道徳は、互いを入れ子構造のように含みあっている。

 しかし、私は、両者には次に述べる決定的な違いがあると思う。それは、幸福と道徳が前提とする人間観が全く違うからである。

 幸福という概念は、徹頭徹尾、主観的、独我論的、自己完結的である。幸福は、私だけのものであり、私だけが評価できるものであり、私から見たものである。そこに他者の視点は存在しない、他者から見てどうだろうが、本人から見て幸福ならば幸福なのである。幸福の主体は、「人間」というより、孤立した「人」である。

 対して、道徳という概念は、客観的、社会的、人間的である。道徳においては、人は行為を通じて他者とかかわりあう「人間」として尊重される。したがって、その善は他者から見ても、客観的に良いものでなければならない。

このような人間観の違いに応じて、内容も以下のように変わる。

 幸福といった場合、自分の視点から見て幸福かが重要である。たとえ無知に基づく偽りの幸福や、洗脳により刷り込まれた幸福であっても、幸福であることには違いがない。すなわち、幸福とは、主観的に良い経験をすることである

 対して、道徳は、他者の視点からみても本人にとって良いことをせよ、と命じる。道徳は本人にとって客観的に良い世界を実現してあげることなのだ

 これらの違いを踏まえ、私は幸福についての快楽主義、道徳については欲求充足説を取る

 ここでいう快楽主義とは、単に狭義の感覚的快楽のみではなく、欲求の充足や人生に対する満足感まで幅広く含む、良い経験(広義の快楽)こそが幸福を構成するという立場である。この立場によれば、例えば、他人に裏切られていても、本人が気づいていなければ幸福に変わりがない。

 対して、欲求充足説は、我々の望むことが(そう信じられるかとは無関係に)本当に世界において実現されることが善で、実現されないことが悪とする立場である。他人に裏切られたくないという欲求を持っていれば、本人が気づくかとは関係なく、他人に裏切られることは悪なのでる。

 

2.幸福と道徳の具体的な違い

快楽主義と欲求充足説の違いゆえに、私は幸福と道徳的尊重には具体的には次の違いがあると思う。

 

2-1.経験機械

 もしも、映画マトリックスのように、我々の人生が、すべて水槽の中で脳に送られた電気信号だったらどうだろうか。一部の人々は、このような事態に嫌悪感を示す。

 しかし、彼に我々の人生がこのような経験機械に繋がれた人生であろうと、我々の経験に違いはない以上、我々の幸福には変わりはない

 では、他人を経験機械につないで、偽りの幸福を夢みさせることは道徳的に悪いことだろうか。それはやはり不正に思える。彼は現実の世界で実際に何かを成し遂げたいのであり、単に経験機械のなかで何かを成し遂げた気分に浸りたいわけではない、前者の欲求を挫くから、彼を経験機械につなぐことは不正である

 

 

2-2.幸福な事故

次に挙げたいのは、前の記事でも挙げた、トマスネーゲルの思考実験である。

 ある人が哲学や芸術などの知的な活動を楽しんでいたとする。しかし、彼は突然交通事故で脳障害を負い、知能が幼児の水準まで退行してしまった。にもかかわらず、幼児として可愛がられ、事故にあうまで以上の幸福感が得られたとする。

 この場合、明らかに、彼は事故に遭うことで不幸になるどころか、幸福になっている。知的、芸術的な観照以上に、可愛がられることが良い経験なのであれば、幸福は経験の良さで決まったのだから、彼の幸福は増加するのである。

だからといって、運転手が彼をこのような目に合わせることは、決して道徳的に善いことではない。むしろ、彼を幸福にしてもなお、運転手は事故の責任を厳しく問われるだろう。

これについては、以下のように説明がつく。

 事故に遭う前の私は、事故に遭うであろう時点のあとも、哲学や芸術を楽しみたいと考えていたであろう。それも、その時に哲学や芸術をしたいと欲求する場合に限り、したいと考えていたのではなく、その時に自分がどう思うおうと、哲学や芸術をしたいと考えていたであろう。しかしながら、事故は、事故に遭う前の私のこの欲求を挫く、おそらくは、事故にあった後の私の、可愛がられたいという欲求を満たす以上に。それゆえに、事故に遭わせることは過去から未来にわたる彼の欲求を全体的に挫くゆえに、道徳的に悪いことなのである。

 

 

2-3.死の不幸と殺しの悪について

私は下の記事で死は不幸ではない(死ぬ本人にとって悪くない)と主張した。

死はなぜ快楽主義者の私にとって悪いことでは無いのか - 思考の断片

 まず、死は生の剥奪だと言われるが、主体が死ぬ以上、死以降の私は存在しない。存在しない主体の利害に価値はない。よって、死以降の剥奪された生に価値はない。したがって、死は(良き)生の剥奪として悪くない。

※対して、死んだ後の生の苦痛にも価値はあると考える。したがって、死は(悪しき)生の回避として良いことはある。

 また、死は生の消滅だと言われる。確かに我々は生き続けられないことで挫かれるような利害、欲求を持つ。しかし、我々は生の消滅で欲求が挫かれる苦しみを経験することはないから、死は生の消滅としても悪くない。

 

対して、私は人や動物を殺すことは、たいていの場合道徳的な悪であると考える。

 確かに、殺された以降の私が抱く欲求の充足に価値はないかもしれない。だから、殺しは生の剥奪としては道徳的に悪くはない。つまり、殺しは生きられたであろう私に対する道徳的悪ではないのである。

 

 しかし、殺しは、殺される前の私の、将来も生きたい、(将来生き続けることによって)何かを得たい/したい、という欲求をも挫く。(赤ん坊ですら、快楽を得たい、母親に愛されたいという、死で挫かれる欲求を持つ。)つまり、死は、これまで生きてきた私の、将来生きたい、生きることでなにかをしたいという意志を挫くがゆえに、道徳的に悪いのである。

 

私の立場は、殺人の悪に対する次の直観をよく説明すると思う。

 三人がほぼ同じ幸福な人生を生きた/生きるであろう場合、1.生まれて間もない赤ん坊を殺すことと、2.20代の青年を殺すことと、3.70代の老人を殺すこと、どれが一番道徳的に悪いだろうか。私は、2>1>3の順であると思う。多くの人も同意するであろう。

しかし、もし殺しが剥奪として悪いならば、1>2>3の順に悪い。

 対して、私の立場を取れば、赤ん坊は生きたい(それにより何かをしたい)という意志が青年より希薄である、それゆえに2>1の順で道徳的に悪いのである。

 では、2>3の順で悪いのはなぜだろうか。それは、老人はすでに将来生きたいという意志をたいして持ってはおらず、若かりし頃の生きたいという意志も、ほとんどが実現済のものだからである。

 

3.伝記的生と、映像的生

 以上の三つの例で、幸福と道徳が目指すところ、つまり快楽(いい経験をすること)と欲求の充足の以下の二点の違いが明らかになったと思う。

 まずは、最初に述べたように、欲求の充足とは、たんなる主観的な自己満足にはとどまらない、意志の真の成就である。道徳は、我々を意志する主体として尊重するのである。対して、幸福は、我々を意志の主体というよりは、どちらかというと経験を享受する存在としてみなす。

 また、欲求は時間を超える。我々は、現在だけではなく、将来の我々が生きるか、何をなしとげるか、何を欲求するかについて強い関心を持つ、時間的に絡み合った自己である。我々は、現在を通じて過去も未来も生きる、歴史的な存在として尊重されるのである。

 対して、快楽は常に現在の私の快楽である。確かに過去の記憶や未来の期待による快楽も存在するが、快楽を引き起こすのはあくまで現在の記憶や期待であって、過去や未来が実際にどうあろうと、現在の快楽に変わりはないのである。幸福が評価するのは、時間的にも自己完結した、刹那的な生である。

 要するに、道徳が尊重する生は、様々なことを意志し、努力してきた歴史としての生、つまり我々の伝記的生である。これに対して、幸福が評価する生は、あくまで、どこか受け身で、多数の今に切り離せる、映画のコマのような、映像的生なのである。

 多くの人々にとって、どちらが魅力的な人生観かは、一目瞭然だと思う。私も、一つの伝記を紡ぐつもりで生きたほうが良いと思うし、他者をそういう存在として尊重したい。しかし、いくらそのように生きているつもりでも、結局私が獲得でき、最終的にものをいうのは、映像的生以上のなにものでもないということに、自覚的でありたい。

刹那主義について

1.二種類の私概念について

私という概念には二種類ある。

 

一つは、生まれてから死ぬまで同一の「私」である。普通我々は、例えば昨日晩御飯を食べたのも、明日仕事で働くのも、すべて同じ「私」だと考える。そして、昨日晩御飯を食べた楽しみや、明日の仕事のつらさは、すべてその同じ「私」にとっての利益や害悪であると考える。この「私」は自己同一性を保ちつつ、時間の中を生きる「私」である。

 

対して、次のような考え方もできる。<私>が昨日晩御飯を食べた時は、今日の<私>や明日仕事をする<私>はいなかった。今日の<私>がこう考えているときは、昨日や明日の<私>はいない。明日仕事をするときも、昨日や今日の<私>はいないだろう。それぞれの<私>がいるとき、他の<私>がいないということは、昨日、今日、明日の<私>は別々の存在ではないだろうか。

 

また、昨日の晩御飯の楽しみはあくまで昨日の<私>のものであって、明日の仕事のつらさもあくまで明日の<私>のものに過ぎず、今日の<私>は両者とは無縁なのであると考えることもできる。昨日、今日、明日の<私>は別々の利害の主体なのである。

 

2.刹那主義

以上のように私を、時を通じて同一な利害の主体「私」として見ることもできれば、時によって別々な利害の主体である<私>達の集団として見ることもできる。どちらの見方がより実体的で、どちらがより観念的だろうか。

 

常識によれば、「私」がいるからこそ、各時点を生きる<私>がいると考えられている。しかし、仮に「私」を想定しなくても、各時点を生きる各々の<私>達が存在することは矛盾なく想定できる。逆に、各時点を生きる<私>達を想定しなければ、「私」を想定することはできないのである。つまり、「私」がいて、その時間的限定として初めて<私>達がいるというよりは、<私>達がいて、その時間的統合として初めて「私」はいるのである。したがって、「私」は<私>達という想定の上に行われたさらなる想定であり、より観念的なのである。

 

また、「私」が仮にいたとしても、その者が一つの利害の主体かどうかは疑わしい。実際、例えば今日高い食事をする場合、それは今日の<私>にとっては(美味しいから)利益であっても、明日以降の<私>にとっては(金が減るから)損失である。この場合、今日高い食事をすることは、「私」にとって利益か損失のどちらだろうか。

 

これに対しては、今日の利益と明日以降の損失を足し合わせれば、全体としての「私」の損益になる、と皆は言うだろう。しかし、この損益の総和というのは、また観念的な代物である。なぜなら、総和された損益を、今日高い食事をするという出来事に対して、直接見出す主体はどこにもいないからである。あくまで、今日の<私>、明日以降の<私>達が、それぞれ利益や損失を見出しているだけである。

 

 以上より、利害の主体としては、<私>達がより実在的で、「私」は単なる観念的な仮構に過ぎないと言えるだろう。このように、時間を通じた同一者「私」よりも、瞬間的な存在である<私>達を実体的と捉える立場を、刹那主義と名付けよう。

 

3.「私」と<私>達の関係

上では、「私」は<私>達の時間的統合であると述べた。このような見方をすれば、「私」が全体で、<私>達が部分なのである。そして、「私」の利益は、<私>達の利益の総和なのである。

 

しかし、「私」は同時に今の<私>が抱く観念でもある。したがって、今の<私>が全体で、「私」が部分であるという独我論的な見方もできる。そこでは、「私」の観念的な利益が達成されると信じられることが、今の<私>の利益の一部をなすに過ぎない。

 

「私」において統合される、過去や未来の<私>達の全てが、今の<私>が抱く観念であるからには、「私」が今の(そして各時点の)<私>の観念であると考えるほうがより正しいのだろう。

 

さてその場合、「私」という観念でも、どの時点の<私>が抱くかによって内容が変わりゆく。例えば学者を夢見ていた小さい頃の<私>が抱いた「私」は、真理の探究に身を捧げる人生を生きる者だっただろう。対して、今サラリーマンをしている今の<私>の抱く「私」の人生は、抽象的な真理とは無縁の職業実践に身を捧げる人生である。

 

このように、「私」は、時々の<私>達を起点におこなれる観念的な仮構であり、「私」の内容も<私>達の変化に引きずられていくのである。

 

 

以上のような刹那主義をとることの帰結はどういうものだろうか。

 

4.無痛・無自覚な突然死は害悪か

常識によれば、死は無痛で無自覚であっても死ぬ本人にとって害悪だと言われる。これは本当だろうか。

 

まず、「私」にとって、ほとんどの場合死は害悪である。「私」にとっての利害は、<私>が各時点で経験する利害を総和したものであった。もし、死ななければ「私」が概して幸福な人生を送れるとした場合、死ぬことでその幸福を得られないのは、確かに剥奪として悪いことである。

 

他方で、どの時点にとっての<私>にとっても、死は害悪ではない。生きている間の<私>達は、死を経験するどころか、その痛みや自覚もないで過ごせている。対して、死んでしまってからは、死を経験する<私>達そのものがいないのである。

※「私」にとって死は悪いことであっても、「私」にとって悪い死が到来すると信じられない限り、今の<私>にとって悪いことではない。したがって、無痛・無自覚な死は、今の<私>にとっては無害なのである。

 

死は「私」にとって害ではあっても、どの<私>達にとっても無害であることが主張できた。死は「私」に対して観念的に有害なだけであり、<私>達には無害なのである。

 

ここで、次のように反論されるかもしれない。死を免れることができれば、死なずに生きられたたくさんのハッピーな<私>達がいたかもしれない。それに比べ、死んで彼らが存在できないのは直接的ではなくとも、比較的には悪いことではないかと。

 

しかし、仮に死ぬ場合、生きて幸せになるはずだった<私>達が、おのれの非存在を嘆くわけではない点に注意である。彼らは機会損失を被って嘆くまでもなく、存在しないのである。だから、死んだ場合は生き続ける場合より悪いとする理由が無い。

これはちょうど、幸せな子供が生まれないことが、生まれることに比べて悪くはないのと同じことである。

 

※確かに生き続けた場合は、たくさんのハッピーな<私>達が存在できる。もし彼らが存在した場合を基準にすれば、死んで彼らがもとから存在しなかった場合は悪いと言えるかもしれない。しかし、死ぬのが生き続けるよりも悪いと言えるためには、あくまで死んだ場合を基準として、死ぬほうが生き続けるより悪いと言えなければならない。

 

したがって、以上のように刹那主義を前提とすれば、死は、あくまで無自覚・無痛である場合ではあるが、無害なのである。

※以上のような死無害説を初めて提唱したのは、古代ギリシャの哲学者エピクロスである。彼は原子論者であったが、原子論を徹底するあまり、私と同様、(個人ではなく)各時点の個人こそが利害の最小単位だと考えていたのではないかと私は考えている。

 

 

私が実際に自殺をせず、死を避けるのは、死が自覚的で、苦痛に満ちているからである。もし自殺をしてみようものなら、自殺の直接的な苦痛の他、「私」に死が害を与えられると信じられることに対して、<私>は耐えられないだろう。

 

5.脳障害を負ってまで幸せになることは幸せか

最後に次のような例を考えよう。

・私が、自覚や痛みを感じる間もなく、事故にあったとする。私は一命を取り留めたが、重度な脳障害を負い、精神状態が幼児まで退行してしまった。事故に遭うまでは私は学問や芸術に打ち込んでいたが、遭ってからは赤ん坊のように可愛がられて幸せに生きたという。

この場合、事故にあっても私は幸せだろうか。

常識的なほとんどの人は、とても幸せそうではなく、可愛そうだというだろう。では、だれが不幸なのだろうか。事故に遭ってからの幼児としての私が幸福であることに異議はないだろう。不幸なのは、事故に遭う前の私である。

確かに、事故に遭う前の私が抱いていた観念的人格「私」にとって、事故は不幸なものであるに違いない。「私」は学問や芸術に打ち込んでこそ幸せな人物である、赤ん坊扱いされて幸せになっても、その「私」として幸せなことではないだろう。

対して、事故で不幸を被った<私>達は誰一人としているだろうか。事故に遭う前の<私>達は、もちろんなんも害を受けていない。事故に遭った後の赤ん坊同然の<私>達も、皆可愛がられて幸せである。

したがって、事故は「私」にとっては観念的に不幸な出来事であっても、<私>達にとっては幸福に変わりがない出来事なのである。

 

私はもし余裕があれば、このような事故を避けようとするだろう。知る限りで「私」にとっての不幸を避けたいというのは、今の<私>の利害の一部だからである。しかしもしこの事故が無害・無自覚に突然やってきたのなら、確かに幸福なことだと思う。

 

 6.まとめ

皆は、時間を通じて自己同一な「私」という観念をいだき、「私」にとっての死や自己喪失の害悪など、観念的な善悪を重んじている。確かに我々は観念の中に生きる存在かもしれない。そもそも時間自体、観念の一種だからだ。

しかし、「私」にとっての、例えば死の観念的な害悪は、死の観念を今の<私>が抱いてこそ実際に悪いのである。したがって、本当に悪いのは、死ぬことそのものではなく、死ぬことを知り観念を抱くことなのである。

死に限らず「私」という観念にとっての善悪を、刹那主義的に、より実在的な<私>にとっての善悪に還元してみれば、他の多くの恐怖や悩みも解消されるのではないかと思う。

 

普遍性追求の重要性

我々は、しばしば「普遍」と「一般」を混同する。たしかに、どちらもすべてについて成り立つという意味では共通している。しかし、両者には大きな違いがある。日本では前者の普遍性が軽視され、一般性が追求されることが多いが、それは個人にとっても社会にとっても不利益である。私は普遍性を追求して生きたいと思う。

 

1.普遍性とは何か

1-1.物事には現象と本質がある。現象は共通の本質が、物事の個別性に応じて別様に表れたものである。

(現象に対する本質というとイデアや物自体のようなものを思い浮かべるかもしれないが、本質は現象から外在はせず、本質は、当の現象をかくあらしめるものとして現象に内在している。)

 

1-2.個々の現象を現象それ自体として見たものが特殊であり、個々の現象の違いを捨象して共通の現象を抽象するのが一般である。これらは一つの現象を問題とするか、捨象をして多くの現象を問題とするかにおいて違ってはいても、本質ではなく現象それ自体を問題とする点において同じである。

 

1-3.個々の現象を、共通の本質の固有な現れとしてみて抽出されるものが個であり、共通の本質それ自体が普遍である。これらは、本質の現れ方の多様性を問題とするか、本質の単一性を問題とするかで違ってはいても、現象ではなく本質を問題とする点において同じである。

 

1-4.現象を捉える一般性と、本質を捉える普遍性は似て非なるものである。たとえば、一般性は多数の現象の違いを捨象した最大公約数なのだから、一般的であればあるほど内容は薄い。対して、普遍性は、普遍的であればあるほど本質に近く、内容が豊かで深いものとなる。また、一般的なものは個々の現象の違いを無視するため、個別具体的ではないのに対して、普遍的なものは個々の現象の違いを説明してこそ普遍的なのである。

 

1-5.とはいえ、個ー普遍と特殊ー一般の違いは程度問題である。厳密に言えば、全てに対して当てはまる(普遍的)本質はないし、我々は現象を通じてしか本質を理解することはできない。また、抽象を行う道具である言葉を用いて主張する以上は、どんな普遍的な主張も、ある程度個別的なディテールを捨象した一般的な主張であることを免れない。普遍的な本質とは厳密には言葉では語り切れず、直観するしかないものである。

 

1-6.我々の行う活動は、現象を追求する実践と、本質を追求する観照に分けられる。

生活、仕事における実践的な活動は、ある特殊な好ましい現象を引き起こすことを目的としている。一般的な概念や法則には、あくまで特殊な現象を引き起こすのに有用である限りで、価値がある。ましてや、本質がなんであるかはどうでもいいのである。

対して後者は、現象ではなく本質を追求する。それは良し悪しや幸不幸を超越している。良し悪しや幸不幸とは、現象に内在するものに過ぎないからだ。善や幸福をふくむ、いかなる他の目的のためでもなく、それ自体のために行う活動が観照である。もちろん、1-4.で述べたように、我々は完全に普遍的たりえない。しかし、限りなく普遍性に近いものを目指すのが、芸術、純粋科学や哲学の営みだと私は思う。

 

 

2.普遍性を追求する重要性

2-1.日本人には、普遍的な本質を追求する観照的な姿勢がかけていると思う。まず、彼らは普遍的な正義や道徳的な善を追求しない。そして彼らは純粋科学も軽視する。例えば基礎研究には、応用につながるという手段的な効用しか認めない。最後に、彼ら独自の哲学はあるにせよ、普遍的に拡がることなく、成果に乏しい。

 

2-2.普遍性を軽視しても、芸術や哲学などの高尚な営みが衰えるだけで、我々の実生活や仕事には何の影響もないように思われるかもしれない。しかし、普遍性や本質性の軽視には確かな不利益がある。

まず、真の意味での倫理が生まれないことが挙げられる。倫理とは、普遍的な善ないしは正義がなんであるかを追求する営みである。それは、すべての個人にとって善いことの追求であり、個の尊重でもある。

もしこの意味での倫理が欠如していたらなにが起こるだろうか。皆はもはや、個人は尊重せずに、「私」の利益を追求するのに都合がよいように、「倫理」規範を変えようとするだろう。「倫理」はたくさんの「私」が、自らのわがままを言い合った結果の落としどころに過ぎなくなる。

皆がわがままを言い合った結果醸成される「倫理」もどきは、極めて一般的、画一的になる。大多数が醜く、嫌いだと言うことは悪になり、好きだということは善になる。そこでは個性が尊重されず、大多数の好みにより少数派が疎外、抑圧される。

日本における「マナー」がその最たるものである。他人に危害を加えないのはもちろん重要である、しかしそれが行きすぎて、多数が少しでも不快に思うことはなんでも禁止してしまってはどうだろうか。服装や言動が形式にしたがっていなかったり、そういう少しでも普通から外れることに対する不快感を、マナー違反の理由にしてしまっては、極めて窮屈ではないだろうか。マナーは、不快感から形成されたものだから、合理的な理由を持たない。ビジネスマナーが非合理的だと嘆く人が多いが、それも当然である。

このようにマナーや一般性が強要されると、普通から外れた個性的な人がつらい思いをするだけではなく、社会全体が個性を活かせずに大きな損失を被ることは言うまでもないだろう。

 

2-3.以上に述べたように、普遍性を追求する観照的な姿勢にも、日々を生活を実践する上で実利的なメリットはある。ただ、私は観照にはこのような手段的な価値があるのみならず、それ自体が尊い営みであると思う。以下の記事で述べたように、実践的な活動こそが、観照的活動を可能にする前提(衣食住など)を整えるための手段に過ぎないと思う。

よく生きること(その2) - 思考の断片

 いずれにせよ、重要なのは中庸である。以上に述べたように、観照とは無縁の生活は空虚で不毛だが、観照に耽りすぎて、日常的な生活や仕事を疎かにしても、観照に耽っている暇もなくなる。私は観照を目的としつつも、適度に地に足の着いた人生を歩もうと思う。