快楽主義について

私は、快楽や苦痛は人生のすべてだと思う。

というのも、経験の価値は快楽や苦痛できまり、人生の(生きた本人にとっての)価値(well-being)は、経験で決まると考えるからだ。したがって、人生の価値は快楽や苦痛で決まるのである。

こういう立場は快楽主義と呼ばれ、私もこれまでの記事でたびたびこの立場を表明してきた。この記事では従来の立場を修正し、さらに精緻化したい。

 

1.快楽とは何か

1-1快楽に関する内在主義と外在主義

快楽と一口に言ってもいろいろある。おいしいラーメンを食べることも快楽だし、世界が平和であることに満足するのも一種の快楽である。

前者では、ラーメンの味覚の経験の中に快楽が見出だれているように思える。対して、後者では、世界が平和であるという事態に対して態度を抱くことが快楽であるように思える。

前者の考え方を取るのが快楽の内在主義である。内在主義は快楽は経験に内在するものと主張する。これは、素朴な実感にも会うのではないだろうか。快楽とは経験の中に直接感じるものだというのは、我々の常識でもある。

対して、後者の考え方を取るのが快楽の外在主義である。外在主義は経験に対して外的な好ましい態度を抱くことが快楽だと主張する。例えば、哲学者Fred Feldmanはある経験に対して、快いと思う態度そのものが、快楽だと主張する。また、別の哲学者Chris Heathwoodはある経験に起こってほしいという欲求が満たされてこそ、その経験は快楽なのだと主張する。

この二つの立場のどちらが正しいのだろうか、それともどちらも部分的に正しいのだろうか。私は前者が正しいと思う。

 

1-2外在主義の問題点

まず、私が外在主義がおかしいと考える理由を述べる。その理由はたった一つしかないが、決定的だと思う。

我々の快楽の中でもとりわけ純粋なのは、何か好きなことに熱中しているときの快楽である。思索にふけっているとき、好きな音楽に聴き入っているときなどがそれである。そういう時は、好きな活動の経験が意識のすべてを占め、ほかの雑念が入り込む余地は全く無い。時間が経過しているという感覚すら忘れてしまうほどである。ましてや、好きな活動をしていることが快いなどという、余計な態度を抱く余地は全くないのである。

そうすると、外在主義によれば、この経験は快楽ではなくなってしまう。最も純粋な快楽だと思われるものが、実は快楽ではないと主張するのは、間違っているのではないだろうか?

しかし、外在主義者にも再反論の余地がある。彼らは、この経験に対して抱く好ましい態度は無意識の態度なのだと言い張ることができる。例えばFred Feldmanは快楽は信念のようなものだと主張している。例えば、我々は普段、地球が丸いという信念を意識しない。しかし、後から地球は丸いと信じていたかと問われれば、そのとおりだと答えるだろう。快楽についても同様だと、Feldmanは言う。熱中した活動を後から、振り返ってみれば、確かにその活動をしていることに快楽を見出していたと思うだろう、と。

しかし、仮にこのように無意識な態度としての快楽や苦痛があったとしても、それらは無価値ではないだろうか。

次の場合が論理的な可能性として考えることが可能である。
・AとBの意識は全く同じである。しかし、Aは意識された経験に対して無意識の快楽を感じているのに対して、Bは全く感じていない。

無意識の快楽にも価値があると仮定したら、AとBは全く同じ意識的経験をしているのに、AはBよりも良い経験をしていることになる。意識が同じなのにAの経験がBよりも良いというのは間違ってはいないだろうか。

以上の理由から、無意識の態度的快楽や苦痛は無価値であり、それらは快楽や苦痛と呼ぶに値するかすら私は疑問に思う。

 

1-3内在主義の問題点と回答

外在主義に問題があることはわかったものの、内在主義にも問題がある。最も大きな問題は、快い経験の異質性である。快い経験は、ラーメンを食べた時の経験から、本を読んで考える経験、クラシック音楽を鑑賞する経験、寒い日に暖房の風を受ける経験まで、多様である。そしてこれらは多様であるだけではなく、快楽という共通項があるとは思えないほど異質ではないだろうか。すると、快い経験の共通する本質、快楽自体が存在しないように思われる。

これに対しては、私は哲学者Roger Crispと同様、快い経験の内容は違っていても、快楽は変数として共通に含まれると主張したい。彼は俊逸にも、快楽を色で例えている。赤いリンゴ、緑のピーマン、青い海、これらの経験は見かけは全く異質である。しかし、どれも色を持つという点で共通している。しかし、「色」そのものは決まった経験の内容(determinate)ではなく、変数(determinable)のようなものなのである。

快楽についても同様の提案ができる。快い味覚、快い読書の経験、快い美的観照の経験はすべて異質な経験の内容であり、それらの「快さ」はそれぞれ異なる。だが、すべて「快い」という点においてはすべて共通している。つまり、快楽というのは変数であり、それぞれ独自の快さが変数の実現値なのである。こうして、快い経験の共通項、快楽は定義できるのである。 

 

1-4快楽の種類 

以上のとおり、私は外在主義を否定して内在主義をとるが、外在主義の考える、態度で規定される快楽も、やはり快楽の一種だと考える。

我々は快楽を感じるとき、ふつう二つの経験が生じる。一つは快楽を感じる当のその経験だ。もう一つは、快楽を感じる当の経験に対して、快く思ったり満足したりする態度としての経験である。外在主義は、後者だけが快楽と主張するか、後者があるから前者が快楽になると主張する。対して、私のような内在主義者は前者は独立して快楽を含むと主張するわけである。ただ、私は、後者の快く思ったり満足する態度そのものも、快楽を含むと思うのである。私は、前者の快楽を直接的快楽、後者の態度が含む快楽を態度的快楽と呼びたい。

態度的快楽は、我々が経験する快楽の多くを占めるといってもいいと思う。上で述べたように直接的快楽に態度的快楽は必ず伴う。また、ストア派のように直接的快楽に動かされない心の平穏に態度的快楽を抱くことも可能なのである。そして、皆が追求する欲求の充足も、態度的快楽を含む。

 また、実存的快楽と私が呼ぶものも、態度的快楽の一種である。実存的とは、自己の在り方に関心をもつということである。例えば、自分が快楽主義者であることに対して抱く満足感は、実存的快楽の一つである。絶えず自己の在り方を反省しながら生きる、実存的存在として生きる我々にとって、態度的快楽(アイデンティティ)や態度的苦痛(苦悩や絶望)は極めて重要なのである。

しかし、態度的快楽以外の直接的快楽の中にも、重要な快楽は存在する。痒い部位を掻く時の快楽や、おいしい料理を食べる快楽など、感覚的快楽は些細なものに思われるかもしれない。しかし、1-2で挙げたような、熱中して取り組む活動経験に伴う直接的な快楽は重要で、これを活動的快楽と名付けたい。

全ての活動に快楽が伴うわけではない。活動的快楽は、あくまで主体的な活動の経験に伴って生じる。感覚的な快楽を感じるのも確かに生命活動の一部ではあるが、それらはどちらかというと主体的より受け身である。例えば自分の好きなこと、得意なことを、自分が主となって行ってこそ活動的快楽は生じるのである。

熱中している活動の経験は意識のすべてを占める。主体と対象や目的と手段の分離といった、一切の抽象化や反省がなく、すべてが渾然一体となった純粋経験があるのみである。それは、一切の相対化・間接化が紛れ込む前の、絶対確実な具体的経験なのである。この経験に見出される快楽も、同じく絶対確実だといえるだろう。

※強い感覚的経験も、純粋経験であるという点においては同じであるが、主体性をかくだけあって、経験が「活き活き」していない。生のエネルギーの躍動がない分、快楽も味気ないものであることが否めない。

以上では、快楽を直接的快楽と態度的快楽、そして直接的快楽をさらに感覚的快楽、活動的快楽に分類した。快楽と一口に言っても、通常イメージされる肉体的な享楽から、心の平穏や世界平和に対する快楽、実存的なアイデンティティに伴う喜び、忘我の境地で取り組む活動に伴う快楽に至るまで、極めて幅広い範囲をカバーしていることを理解してもらえたと思う。

では、これらの多様で異質な快楽の優劣を決める共通の尺度はなんだろうか。私はそれが、「快楽の度合い」だと思う。以下でその説明をしたい。

 

1-5快楽の度合い

「快いということ」が快楽を特徴づけるのであった。快さには度合いがある。多くの人は、快楽の度合いとして実数値を想定するのではないだろうか。たとえばラーメンを食べる快楽の度合いが1、好きな本を読む快楽の度合いが倍の2であるという場合、後者のほうが前者より、二倍快かったということになる。

※「二倍」とはどういうことだろうかと、鋭い人は突っ込むはずである。この点については、私はうまく準備ができていない。あえて定義するならば次のとおりである。
・本を読む快楽の度合いが、ラーメンを食べる快楽の度合いの二倍と言う場合、次を意味する。
(仮に身体を二つ脳につなぐなどして)ラーメンを食べる経験を同時に二つ別個に経験したときの快楽の度合いと、本を読む快楽の度合いが同じである。
現実にそんなことは無理だというのは、重々承知している。あくまで仮想的な想像の話である。

上の例では、ラーメンを食べる経験の快さの度合いを2つ分足せば、本を読む経験の快さの度合いを上回る。しかし私の場合、ラーメンを食べる経験の快楽の度合いをいくら足しても、それが思考に耽る快さの度合いを越えることができないように思える。前者の快さの度合いは、後者の快さの度合いよりも「次元」が高いのである。

これを数学的に表現するならば、快楽の度合いは辞書式順序の入ったベクトル値(x,y)をとる。そして、(x,y)が(z,w)より大きいのは、x>zか、x=zかつy>wの時だけである。先の例では、思索に耽る快楽は(1,0)、ラーメンを食べる快楽は(0,1)の度合いを持つ。ラーメンの食べる快楽の度合いを仮に何倍しても(0,n)になるだけで、(1,0)より大きくならないのである。

 

以上で、快楽の本質についての説明は十分だと思う。

 

 

2.経験の価値=快楽の度合いである

快楽は経験に内在する。私はこの快楽の度合いこそが、経験の価値であると思う。当然、ある人にとっての経験の価値を左右する要素はたくさんある。しかし、それら要素はあくまで快楽の度合いを左右するから間接的に経験の価値を左右するのであって、直接的には左右しない。

 

2-1快楽以外による価値は経験に含まれるか

ある経験の価値を左右する要素を列挙すると、枚挙に暇がない。快楽以外に、欲求の充足、道徳的な善さ、友情、愛、達成感、美的価値、自尊心、知識、個性の発揮、このようにいくらでもあげられる。問題なのは、これらが快楽とは独立して、経験の価値に寄与するのか、快楽の価値を高めるからこそ、経験の価値に寄与するかである。私は後者が正しいと主張したい。つまり、先ほどあげた要素の価値は、欲求が充足したと信じられることに対する快楽の価値、自分が道徳的に善く振舞っていると信じられることに対する快楽の価値…等々に還元されると言いたいのである。全てについて主張していてはきりがないので、最初の二つに絞って主張しよう。

まず、欲求充足の価値の中には、快楽の価値に還元できない要素があるように思われる。例えば、他の人に好かれたいという欲求が充足することは、他の人に好かれていると信じられる経験をするのではなく、実際にほかの人に好かれなければならない。後者の価値は快楽の価値に還元できない、なぜなら実際にほかの人に好かれていようといまいと、そう信じてさえいれば快楽に変わりはないからである。

ただ、ここで問題としているのは、あくまで「経験の」価値である。したがって、快楽の価値に還元すべきなのは、欲求が充足されたと信じられることの価値である。欲求が充足したと信じられるのが良い理由は、満足感が得られるからである。そしてこの満足感の価値は、欲求の充足にともなう態度的快楽なのである。

次に、道徳的に善いことをする価値は、快楽の価値に還元できるだろうか。確かに道徳的に善いことをすると気分が良い。これは快楽の一種である。しかし、道徳的なことをする経験には、自己満足に限らない、道徳的価値があるのは言うまでもないだろう。ただ、ここで問題としているのは経験の「本人自身にとっての」価値である。道徳的行為の利己的な価値は、道徳的な行為をした満足感ですべて尽くされるのではないか。

議論が不十分ではあるが、経験の価値を決めるかもしれない、快楽以外の主要な二候補について、結局快楽の価値に還元されると私は主張した。

もし、他の候補も快楽の価値に還元されるなら、経験の価値は快楽の価値でしかないと言える。しかし、快楽の価値が快楽の度合いだけで決まるかはまだ定かではない。

 

2-2快楽の価値は、経験の内容に依存するか

まず、快楽の度合いが同じでも、「高尚な」快楽と「低級な」快楽には、経験する本人にとっての価値の差があるといわれるかもしれない。快楽の度合いだけではなく、どういう内容の経験に快楽を見出すかが重要というわけである。例えば、仮に、クラシック音楽を鑑賞する快楽と、泥にまみれて遊ぶ快楽が同じくらいの度合いの快楽でも、前者の快楽の価値のほうが高いではないかと主張されるかもしれない。

私の場合に限って言えば(そしてほとんどの人に場合もそうだろうが)(私が)クラシック音楽を鑑賞する快楽の次元は、(私が)泥にまみれて遊ぶ快楽の次元より高い。だから、泥にまみれて遊ぶのがいくら楽しくても、仮にも両者の快楽の度合いが一致することはなく、上記の反論はそもそも成立しない。上記の仮定はほとんど成り立たないことに注意すべきだ。

それでも、私以外の人で、両者の快楽の次元と度合いが同じ場合もあるだろう。そういう人の場合は、快楽の価値は同じだと主張したい。問題としているのは、経験する本人にとっての主観的な価値であることに注意すべきである。クラシック鑑賞が泥にまみれるよりも良いという先入観のある我々が外からみる場合、泥にまみれることによる快楽は惨めなものに思えるかもしれないが、クラシック鑑賞と泥にまみれることを同列に置くような人自身にとって、泥にまみれる経験は確かにクラシック鑑賞と同等に有意義なものである。それを傍から見てくだらないと断じるのは、上から目線のエリート主義だし、想像力が足りないと思う。

 

2-3快楽の価値は本人にとって相応しいかに依存するか

2-2の反論にも関わらず、まだ納得いかない人がいるかもしれない。問題にしているのは本人にとっての価値だと承知の上で、いや、だからこそクラシック鑑賞の快楽のほうに価値があるのではないだろうか。泥にまみれる快楽の価値が低いのは、経験の内容もさることながら、前者に比べて後者が豚みたいで、人間にはふさわしくないからではないだろうか、と。

しかし、私は泥にまみれる快楽の価値が低いとは思わず、低いと錯覚されているだけだと思う。ここで、自分が不相応にも泥にまみれる経験をしていることに不満足を覚える場合と、覚えない場合に分けて考えよう。

前者の場合、本人が泥にまみれる経験それ自体に快楽を感じるだけではなく、人間である自分が豚のように泥にまみれているという、事実そのものに苦痛を感じている。泥にまみれる快楽が本人にとって、クラシック鑑賞の快楽より価値が低いように一見思えるのは、この反省的な苦痛で快楽が減殺され、全体としてはあまり快くないからとして説明ができる。(しかし、泥にまみれる快楽それ自体はクラシック鑑賞と同等に価値があるのである。)

後者の場合、つまり自分が不相応にも泥にまみれていることに対して本人が全く何も思わない場合(それくらい真剣に泥遊びをしているとき)、同程度の快楽があるクラシック鑑賞の快楽と価値が違わないように思える。

つまり、快楽が本人に相応しくない(相応しい)だけで、本人がその事実に苦痛(快楽)を見出さない限りは、経験の相応しさは価値に影響しないのである。

 

2-2と2-3により、快楽を見出す経験の内容や、経験に快楽を見出すことが主体にふさわしいか否かのいずれも、快楽の度合いに影響することを通じて間接的にしか快楽の価値に影響せず、快楽の価値があくまで快楽の度合として決まることが結論づけられる。2-1より経験の価値は快楽の価値なのだから、経験の価値も快楽の度合いである。

 

 

3.人生の価値は経験だけで決まる

2.では、経験の価値が快楽の度合いで決まると主張した。私はさらに、人生の本人にとっての価値が経験だけで決まると主張したい。

 

3-1経験機械の思考実験

人生の価値が経験だけで決まるという主張に対しては、Robert Nozickによる有名な経験機械の反論がある。

 

・人物Aは科学者で、重病の治療薬を開発する研究に一生を捧げた。彼は新薬を見事開発して一生を終えたとする。

・人物Bは、生まれたときから、仮想現実を経験できる機械にプラグインされ、生まれてから死ぬまでAと全く同じ経験をしたとする。

①AとBの経験は全く同じである。

②しかし、Aの人生のA自身にとっての価値は、Bの人生のB自身にとっての価値より高い。

③したがって、人生の価値は経験だけでは決まらない。

 

①が正しいことおよび、①+②より③が導出できることに疑いはない。私は②に反論したい。

そもそも、②にみんなが同意する理由はなんだろうか。それは新薬を開発するという「達成」が、AだけにありBには欠けているからである。確かにBはAと同様、新薬を開発したという達成感は得ている。しかし我々は、達成感がほしいのではなく、達成を果たしたいのである。達成には、単なる達成感、そして経験から独立した価値があるように思われる。

 

3-2自身の人生の価値に関する無知

私は、「本人にとっての価値」という概念について以下の要請を行う。

・自らの人生の「本人にとっての価値」は、本人自身がある程度は知ることができなければいけない

確かに、完全に知ることはできないかもしれない。例えば、ある人が親友だと思っていた人が、実はその人を利用していただけかもしれない。その場合、その人の人生の価値は本人が考えていたより少しは劣るかもしれない。しかし、その人自身が相当良い人生だと思っていたものが、実は無意味だったというようなことは無いと思うのである。その人の人生の価値の判定者は本人自身である、その本人が分からないというようなことはあってはならないのである。

ところが、上にあげた達成という価値は上の要請を満たさない。なぜかというに、もしある人が経験機械につながれているとしたら、この達成という価値は損なわれ、そもそも経験機械につながれているか否かを本人は知りようがないからである。

例えば、上のAは、自身の人生がBのような経験機械による夢である可能性が、無視できるほど小さいとする根拠を持たない。もし新薬を開発したという達成そのものに価値があるとすると、この可能性次第では、Aの人生は大変価値あるものか、それとも無意味なものか、変わってしまう。しかしそうは思えない。Aの人生の実際の価値は、 A自身が考えていた価値と大差はないはずである。

したがって、上の要請を行い、そしてどんな人も、自分自身が実は経験機械につながれているという可能性がある程度高いことを否定できないとすると、(経験から独立した)達成は、ある人の人生の、本人自身にとっての価値には含まれないと主張できる。

 しかし、人生の価値は不可知なのだと上の要請を否定したり、経験機械に実はつながれている可能性など無視できるほど小さいと言い張る人がいるかもしれない。その場合、私はまた別の理由を考える必要があるだろう。

 

3-3想像力の欠如による説明

我々がBにとってのBの人生の価値を考えるとき、仮に我々がBだったときに、Bの人生がどういうものなのかを想像するだろう。しかし、我々がBの人生を想像するとき、本当にBになり切れているのだろうか。

Bは自分が実は新薬を開発していないんだということは一切知らず、達成感にひたっている。対して、我々はBの人生を想像するとき、「それでも本当は新薬を開発していない」という思念を持ち込んではいないだろうか。その場合、想像した人生はBではなく、薄々自分の人生が夢であると気付いている別人B’の人生である。わずかでも、すべては夢であり、実際は新薬を開発していないのではないかという思念を抱いている以上、B’の新薬を開発したという達成感はBに比べて低いだろう。

こうして、Bの人生のBにとっての価値が低いと我々に思えるのは、我々のBの人生に対する想像が不完全で、誤ってB’の人生を評価しているからだと説明することができる。それはBの人生の価値が実際に低いからではなく、想像力の欠如によりBの人生を、額面通りに評価できていないからなのである。 

 こう主張してもなお、B’とBの人生の価値の差は、我々がAとBの人生に対して見出す価値の違いを説明しないと思う人はいるだろう。彼らを説得するには別の理由が必要だ。

 

3-4当為的な価値と、実現的な価値の違い

「本人にとっての価値 」という概念には、実は二つの意味がある。一つは、(本人の厚生のために)目的として追求すべきものとしての価値であり、もう一つは、本人にとって良い当のものとしての価値である。前者を当為的な価値、後者を実現的な価値とよぼう。

我々は、例えば友情は良いものだという場合、友情を目的として追求すべきということを意味するのと同時に、友情があれば自分にとって良いことを意味する。ここでは、当為的な価値と実現的な価値は一致しているのである。

しかし、両者が異なる場合もある。幸福感がその一例である。幸福感は、我々にとって良いことは間違いない。しかし、幸福感を目的として追求すべきとは限らない。幸福な感情そのものを目的として追求することは、かえってむなしく、不幸ではないだろうか。実際に幸福感に恵まれていると思われる人を見てみればいい。彼らは幸福感を強く意識することもなければ、直接幸福感を追求しているわけでもない。彼らは幸福感そのものを追求するのではなく、したいことや、やるべきことをやっているのである。したがって、幸福は実現的な価値ではあるが、そこまで当為的な価値ではないのである。

同じことが(良い)経験についても言えないだろうか。私は、良い経験が、そして良い経験だけが本人にとって良いもの、つまり実現的な価値の全てだと考える。しかし、それは必ずしも、良い経験だけを目的として追求すべきだということを意味しない。むしろ、何かを本当に達成することを目的として追求したほうが、充実感や達成感のような良い経験が豊富に得られるものだと思う。つまり、当為的な価値は良い経験よりも、達成なのである。

さて、経験機械の反論の②が正しいと思われるのは、当為的な価値として、達成を含むAの人生の価値を求めるべきだと考えているからだと説明できる。これは正しいと認めよう。

しかし、私は実現的な価値のほうを問題にしたい。この場合、Aの人生の価値はBの人生の価値と同じであると主張することは、なんの矛盾もないのである。  

 

4.なぜ快楽主義をとるか

この記事では、快楽の本質を明らかにし、人生の本人にとっての価値(well-being)に関する快楽主義を全力で擁護した。とくに私が重点をおいたのは、3.で主張した、人生の価値が経験で決まる点である。これは(well-beingについての)経験主義と呼ぶことができる。

私は、快楽主義は経験主義の一形態に過ぎず、もしかしたら快楽主義は誤りで、経験の価値が快楽以外で決まるかもしれないと思う。しかし経験主義について譲るつもりはない。人生とは徹頭徹尾経験であり、経験に違いがなければ人生に違いはなく、従って人生の価値に違いもない。

なぜここまでかたくなに経験主義に肩入れしているかというと、私が存在論的な経験主義、つまり(私の)経験こそが存在するすべてだと信じているからである。経験から独立して存在する外的世界や他者というのも、私に想像される限りでしか存在しない。だから、「実際の」達成や友情というのも結局は経験に還元されてしまうのである。

この立場は独我論的だと批判されるかもしれない。よろしい、他者の経験も認めよう。それでも、私は他者の経験と私の経験は独立した世界をなしていて、互いに関わることがないと思っている。したがって、私の人生が私の経験の系列であることは変わらない。

このように、私の経験主義は、独我論的、孤立主義的な人生観の帰結ということができるだろう。私はこの人生観をとることにアイデンティティを見出しているため、経験主義を何としてでも守りたいようである。

道徳について(その2)

以下では、道徳に対する私の考えや姿勢を述べる。

1.利害の主体

道徳は、善や悪を規定するものである。ここで、善や悪というのは突き詰めれば必ず「何者かにとって」の善や悪であり、主体を離れて存在しない。では、善悪を見出す利害の主体はいったい何者だろうか

まず、もっとも大きい単位としては集団が考えられる。例えば、ある政策が国民全体の利益になる、という場合がある。しかし、誰もが賛同すると思うが、この場合、国民全体という集団が利害の主体として存在するわけではなく、国民全体の利益というのは、一人一人の国民の利益を形式的に総和した概念にすぎない。「国民全体」という集団は抽象的に仮構された主体にすぎない

では、集団ではなく個人が究極的な利害の主体なのであろうか。私はそれすら間違っていると思う。では、私個人にとっての善悪を二通りに定義しようと試み、どちらの場合も私は利害の主体として存在しないことを示そう。

一つには、ある時点の私にとって善いと捉えられることだとする考え方がある。しかし、すぐわかるように、ある時点の私にとっては善いと感じられたものも、別の時点の私にとっては悪いと感じられることがある。例えば、今日お金を使うことは、今日の私にとっては善いことかもしれないが、明日以降の私にとっては使えるお金が減ることになるから悪いことである。

この場合、今日お金を使うことが善という今日の判断と、悪であるという明日以降の判断のどちらが正しいのだろうか。おそらく正解は無く、どちらも、私個人にとっての善悪と一致しないだろう。一つ目の考え方はうまくいかないようである。

もう一つには、各時点の私にとっての善悪を総和した値こそが、私個人にとっての善さ(悪さ)であるとする立場がある。先ほどの例で説明すると、今日お金を使うことによる今日の利益と、明日以降使えるお金が減る明日以降の不利益を足し合わせて、全体がプラスになれば、私という個人にとって、今日お金を使うことは利益となる。

しかし、この「総和した善悪」は本当に私個人にとっての価値なのだろうか。というのも私個人という主体が、「総和した善悪」という価値を、直接ある対象に見出したわけではないからだ。対象に直接価値を見出す主体は、あくまで各時点の私であって、私個人にとっての「総和した善悪」というのは、各時点の私が直接見出す価値を足した間接的・形式的な価値にすぎない。

以上からわかることは、厳密には「私個人」というのも利害の主体としては存在せず、利害の主体は各時点の私であるということである

 

2.利今主義

価値判断の主体はあくまで各時点の私やあなた(彼ら自身にとっては「今の私」)である。そして、価値判断に基づいて最善な行動や判断をするのも同じ彼ら自身(「今の私」)である。したがって、どの時点のどんな人も、その時のその人(「今の私」)の利益を最大化するように行為するのである。この行動原理を、「利今主義」とよぼう

こういうと必ず、「いやいやそんなはずはない、私は今だけではなく将来の私自身のことを考えるし、他の人のことも考える」と反論されるだろう。そのとおりである。しかし、「将来の私の利益」や「他人の利益」を考慮するというのは、結局、それらを、「今の私の利益」として追求することではないだろうか。

「将来の私の利益」を「今の私の利益」として追求することを合理的、「他人の利益」を「私の利益」として追求することを道徳的と呼ぼう。

我々は(利今主義的であるのに加え)程度の差こそはあれ、だれしも合理的または道徳的である。あまり合理的でなく、今を将来に優先させる人は、俗に刹那主義者と呼ばれ、あまり道徳的ではなく、自分を他人に優先させる人が利己主義者と呼ばれるのである。

 

 3.合理性・道徳性の内在と外在

以上に述べたように、我々は利今主義でありながら、まさしくその利今性の一部として、(合理的・道徳的だからという理由で)合理的かつ道徳的に振舞う。これを、道徳性が利己性に(合理性が利今性に)内在している、と呼ぶことにしよう。

この対義語は外在である。道徳性に限っては、利己性に対して外在の関係にもある。これはどういうことだろうか。例えば、内的な動機は別としても、表面的には道徳的に振舞ったほうが、自分自身の利益にもなることが多い。道徳性が利己性に対してこういう打算的な外的関係にあるとき、道徳が外在すると呼ぼう

道徳に結果的に従う人には二種類いる。道徳的だから、という内在的な理由で従う人と、道徳に従うことが自己利益になるから、という外在的な理由で従う人である。我々は前者を道徳的に賞賛し、後者を打算的だと非難する。

このように、道徳には常に、それ自身を内在化(内面化)させようとする強力な力がある。そして、道徳を尊重すべし、道徳を目的とすべし、しまいには道徳的によく生きることが個人的にも最善なのだ、という間違った説教をする始末である。

 

 4.道徳が外在している人の行動指針

この圧力を前に、道徳を完全に内面化できていない人(道徳が外在している人)はどうすればいいのだろうか。 

まず、道徳性を内面化する(心から道徳的でありたいと思う)ことがもし出来るならば、利己的にもそうしたほうがいい場合が多い。道徳的であればあるほど、他人と利害が一致し、協力によるメリットを得られる見込みが増えるからである。

過度に道徳的な人は馬鹿を見る、とする意見もあるだろう。そのとおりである、自分だけが他人のことを考えて、他人が自分のことをそれほど考えてくれないとすれば、自分が一方的に損をすることもある。しかし、忘れてはいけないが、その自分にとっては、多少は損をしても道徳的に振舞うことそれ自体が「得」なのである。我々が考える以上に、道徳的な人というのは「得」をしているといえるだろう。

とはいえ、完全に道徳的になることは最善とは限らない。何事においても中庸が重要であり、ある程度は道徳とは距離を置くのが利己的には最適なのである。

道徳を完全に内面化しない場合、「守りたくない」道徳の領域が発生する。この領域についてはどうするのが自己利益につながるだろうか。

まず、道徳を守ったほうがいいのだろうか。ここで、道徳を本当は守りたくないのに「守るべきだから」守るというのは、すでに道徳が内面化されている人のすることである。リスクが高い場合は、「道徳的な制裁を受けるのが危険だから」守ればいいのだし、リスクが低い場合はこっそり破ってしまえばいい。道徳を内面化した道徳主義者は、常に道徳にしたがえというが、そんな説教に耳を貸す必要はないのである。

では次に、道徳を守るべきだと主張したほうがいいだろうか。場合によると思うが、私は多くの場合はしたほうがいいと思う。他者が道徳的に振舞うことは、結果的に私の利益になることが多いからだ。そして、道徳的な主張をすること自体が自分に対する道徳的賞賛につながることも多い。ただ、これは当然道徳を結果的に守るか、道徳を守っていないことが知られていない場合だけだ。道徳を守っていないことがばれていたら、言行不一致の非難を受けるだろう。

 

 

5.私自身の道徳性、合理性に対する態度

私は4.に述べたように道徳性をなるべく内面化しようと試みつつも、あくまで道徳性と利己性、合理性と利今性は別物だという自覚をもち、(前者を含むものとして)後者を目的に生きていきたいと思っている。

なぜなら、そもそも他者の利益を考慮する道徳的善や、将来の自分の利益も考慮する合理的善は、いずれも他人を含む集団や、各時点の私達の利益を総和した、抽象的かつ間接的な善にすぎないからである。それらの善は、あくまで今の私にとっての直接的な善と内在的または外在的に一致する限り、追求したい。

だから、私自身が不道徳であっても、そして非合理的であっても、仕方がないこととしている。(おそらく多くの人も敢えて言わないだけで、同じではないだろうか。)

例えば、私は反出生主義者で、人間の子供のみならず、動物も生むべきではないと考えているが、動物を殺すために誕生させる畜産の恩恵に、不道徳にもあずかっている。これは、ちょっとした味覚の楽しみや、動物を犠牲にすることを意識的に避けることが面倒という利己的な利益が、道徳的なコストを上回っているからである。

また、私は今すぐ死ぬのが私自身にとって最も合理的だと考えているが、今すぐ死ぬ恐怖と苦痛を味わうのが嫌だからという理由で、死を先延ばしにしている。

言行が一致していないため、他の人には、私の立場や価値観は道徳的な説得力や魅力に乏しく見えるだろう。しかし、そもそも道徳性や合理性について、言行が一致する必然性はないし、完全に道徳的・合理的になれない以上は、その矛盾を生きるしかないと思うのである。

幸福が何かを私はなぜ問うか

私は、私自身にとっての善や幸福は何かという問いに興味を持ち、さまざまな記事を書いてきた。この記事では、なぜそもそもこの問いに私が興味を持っているか説明をしたい。

まず、皆と同様に、私も善く幸福に生きたい。そして、皆は次に、どうすれば幸福に生きられるかを問題にする。例えば、進学や就職など人生の様々な選択肢について、幸福にもっとも資すると思われるものを選ぶのである。

 しかし、私はいつも、それは先走りすぎではないかと疑問と思うのである。そもそも、善や幸福が何であるかが不明確だったら、いかに善く幸福に生きられるかも決まらないのではないかと。例えば、A社に就職することがB社に就職するよりも大きい幸福につながるかを判断できるためは、それぞれの場合にどれだけ幸せになれるであろうかを見積もれなければいけないだろう。何が幸せかがわかっていないとこの見積もりそのものが出来るわけないだろうと。

だが、この私の疑問は以上に述べた理論的な見地からは正しいものの、幸福に生きたいという目的を達成しようとする実践的な立場からは正しくない。なぜなら、我々は幸福が何かを知らなくても、何が幸福を得るための手段であるかは知っているからである。例えば、待遇のいい会社に入れば、幸せになれる可能性が高いことをしっているのである。他にもお金、友情、愛、知識、趣味など幸福の手段を我々はあらかじめ知っており、この認識は、これら幸福の手段を幸福そのものと混同してしまうくらいに正確である。幸福に生きるには、そもそも幸福は何かを問うまでもなく、その手段と思われるものを追求するのが最も合理的なのである。

 

それでもなお、私が善や幸福は何かを問うのはなぜか、それは吟味された幸福を追求するのが私にあっているからである。吟味された幸福とは、その幸福が何であるか、私にとって本当に善いのか、なぜ善いのかが私自身に認識された幸福である。

ところで、私は自己として、つまりいろいろなことを欲求し行為しつつも、常にそのような自分自身の在り方を問い続ける実存として生きている。こういう自己として生きていること自体が、私のアイデンティティである。

このような私にとって、私がどういった善や幸福を追求しているかも、重要なアイデンティティであり、それ自体常に問い続けることは私のアイデンティティにとって相応しいのである。そして、それだけではなく、こうやって私にとっての善や幸福が何かを吟味する思考が、根本的で抽象的な問題について考えることが好きな私には快い。

したがって、私の幸福に関する快楽主義:

「私としての」幸福は、私にとって相応しいことに快楽を見出すことである

によれば、善や幸福が何かを吟味して得られる幸福は、「私として」はかなり幸福なことである。

私の幸福観について - 思考の断片

確かに、無為な思考に耽るより、社交なり、娯楽なり、他のことをしたほうが多くの快楽は得られるかもしれない。しかしそのような内省的でない快楽の価値は、上の快楽の価値には及ばないのである。

以上のように、私が、幸福を直接的に追求するよりも、幸福が何かを問うこと自体に幸福を見出すのは、私の実存主義的な幸福観によるものである。

死に寛容な幸福主義

1.常に幸福=善とは限らない

私の幸福観について - 思考の断片

上の記事では幸福が何であるかを定義してきたつもりである。この記事では、幸福がどういう場合に自分にとって善いものかを問題としたい。

こう言うと、幸福が善いのは当たり前のことだから、これは問いとして無意味でなのではないかと思う人もいるだろう。しかし、幸福であることと、自分にとって価値があることというのは、別の概念である。もし両者が一致するのなら、例えば次のような主張が語義矛盾になってしまうが、実際はそうではない:「私は確かに幸せだ、しかしこんな空虚な幸せは、私にとっては無価値だ」

したがって、どういう場合に幸福は善いのか、ということを問題にするのは無意味なことではない。私はそれをしようと思うのである。

 

2.幸福はどのような場合に善なのか

まず、道徳的に善い幸福や真正な幸福というのがあって、そういう幸福にしか価値は無いという立場がある。これによれば、例えば次のような幸福に価値はない。

1.悪人が、悪事を働くことに見出す幸福

2.映画マトリックスに出てくるような経験機械に与えられた幸福

1.に価値がないとするのは、道徳的価値と、本人にとっての価値を混同しているからだと考えられる。そのような幸福は不道徳だが、本人にとって善いものであることに変わりはない。むしろ、不道徳な幸福も本人に価値があるからこそ、ほんとうは価値が無いんだなどといって、不道徳な幸福の追求をやめさせることが道徳的に必要となるのである。

2.は、主観的な幸福感があるだけで、客観的な実態が伴わない例である。これに関しては、以下の記事で述べた理由から、自分自身にとっての価値は主観だけで決まり、従って2.の幸福にも価値があるとする立場をとる。要するに、私の主観から独立した客観的な世界の在り様などというものは確かめようがない、確かめようがないものに左右される幸福などというものを追求しても仕方がないではないか、という主張である。

生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

 

では、幸福は常に価値あるものなのだろうか。私はそうは思わない。次のような幸福に価値は無いと考えるからだ。

・私が明日死ぬとした場合、仮に明日以降生きていれば得られたであろう幸福

なぜなら、明日以降の幸福は、明日以降生きる私がいるから必要なのであって、いなければ不要であるからである。不要なものに価値は無い。

 

対して不幸はどうだろうか。

・私が明日死ぬとした場合、仮に明日以降生きていれば被ったであろう不幸

幸福と同様、明日以降の不幸は、明日以降生きる私がいるから避けるべきものなのであって、いなければ避ける必要もないといえるだろうか。

もし不幸の程度が低ければ、そういえるかもしれない。しかし、たとえば極めて大きい病苦のような重大な不幸の場合、かりに私が明日死ぬとした場合も、明日以降の不幸を避けられてよかった、とは言えないだろうか。

 

3.死に寛容な幸福主義

私の立場は次のとおり定式化される。

CE:実際は私が時点tまで生きることになるにも関わらず、私が時点t以降も生きる仮想的な人生の幸福や不幸の価値を考えるとしよう。そのとき、幸福や一定水準U以下の不幸は、時点tまでのものにしか価値はないのに対して、一定水準U以上の不幸は時点t以降のものにも負の価値がある。

あるいは次の通り言い換えられる。

CE':仮に私が時点Tまで生きた場合の人生の幸福(一定水準U以下の不幸)の価値は、もし私が実際には時点tまでしか生きないならば、時点0から(Tでなく)tまでの幸福度(不幸度)の総和である。対して、一定水準U以上の不幸の負の価値は、時点0からTまでの不幸度の総和である。

 

 

つまり、ある仮想的な人生の善さを計る場合、実際にいつの時点で死ぬことになるかによって、尺度が変わるのである。

しかしそうなると、例えば50歳で死ぬ人生と、80歳で死ぬ人生のどちらがいいか、直接は比較できなくなる。前者を基準にすれば、50歳までの幸福にしか価値がないのに対して、後者を基準にすれば80歳までの幸福に価値があり、計る尺度が違うからだ。結局どちらがいいのだろうか。

私は、50歳と80歳どちらを基準にしても、50歳の人生がより善い場合のみ、50歳で死ぬ人生は80歳で死ぬ人生より善い(逆も同様)と考える。だから、50歳と80歳までの人生のどちらも善くはないこともあると考える。

 

この帰結はどういうものだろうか。まず、もし時点tで私が死ぬことになる場合、それは時点t以後も生き続けて幸福を得ることに比べてほとんど(※)悪くはないと言える。なぜなら、私が死ぬ時点t以後に得られたであろう幸福に価値は無いから、生き続けたところで生涯全体の幸福の価値は増えないからである。

したがって、時点t以後も生き続けることは、時点tで死ぬよりほとんど良くはない。

※ほとんど、と言ったのは、時点tで死ぬ場合は、生き続ける場合に比べて、時点t直前に、死ぬことによる不幸を被るからである。しかし、生き続けて後に死ぬ場合も、いずれ同様の不幸は被り、この不幸はUを上回ると思うため、幸福とは異なりカウントされるものと考える。だから、やはりほとんど悪くない。

 

次に、時点tより前の時点sで死ぬ場合は(一定水準U以上の)不幸が減ると仮定しよう。その場合、もし時点tで私が死ぬことになる場合、不幸が減るため、時点tで死ぬよりも時点sに死んだほうが望ましいということになる。もし時点sで私が死ぬことになる場合も、一定水準U以上の不幸が減るため、時点tで死ぬよりも時点sに死んだほうが望ましい。

したがって、時点tよりも早いsで死んでしまったほうが善いのである。

 

 

以上より、時点tより長生きすべき理由はほんのわずかであるのに対し、正の確率で一定水準U以上の不幸が予測される場合は時点tより早く死んだほうがいいと言える。つまり早い死はほとんど無害であるだけでなく、時々有益なこともあるのである。これは、死に寛容かつ友好的な幸福主義だと言えるだろう。

 

 では、なぜ私が早く死んでしまわないかと問われるだろう。私がまだ自殺をしないわけは三つある。

1.ひとつは、一定水準U以上の不幸を経験する可能性が低いか、不幸を経験する前に自殺を選択できる可能性が高いと考えているためである。例えば、拷問や重大な事故により耐えがたい苦痛を被る可能性は、きわめて小さいだろう。病気の末期に苦痛を被ることは確率としては高いが、先に自殺をすることで避けることが可能である。

2.また、自殺をする場合も、断末魔の苦しみや、すぐ死んでしまうという恐怖がある。死ぬ苦しみはいつ自殺しようと同じかもしれないが、後者の恐怖は年齢とともにある程度克服できるのではないかと考えている。自殺を先延ばしにすることで、自殺そのものによる(一定水準Uを超える)不幸を軽減できるのではないかと思っている。

3.最後は、利「今」的な不合理性である。今すぐ死んだほうが、時間を通じた連続体である「私」のためにはなるかもしれないが、今すぐ死ぬことによる苦痛は、今の私の不利益になる。今の私も、「私」全体の利益を考慮はするものの、やはり今の私の利益を最優先してしまうものである。結果として、自殺が「私」のためであっても、今の私のために延命してしまっていると考えられる。

 

結果として、本来私は今すぐ死ぬのが合理的であるにもかかわらず、60歳くらいまでだらだら生き続けてしまうのではないかと考えている。したがって、60歳までの幸福を最大化することが、不合理性を踏まえたうえで、私にとって最善であると言える。

 

4.まとめ

私の幸福主義は、内容によらず幸福は善であるとしつつも、早死にによる幸福の機会損失に価値は無いが、一定水準以上の不幸の機会利益に価値はあるという立場である。これは早死には損にはならないが、得になることはあると主張する点で、死に親和的である。にもかかわらず私が早く死なないのは、結局は、今を優先する私の不合理性ゆえである。

私の幸福観について

この記事では、私自身がどのような幸福観を持ち、追求してるかを吟味していきたい。

 

1.幸福に関するアトミズム

まず、私は幸福についてアトミズムを取る。

  

(以下、命題の意味を太字で、数学的な定式化を斜体字で括弧書きするが、読むのは太字だけでよい。)

ATH:人生全体を通じた幸福は、各時点の瞬間的な幸福度の総和である。

 

「人生全体を通じた幸福Hは、人生の各時点tにおける幸福度Htの総和である。(H=∫Htdt)」

 

これに対して同意しない人もいるだろう。典型的な反論は次のとおりである。この反論は幸福の総和だけではなく、幸福の増減も重要ではないかという指摘である。

反論:生まれて死ぬまで徐々に幸福度があがる人生Uと、丁度線対称に、生まれて死ぬまで徐々に幸福度が下がる人生Dがあるとする。人生全体を通じた幸福は、前者Uのほうが後者Dよりも高いと考える人が多い。しかし幸福に関するアトミズムによれば、人生UとDの幸福は同じである。

 

これに対しては、次の通り反論したい。まず、次のいずれかが成り立つだろう。

①私が各時点tで、幸福が徐々に上がるまたは下がること自体に対して、さらに幸福や不幸を感じる場合

②全く感じない場合

①の場合、UとDは幸福度に関して対称ではなくなり、Uにおける幸福の総和は、Dの総和よりも大きくなるだろう。したがって幸福に関するアトミズムをとっても、人生全体を通じた幸福はUのほうがDよりも大きくなる。

次に②の場合、確かにUとDは幸福度に関して対称だろう。しかし、この場合人生全体を通じた幸福に関して、UのほうがDよりも上だと考える理由があるだろうか。徐々に幸せまたは不幸になること自体にどの時点においても幸福も不幸も感じないのであれば、幸福に関してどちらも同じではないだろうか。

ゆえに、①、②のいずれの場合でも、幸福に関するアトミズムは反駁されないのである。

 

2.態度快楽主義

では、幸福に関するアトム、つまり時点tにおける私の幸福度はどう決まるのだろうか。これに関して私は態度快楽主義を取る。

 

IAH:各時点の幸福度は、各時点の私が様々な事実に対して抱く快楽や苦痛の度合いを総和した値である。

 

「人生の時点tにおける幸福度Htは、時点tの私が持つ信念Wtによって、時点tの私が抱く快楽や苦痛の度合いPt(Wt)である。1.のATHと2.のIAHを合わせると、H=∫Pt(Wt)dtである。

・信念Wtとは、時点tで私が正しいと考える、過去から未来にわたる諸事実に対する確信である。私は、それぞれの事実が成立することに対して、そして事実が成立するという確信によって、快楽や苦痛を抱くのである。」

 

1.のATHと2.のIAHを合わせた幸福観を、 以後「幸福に関する快楽主義」と呼ぶことにする。

 

ここでいくつか注意したい。

・私が問題とする快楽や苦痛は態度的なもの、つまりある事実に対して抱く快楽または苦痛であり、感覚的な快楽や苦痛ではない。感覚はそれだけでは善悪ではなく、感覚を感じていることに対して快楽や苦痛を態度として抱いて初めて善悪なのである。この態度的な快楽や苦痛は非常に広範な概念である。私は、感覚だけではなく、自身の人生に対する全般的事実(例えば、1.のように、自分が次第に幸福や不幸になりつつあること)に対しても快楽や苦痛を抱くことが出来る。また、自己の在り様(アイデンティティ)に対する誇りや苦悩も、態度的快楽や苦痛の一種だと考えられるだろう。

 

・態度的な快楽や苦痛は、客観的な事実に対するものであるが、主観的な信念に依存するものである。例えば、周りに好かれることに対して私は快楽を見出すが、この快楽は周りから好かれると私に「確信」されることに対するものではなく、実際に周りに好かれることに対する快楽である。しかし、実際に好かれていようと好かれていまいと、私が好かれていると信じてさえいれば、この快楽に変わりはないのである。

 したがって、幸福に関する快楽主義は、主観的な心的状態で幸福が決まるとする、幸福に関するmental state theoryである。

(参考)生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

 

・対象のない快楽や苦痛にも善し悪しがあると反論されるかもしれない。しかしそれらを善きものたらしめているのは、やはりそれらの状態に対して抱く高次の態度的快楽や苦痛である。

 

・以上は私の独創ではなく、哲学者Fred Feldmanの立場を私なりに表現しなおしたものである。

 

3.幸福に関する快楽主義の問題点

幸福に関する快楽主義はシンプルでわかりやすい。しかし、次に述べる有力な反論がある。

・ある人が事故で脳に大きな障害を負い、精神状態が幼児まで退行してしまったとする。だが、その後生涯を通じて、周囲の人に世話をされることに対して、快楽(幸福感)を感じられたとする。幸福に関する快楽主義によれば、彼はかなり幸せな人生を送ったことになる。しかし、我々は彼を羨ましいとも思わないし、彼のようになりたいとも思わない。彼は果たして本当に幸福なのだろうか。

 

この反論は大変説得的である。しかし私は、彼はあくまでも幸福だが、その幸福は、事故に遭う前の私の追求するものではない、と答える。どういうことだろうか。

まず、なぜ私は彼のようになりたくないかを考えてみよう。私が彼と同様の事故にあったとする。事故にあったあとの私iは確かに「幼児同然の私iとしては」幸福ではある。このことに異議を挟む人はいないだろう。しかし、「事故に遭う前の私pとしては」、事故に遭った後の幼児的な幸福は、求めるに相応しい幸福ではないのである。つまり、事故に遭う前と後で幸福の基準が違うのである。事故に遭う前の我々pは前者の幸福を求めるが、事故に遭うことで得られる幸福は後者の幸福だから、後者のようにはなりたくないと思うのである。

では、事故に遭う前の私pとしての幸福と、事故に遭った後の幼児同然の私iとしての幸福はそれぞれどのように定義され、どう違うのだろうか。

 

4.相応性-補正型-態度快楽主義

 私が2.で定義した幸福に関する快楽主義では、快楽を抱く対象の事実が異なっても、等しい量の快楽は、等しい幸福につながる。しかし、これは本当だろうか。

先の例でいうと、私と別人格と化した幼児iとしてお世話をされることに対して1の快楽を抱くことは、私pの好きな趣味に対して1の快楽を抱くことと同じくらい幸せなのだろうか。そうは思えない。なぜなら、前者の快楽は別人格の幼児iに相応しいものであるのに対して、後者の快楽こそが私pに相応しいものだからである。ただ快楽があるだけではなく、それが私という人格にとって快楽として相応しいことも、幸福の要件ではないだろうか。

 

以上は次のように定式化される。

EDAIAH:各時点の「私」としての幸福度は、各時点の私が様々な事実に対して抱く快楽や苦痛の度合いに、それら事実に「私」が快楽や苦痛を抱くことがどれだけ相応しいかという度合いを乗じたものを、総和した値である。

 

「人生の時点tにおける「私pとしての」幸福度Hp,tは、時点tの私が、tにおける信念Wtによって抱く快楽や苦痛の度合いに、私の人格pにとって、「信念Wtの対象の事実」に対して快楽または苦痛を抱くのがどれだけふさわしいかという度合いDp(Wt,Pt(Wt))を乗じた値である。2.と同じ表記を用いると、Hp,t=Pt(Wt) × Dp(Wt,Pt(Wt))、Hp=∫Pt(Wt) × Dp(Wt,Pt(Wt))dtである。」

 

 

 この補正された快楽主義を取れば、なぜ脳に障害を受けて幼児i同然の幸福に浸ることが、障害を受ける前の私pとして幸せではないかの説明がつく。障害を受ける前の私としての幸福Hpにおいては、幼児同然の快楽の寄与が私pにとって相応しくないため低くカウントされるからである。対して、障害を受けた後の私としての幸福Hiにおいては、その同じ快楽が高くカウントされる。

そして、この私pとしての幸福Hpこそが、私pが追求する幸福である。私はあくまで私自身pとして幸せになりたいのであり、別人iとしては幸せになりたくないのである。

 

では、そもそも、私の人格pにとって、ある事実に快苦を抱くのが相応しいとはどういうことだろうか。それはある事実に快楽(苦痛)を抱くことが、私の抱くアイデンティティpに適っていることである。私個人の例で述べると、このように無為な思索に価値を置き、労働を否定するのが私のアイデンティティであると私自身は考えている。したがって、思索に見出す快楽は私に相応しいし、労働に見出す苦痛も私には相応しいだろう、したがってそれら快楽や苦痛には重い価値がある。対して、私は社交家ではなくどちらかといえば勉強家なので、社交による快楽は私にはさほど相応しくないし、勉強により苦痛を感じることも相応しくない。これらの快楽や苦痛には軽い価値しかないのである。つまり、快楽や苦痛の重みは、快苦を見出す事実の内容と私のアイデンティティの関係に依存するのである。

※なお、幼児iのように、自己意識がなく、アイデンティティが無い場合は、全ての快楽や苦痛が「無差別に相応しい」と定義しておく。実際、彼には、全ての快楽は無条件で幸福であり、苦痛は無条件で不幸だからだ。

 

ここで注意すべきは、私にとって、ある事実が快楽や苦痛を感じるに相応しいか否かは、どういう内容に対して快苦を感じるかということと、私自身をどういう人物と考えるかという主観によって完全に決まるということである。だから、これは同じ「相応しさ」でも、例えば道徳的な相応しさや、人間という種としての相応しさとは全く異なる概念である。

(誰かを拷問することに快楽を感じることは、私がどう考えるのかに関係なく客観的に、道徳的に相応しくない。また、豚のように泥にまみれて戯れることに快楽を感じることも、私の考えとは関係がなく、人間としては自然ではなく相応しくないのである。)

したがって、幸福に関する快楽主義を相応しさという概念を用いて変形したにもかかわらず、これが2.で述べた主観主義的な幸福観(mental state theory)であることに変わりはないのである。

 

 

5.一時点を基準とした幸福と、人生全体を通じた幸福の違い

4.では、私の人格pとしての幸福Hpを定義した。注意すべきは、人格pは生涯を通じて一定ではなく、あくまで今時点の私の人格に過ぎないことである。人格やアイデンティティは時間を通じて少しずつ変わるものだからだ。したがって、各時点tの私は、異なる時点の私を基準とした幸福Hp(t)を追求していることになる。

これら複数の幸福Hp(t)はそれぞれの時点tの私を基準とした別々の幸福なのだから、どれかが、時間を通じて自己同一な「私」にとっての幸福だとは言えないだろう。では、人生全体を通じた幸福はどう定義すればいいのだろうか。

 

私は、各時点tの私達を別々の人々と考え、功利主義的に全員の幸福を足し合わせて、全体の幸福を定義する以外にないと思う。各時点tの私が経験する幸福は、時点tの瞬間的な幸福のみである。よって、

 

UIAH:人生全体を通じた幸福は、各時点の「私としての」瞬間的な幸福度を総和した値である。

 

「人生全体を通じた幸福Hは、人生の各時点tにおける「私p(t)としての」幸福度Hp(t),tを時点tについて総和した値である。H=∫Hp(t),tdt =∫Pt(Wt) × Dp(t)(Wt,Pt(Wt))dt」

 

ここで定義した人生全体を通じた幸福Hは、どの時点の私が求める幸福Hp(t)でもないことに注意すべきである。どの時点でも追求されない幸福は、幸福と呼べるのかとも批判されよう。確かにこの幸福は実在しないかもしれないが、本来は一時点を基準としてしか存在しない幸福を、人生全体を通じてあえて定義した結果である。

私は、利己(今)主義者として、あくまで今の私が考える基準で、将来にわたる幸福Hp(t)を追求する。しかし、私が人生全体としてどれだけ幸せだったかを聞かれれば、Hと答えるしかないと思うのである。

 

※これは、社会全体の幸福を、どの個人が追求するわけでもなく、各個人はあくまで各々の幸福を追求することとまったくパラレルである。社会は幸福の主体ではなく、社会全体の幸福というのは社会の各構成員の幸福の形式的な総和にすぎない。時間を通じて自己同一な「私」というのも、厳密には幸福の主体ではなく、幸福の主体はあくまで各々の時間における私なのである。したがって、「私」の幸福も、各時点の私の幸福の形式的な総和としてしか定義できない。

 

では、3.で挙げた脳に損傷を受けた人の例において、人生全体を通じた幸福Hはどうなるだろうか。Hは各時点の幸福の総和なので、事故に遭う前まではHp、事故に遭った後はHiで計った値になる。したがって、事故に遭った後の幼児的な幸福は高く計られ、彼は事故に遭ってもあくまで幸福であるということになる。事故に遭った後の彼は、幼児iとして幸福であるだけではなく、人生全体として幸福なのである。

 

6.まとめ

幸福について私は快楽主義を取る。しかし、快楽の量だけが問題ではなく、快楽が私という人格にとって相応しいかも、幸福を決める重要な要素である。しかし、この私という人格自体が人生を通じて変わるものである以上、幸福そのものも基準が変わるものであり、同じ人生でも、どの時点の幸福観で見るかに応じて幸福度が変わってくる。そして、この中のどの時点で見た幸福が真の幸福かなどというのは意味をなさない。厳密には、人生全体を通じた幸福を定義しようとしても、それは形式的な総和としてしか定義できないのではないかと思う。

安楽死について

 自殺に対する世間の印象は悪い。列車とびこみなどにより自殺は迷惑だと考える人もいれば、自殺は本人のためにもよくないと考える人もいる。しかし、私は自殺が道徳的に容認される場合や、本人のためになる場合もあると考える。また、それでもなお自殺が非道徳的で、非合理的な場合も多いため、これら自殺の問題点を解決するため、世に言う積極的安楽死制度を導入すべきだと考える。

 

1.自殺は本人にとって良い場合もある

 死ぬことは本人にとって悪いことだと考えられがちである。どんな死も葬式で悔やまれる。しかし、こういう世間の常識とは反して、どんな場合も生き続けたほうがいいとは限らない。臨床状態で苦に満ちた人生しか残されていない場合がそのいい例である。この例ほど極端ではないだろうが、自殺志願者について、生き続ける人生のほうが、今すぐ死ぬ人生よりも悪い可能性は原理的にありえるだけではなく、現実的にも多いのではないだろうか。

 確かに、生きることは無条件で常にいいことだ、という価値観も可能性としてはありうるだろう。そう考える人は、できる限り長く生きればいい。しかし、生きることがいいのは、人生の内容に正の価値がある場合だけである、という考え方もある。人生の内容は快楽や幸福などの良いものから、苦痛や不幸などの悪いものまで様々だが、後者が前者より多い可能性は理論的にだけではなく、現実的にも無視できない。こういう考え方をする人にとっては、幸福より多くの不幸を回避できるという理由で、死を選ぶことは本人にとっては良いことだといえるのではないだろうか。

 もちろん、自殺志願者が、本当に自分が生き続けた場合、幸福と不幸のどちらが多いか、正確に比較できることはほとんどないだろう。正常な状態でもこれは困難であり、その大半は精神疾患を患っている自殺者の場合はなおさらである。自殺志願者は、過度に悲観的になって死を選ぶ傾向がある以上、死んだほうが自分にとっていいと考えていても、本当は死なないほうが良かった可能性があるからだ。だが、だからといって、本当に死んだほうが良かったという可能性が無くなるわけではない。

 

2.自殺が道徳的に容認される場合もある

自殺はいくつかの理由で不道徳だと言われる。

 まず、自殺は他者の悲しみや社会に与える損害を考えないエゴだと批判されることが多い。確かに自殺は利己的動機からなされることが多い行為である。しかし、エゴという点では、止めようとするほうも等しくエゴである。自殺が本人のためになる場合、道徳的な人であれば本人のために自殺を望むはずである。にもかかわらず、自分が悲しいから自殺を止めるというのも同じく、本人の死にたいという意向を軽視するエゴではないだろうか。しかし、自殺を止めることは批判されることはない。エゴだからというだけでは、批判する理由にはならないのである。

 つぎに、命や身体は自己だけではなく、同時に社会も所有していて、本人の意思では勝手に処分していいものではないという意見がある。私は、仮に一般論として社会が個人の命を所有するという前提を認めるとしても、社会は自殺志願者に対しては例外的にその所有権を主張できないと思う。なぜだろうか。

 社会が個人の命や身体を所有する場合、個人が最低限度の尊厳を持った人生を歩めるう、保護する責任を負うはずだ。それは、ちょうど飼い主がペットを所有するとき、同時にペットを保護する責任が生じるのと同様である。もし、ペットが最低限度の尊厳も保てないようであれば、飼い主は所有権をはく奪されてしかるべきだろう。同様に、生きていたいと思える程度の最低限の尊厳も、社会が個人に対して保障できないならば、社会はその個人に対して所有権を主張することはできないはずだ。

 もし社会が個人に対して所有権を主張できない場合、個人は自己の命に対して所有権を主張してもいいはずだ。その場合彼は、自己の命を守る権利だけではなく、放棄する権利も主張できるだろう。

 最後に、自殺が経済的な負担や心理的な苦痛を、他者(とくに家族)に与えるという意見もある。しかし、生き続けたほうが社会や家族ともに大量の医療費がかかり、家族には心労がかかるといった場合もある。その場合、自殺をしたほうが心理的にも経済的にも、周りにかかるコストが少ないだろう。それ以外の場合でも、生きる苦が、周囲の悲しみや社会の損失を上回る場合は、功利主義の立場をとれば、自殺は正当化可能であるように思われる。

 

3.現行の自殺の問題点

以上の主張にも関わらず、現行の個人的な自殺には問題点がある。

 まず、合理的に行われていない自殺が多い以上、本当は本人のためにならない自殺も多いと考えられる。彼らには、冷静に考える機会や相談相手が必要だろう。

 他方で、逆に自殺をしたほうがいいのに、自殺に踏み切れない人たちもおり、彼らにとっては自殺という手段が不十分である。彼らには最小限の苦痛や心理的な抵抗で自殺ができる手段が必要である。

 また、どんな手段を取っても、自殺は周囲に迷惑をかけることが多い。電車飛び込みや高所からの飛び降りはもちろん、首つり自殺であっても、処分費用や不動産価値の下落など、かなりの手間とコストを周囲に強いる。彼らには、できるだけ周囲への負担が少ない自殺の手段が必要である。

 

4.積極的安楽死について

3.の問題点等を解消するために、私は下記の積極的安楽死を導入すべきだと考える。

流れとしては、まず本人がカウンセラーや家族に対して希死念慮を表明する。カウンセラーは別の選択肢を提示し、家族は希死念慮をなくすサポートを行う。また、家族と本人の間で互いの気持ちを理解するためのコミュニケーションを十分にとる。それでもなお、一定期間後なお継続的に死にたい意思がある場合、医師が薬物投与して安楽死させるというものである。ただし、次の条件をつける。

まず、社会へ与えるコストや機会損失の対価として、数百万程度の料金や、臓器ドナーの義務を課す。あと、当然犯罪者や債務を抱えた人は利用不可とする。また、安楽死を幇助する医師は決して強制されず、自由意志で行うべきである。(志願者がいない場合は制度を凍結すべきである)

 

5.積極的安楽死のメリット

上記の積極的安楽死には確かなメリットがあると思われる。

まず、カウンセラーや家族と相談し、自己の気持ちや考えを整理したり他者の考えを聞くことにより、非合理的な自殺を減らせる。

さらに、自殺のハードルが下がり、以前は苦しみながらも死ねなかった人も、手軽に死ぬことができ、苦痛を回避できるようになる。それだけではない。これにより、死にたい理由の一つであった、苦しくてもすぐ死ねないことに対する苦痛が解消される。二重の意味で、希死念慮を抱く人の苦痛は減るのである。

最後に、自殺場所の管理ができるうえ、死体の処置が楽になり、社会的なコストが最小限で済む。

 

6.積極的安楽死に対する反論と再反論

以上に述べたメリットにも関わらず、積極的安楽死を導入すべきだとする意見にはいくつかの反論が考えられる。

 まず、いくら社会的なコストが減っても家族等の悲しみはなくならない(それゆえに道徳的に正当化されない)という点がある。確かにそのとおりである。しかし自殺したい本人の気持ちを家族がくみ取り、自殺したほうが本人のためになることがわかれば、少しでも悲しみは軽減されるのではないだろうか。それでもなお、自殺志願者が死ぬのが悲しいのならば、心理的なケアや金銭的な援助を行う等、なにがなんでも自殺させない手だてを家族等は取るはずである。

※以上にも関わらず、やはり家族の悲しみはなくならないだろう。しかし、死ぬ人にとって、積極的安楽死は自殺の代替なのだから、その是非を考える際は、死なない場合に比べて安楽死がどれだけ悪いかではなく、自殺する場合と比べて安楽死がどれだけマシか、を考えるべきである。少なくとも自殺に比べれば、家族の悲しみは軽減されることは間違いはないのである。

 次に自殺のハードルが下がることにより死ぬ人が増えるという懸念が考えられる。しかし、仮に死ぬ人が増えたとしても、それが必ずしも悪いこととは限らない。死んだほうがその人のためになるような人もたくさんいるのである。また、苦しくてもすぐ死ねないことに対する苦痛が解消されることで、希死念慮が弱まるという効果もあると考えられるため、自殺も加えた死亡者数は全体として減る可能性もある。

 最後に、本当は死にたくない人が、社会的な圧力等により事実上死を選択させられる可能性を懸念する人が多い。これに対しては、カウンセリングで、患者自身が家族や社会の負担になっていると感じているかについても調査を行い、該当する場合は本人の意思に関わらず安楽死を控える等の配慮が可能である。

 このような配慮を行っても、まだ不十分だといわれるかもしれない。私は、ここまで配慮して、かりに死にたくない人が死を選ばざるを得ないという弊害が万が一生じても、それは死にたいけれども死ねない人が多数存在する現在の弊害よりは、軽いものだと考える。

実際、安楽死の選択肢のない現状では、生きたくないけれども、自殺の周囲への迷惑を考えたり、自身で自殺をするほどの精神的・身体的余力がなく、生を選択せざるをえない人がいる。生きたいという意思のみを尊重するばかりに、安楽死制度に反対し、そのために生きたくないという意思が犠牲にされている現状を肯定するのは不当である。

 

7.まとめ

自殺が本人にとって良く、道徳的にも容認される場合はある。しかしそれでも、現行の自殺は非合理的で不道徳な場合も多い点は否めない。ただ、上に述べたとおり、積極的安楽死という制度で自殺という手段を補完することで、その非合理性や不道徳性の大部分は軽減できると思う。もちろん、積極的安楽死は悪用される懸念がある以上、運用は慎重に行うべきだと思うが、この制度は、そのリスクを補ってあまりある利益を、希死念慮を抱く人および社会全体に与えるものだと思う。

今の日本では、生きたいという意思や権利が神聖不可侵として扱われている。もちろんこれは重要である。生きている限り、生きたいという根源的な利害は尊重されてしかるべきである。しかし、死にたいという意思も、生そのものに関わる以上、生きたいという意思に劣らず根源的で尊重されてしかるべきではないだろうか。

思考の節約について

1.思考は私にとって快楽である

世の人には、思考が嫌いな人も多いようである。彼らは思考をもっぱら日常生活に成果を還元するための手段とみなすようである。対して、私は思考すること自体が好きであり、思考で得られる結果とは関係なくその過程が好きなのである。

 思考といってもいろいろある。一つのことについて多くの事柄を考える個別的な思考もあれば、多くのことについて普遍的なことを考える哲学的な思考もある。限られたことについて、いろいろなことが言えるのは当たり前である。対して、多くのことについて同じことが言えるのは非自明で驚くべきことである。したがって、私は後者の思考をすることに対してより大きな満足や達成感を抱くようである。

 

2.思考の希少性

 しかし、社会人である私が思考に使うことのできる時間は限られている。私の人生はせいぜい80年しかなく、その大部分が労働に占められている。余暇に恵まれている時ですら、思考が回る時間はわずかしかない。また、思考に使えるハードウェア、知能や素養や(ワーキング)メモリや記憶も、全てがきわめて限られていて、希少である。

 以上に述べた思考のリソースの制約にもかかわらず、私が思考すべき世界はあまりに多くの物事で溢れている。我々の世界は、ただですら取り留めがないほど莫大なのに、日を追うごとに新しい物事がどんどん追加されていく。日々押し寄せる新しい事実の荒波に、圧倒されんばかりである。

 それでもなお、世界全体について十分に考えるには、思考の節約が必要となるだろう。思考の節約とは、出来るだけ少ない思考のリソースで、出来るだけ多くの事実を考えることである。

 

3.思考の節約の例

 例えば、多様な事物を一つの概念で把握することが思考の節約術の一つである。我々一人ひとりを人間という概念でまとめて把握することがあるだろう。これにより、例えば私の足が二本あり、あなたの足が二本あり…という無数の命題を、人間の足は二本である、という一言でまとめて考えることが出来る。抽象化は、時間、能力やメモリーの観点から考えて、極めて有効な思考の節約である。

 また、多数の命題を一つの原理から演繹的に説明することや、多数の概念を一つの概念で定義することも思考の節約になる。例えば、ニュートン万有引力を発見する以前は、アリストテレスの伝統にしたがい、恒星の運動と地球の重力による自由落下は別の原理によるものとされていた。しかしニュートン万有引力という共通の原理で両者を説明した。これ自体が偉大な発見であるが、思考の節約という観点から見ても、従来は別々の原理を念頭に置かなければ理解できなかったものが、一つの統一的原理を知れば説明できるようになったのだから、メモリーや記憶の節約となり、大きな進歩であるといえる。多種多様な概念を一つの概念を用いて定義するというのも、念頭に置くべき要素を減らすことができ、より思考がシンプルになるという点で思考の(メモリーの)節約であるといえるだろう。

 

4.思考の節約のデメリット

 しかし、思考の節約は時に思考の正しさや深さを犠牲にする。例えば、先の例で挙げた「人間の足は二本である」という言い方をしてしまっては、足を失った障碍者について誤りをおかすことになる。我々一人一人を人間という一般概念で代表させることは、思考の節約と引き換えに精度を犠牲にしているのである。

 思考の節約とは、一種の近似である。必ずしもすべてに当てはまるとは限らない概念を用い、原理を仮定することで、思考を簡便にする近似式のようなものなのである。数学で近似を用いるときは、いつも誤差がどれくらいの範囲に収まるか評価するものである。思考の節約においても、近似化の粗さには常に自覚的であり、粗が目立つようであれば近似式を見直す用意がなければならない。間違っても、近似式に現実を当てはめようとする誤謬は犯してはならないのである。

 思考の節約による近似で特に見過ごされがちなのは、細部に宿る違いである。美学ではこれが致命的になる、建築家の残した、神は細部に宿り給う、という格言のとおりである。思考の節約は、どのような分野でも有効であるとは限らない。

 

5.思考の節約の重要性

 ただ、我々のいかなる思考も言葉を使う以上、ある程度の一般化は免れない。どんな思考も100%正しいということはありえず、いくばくかの単純化・近似化を含む。思考の節約は何も特別なことではなく、程度問題なのである。扱う事物の性質によって、つまり細部が重要なのか、それとも細部は非本質的で大枠が重要なのかに応じて、近似の度合いを変えることが必要であるといえるだろう。

 また、思考の節約を行うからと言って、思考の正しさや精度を追求することをずっと怠るわけではない。簡便な方法で物事について一通り考えてから、余った思考のリソースを後から理論の改善に充てることも出来るのである。最初から正しく深い思考を心掛けるよりも、最初は簡便で近似的な理論を措定してから、徐々に改善・洗練させていくほうが思考を網羅的に、そして効率的に行うことができるのである。

 以上より、思考の節約にはデメリットはあれ、余りある多大な効用があること、そして我々がすでに日常的に行っていることが示せたと思う。私は積極的に、しかし自覚的かつ注意深く思考の節約を活用していこうと思っている。

 

6.思考の節約の実践

 ではいかなる方法で思考の節約を行おうか。私は、例で挙げたような、演繹的な説明が出来る理論体系をこしらえることで思考の節約を行いたいと思う。演繹という一から多を説明する操作は、思考力は消費するものの、記憶力やメモリーの節約になる。しかも、この理論は極力登場する基本概念が少なく、明晰であるのが望ましい。これは、複雑な思考を避けるためである。先ほど述べたように、もちろん世界はそんな単純ではない。数少ない概念と仮定からすべてを説明するのは無理があるだろう。

 それでも、そういう世界の多様性や複雑性を、単一な原理や概念を用いて明晰に説明しようとしてこそ、(思考の節約になるのみならず)知的な価値があると私は考えている。もともと世界が多であるのは当たり前なのである。それをいかにまとめて説明するかという点でこそ、我々の知性は試されているのではなかろうか。

 また、多様性が単一な原理や概念で説明されるということは、美しくもあると思う。多様な自然界が、一つの波動方程式で説明されるということや、少数の公理から、数々の非自明な定理が導出されるのは、それ自体が美しい奇跡ではなかろうか。

 以上より、思考の節約という観点以外からも、私が目指すところは価値あるものであるように思われる。世の人は正しいことが真理だと考えているようだが、私に言わせれば理論性、シンプルさ、明晰さも、正しさや深遠さに劣らず真理の価値に寄与するものなのである。