反出生主義の試論2

私は反出生主義として、子供を生むことは道徳的に悪いことだと主張してきた。対して、当記事では、子供を生むことが不当であることを示したいと思う。

 

1.生きる努力について

世の人は当たり前のように、自分にとって最善の結果をもたらすための努力ができる。彼らは例えば自分自身のコンディションを維持するために、体の手入れや適度な運動を欠かさず行うことができるし、放置すると余計に面倒になる行政の手続きを面倒くさがらずに行うことができる。また彼らは生活のためには大変な仕事ですら平然とやってのける。これらに共通するのは、長期的な利益のために、嫌なことをする努力ができるという点である、私はこれを生きる努力と呼びたい

 

しかし私は、大人になった今でも総合的に見ていい結果をもたらすことでも、面倒くさくてできないことが多い。そのため、親にはこの歳になってもやるべきことをやれと注意されることが多い。私はそういう時いつも思うのである、嫌なことを避けて通れればどれだけよかったと。そして、嫌なことを避けてはろくな人生が歩めない人生の仕様がいかに理不尽なものかと。

 

2.生きる努力と生の善さについて

ところで、世間の人は、大半の人の人生は全般的に見て善いものだと考えているように見受けられる。彼らは特段の厭世的思考に陥っていないし、子供を生む際も、生むのを躊躇しないほどには子供が幸せになると信じて疑わないのである。確かに彼らの言う通りなのかもしれない。実際、生まれないほうが良かったと嘆く人はごく少数であり、最近の世論調査からわかるように大半の人は生活に満足しているのである。

 

しかし彼らの善い人生は、彼ら自身の生きるための不断の努力で勝ち取られていることも忘れてはいけないだろう。もし彼らが上述の「生きる努力」を怠る場合は、彼らはろくな人生を送れないことに、世の人も同意するだろう。それどころではない。生きる努力の中でも最たるもの、仕事をしなければ生きることすらかなわないだろう。もしくは、生きる努力を拒むために自殺をするという究極の選択肢も一応ある。これらは悲惨な生を送るよりも悲惨な顛末であるように思われる。

だからこそ親たちは、躾を通じて「生きる努力」ができる「大人」に育て上げようと試みるのである。

 

ゆえに、人生は生きる努力を行って善き生を手に入れるか、努力をせずに悲惨な人生を送るか(もしくは自殺するか)の二択である。とはいえ、多大な苦痛を代償とするため、後者を選ぶ自由は実質上無いも同然であり、努力をなんとかして行おうとする前者以外の選択肢は実質的に無い。つまり、嫌な努力を強いられているといえる。

 

3.生きる努力が強いられる人生の不当性

さて、生きる努力を強いられることは理不尽だと私は考える。全体的に利益になるからといって、なぜわざわざ毎日風呂に入って歯を磨き、身だしなみを整えなければならないのだろうか。なぜ生活のために仕事をすることを強いられなければならないのだろうか等々、様々な不満がある。果たして私の主張は正しいのだろうか。

 

これまで述べた人生の仕様は例えば次のようにモデル化できる。

 

a.生きる努力(100の苦痛=コスト)の労を払えば、200の喜びに満たされた人生を送ることができる。(人生は全般的に善いものと仮定しているため、喜びのほうが大きいとする)

b.生きる努力をしなければ200の苦痛に満たされた人生を送る(もしくは自殺する)ことになる

c.以上a.b.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

 

まず、上で言ったように、b.にもかかわらず、大きい苦痛200は避けなければならないため、実質的に生きる努力をしない選択肢はない。だから、①を強いることは②を強いることと等価である。

 

a'.生きる努力(100の苦痛=コスト)をせざるを得ず、その代わり200の喜びに満たされた人生を送ることができる。

c. a'.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

 

この事態は不当だと言えるだろうか。a'では苦痛を上回る喜びが保証されていると仮定している。だからこれは不当どころか恵まれたことだと多くの人が主張したくなるに違いない。しかし、話はそう単純ではない。これには二つの理由がある。

 

3-1.(努力しない)自由の剥奪

まず、相当の努力が強制されているという点に注意すべきである。②と次の場合③とを比較をしてみよう。

 

a''.(生きる努力をするもしないも自由だが)必ず100の苦しみと200の喜びに満たされた人生を送ることになる

c. a''.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる

②と③で結果的に被る苦しみと喜びはともに同じだが、③は生きる努力をするかしないかの自由がある。その分、③のほうが②よりマシだと考える人は多いだろう。何もしない自由が奪われているという点で②は③に比べて悪いのである。

さらに、②は③より悪い以前に、それ自体不当であるとも主張できる。何もしない自由は、数ある自由の中でも最も基本的なものである。なるほど、何か義務がある場合、この自由は正当に制限されることにはなる。しかし、生まれる前に何か悪いことをしたわけでもないのに、なぜ労働の義務等に縛られ、自由が生まれつき損なわれなければならないのだろうか。少なくとも私には正当な理由が思い当たらない。

 

3-2.苦痛の強制

次に、苦痛を与える悪が、喜びを与える善で相殺できるとは限らない。もし両者が互いに同じ量で相殺されるとしたら、③を強いることは④を強いることと等価である。

 

a'''.(生きる努力をするもしないも自由だが)必ず100の喜びに満たされた人生を送ることになる。

c. a'''.は生まれる人の同意なく、生まれる人に強いられる 

しかし、喜びから苦痛を差し引いた値が同じでも、苦痛のない④を強いることのほうが③を強いることよりも善いと同意する人は多いだろう。同じ量の喜びを同時に与えるだけでは、苦痛を与えることは不当なのである。したがって、200の喜びを与えるからと言って、100の苦痛を与えることが正当とは限らない。

 

※それだけではなく、私はさらに、いくら多くの純粋な喜びを与えたからといって、苦痛を強いることは許されないと考える。つまり、同時に与える喜びが1000だろうと、10000だろうと、100の苦痛を強いる不当を正当化する理由にならないということである。

確かに、同意がなくとも、十分な利益を与えれば苦痛を与えることが正当化されることはある。例えば火災現場で瓦礫に腕がはさまって、しかも意識を失っている人がいるとする。腕を切除することが、彼を助ける唯一の方法だとすると、同意を得ずにそうすることは不当ではないだろう。また、子供に対する躾も、それ自体としては子供にとって苦痛である、しかし将来のことを考えればそれ以上の利益があるから正当化される。だが、以上の例における利益はいずれも、(火災で命を落とすだとか、大人になって困るだとか)より大きな苦痛あるいは損失を避けるという消極的なものである。

対して、例えば、より優れた身体能力を得られたり、より長い寿命を得られるといった純粋な利益の代償として、少しの苦痛を伴う薬物の注射を同意なく行うことはやはり不当なのである。喜びというのも、同様に純粋な利益に違いないのであり、そのために苦痛を強いることは同様に許されないのである。

 

4.3.のまとめ

さて、以上の議論の結果をまとめよう。

まず、不当ではないと確実に言える事態は④のみである。私は、③は④と比べて悪いだけではなく、※にて③が不当であるという議論も示した。

そして、②は③よりさらに悪い。しかも、②は、自由が損なわれているという理由で、比較によるまでもなく不当であるといえる。

以上の理由により②(①)の事態は(本人がそう考えているとしても)恵まれているとは限らず、むしろ不当な事態であると言える。

 

5.人生のリスク

以上では、仮に生きる努力をすればそれを上回る恩恵が得られると前提しても、その努力を強いられることが不当であると論じた。しかし、実際はそのように楽観的な前提は成立せず、努力がもともとできないもしくは、努力が報われないことは往々にしてある。生きる努力と同時に、生きる努力が報われないリスクも強いられることは、ただでさえ理不尽な人生をさらに理不尽にする。

 

6.最後に

人生の理不尽は押し売りの不当性になぞらえることができる。仮に押し売られた側が結果的に満足しても、押し売りが不当なのは1)コストを強いるから、2)買わない自由を侵害するから 3)買わされた側が満足しないリスクを強いるからである。1)は③の不当性、2)は②の不当性に対応しているだろう。3)は、5.で述べた人生のリスクに対応していると考えられる。

子供を生むことは、生きる努力の対価と引き換えに人生を押し売られた被害者を生み出すことであり、押し売りと同様に不当であると私は主張する。

反出生主義の試論

1.出産することと、しないことの比較の特殊性

私が好物を食べることと、苦手な食べ物を食べることでは前者のほうが後者よりも望ましい。いうまでもなく、この比較関係は私が実際に好物を食べることになった場合も、苦手な食べ物を食べることとなった場合も変わらない。これが普通の場合である。

 

しかし、出産は特別なケースである。例えば、極端に不幸な子供が生まれることと、そもそも誰も生まれないことのどちらが望ましいだろうか。実際に極端に不幸な子供が生まれた場合、そもそも彼が生まれてこない事態のほうがましだったと言える。しかし、実際に子供が生まれない場合、生まれてくるはずだった子供そのものの利害がないのだから、彼が生まれなかったほうが良かったとする理由もなくなるのではないだろうか。

出産の場合、子供が生まれる場合は生まれる子供の利害を考慮してものの良しあしを決めなければならないが、子供が生まれない場合は彼の利害を考慮する必要がないため、双方の場合で良しあしを決める基準が異なるのである。

以上を一般化すると、事態AとBのどちらが起こるかによって、AとBのどちらが望ましいかが変わってしまうわけである。未だA(子供が生まれる)かB(子供が生まれない)のどちらが起こるか決まっていない場合(子供を生むか否か迷っている場合)、AがBよりも善いといえるのはどういう場合だろうか。

 

2.私が考える比較の基準

私は次のように考える。AがBよりも善い(BがAよりも悪い)ということは、仮にAが起こるとした場合、AよりもBのほうが善かったとする不満がなく(考え直す理由がない)、仮にBが起こるとした場合に、BよりもAのほうが善かったとする不満がある(考え直す理由がある)ということではないだろうか。

もし、AとBのどちらが起こるか決めることのできる人がいたとすると、彼はBを選択するやいなや不満を覚え、Aを選択しなおし、Aで満足するのである。 これこそが、AがBよりも善いことの特徴づけではないだろうか。

これはすなわち次を意味する。

α:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、BがAよりも望ましいわけではない かつ ・仮にBが起こった場合、AがBよりも望ましい

 

3.反論および再反論

これに対して、次のように異議を唱える人がいるだろう。「上の考え方では不満を基準に考えているが、喜びを基準に考えるべきである。つまり、AがBよりも善いというのは、Aが起こった場合に、BよりもAで良かったと喜び、Bが起こった場合は、Bで良かったという喜びが無いということである」と。まとめると次のとおりである。

β:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、AはBよりも望ましい かつ ・仮にBが起こった場合、BがAよりも望ましいわけではない

なるほど、Aが実際に起こった時に、Aで善かったと考えることは「AがBよりも善い」ことの積極的な特徴づけではあるかもしれない。しかし、後者、つまりBが起こった場合、単にBで善かったという喜びがないだけで、Bに対する不満がない(満足してしまっている)ことは、「AがBよりも善い」とはもはや言えないのではないだろうか。βは基準としては不適切である。

 

もし彼らの言い分を譲歩して、前者のみ受け入れるとすると、次の基準が考えられる。

β’:事態AがBよりも善い⇔・仮にAが起こった場合、AはBよりも望ましい かつ ・仮にBが起こった場合、AがBよりも望ましい⇔AはBよりも常に望ましい

これはシンプルで魅力的な基準である。しかし私は、これは出生をめぐる価値判断にはそぐわないと思う。以下に理由を示す。

仮に、子供を生むと、先天的に極端な苦痛を伴う障害を持って生まれることが決まっているとする。ほとんどの人が、この子供が生まれないことが、生まれることよりも善いことだと認めるだろう。しかし、仮にこの子供が生まれないとした場合、この子供の利害が存在しなくなるのだから、子供が生まれないことが生まれるよりも望ましいことにはならない。したがって、β’によれば、この子供が生まれないことが、生まれることよりも善いことではなくなるのである。これは背理である。

したがって、私は出生をめぐる価値判断には、β’よりもαの基準を採用すべきだと考える。

 

4.反出生主義の導出

もしαの基準を採用する場合、極端に不幸な子供が生まれないことは、生まれることに比べて善いことである。もし仮に生まれなかった場合、生まれたほうが良いわけではないし、もし仮に生まれる場合は、生まれなかったほうがマシだったからである。

では逆に極端に幸福な子供が生まれることは、生まれないことに比べて善いことだろうか。もし仮に生まれた場合は、確かに生まれなかったほうがいい理由はない。しかし、もし仮に生まれなかった場合は、この子が生まれるべき理由はないのである。したがって、極端に幸福であっても、子供が生まれることは生まれないことに比べて善いことではない。

以上から、αを採用すれば、不幸な子供が生まれることは、子供が生まれないよりも悪いことであるのに対して、幸福な子供が生まれることは、生まれないよりも決して善いことではないといえる。したがって、

γ:子供を生むことは悪いことになる場合はあれ、善いことになることはない

という反出生主義の結論が導かれる。

 

※4の推論に対して論点先取を指摘する人は多いだろう。つまり、結論である反出生主義γは、幸福の存在よりも、不幸が無いことを善しとする否定的な立場であり、前提であるαも、満足の有ることよりも不満が無いことを善しとする否定的な立場であるからだ。

私も前提に結論に類するものが含まれていることは否定しない。しかし、不人気な反出生主義の主張γよりも、αのほうを受け入れる人が多いので、4の議論には価値があるものだと思っている。

 

5.以前に述べた反出生主義との比較

私は一年前、以下の記事でも反出生主義の立場を表明した。

私の反出生主義について - 思考の断片

しかし今回の主張は、上の記事で述べた主張とは前提が異なるものである。

上の記事で述べた主張をより明晰に表現することで、両者の相違点を明らかにしたい。

 

まず、出生と非出生の比較の基準として、β’を採用する。

次に、価値判断の前提として、1.子供が幸福になることと(一定の範囲内で)不幸になることは、子供が実際に生まれる場合にのみ、望ましいもしくは悪いことであるとしよう。(これは誰もが受け入れることであろう。)

最後に、2.子供が一定以上の水準で不幸になることは、(子供が実際に生まれることがない場合でも)常に悪いことであるとしよう。

以上の前提から反出生主義が導かれる。

 

β’より、出生することがしないよりも望ましい(悪い)のは、仮に生まれたとしても、生まれなかった場合も、出生が望ましい(悪い)ときに限られる。すると、1.より子供が生まれなかった場合は子供の利害が存在しない以上、幸福な子供の出生は望ましいことではないため、幸福な子供が生まれることは生まれないことに比べて善くはない。

対して、上の記事では、2.一定以上の不幸については、(子供が仮に生まれない場合も)絶対にあってはならないとする価値判断を仮定している。子供が一定水準以上に不幸になる場合は、子供が生まれた場合も、生まれなかった場合も、そもそも子供が生まれないのが望ましいと主張でき、β’より、一定水準以上に不幸な子供が生まれることは、生まれないことよりも悪いことである、と主張することが出来る。

以上より、幸福な子供が生まれることは善いことではないが、一定以上に不幸な子供が生まれることは悪いことであるとする反出生主義の主張が導出される。

 

対して、今回述べた反出生主義では、比較の基準としてαを採用し、また1.のみを仮定している。(2.は仮定していない)これらが両者の相違点である。

 

6.最後に

もし、不満なきことを善しとするαの基準をネガティブすぎるとして今回述べた反出生主義の議論を拒絶する人がいても、代わりにシンプルで同意の得られやすいβ’を勧め、価値判断2.について説得を試みることができるだろう。

では、2.にはいかほどの根拠があるだろうか。有力なものとしては、一定以上の不幸は人の尊厳を損なうものであり、人の尊厳は無条件で尊重されるべきであるとする主張が考えられる。仮にそういう人間が実在しなくとも、人間が拷問で苦しめられる事態が悪いことに変わりはない。それは、実際には存在しない人間の利害に反するからではない、実在しない人間のものであっても、尊厳が踏みにじられることは断じてあってはならないからである。

私としては、基準αを擁護するのと、価値判断2.を擁護するのと、二段構えで反出生主義を展開していきたいところである。

実践の世界と理論の世界

1.実践の世界と理論の世界

これから、以下の記事で紹介した概念(第一次、二次現実)を再定義してみようと思う。

知的反省 - 思考の断片

 

我々の経験する世界は単層的なものではなく、抽象度の階梯のある多層的なものだとお思う。例えば、食べ物を食べたり他人と喋ったりする具体的経験は、数学におけるような抽象的な思考とは異質である。まず、前者と後者を、実践の世界と理論の世界と定義して、多少の説明を加えたい。

 

実践の世界は、その名の通り、生活や仕事などの日常において経験される具体的現実である。その内容は、いつ何を食べただとか、いつまで何をしなければならないだとか、他愛もないことである。世の大半の人はほとんどの時間はこの世界に生きている。彼らは具体的な生活や仕事の現場で何が起きるかに興味があるのであり、抽象的な真理がどうであろうとどうでもいいのである。

しかし、実践の世界でよく生きるためには、そこだけに留まっているわけにはいかない。なぜなら、実践をうまくこなすためには、毎度その場限りで考えなしに行動するよりも、過去の経験から学びそれを活かしたほうがよく、そのためには現実をモデル化(概念に抽象化)し、帰納により様々な規則性を発見する必要があるからである。このような実践的要請から生まれたのが、抽象的な概念や一般法則から成る理論の世界である。

※理論の世界と言っても、ことわざのような日常のちょっとした知恵から、厳密な科学理論にいたるまで、幅広い抽象度の事物を意味するものとして定義する。

 

世の人は、この理論の世界の一般法則を実践における個別的な事例に適用(演繹)することで、理論の世界で得た成果を実践の世界に還元するのである。このように、彼らは実践の世界に住みながらも、時々理論の世界に出稼ぎしては帰って行っているのである。

 

2.実践の世界と理論の世界の相違点

以上に定義した実践の世界と理論の世界は、抽象度以外においても様々な相違点を持っている。

 

まず、実践の世界は何もかもが未知である。例えば、生活や仕事で出くわすどんな課題も新しく、予期不能な側面を備えている。対して理論の世界の登場人物は、全て既知の抽象概念である。

 

実践の世界の未知なるものの最たるものが、即ち他者である。我々にとって他者は想像の域を出ないブラックボックスであり、このように他者を完全に知り尽くしていないためにこそ、他者とのコミュニケーションは成り立つ。

対して、我々の思考の中にある理論の世界の中には、この他者というのが登場しない。なんとなればすべてが「私が考える」概念に過ぎないからである。理論の世界はこのように他者不在の世界である。

 

実践の世界は絶えず未知で新しいものが出てくるがゆえに、常に例外であふれており、一括りにはできない難しさがある。いくら過去の傾向を帰納法により一般化できても、その一般化は過去に対して成り立つにすぎず、将来にわたっても同じ傾向が成り立つというのは信念の域を出ない。対する理論の世界では、ナマの現実ではなく、抽象され理想化されたモデルを扱うがゆえに、普遍的な原理で全てが説明できる。理論家が理論を美的に好むのは、この普遍性や煩いの無さがゆえだろう。

 

最後に、実践の世界に関する思考は(多くの個別的なケースから一般法則を推測する)帰納思考であるのに対して、理論の世界に関する思考は(一つの原理から多くの帰結を導く)演繹思考である。前者は絶えず新しいことを発見する思考である、対して後者は原理で言いつくされたことを言い換えるに過ぎない思考である。

 

 

3.両方の世界に対する私の態度 

はっきりいって、私は実践の世界を軽蔑している。つまり、私がいつ何を食べるかだとか、誰と喋るかとか言ったことは、知的価値のない個別的な些事に過ぎず、顧慮に値しないと考えているのである。理論の世界に存在する普遍的な真善美にこそ価値はあると考えており、だからこそ真善美に触れ、時には一体化する観照という活動を好んでいるのである。

 

また、私は実践の世界を不快な場所だと思っている。そこは確かに新しい刺激に溢れているところではあるが、未知に対する不安で一杯でもある。また、何を考えるにも例外に溢れていて、思考が心地よくない。雑多な事実や例外と格闘する泥臭い帰納よりも、数学の証明のようにエレガントな演繹思考を私は好むのである。

 

上記の理由により、理論の世界を棲家にしてしまったようである。世の人とは正反対に、理論の世界で観照的な思考に耽るのが目的となり、そのために必要な時間や資源を獲得するために、仕方がなく実践の世界に赴き、生活や仕事を嫌々こなしている次第である。

 

 

4.3.の帰結、その問題点

さて、理論の世界を棲家としてしまったことの帰結は次のとおりである。

 

まず何よりも、他者不在の世界を棲家としてしまったため、独我論が私の思考基盤になってしまったことが影響として挙げられる。他者の存在はあくまで実践の世界で生きるために仕方がなく要請された信仰の域を超えないものとなってしまった。世の人がそうであろうように他者の存在は当たり前の出発点ではなく、別世界で生きる際の約束事に成り下がってしまったのである。

※この独我論を背景に、私は生の善さに関する主観主義(mental state theory)や、(客観的な存在を否定する)諸々の反実在論の立場を取っているものと思われる。

 

次に、私は退屈にさいなまれるようになってしまった。なぜだろうか。それは、理論の世界には既知のものしかなく、そこでの思考(演繹)も何ら目新しいものを生み出さないからである(数学は例外だが)。変化がなければ新たな思考が刺激されることもなく、既知の物事と、決まった真理だけの世界は静的であり、退屈である。

 

私は、二点目の退屈は問題視しているが、一点目の独我論そのものは問題視していない、しかし「私だけがいる→私が正しいと思えば正しい」というような思考停止に陥ることは、退屈にもつながるのではないかと懸念している。

したがって、理論の世界を棲家にしてしまったことは仕方がないとしても、もっと実践の現場に前向きに赴き、日常や他者との会話等から新たなコンテンツを持ち帰ることで、(私の)理論の世界を豊かにしようと思うのである。

主観的欲求充足説とエピクロス主義について

この記事では、欲求充足説を客観的欲求充足説と主観的欲求充足説に分類して紹介し、後者がエピクロス主義の主張(死は悪ではない)を含意することを示そうと思う。そのうえで、主観的欲求充足説を取るエピクロス主義と、以前私が定義したエピクロス主義を比較したい。

 

1.1 欲求充足説について

以前は快楽主義について述べたので、今回は生の善さに関するもう一つの代表的な理論、欲求充足説について述べたいと思う。

欲求充足説の主張は次のとおりである。X:「いかなる欲についても、その欲が充足されることは善であり、欲が挫かれることは悪である。」

欲の充足/挫かれることに関する定義は次のとおりである。YO:「事態pに真であってほしいという欲が充足される/挫かれるのは、事態pが実際に真/偽である時である。」

 

1.2 欲求充足説は生の善さに関するworld theoryである

さて、私はこの欲求充足説には同意しない。なぜならこの理論は、経験とは独立した世界の在り様によって生の善さが左右されると主張するworld theoryであり、私は経験すること、つまり心理状態で生の善さが決まると主張するmental state theoryの立場を取るからである。

※この理由については次の記事で示している。

生の善さは主観的な経験だけで決まるものか - 思考の断片

どういうことだろうか。例えばpとして、私が皆に好かれているという事態を望むとする。ここで、二通りの場合を考える。A:私自身は皆に好かれていると信じているが、実際は皆に嫌われている B:私自身は皆に好かれていると信じており、実際に皆に好かれている。

A,Bいずれの場合も、皆に好かれていると信じているという私の心理状態(経験)は変わらない。事実(世界の在り様)としてのみAとBは異なっているのである。そして、欲求充足説は、Bは私にとって善いのに対して、Aは私にとって悪いと主張する、つまり私にとっての善悪が私の経験では決まらず、世界の在り様に左右されると主張するのである。これはまさに先に述べた生の善さに関するworld theoryに他ならない。

 

1.3 私が同意する主観的欲求充足説

では、心理状態で生の善さが決まると考えるmental state theoristの私は、欲求と善についてどういう関係があると考えるのかというと、次のとおりである。

 

X:「いかなる欲についても、その欲が充足されることは善であり、欲が挫かれることは悪である。」

欲の充足/挫かれることに関する定義は次のとおりである。YS:「事態pに真であってほしいという欲が充足される/挫かれるのは、事態pが真/偽であることが私に信じられた(経験された)時である。」

 

この欲の充足に関する定義YSを主観的欲求充足と呼ぶことにして、最初の定義YOを客観的欲求充足と呼ぶことにしよう。XとYSから成る主観的欲求充足説がmental state theoryであることは言うまでもない。

 

2.1 死は悪ではないとするエピクロス主義の主張の擁護

この主観的欲求充足説が導く態度の一つに、死が悪ではないというエピクロス主義の主張がある。なぜだろうか。我々は、明日も生きたい、明日から~したいというような様々な欲求を持つ。もし今日死ぬことになれば、(明日生きるという事態、明日生きて~するという事態が偽になるわけだから)これら欲求は客観的に充足されない(挫かれる)ことになるだろう。したがって、客観的欲求充足説によれば、このような欲求を持つ人にとって死は悪である

対して、これら欲求が主観的に挫かれることはない。なぜなら今日死んだとしても、明日生きていないことや、明日~ができないことを経験する私はいないからである。つまり、死んでしまっては、生きていないことを不満に思ったり後悔する私そのものがいなくなってしまうから、欲求が主観的に挫かれることはないのである。

したがって、生きたいという欲求や、生きなければ満たせない欲求を持ってはいても、死ぬことは悪ではないのである。

 

※1 確かに、生き続けていれば欲求が主観的に満たされたかもしれないのに対して、死ねば欲求が主観的に満たされることはない(挫かれることも無いとはいえ)という点で、死ぬことは生きることに比べて相対的に悪いと主張することは可能である。しかし、善の不在としての相対的な悪は、欲の挫折という積極的な悪とは異なる、消極的な性格のものだろう。しかも、「生きていれば満たされたはずの欲求が、満たされずに終わった」という相対的な悪を経験する人は既にどこにもいないのである。これら二つの理由から、死ぬことによる相対的な悪は取るにたらないと主張できるだろう。

 

※2 もし死ぬまでに、欲求を満たすことができないと意識する余裕があるならば、 欲求が主観的に挫かれたことになり、死ぬことは悪になるのではないか、と言えるように思われるかもしれない。しかしここで悪いのは死(死んでしまったこと)ではなく、死ぬまでの過程である。エピクロス主義とて、死ぬまでの過程が悪いものであることは否定していないというのが私の理解である。

 

2.2 主観的欲求充足説を取るエピクロス主義と、以前私が定義したエピクロス主義の相違点

このように、主観的欲求充足説の立場を取り、生きたいという欲求を持ちながらもなお、死は悪ではないと主張する人々のことをエピクロス主義γと呼ぶことにする。

エピクロス主義について(6/28微修正) - 思考の断片

対して、私が上の記事で、死によって阻害されない欲求、つまり生存に条件づけられた欲求(もし生きていれば~を経験したい)しかもたず、生存するか否かには無関心な立場として定義したエピクロス主義(エピクロス主義αとよぶ)は、エピクロス主義γとは異なる態度である。

エピクロス主義αの人々は、経験されることしか欲求しないのだから、彼らにとって欲求の充足とは、主観的欲求充足だろう。だから、エピクロス主義者αは主観的欲求充足説の立場を取る点で、エピクロス主義者γと一致している

しかし、エピクロス主義αを取る人々は、エピクロス主義γに比べてはるかに狭い範囲の欲求しか持たない点で異なる。彼らは生き続けることを欲しないばかりか、例えば「私の死後も」愛する人に幸せでいてほしい、国や社会に発展してほしい、もしくは自身が今手掛けているプロジェクトに実現してほしいと言った願望を持たない。彼らは死で阻害される欲求をもとから一切持っていないのである。

私はエピクロス主義αのような人々でも善き生を送れることを後の記事で主張し、擁護してきたが、それでもこのような人々は極めて特殊であることは否めない。自分が生きることや経験できないことに関しても無関心ではいられないのが大抵の人間の性だろう。

 

私自身、エピクロス主義αを取るほど、いろいろな物事を諦めきれないのではないかと思えてきた次第である。今後はエピクロス主義γの立場で、しっくりする倫理観を探っていきたいところである。

生の善さは主観的な経験だけで決まるものか

1.生の善さに関するmental state theoryとworld theory

ある人が生きた人生が、当の本人にとってどれだけよかったか、これを生の善さと呼ぶことにする。私は最近、生の善さについての次の問題に興味を持っているので、考えたことを記しておく。

・X:ある人の生の善さはその人の経験で全て決まるのか、それともY:その人が経験しない世界の状態にも依存するのか。

Xは経験すること、つまり心理状態で生の善さが決まると主張するので、mental state theoryと呼ばれる。Yは経験とは独立した世界の在り様によって生の善さが左右されると主張するので、wolrd theoryと呼ばれる。

 

2.両者の違いがわかる例

両者の違いが分かる例を挙げよう。大半の親がそうであるように、ある親が自分の子供に、自分の死後も幸せになってほしいと考えているとする。次の二つの場合で親の「生の善さ」は違うのか、それとも違わないだろうか。

α:親が死ぬまでも、死んだ後も子供は幸せである

β:親が死ぬまでは、親はαを全く同じ経験をする(子供は幸せである)が、親の死後に子供に不幸が降りかかってしまう

もしXが正しいとしたら、αとβで親の経験は全く同じなので、親の「生の善さ」は同一になるだろう。もしXでなくYが正しければ、そうとは限らない(αの方が親の生は善い)わけである。

 

3.私の立場

私の快楽主義について - 思考の断片

上の記事で述べたように私はX、つまりmental state theoryが正しいと考える。私が善と等しいとした快活とは、活動の経験を快くできるということに他ならなかったからである。

 

4.mental state theoryに対する反論

mental state theoryに対する反論でしばしば挙げられるのが、ノージックの思考実験:経験機械である。元々の例から少し変形したものを紹介する。

 

・Aは実際に様々な人と友達になり、いろんな偉業を達成するような充実した人生を送ったとする。

・Bは、VRを経験できるような機械にプラグインされ、送られてくる感覚情報によりAとまったく同じ経験をしたとする。

ここで、AとBの生の善さは同じだろうか、それとも違うだろうか。

 

ここで、多くの人は、実際の友情や達成(という経験外のもの)に恵まれたという理由で、AのほうがBよりも善き生を送っているという主張に同意するだろう。

以上より、この思考実験はXに対する反論になると考えられている。

 

5.経験機械の反論に対する私の意見(反論ではない)

5.1 主観的な生の善さと客観的な生の善さの区別

私はまず、ある人Cの生の善さを述べる上で、ある人Dから主観的に観た生の善さ(Dが知りうる情報に基づく、Cの人生の評価)と、客観的な生の善さ(Cの実際の状況に基づく、Cの人生の評価)を区別するべきだと思う。

生の善さと言った場合、(特に欧米圏の人々は)客観的な生の善さを問題にしているように思われる。皆が気にするのもこちらだろう。しかし、この客観的な生の善さは、かなりの度合いで不可知なものだと思う。

マトリックスの映画のように、我々人類全員が経験機械に(別々に)つながれているかもしれない(しかも他の高等生物の肥やしになるために!)、この可能性を我々は少しも否定することが出来ない。もし我々が、我々自身が思うように実際に生きている場合の我々の生の善さと、我々が高等生物の家畜だった場合の生の善さには、天と地の差があるだろう。

我々が考えるべき「生の善さ」とは、決してこんな、人類の知の彼方にある客観的な生の善さではなく、むしろ実際に体験でき、わかる主観的な生の善さではないだろうかそもそも、経験が示すように、生の善さとは見る人の立場や見え方によって変わってくるものである。実体的なのは主観的な生の善さである。

それでは、ある人Cの主観的な生の善さを問題とする場合、多数いる中の「誰から見た」生の善さを問題とすべきだろうか。私はC本人から見た生の善さが重要だと考える。なるほどCは他の人の目も気になるかもしれない、しかし彼がいかに客観的になろうとあがいても、結局彼は自分の観点から自らの生の善し悪しをかみしめることしかできないのである。このように自分を中心に経験することこそが生きるということではないだろうか。

 

5.2 経験機械の例に戻る

もし主観的な生の善さのみを問題にするとすれば、先の経験機械の例で言えるのは、「われわれ」から見たAの生が、「われわれ」からみたBの生よりも善いということだけである。「実際に」友情に恵まれ、達成したというのも、あくまで(A,Bを離れて)「われわれ」がそう思っているという相対的な話に過ぎない。

対して、A自身からみたAの生は、B自身からみたBの生からなんの違いもなく、両者の善さも違わない。5.1で述べたように、重要なのは、A,B自身から見たそれぞれの生の善さであった。したがって、経験機械の例においても、AとBの生の善さは変わらない、とするのが私の意見である。

経験機械の例で、全てを知っている「われわれ」を基準に、Bの生のほうがAの生よりも劣ると考えるのは、生の善さを評価すべき観点を取り違えることによる誤謬である。じっさい、「われわれ」から機械に夢を見させられているBの生が滑稽だったり惨めに見えてからと言って、それを微塵も知ることができない、B自身の生にどういう影響があるだろうか。

 

6.1 私の立場に対する反論

本人から主観的に見た生の善さを問題とする私の立場には、「客観的な生の善さこそ、我々の欲するものだ」という反論が考えられる。確かにその通りである、我々は実際に善く生きたいのであり、善く生きる経験をしたいわけではない。また、仮に客観的な生の善さを問題にしないとしても、(自分だけではなく)他人から見て(主観的に)善く生きることを、我々は欲するだろう。

つまり、自分自身から主観的に見て善く生きる以上のことを我々は欲しているのである。

6.2 再反論

しかし、何かを欲するからといって、その何かが我々にとって善いとは限らない。

先の記事で例として挙げたように、「仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲したとして、その病人の病気が私が知らずして治ったところで私の幸福に少しでも資するだろうか、否である。」

では、この例で、どういう場合に、病人の病気が治ることが私の幸福に資するだろうか。それは病人の病気が治ったと私が知った、もしくは(真偽を問わず)信じたときである。

より一般的に言うならば、欲する何かが、我々にとって善となるためには、その何かを手に入れ、欲が充足されることが経験されなければならないのである。

 

客観的な生の善さは私の経験の範囲外にあり、明らかにこの条件を満たさない。したがって、いくら得ようと欲するとはいえ、得たかどうかすらわからないような「客観的な生の善さ」など、取るに足らない善なのである。

知的反省

『思考の整理学』

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上の名著を読んでみたところ、大いに示唆を受けるとともに、これまでの自分の知的態度に対する反省を促された。以下ではその詳細について述べたいと思う。
まず、この本の概要を説明したいと思う。最初に中心概念、受動的に知識を得てそのままアウトプットするだけの「グライダー能力」と、自ら新たに知識を発見する「飛行機能力」なるものが定義されている。そして前者の能力はコンピュータで代替されてしまうにも拘わらず、従来型の学校教育では前者しか身につかないことに警鐘を鳴らし、本の大半を割いて、後者をいかに身につければいいかについてヒントを提示している。

まず驚いたのが、この本は既に刊行から既に30年経っているが、時代遅れになるどころか、未だタイムリーな問題提起で在り続けていることだ。近年はAIの登場で、ますます創造性を育む教育の必要性が叫ばれているのは言うまでもない。

そして、自分自身にも、この「飛行機能力」が不足しているものと認識された。私はこのブログで20本ほど記事を書いては来たものの、いずれも振り返ってみれば既存の思想を部分的に借用するだけのもので、思考の独自性はなかったからである。恐らく私もグライダー型の人間で、学んだことの延長線上でしか考えることができないのだろう。確かに、この「グライダー能力」も、「飛行機能力」獲得のためにも必要であることは間違いないし、新たな創造も既存の発想のちょっとしたアレンジで生まれる。しかし既存のものに付け加えるほんの少しのオリジナリティーすら自分には欠けていたのではないかと反省する次第である。

では「飛行機能力」といっても具体的に何が欠けていたのだろうか。それはまさしく帰納思考に他ならないと考える。筆者は作中でこの帰納(もしくは演繹)に全く言及していない。しかし、形を変えつつも既存の知識をそのままアウトプットすることは演繹であり、新しい発見は帰納によってしかなされないといえるので、私は「グライダー能力」=演繹思考、「飛行機能力」=帰納思考のことを指していると考えている。
筆者は、生活や仕事の営みの中で直接経験される現実を「第一次現実」、第一次現実が概念化・抽象化された観念の世界を「第二次現実」と定義している。以降は私の解釈が混じるが、この第二次現実の世界は、書物や教科書の教える世界で、数少ない原則からの演繹で全てが定義される整然とした世界である。つまり、教えられたことを正しく身に着けていれば全てが解明される世界である。対する第一次現実は雑多な事物の世界である。そこには所与の原理原則などなく、不完全な一般法則を、帰納によって、際限なく自ら発見していかなければならない。
私はおそらく、学校教育の過程で第二次現実の世界、とくに数学の体系の世界に慣れ親しみ過ぎたのだと思う。つまり、この第二次世界を豊かにする勉強に好んで励んだ一方で、日常生活の場である第一次現実をなおざりにしてしまった。それゆえに思考が演繹に偏りすぎて、帰納思考がほとんどできなくなってしまったのではないかと考えている。

この偏りは、第一次現実、つまり生活や仕事の場面で私を無能にするばかりではなく、世界を体系的に説明する思想を形成するという私の目的にとっても、大きな障害になるだろうと思う。なぜなら、私が経験する世界は、数々の思想家たちが記述しようと試みた世界とは別個のものであり、彼らの思想や理論をいくら借用したところで説明がうまくいかないため、私自身が(本という書物の代わりに)世界という書物を直接、帰納により読み解いていく他はないからである。

よって、実践・思想の両側面において、帰納的・発見的な思考法を身に着けることが私の課題であることを改めて痛感した。そのために、この本を参考にするだけではなく、仕事の場を、帰納的に思考する訓練として活用しようと思う。

私の快楽主義について

1.1 快楽主義について

最近私は快楽主義に興味を持っている。快楽主義とはひとことで言えば快楽こそが幸福であるとする立場である。世の人に、快楽を求めない人はいない。しかし、彼らは快楽以外にもいろいろなものを重要視し、決して快楽が幸福の唯一の基準だとは考えない。例えば友情、愛、真理や自由など、快楽以外にもいろんな価値があると主張するだろう。
快楽主義はあまりにも限定的すぎるのである。

本当にそうなのだろうか。私は快楽ほど普遍的な幸福はないと思っている。きっと私と世の考える快楽には定義に大きな隔たりがあるのだろう。まず、私が考える快楽とは何か定義を試みるべきだろう。

一番素朴な快楽主義は、感覚的快楽説と呼ばれるものである。この立場は、五感で感じられる快感を快楽と見なす。言うまでもなく、この快楽の定義は狭すぎるだろう。これ以外にも例えば知的・精神的な快楽があるし、エピクロスが追求した快楽のように、平静の境地としての快も存在する。快楽主義が限定的すぎるという最初の批判はこの素朴な説に対するものだ。

 

1.2 活動的快楽について

対して、私が考える快楽は私が活動的快楽(以後快活と略称する)と呼ぶものである。快活とは何か、それは字義通り快く活動する経験ができること、つまり活動が妨げられずに経験できることである。とはいえ、活動と言ってもいろいろある。私が快活の基準とする活動は、自らの本性や個性に従った自由な活動である。
例えば私は数学が得意だが、その能力を活かして首尾よく思考できている状態、これこそが私にとっての快活である。また、私は他人と一緒に遊ぶよりも一人で物思いにふける方が好きだが、この個性に従って物思いにふけることも快活である。しかし、そんな私であっても人間である限りは社会的である、友達と会話で盛り上がるのは快活である。また、知的好奇心も人間の本性だから、真理を追究することも快活である。もしくは無目的で衝動的な生命活動に基づく、動物的(基本的な)なレベルの快活もある。例えば身体や脳が活発に働き、元気だったり頭の回転が速いことも快活である。

では快活の反対はなんだろうか。例えば苦手なことをさせられるときや、好きじゃないことを強制される時がそれである。しかし、したくないことを強制されるだけではなく、なにも出来ないことによっても、自由な活動は阻害される。前者は苦行、後者は陰鬱もしくは退屈と呼ぶべきものだろう。これらを合わせて苦とよぼう。

以上にみたように、本性や能力というのも多面的な概念で、基本的で動物的なものから人間的で高度なものまで様々な階梯がある。それに応じて快活の概念も内容豊かなものとなるのであり、感覚的快楽には含まれるとは限らなかった様々な幸福をも包摂する概念なのである。

 

1.3 中庸について

では、数あるうちの、どの(本性にしたがった)活動をしているときが最も快活か、という比較の問題が出てくるように思われる。しかし、それに対して私は、何か最善な活動があるわけではなく、様々な活動の間に成り立つバランスが重要だと考える。

例えば、私は数学が好きとは言え、ずっと数学をしていたいわけではなく、哲学もゲームもしたいのである。両者の間には程よいバランスというものがあるだろう。個性や本性に応じて、このバランスは如何なる活動の間にもあり、最適なバランスが達成された活動(の配分)を中庸と呼ぶことにしよう。この中庸な(様々なものから成る)活動の状態こそがもっとも快活なのである。これは日ごろの経験ともよく合致する。何をするにも程よい限度というものがあるし、躁のように気分がハイになりすぎるとかえって苦痛である。快は強ければ強いほどいいというわけではなく、調和を保った程度に保たれてこそ最善なのである。

 

※1:私の立場は、快は大きければ大きいほど良い、という通常の快楽主義とは異なる。本性によって決まる最適な活動が出来るような生が「最も善い(快い)」のであり、これはどちらかというと完全論(perfectionism)に近い。

※2:最初の定義で、活動する「経験」ができることとした点に注意してほしい。活動はあくまで活動経験のことなので、それが首尾よく出来る快活とは、主観的な意識の域を出ない。

例えば、ある人Aがボランティア精神旺盛で、ボランティアを通じてBのためになろうとしたとする。このとき、Aの活動が裏目に出てBが迷惑しつつも、Aの善意に感謝するためBが有り難いふりをしてAがそれを知らないとする。この場合、ボランティアを通じてBのためになるという、Aの活動は「事実上は」成り立ってはいないのだが、Aの「意識上は」成立している。つまりAは快活である。Aが快活かは、彼のやっていることが現実にBのためになるかではなく、そのようにAが意識しているか次第で決まるのである。だから、快活は意識状態に過ぎないのである。

 

2.快楽と他の幸福の比較

次に、以上に定義した快が普遍的な幸福であることを示すために、快楽と、快楽以外に皆が追求する善を比較しようと思う。そのうえで、快楽以外の善も快楽に含まれるか、追求するに値しないものであることを主張したい。

 

2.1 欲求の充足

世の人が快楽の追求よりも盛んに行うのが、欲の追求である。そのため、より多くの欲が充足されることが幸福であるという考え方(欲求充足説)の方が快楽主義よりも一般的であろう。
この考え方と私の立場とは同じではないものの、両者は包含関係にある。
欲求を追求することは自然であり、我々の本性の一つである。実際、欲を抱き欲を満たし、また新たな欲を抱くというサイクルは我々の生きる時間の大半を占めている。
程よい数の欲求を抱き、それらが速やかに充足されるとき、すなわちこのサイクルが首尾よく回るとき、それは欲望追求の活動が妨げなく盛んにおこなわれているということであり、それは即ち快活である。
以上より、欲の充足は快を生み出すことが示されるが、逆は必ずしも成り立たない。
例えば、ただ単に身体の調子が良かったり、気分がいいときや頭の働きが活発なときも、私の立場では(動物的な)快活に違いはないのだが、この時はなんの欲求も充足されていないのである。欲求は快の限定に過ぎず、快こそがより広い概念なのである
快は欲求よりも根本的でもある。実際、次のような例を考えてみればいい。持てるありとあらゆる欲求が成就すれども憂鬱で気分が晴れない人と、満たされない欲求があったり、欲求そもそも無くても快活な人のどちらが幸せだろうか。欲求充足即ち善とする立場では前者がより幸せだろうが、この場合は明らかに後者の方が幸せであると同意いただけると思う。幸福に本質的なのは、欲求が充足されるか否かではなく、快活か否かなのである

 

2.2 意味

欲求の充足の次に世間の人が求めがちなのは、即ち「意味」である。彼らは自分の様々な活動のみならず、人生にすら意味を求めたがる。
では意味とはなんだろうか。それは下の記事で説明した通り、外部とのつながりのことである。

生の「意味」について - 思考の断片
例えばもし仕事で行う作業(事務作業)の外に、目的(顧客満足や将来の稼ぎ)がある場合、その仕事には意味があるのである。もし私の人生が、(私が死した後もなお、)他人の人生や外部の世界とつながり(影響)を持つ場合、私の人生には意味があるのである。
対して、快活というものは私自身の刹那的で自己完結した幸福である。他人や世界や私の未来に好影響をもたらさずとも独立した善さを持っているのである。

さて、このように意味と快は関係的/自体的、世界的/心理的顕著な二項対立関係にある。とはいえ、両者に接点がないことはない。
意味、社会や他人とのつながりを求めるのも我々の人間の本性と言ってよい。「人間」はその言葉のとおり、他者との関係に生きようとする生き物だからだ。従って意味ある活動も、その意味が実感される限りで快活であると言わなければならない。
ただ、両者には大きな隔たりもある。意味は客観的な他人や世界の状態に左右される。例えば※の例ではAのボランティア活動は、「実際に」Bのためになっていないという理由で、「Bのためになる」という意味を獲得し損なっている。対して快活は主観的な意識状態であり、意味があるように期待されることが快活の要件なのであり、A自身はBの役にたてたと「信じて」活動できている限りはAは快活なのである。

このように、幸福が世界の客観的な状態に左右されるか、それとも自分の主観的な意識経験の状態だけで決まるかという点で「意味」と「快」を重んじる立場は決定的に異なる。もし前者に該当して後者に該当しないような幸福があるのだとすれば、私の考える快はそのような幸福を捉え損ねていることになるだろう。

しかし、私は世界の状態がどうあろうと、それが私自身に経験されなければ幸福にとって取るに足らないことだと思う。例えば、仮に私が電車の中の苦しそうな見知らぬ病人の病気が治ることを欲求したとして、その病人の病気が私の知らないところで治ったところで私の幸福に少しでも資するだろうか、否である。その病人が治ったと私が知ったときに初めて私は幸福になるのである。このように、欲求は事実の上で満たされた時ではなく、主観的に満たされたと信じられてこそ快や満足感を生むのであるから、後者こそが幸福と呼ばれてしかるべきだろう。

 

※意味を善とする立場に対する私の違和感は、このように私が経験できないことに価値を認めてしまっていることにある。人の役に立ちたいという意味を追求する気持ちはわかる。しかし、役に立っていると思えればそれで十分であり、その信念に反して実際には役に立っていなかったとして、何の問題があるだろうか。
上の記事でも述べたように、経験の彼岸に善を求めるような態度は卑しいものだと思う。善は経験されてこそ善なのであり、それで満足出来る人は、経験されないけど実はあるというような善を措定する必要がない。それをわざわざ措定するのは、善いとはとても言えない自分の惨めな活動ないし人生に対する単なる慰めに過ぎないのではないだろうか。そのような欺瞞に陥るくらいなら、惨めな自分の人生を直視して不幸になったほうがマシである。

 

2.3 道徳的善
私の立場に対して考えられる批判として、単なる利己的快楽主義に堕しているというものが考えられる。我々は時に道徳的に振る舞うことに満足感を覚えはするし、限定的とはいえ道徳的に振る舞うことは我々の自然な本性であるともいえる。しかしそれもあくまで部分的に過ぎず、道徳と利己心はしばしば衝突する。また、時々行う道徳的行動でさえも、道徳に対する尊重からではなく、利己心の延長として行われるものに過ぎないことになる。私の快楽主義は道徳と一致しないばかりか、道徳を尊重していないではないかと批判されるかもしれない。
しかし、私はこのような道徳主義的な批判に対しては、下の記事で行ったように道徳そのものを批判したいところである。

道徳について - 思考の断片
道徳は各々の利己的な幸福追求が衝突しないための調整手段に過ぎず、それ自体が目的もしくは善ではないのである。道徳的に振る舞った方が他の要素を考慮して結果的に幸福になるに過ぎず、道徳を目的と取り違えることはかえって善く生きることの阻害ないし抑圧になると思う。

 

3.まとめ

以上に述べた私の快楽主義以外の幸福観に対する反論は、いずれも個人的の域を出ないが、私の立場を明らかにするには十分であったと思う。


まず、欲の充足を快活の一種と認めながらも、高度な欲求よりも、動物的な快活をより根源的なものと見なし、人間的であると同時に社会的な「意味」を限定的にしか幸福として認めなかったことは、私の動物的な幸福感の現われだろう。私は快活とは要するに、自然本性から生じた衝動が阻害されないことだと思っている。衝動の高度化したものが人間的な欲求であると考えているので、欲求の充足は快活の延長上にある。だからといって、より高度な欲求の充足に重きを置くわけではなく、かえってより基本的な衝動の実現、つまり快活に重きを置き、欲求の充足は快活の手段に過ぎないと考えるのである。

また、私の幸福感は主観主義的である。道徳の手段化は言うまでもなく、世界の在り方よりも自分の心理状態を幸福の基準にする点においてこの傾向は顕著である。私がよく生きるとは、他でもない私自身にとって、私が善く生きることに他ならないのであり、客観的な観点はどうでもいいのである。

現代人の求める幸福は、人生の意味なり目的(欲)の実現なり、あまりに人間的、意図的に過ぎる。もっとのびのびと、無為自然に動物的に生きてもいいのではないだろうかとしばしば思う。